御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する

御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する

last updateHuling Na-update : 2026-06-28
By:  中岡 始In-update ngayon lang
Language: Japanese
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地方名門・久世家の御曹司に嫁いだ篠原美緒は、若奥様と呼ばれながら、姑の嫌味、小姑の尻拭い、夫・怜央の無関心に耐えていた。 さらに発覚した夫の浮気。それでも久世家は美緒を責め、彼女の実務能力だけを都合よく利用し続ける。そんな中、投資家・鷹宮奏真だけが美緒の才能を見抜く。 「これは手伝いではありません。経営判断です」――その一言をきっかけに、美緒は離婚と起業を決意する。 久世家を出た元嫁が、自分の名前で会社を興し、愛も人生も選び直す逆転再生ラブストーリー。

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Kabanata 1

1.重い門の内側

「小野さん。小野さんの退職届は社長に受理されたんですが、社長……それが小野さんのだとは気づいていないみたいで。一言伝えておきましょうか?」

電話越しに告げられたその言葉に、小野佳奈(おの かな)はゆっくりと視線を落とした。「結構です。そのままにしておいて下さい」

「でも、小野さんは4年も秘書として社長のそばにいたんですから、小野さんを一番信頼していたはずです。本当によろしいんですか?」

人事担当者がしきりに引き留めようとするが、佳奈はただ静かに微笑むだけだった。

「世の中に、どうしても一緒にいなくてはならない人なんていませんから。それに、実家の両親の体調も気になるし、お見合いの準備も進んでいるんです。このまま問題がなければ、1ヶ月後には引き継ぎが終えられるかと。お手数おかけします」

通話を終えると、佳奈は淡々と荷物の整理を再開した。

3年間この家で暮らしたが、生活必需品以外の物はほとんどない。

次第に物が無くなっていく部屋を眺めていると、昔の記憶が波のように押し寄せた。

8年前、田舎出身のどこにでもいるような女子大生だった佳奈は、H大学で東都の資産家令嬢である中川胡桃(なかがわ くるみ)と親友になった。

育った環境は違ったが、二人はすぐに打ち解け、授業も食事も買い物も、いつも一緒だった。

そうして胡桃によって彼女の暮らす世界に連れ込まれた佳奈は、胡桃の兄である中川英樹(なかがわ ひでき)と出会い、恋をした。

だが、その想いを佳奈は心の中にひっそりとしまっていた。

大学卒業後、胡桃は海外へ留学に行き、佳奈は英樹の経営する会社に就職し、秘書として彼を見守り続けた。

ある日、英樹が何者かに薬を盛られる事件が起きた。

すぐさま救急車を呼ぼうとした佳奈だったが、理性を失った英樹に壁際まで押され、深く情熱的な口づけを受けたのだった。

翌朝目を覚ますと、窓辺でタバコを燻らす英樹の孤独そうな横顔があった。

気配を察して振り返った英樹が、低く呟く。

「俺のこと、好きか?」

とっさに否定しようとする佳奈に対し、英樹は冷静に続けた。

「俺と会うたびに顔を赤くし、俺の好みを全部覚えていて、卒業と同時に秘書に応募……

偶然だとは言わせないぞ」

彼の言葉を聞いた瞬間、佳奈の顔は真っ赤に染まった。それが羞恥心からくるものなのか、自責の念からなのかは定かではないが。

沈黙の中で、英樹が一枚のカードを佳奈に差し出す。

「昨夜は事故だったし、俺には想っている相手もいる。だから君の好意には応えられないし、責任も取れない。それと、胡桃から君は経済的にあまり余裕がないと聞いている。この中には、不自由なく暮らせる分の金額は入れてある。わかるだろ?何もかも忘れろ」

