Mag-log in地方名門・久世家の御曹司に嫁いだ篠原美緒は、若奥様と呼ばれながら、姑の嫌味、小姑の尻拭い、夫・怜央の無関心に耐えていた。 さらに発覚した夫の浮気。それでも久世家は美緒を責め、彼女の実務能力だけを都合よく利用し続ける。そんな中、投資家・鷹宮奏真だけが美緒の才能を見抜く。 「これは手伝いではありません。経営判断です」――その一言をきっかけに、美緒は離婚と起業を決意する。 久世家を出た元嫁が、自分の名前で会社を興し、愛も人生も選び直す逆転再生ラブストーリー。
view more販売テストの集計日は、朝から小野寺製菓の会議室に、いつもと違う静けさがあった。机の上には、印刷された資料が何種類も並んでいる。セット別販売数。セット別利益。購入者コメント一覧。商品説明カードへの反応。ECページの閲覧数。カート投入率。購入完了率。同封カードに関するメモ。そして、次回改善案。どれも、数字としては大きくない。全国的に話題になったわけではない。注文が殺到したわけでもない。EC限定セットが即日完売したわけでもない。けれど、紙の上に並んだ数字には、たしかに動いた跡があった。美緒はノートPCを開き、資料の表紙を確認した。仮のタイトルは、まだこうなっている。第一回販売テスト結果整理。その文字を見てから、美緒は顔を上げた。向かいには千鶴が座っている。背筋を伸ばしているが、膝の上の手は少し硬く重ねられていた。期待しているのだろう。けれど、それを顔に出しすぎないようにしている。岳は隣で腕を組んでいた。いつものように表情は硬い。簡単に喜ぶつもりはない、という顔だった。けれど、初めて会った時のような拒絶の硬さではない。数字を見る前の経営者の慎重さだった。美緒は、資料の一枚目を二人の前に置いた。「今日は、成功か失敗かを一言で決める場にはしません」千鶴が少し目を上げる。岳も、黙って美緒を見た。「何が届いたのか、何がまだ届いていないのかを確認します」美緒はそう言って、画面を切り替えた。成功か失敗かを急いで決めると、見えるものまで見えなくなる。今日の報告を、喜ぶためだけの場にも、反省するためだけの場にもしたくなかった。岳が短く言った。「数字で見せてもらいましょう」「はい」美緒は頷き、全体結果のページを開いた。「まず、今回の販売テストは、大成功という報告ではありません」
森川の机の内線が鳴ったのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。画面には、KUZÉ ma vieの損益表が開かれている。限定ボックスの制作費、ノベルティ費用、百貨店ポップアップの装飾費、SNS広告費、インフルエンサー施策費、包装資材費、物流費、保管費。項目は増えているのに、回収の見込みはまだ十分に整理されていない。森川は、内線の表示を見て受話器を取った。「はい、森川です」相手は受付ではなく、直接、取引銀行の担当者だった。長谷川。久世物産を長く見ている、四十代前後の銀行員だ。物腰はいつも穏やかで、雑談も柔らかい。だが、数字を見る目は甘くない。「お世話になっております。長谷川です」「お世話になっております」森川は椅子に座り直した。声の調子だけで、用件が軽くないことは分かった。長谷川は、いつものように丁寧だった。「直近の試算表について、いくつか確認したい点がございまして」森川は、手元のペンを取った。「はい」「新規ブランド事業の販促費と在庫回転について、次回お伺いした際にご説明いただけますでしょうか」「KUZÉ ma vieの件ですね」「はい。加えて、既存取引先の条件見直しも含め、今期の収益見通しを確認させていただければと」声は穏やかだった。責める響きはない。融資条件をどうこうするという強い言葉もない。ただ、確認したい、と言っているだけだった。けれど森川は、その静けさの方が重いと思った。銀行は、騒がない。だが、数字の変化には静かに気づく。新規ブランドへの販促費増加。在庫回転の鈍化。利益率の低下。EC施策の効果不明。既存取引先の条件見直し。久世物産の中で、まだ問題ではない、まだ調整できる、と言い換えられていたものが、銀行の目にはすでに変化として映っている。
KUZÉ ma vieの売り場は、確かに美しかった。百貨店の一階、吹き抜けに近いイベントスペースに、淡いベージュとくすんだピンクの什器が並んでいる。中央には、莉奈が最後までこだわった限定ボックス。角度を変えると柔らかく光る箔押しのロゴ。細いリボン。ブランドカード。初回限定のノベルティ。照明も、写真にきれいに収まるよう調整されていた。売り場の隅では、スマホを構えた客が箱を撮っている。インフルエンサーの投稿も朝からいくつか上がっていた。かわいい。箱が素敵。ノベルティ欲しい。世界観が好き。プレゼントによさそう。そうした言葉が、SNS上に流れていく。莉奈はタブレットを手に、画面の反応を何度も確認していた。目元は明るく、頬には高揚があった。「やっぱり、初回の見せ方って大事なんですよ」隣に立つ怜央へ、莉奈は少し得意げに言った。