呆気に取られている佳奈の脳裏に、昨晩英樹がずっと口にしていた女性の名が蘇る。

高木真白(たかぎ ましろ)。

胡桃によれば、真白は英樹が一生忘れられない初恋の相手だという。

たとえ真白が海外へ飛び去り、男を取っ替え引っ替えしていると聞いても、英樹は真白を信じ続け、その帰りを待っているのだ。

そんな英樹を、胡桃はかつてこう言っていた。

「うちの男たちは感情ってものを忘れたんじゃないかってぐらい、冷酷そのものなのに、なんでお兄ちゃんだけあんな一途なんだろうね。真白さん以外は妥協だなんて言って、本当に馬鹿みたい」

佳奈は改めてその言葉を噛み締め、立ち上がろうとする英樹の背中に叫んだ。

「お金なんていりません。だから、お願いです。チャンスをくれませんか?もし高木さんが帰って来なかったら……いや、帰ってきたとしても、まだあなたが彼女のことを忘れられないというのであれば……私は、ここから立ち去りますから」

まっすぐな愛に圧倒されたのか、英樹は数秒沈黙してから「勝手にしろ」とだけ告げて立ち去った。

それ以来、佳奈は昼間は有能な秘書として、夜は体の関係を持って、英樹を支え続けた。

社長室や高級車の中、そして邸宅の広いリビング。二人の影は数えきれないほど重なり合った。

4年が過ぎた。しかし、未だに誰一人としてこの関係を知らないまま、佳奈はただその幸せに浸りきっていた。

英樹の誕生日の前夜、佳奈はサプライズを準備して彼の帰りを待っていた。

しかし日付が変わっても帰ってこなかった英樹のインスタに、残酷な一文が投稿される。

【最愛の人が戻ってくるなんて、最高の誕生日プレゼントだ】

一度もインスタを更新したことがなかった英樹なのに、そこには花火を背景に真白とキスをする写真が載せられていた。

写真を見た瞬間、佳奈の顔からは血の気が引き、息も絶え絶えになった。

最後の希望を胸に、震える手で英樹に電話をかける。

電話はつながったが、聞こえてきたのは真白の声だった。

「ねえ英樹、小野さんって誰?英樹への電話だと思うんだけど、ずっと黙ってるの」

間もなくして、英樹の冷徹な声がスピーカーから響いた。

「どうでもいいやつだ。無視していいから。おいで、もう少し一緒に寝よう」

その瞬間、佳奈は自分が離れなければいけないことを悟った。

荷物もまとめ終わったので、この家から去ろうと思った矢先、玄関先で偶然にも英樹に鉢合わせた。

英樹とは毎日のように肌を重ねていたため、この家で暮らしていたが、真白が帰ってきた今、ここに残ることはもう許されない。

荷物を抱えた佳奈をじっと見つめ、英樹は引き止めることなく尋ねた。「家は決まったのか?」

「はい。1ヶ月だけ貸してもらえるように話をつけておきましたので、以前のアパートに戻ります」

英樹は眉をひそめた。「1ヶ月?なぜ?」

理由を言おうとした佳奈だったが、英樹はそれを聞くこともなく、素っ気なく言った。「送っていく」

断ろうとしても、英樹の意志は固かった。

「雪も酷いし時間も遅い。それに、君が何かあったら胡桃が悲しむからな」

佳奈は結局、車に乗り込んだ。

以前はあんなに求め合った場所なのに、今では別世界のようだった。

ぬいぐるみが溢れ、可愛い柄のカバーがかけられているうえに、あちこちにお菓子まで用意されている……

あの英樹が、恋人のためにこんな環境を許すなんて、佳奈は信じがたかった。

佳奈の驚きを察したのか、英樹は短く言う。

「真白の好みだ」

佳奈は少し黙ってから、消え入るような声で答えた。

「帰ってきてよかったですね。社長が嬉しそうで……何よりです」

予想外の反応だったのか英樹は目を細め、黙り込んだ。

道半ば、真白が英樹に「雪だるまを作りたい」と電話をかけてきた。

路肩でブレーキをかける英樹の目が、助手席の佳奈を見ながら迷っていた。

英樹が何に躊躇っているのか佳奈には分かっていたので、自らドアに手をかける。

「社長、私はタクシーで帰りますから」

英樹は頷くと、荷物の運び出しを手伝った。

佳奈の手が滑り、箱が落ちた。街灯の下に散らばった中身を見て、英樹は硬直する。

英樹宛ての渡せなかったラブレターの束、英樹を隠し撮りしたであろう写真、それに英樹が捨てたものまで……

これらを見られたことにより、佳奈はパニックになりながらも、それらを大急ぎで箱の中に戻した。

「すみません」

その後英樹は一言も発さず、車に乗り込んで去って行った。

極寒の夜の雪の中、タクシーは一台も捕まらない。

箱を抱えて歩き始めた佳奈だったが、不注意なバイクに撥ねられ倒れ込んでしまった。

足からは出血し、地面が赤く染まっていく。

走り去ったバイクを追いかける気力もなく、激痛と冷気の中ただ呆然と座り込んでいた。

足を引きずりながら、数時間かけてようやくアパートに辿り着いた。

処置を済ませスマホを見ると、英樹からラインが来ていた。

【誰か一人に執着するのはやめた方がいい。男なんていくらでもいるんだ。一人の男で人生を無駄にするな】

佳奈はその一文を、何度も繰り返し読んだ。

夜が明けた頃、佳奈は外に出ると、箱ごとすべての思い出を燃やした。

心を焦がし続けてきた8年分の熱い想いは、真っ白な灰へと消えていく。

英樹、あなたの望み通りにしてあげるから。

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Rebyu

トラ子
トラ子
一見地味に見える仕事が、実は重要であることに気づかせてくれる小説。たぶん、こういうことは、会社だけではなく、家庭などの社会全般でもあるなあと、思ったりします。 主人公は、名家に嫁ぎ、嫁として、家庭と、嫁ぎ先が経営する会社を整えることを当然のように要求され、それにこたえることに喜びを感じていましたが、上っ面の感謝しか得られないまま数年がたち、名家にいることに息苦しさを感じるようになり、再び自分の足で立とうと、潔く離婚して、起業します。 いわゆる盛大なざまぁはないかもしれないけれども、地に足のついたお仕事小説で、毎回楽しみに読ませてもらっています。
2026-06-20 11:16:28
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1.重い門の内側
久世家の朝は、門が開く前から始まる。まだ空は薄く青く、庭石の縁には夜の湿り気が残っていた。高い塀の向こうから、坂道を上ってくる車の音がかすかに聞こえる。新聞配達のバイクが一度止まり、また遠ざかっていく。その音は門の内側へ届く前に、どこかよその世界のものになった。美緒は玄関先に立ち、新聞受けから取り出した朝刊を両手でそろえた。重い門は、まだ閉じている。外から見れば、それは久世家の格式を示すものなのだろう。代々この地方都市で名を知られてきた旧家にふさわしい、堂々とした門構え。高い塀の内側には手入れされた庭が広がり、松の枝は季節に合わせて整えられている。飛び石には落ち葉ひとつ残されておらず、玄関の木戸は朝の光を吸って黒く艶めいていた。けれど内側にいる美緒には、門の立派さよりも、塀の高さばかりが先に見えた。外には通勤する人がいて、学生がいて、まだ眠たげな町が動き始めている。だが美緒はそこへ出ていく人間ではない。門の内側で、家の一日が滞りなく進むように整える人間だった。新聞の端を揃え、義父の分と怜央の分を分ける。経済紙を上に、地元紙を下に。宗一郎は地元紙を先に読むことが多いが、来客のある日は経済紙の一面に目を通してから、地元欄へ移る。だから今日は経済紙を一番上にした。そんな小さな順番も、いつの間にか美緒の中では間違えてはいけないものになっていた。玄関の花の向きが、ほんの少し傾いている。美緒は新聞を小脇に抱え、花器の前に膝を折った。