「ここで印象を作らないと、ブランドって覚えてもらえませんから」怜央も売り場を見渡し、頷いた。「反応は悪くないな」その言葉に、莉奈の顔がさらに明るくなる。「ですよね。百貨店の方も、売り場はかなり評価してくださってました」売り場は、確かに華やかだった。箱も、照明も、ノベルティも、写真に収まるために整えられていた。けれど、写真に収まることと、事業として残ることは同じではなかった。その違いは、数日後から少しずつ表に出始めた。初日は動いた。限定ボックスは、見た目の良さで手に取られた。ノベルティ目当ての購入もあった。SNSを見て来たという客もいた。売り場では、莉奈が思い描いた通りの光景が一部には生まれていた。二日目も、まだ反応は残っていた。だが、三日目から線が鈍り始めた。売り場の人だかりは薄くなり、写真を撮る客はいても、購入まで進まない人が増えた。限定ボックスを手に取り、価格を見て、棚へ戻す。ノベルティの内容を確認し、もう少し考えますと言って離れる。浜口佐
販売ページを公開してから、五日目の朝だった。小野寺製菓の事務所では、千鶴が出社するとすぐにEC管理画面を開くようになっていた。最初の一日は、画面の静けさに押しつぶされそうだった。注文通知はほとんど鳴らず、閲覧数だけが少しずつ増えていく。カートに入った形跡があっても、購入完了にはならない。千鶴はそのたびに、画面を見つめたまま言葉を失っていた。けれど、数日が経つと、その静けさの中に小さな音が混ざり始めた。注文は、波のようには来なかった。けれど、雨粒のように一つずつ落ちてきた。その小さな音を、千鶴は何度も確かめるように画面で追っていた。「篠原さん」千鶴の声が、事務所の空気を少し揺らした。美緒は、持参したノートPCを開きかけていた手を止める。「また一件、入りました」千鶴は画面に顔を近づけていた。声には、嬉しさがある。けれど、それだけではなかった。驚きと、まだ信じきれない怖さが混ざっている。何かが動き始めたのを喜びたいのに、その動きが本物なのか分からず、指先でそっと触れているような声だった。「どのセットですか」美緒が尋ねると、千鶴は注文画面を確認した。「初回お試しセットです。新規のお客様だと思います」「では、入口として機能し始めていますね」美緒はそう言いながら、販売開始から今日までの数字を開いた。注文数だけでは見ない。ページ閲覧数。カート投入率。購入率。セット別販売数。セット別利益。送料込み利益。購入者コメント。新規顧客と既存顧客の比率。数字は、まだ小さい。胸を張って成功と言えるほどではない。SNSで大きく広がったわけでも、注文が一気に増えたわけでもない。画面の中の数字は、慎重に見なければ見逃してしまうほど小さく動いていた。けれど、動いている。それだけは確かだった。千鶴は注文一覧を何度も見ていた。
菜月に言われた言葉は、帰宅してからも消えなかった。支えることと、使われることは違う。優しさは、残していい。でも、渡す相手は選ぶ。美緒は自室の机に向かい、手帳を開いたまま、しばらくその文字を見つめていた。外はもう暗い。久世家の廊下は静まり返り、遠くで古い振り子時計が低く鳴っている。怜央は自室にいるのか、書斎にいるのか、気配は分からない。佳乃子の部屋の明かりはもう落ちていた。屋敷は、いつも通り整っている。その静けさの中で、菜月の言葉だけが、美緒の胸の内側でまだ熱を持っていた。
菜月と会う約束をしたのは、久世家の廊下で佳乃子の声を聞いたあとだった。「美緒さん、夕食の献立だけれど」その声はいつも通り穏やかで、美緒もいつも通りに返事をした。「はい。確認しておきます」佳乃子は、怜央の胃に重くないものを一品入れるようにと言った。最近は疲れているようだから、と。家の中は落ち着いている方がいいから、と。美緒は頷いた。反論はしなかった。ただ、自室に戻って扉を閉めた瞬間、胸の奥に静かな息苦しさが広がった。証拠は集めている。真帆にも相談し
美緒は、以前と変わらず朝食を整えた。味噌汁の椀を置く位置も、怜央のコーヒーの濃さも、佳乃子が気にする器の向きも、何ひとつ変えていない。焼き魚の皿は少し右へ。小鉢は手前に二つ。箸先はきちんと左へ向け、湯呑みの縁についた水滴は布巾で拭う。庭から差し込む朝の光は、いつもと同じように磨かれた床板の上へ細く伸びていた。久世家の朝は、変わらない。変わらないように、美緒が整えている。怜央が席についた。白いシャツに袖を通し、ネクタイはまだ緩めたまま、片手でスマホを見ている。テーブルの端にはタブレットが置かれ、
法律事務所のビルの前で、美緒は一度足を止めた。ガラスの扉には、佐伯真帆法律事務所、と小さな文字が入っている。菜月から送られてきた住所と同じだった。相談するだけ。何かを決めるわけではない。そう何度も自分に言い聞かせても、胸の奥は落ち着かなかった。一度の浮気で、弁護士に相談するなんて大げさなのではないか。久世家のことを外へ話してしまっていいのか。怜央の立場を傷つけることにならないのか。そう考えた瞬間、佳乃子の声がよみがえる。妻が感情で騒げば、夫の立場
Rebyu