白い椿の花弁には、まだ水の気配が残っている。昨日の夕方、庭師が帰ったあとに佳乃子が選んだものだった。美緒は茎の角度をわずかに変え、正面から見たときに花がこちらへ向くように整えた。この家では、何かが少し曲がっているだけで目立つ。新聞の端。玄関の花。客用のスリッパ。廊下に差す光の中の小さな埃。誰かが大きな声で責めるわけではない。けれど、誰かが必ず気づく。気づいたあとで、たしなめるように微笑む。美緒さん、こういうところは、その家の空気が出るのよ。以前、佳乃子がそう言ったときの声を、美緒は今でも覚えている。だから美緒は、気づかれる前に直す。廊下へ上がると、磨かれた床板が朝の光を細く映した。音を立てないように歩く。そうしなさいと命じられたことはない。けれどこの家に来てから、美緒は自然と足音を抑えるようになった。広い廊下には先祖の写真
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2.奥様と呼ばれる檻
応接室の花は、すでに整っていた。けれど美緒は、もう一度だけ花器の向きを確かめた。床の間の掛け軸に対して、枝先がわずかに右へ流れている。ほんの少しのことだった。誰も気づかないかもしれない。けれど、佳乃子は気づく。この家では、気づかれないことよりも、気づかれたときにどう見えるかが大切だった。美緒は花器を両手で持ち、音を立てないように数ミリだけ動かした。陶器の底が畳の上の薄い板に触れる、そのわずかな感触にまで神経が向く。朝から動き続けているせいか、指先が少し冷えていた。応接室は、客を迎えるための部屋というより、久世家が久世家であることを証明するための部屋に見えた。磨かれた座卓。季節に合わせて替えられる掛け軸。古いが手入れの行き届いた茶箪笥。壁際には、先代たちの写真が小さな額に収まっている。どれも古く、静かで、重みがある。部屋全体に、ほのかな香の匂いが漂っていた。強すぎてはいけない。弱すぎてもいけない。来客が部屋に入った瞬間、上品だと感じる程度でなければならない。美緒は窓を少しだけ開けた。庭の木々が朝の光を受けて、葉の先を光らせている。高台にあるため、遠くに町の屋根が少し見えた。外の空気は澄んでいるのに、応接室へ戻ると、閉じた場所の静けさが肌にまとわりつく。茶器の数を確かめる。来客は三人と聞いている。佳乃子を含めて四客。念のため、もう一客。湯呑みの模様の向き、菓子皿の色、茶托の艶。座布団は客の膝が座卓に近すぎない位置に置く。佳乃子の席は床の間に近い側。美緒は入口近くに控える。呼ばれたときすぐ動ける位置で、けれど会話の邪魔にならない場所。この部屋に、美緒が座る場所はなかった。それは当然のことのようで、だからこそ改めて考える機会もなかった。美緒がそこにいる意味は、席に座ることではない。席に座る人たちが気持ちよく話せるように、気配を消して動くことだった。手土産を置く台に白い布をかけ、端を指で整える。来客用のスリッパは玄関に並べた。廊下から応接室までの通り道に埃がないか、もう一度だけ視線を滑らせる。大丈夫。そう思ってから、美緒はすぐに打ち消した。大丈夫かどうかを決めるのは、自分ではない。廊下の向こうから、衣擦れの気配が近づいてきた。佳乃子だった。今日の佳乃子は、淡い若草色の着物を着ていた。帯は控えめだが上質で、胸元には小さな真珠の帯留めがある。髪は
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3.お義姉さんならできますよね
スマホの画面には、莉奈の名前が表示されていた。お義姉さん、今日おうちにいますよね? ちょっと相談したい資料があって。美緒は、洗い終えた茶器を布巾の上に伏せたまま、その文面を見つめた。ちょっと相談。その言葉は軽かった。少なくとも、断るほど重いものには見えなかった。けれど美緒は知っている。久世家で使われる「ちょっと」は、たいてい、その言葉より少し重い。応接室には、まだ香の匂いが薄く残っていた。先ほどまで来客たちの笑い声が満ちていた部屋は、今は静まり返っている。茶器は洗い終えた。菓子皿も拭いた。座布団も元の位置に戻した。けれど、身体の奥に残った疲れまでは、片づけることができなかった。美緒はスマホを持ったまま、返事を打とうとして指を止めた。本当は、少しだけ座りたかった。朝から自分のために淹れたお茶は、結局ほとんど口にしていない。来客の対応を終えたあとも、礼状の宛先を手帳に書き、佳乃子に確認することをまとめ、茶器を洗っていた。時計を見ると、昼を過ぎている。遅い昼食を取るなら今しかなかった。けれど、莉奈は怜央の妹だった。佳乃子の娘で、久世物産の広報部にいる。久世家の中で、明るく、華やかで、いつも誰かに可愛がられている人。そんな莉奈が「相談」と言っている。断るほどのことではない。そう思うより早く、美緒の指は動いていた。大丈夫です。送信してから、美緒は画面を見つめた。大丈夫です、と打つのに、ほとんど時間はかからなかった。大丈夫かどうかを確かめるより先に、その言葉だけが指に馴染んでいた。すぐに既読がついた。ありがとうございます! 午後少し寄りますね。文末についた明るい絵文字を見て、美緒は小さく息を吐いた。莉奈らしいと思った。頼みごとをしているのに、重さがない。悪びれたところもない。その軽さに救われることもあれば、少しだけ胸が引っかかることもある。美緒はスマホを伏せ、布巾に伏せた茶器へ視線を戻した。久世家の若奥様。さっきまで応接室で呼ばれていたその言葉が、まだ耳の奥
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4.美緒なら分かるだろ
怜央からのメッセージは、短かった。莉奈の資料、今日中に見られる?美緒は、ダイニングのテーブルに広げた企画書を前にして、その文字をしばらく見つめていた。今日中に。莉奈が言った「ちょっと相談」という言葉より、その四文字はずっと重かった。けれど、怜央からの頼みだと思うと、重いと感じる自分の方が間違っているような気がした。窓の外では、庭の木々が夕方の光を受けて暗い影を落とし始めている。昼間には明るく見えた苔の色も、今は深く沈み、飛び石の縁だけがかすかに白く浮いていた。古い振り子時計の音が、廊下の奥から一定の間隔で届く。家の中は静かだった。佳乃子は自室に戻り、宗一郎はまだ会社から帰っていない。莉奈の華やかな香水の匂いだけが、居間の空気に薄く残っている。テーブルの上には、莉奈が置いていった資料が広がっていた。久世物産・秋の地域特産ギフトフェア。表紙は明るかった。柿色と葡萄色を使った季節感のあるデザインに、地元の老舗菓子や酒造メーカーの商品写真が並んでいる。若い女性が手に取っても重く見えないよう、文字も軽やかで、余白も多い。莉奈が言った通り、見せ方はうまかった。古い、堅い、贈答品ばかりという久世物産の印象を変えたいという意図も、確かに伝わってくる。けれど、明るいぶんだけ、その下に沈んでいる数字の空白が、美緒にはかえって目立って見えた。原価の欄は一部が空欄のままだった。販促費は「概算」と書かれているが、撮影費も、限定パッケージの制作費も、インフルエンサーへの謝礼も、どこまで含まれているのか分からない。百貨店側の手数料率は古い資料のものかもしれない。発注予定数は過去の催事実績より高く、売上見込みだけが大きく伸びている。だが、在庫が残った場合の処理については、何も書かれていなかった。少し整えるだけ。そう思おうとした。莉奈の企画を否定したいわけではない。怜央が困らないように、数字の抜けを少し確認するだけ。元銀行員なのだから、こういう表を見るのは苦手ではない。自分が口を出すほどのことではなく、ただ、見落としを拾っておけばいい。けれど、少しで済む資料ではないことを、美緒の目はもう知
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5.午前二時の修正案
食卓を拭き終えると、そこは何もなかったようにきれいになった。さっきまで怜央の箸が置かれていた場所に、美緒は莉奈の企画書を広げた。白い紙の端が、磨かれた木目の上で冷たく光る。夕食の匂いはまだわずかに残っているのに、テーブルの上だけが先に夜の仕事場へ変わっていった。美緒は冷めたお茶を脇へ寄せ、ノートパソコンを開いた。確認するだけ。小さくそう思った。けれど、最初のページをめくった時点で、それが自分を安心させるための言葉にすぎないことを、美緒はもう分かっていた。さっきまで夕食の皿が並んでいた場所に、今は久世物産の資料が広がっている。怜央が使った箸置きの跡は布巾で拭き取ったはずなのに、そこへ資料を置くと、まだ夫婦の食卓だった名残が消えきらない。味噌汁の出汁の匂い、焼き魚の残り香、湯呑みに残った茶の渋み。そのすべての上に、白い企画書と電卓と手帳が重なっていく。家庭のテーブルは、いつの間にか美緒だけの仕事机になっていた。美緒は資料の表紙に目を落とした。久世物産・秋の地域特産ギフトフェア。その下に、小さな英字で、地方の上質を、私らしい毎日へ、と添えられている。莉奈らしい言葉だった。明るくて、軽やかで、どこか雑誌の特集のような華やかさがある。写真もきれいだった。低糖質和菓子、地元果実のジャム、米粉クッキー、ハーブティー、発酵調味料、季節限定スイーツ。木箱に入ったギフトボックスには淡いリボンがかけられ、若い女性が手に取りやすい雰囲気に整えられていた。可愛い、と思った。それは本当だった。莉奈の感覚は悪くない。久世物産の古い贈答品の印象を変えたいという意図も分かる。地元の良いものを、堅苦しくない形で届けたい。百貨店の催事だけではなく、SNSやオンライン販売にもつなげたい。そういう考え方は、今の久世物産に必要なものかもしれなかった。けれど可愛いだけで、支払いは待ってくれない。美緒はページをめくった。企画の概要、ターゲット層、商品イメージ、SNS展開案。そこまでは流れがいい。だが、売価と仕入れ原価の表に差しかかったところで、美緒の指が止まった。
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6.若専務の成果
朝になって、怜央はようやく資料を開いた。美緒が午前二時に送ったファイルだった。寝不足で重いまぶたの奥には、まだ白い画面の光が残っている。原価率、販促費、在庫リスク、発注数。夜の底で何度も見直した数字が、目を閉じてもまだ薄く浮かぶ。それでも朝は、いつも通り始まった。味噌汁を温め、焼き魚を皿に移し、小鉢を並べる。佳乃子の湯呑みをいつもの位置に置き、義父の新聞を整え、怜央のコーヒーを淹れる。体は眠りを欲しがっていたが、手は止まらなかった。久世家の朝は、美緒の疲れなど知らない。怜央はダイニングの椅子に腰を下ろすと、コーヒーを片手にタブレットを開いた。まだ髪には寝癖が少し残っている。けれど、画面を指で滑らせる仕草は軽く、昨夜その資料がどれだけの時間を奪ったのかを感じさせなかった。「お、いいじゃん」その一言で、美緒は少しだけ息をついた。いいじゃん。昨夜、原価率を直し、販促費を入れ、在庫リスクを書き足し、発注数を削った。そのすべてが、その短い言葉の中に収まってしまった。「見づらいところはありませんか」美緒が尋ねると、怜央はもう次のページへ進んでいた。「うん、だいぶ見やすくなったな。この表、役員に説明しやすい」「販促費の内訳と、在庫リスクのところは少し補足しています。あと、初回発注数は過去実績に合わせて下げました」「ああ、そこな。親父に突っ込まれそうなところも、これなら大丈夫そうだ」怜央は軽く頷いた。美緒は彼の指先を見た。画面を流す速度が速い。資料を最後まで読んでいないように見えた。昨夜、美緒が何度も止まったページを、怜央は数秒で通り過ぎていく。けれど、次の瞬間、怜央は顔を上げて笑った。「助かった。やっぱり美緒に頼んで正解だった」その言葉に、美緒は胸の奥が小さく緩むのを感じた。怜央は、資料を最後まで読んでいないように見えた。けれど「助かった」と言われた瞬間、美緒はそのことに気づかなかったふりをした。「お役に立てたなら、よかったです」
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7.華やかな名前
怜央が「この前の資料、評判よかったよ」と言ったのは、朝食の席だった。美緒は味噌汁の椀を置きながら、少しだけ手を止めた。湯気が白く上がり、怜央の前でふわりとほどける。いつもと同じ朝だった。義父の新聞はきちんと畳まれ、佳乃子の湯呑みは定位置に置かれ、怜央のコーヒーは冷めないよう最後に淹れた。「評判、ですか」「うん。親父も、役員たちも。数字が見やすかったって」怜央は機嫌がよかった。あの役員会から数日が経っても、その評価はまだ彼の中に残っているらしい。ネイビーのスーツに袖を通す前の、少し砕けた朝の顔で、怜央は軽く笑った。「莉奈の企画も次に進めそうだし。美緒のおかげだな」おかげ。その言葉は、嬉しいはずだった。美緒は箸を並べながら、静かに微笑んだ。「お役に立てたなら、よかったです」本当に、そう思っている。怜央が困らなかったのなら、それでいい。莉奈の企画が通ったのなら、よかった。佳乃子もあの日から機嫌がよく、屋敷の中の空気は少しだけ穏やかだった。久世家の一日は、何事もなかったように整っていた。けれど美緒の中には、あの日から小さな引っかかりが残っている。褒めてほしかったわけではない。ただ、なかったことにはされたくなかった。そう心の中で言葉にしかけたとき、怜央がコーヒーに手を伸ばしながら言った。「でさ、今日、莉奈の新ブランドの打ち合わせがあるんだ。美緒も少し来られる?」美緒は顔を上げた。「私が、ですか」「うん。堅苦しい会議じゃないよ。家族内の確認みたいなものだから」家族内の確認。そう言われると、会社の仕事ではないように聞こえる。けれど美緒は、もうその言葉の軽さを素直には受け取れなくなっていた。前も、ちょっと相談だった。家族だから、得意だから、分かるだろうから。そういう言葉の中で、資料はいつの間にか役員会に持ち込まれ、怜央の成果になった。美緒は布巾を畳み直しながら尋ねた。「私が伺っても、
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8.埋まらない欄
会議室の空気は、まだ明るかった。莉奈のプレゼンが終わったあとも、淡い色の資料はテーブルの上できれいに見えた。KUZÉ ma vie。クゼ・マ・ヴィ。地方の上質を、私らしい毎日へ。名前も、写真も、言葉も、これまでの久世物産にはない軽やかさをまとっている。薄いピンクベージュのロゴ、自然光の中で撮られた小瓶のジャム、米粉クッキー、低糖質和菓子、ハーブティー。どれも、見る人に手に取ってみたいと思わせるだけの力があった。怜央は満足そうに椅子にもたれ、資料の表紙を指で軽く叩いた。「方向性はいいよな」「ですよね」莉奈は嬉しそうに頷いた。「絶対、今までの久世物産とは違う感じが出せると思うんです。若い人にも、久世物産ってちょっといいかもって思ってもらえるような」「うん。変わろうとしてる感じは出る」怜央の声は軽かった。その言い方に、美緒は小さく引っかかった。変わろうとしている感じ。見た目。印象。役員会での通りやすさ。怜央が見ているのは、まずそこなのだと分かる。美緒も、悪い企画だとは思わなかった。むしろ、発想そのものには可能性がある。地元の良いものを、古い贈答品としてではなく、日常の小さな喜びとして届ける。母の日や誕生日、退職祝いのプチギフト。働く女性が、自分のために買う朝食セット。そういう切り口は、今の久世物産には確かに足りていないのかもしれない。けれど、収支表のページを開いた瞬間、その思いはほんの少しだけ止まった。白い欄が、いくつも並んでいた。商品別原価。後日確認。パッケージ費。概算。販促費。別途。百貨店手数料。確認中。EC手数料。未入力。在庫保管費。空欄。返品条件。要確認。初回発注数。目標値のみ。会議室には、まだ莉奈の明るい声の余韻が残っていた。けれど美緒の視線は、淡い色のロゴではなく、収支表の白い欄に落ちたまま動かなかった。空欄は、ただ
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9.森川の赤い付箋
久世物産の受付で名前を告げる前に、美緒は一度だけ手帳の角を押さえた。中には、昨日書き出した確認リストが挟まっている。商品別原価。販促費。返品条件。在庫保管費。過去販売実績。粗利率。値引き実績。廃棄率。初回発注数の根拠。どれも、莉奈の資料に並んでいた淡い写真や、やわらかなロゴからは遠い言葉だった。KUZÉ ma vie。クゼ・マ・ヴィ。私の暮らし、私らしい毎日。その名前は華やかで、軽やかで、久世物産がこれまでまとってきた古い重さを少しだけ払ってくれるようにも見えた。美緒も、企画そのものを否定したいわけではない。むしろ、地元の良いものを若い人の日常へ届けるという発想には、確かな可能性があると思っている。けれど、それらがなければ、あのブランドはどこにも立てない。手帳の紙は薄いのに、挟んだ確認リストだけが妙に重く感じられた。資料を直すためではない。まず、何が足りないのかを確かめるために、美緒は久世物産へ来ていた。怜央は今朝、軽い調子で言った。「森川さんに話は通しておくから、必要な資料だけ見せてもらって」必要な資料だけ。その言葉は簡単だった。だが、美緒にとっては久世物産の内部資料へ踏み込むことになる。自分は社員ではない。名刺もない。肩書きもない。久世物産の業務命令を受ける立場でもない。それなのに、なぜ自分が資料を確認しに来ているのだろう。その問いは、受付の前に立った今も胸の奥に残っている。けれど、昨日見た収支表の空欄がどうしても気になった。後日確認。概算。確認中。未入力。要確認。それらはただの空白ではなかった。誰かが知っているはずの情報が、企画書まで届いていない。その白さが、美緒には心もとなく見えた。受付の女性が、美緒に気づいて立ち上がった。「久世専務の奥様でいらっしゃいますね」「はい。森川部長にお時間をいただいております」
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10.商品を見ている人
森川の赤い付箋は、数字の上に貼られていた。販促費計上後、利益率低下。返品・値引き処理増。初回発注数過大。在庫滞留。EC連動なし。美緒は経理部を出たあとも、その文字を頭の中で繰り返していた。数字は確かに、久世物産の危うさを示している。売上はある。企画も動いている。百貨店催事も、資料の上では成功に見える。けれど、販促費や返品、在庫、値引き処理を差し引くと、残るものは思っていたより薄かった。森川は、それをずっと見ていた。見て、資料に残し、赤い付箋をつけていた。それでも、通らない。その事実が、美緒の胸に重く残っていた。けれど数字だけでは、まだ分からないことがある。なぜ、その商品は売れたのか。なぜ、残ったのか。どこまで作れるのか。誰に負担がかかるのか。美緒は、森川から受け取った資料を抱えたまま、久世物産の廊下をゆっくり歩いた。資料の端には、いくつかの商品名が並んでいる。低糖質和菓子、季節限定ジャム、米粉クッキー、発酵調味料。売上、返品、値引き、在庫。その無機質な欄の向こうに、作っている人の手があることを、美緒はふと思い出した。銀行にいた頃、決算書の数字だけでは分からないことがたくさんあった。売上が伸びている会社でも、社長の顔色は暗いことがあった。注文が増えたことで、材料費が先に出ていく。人手が足りず、残業が増える。納期に追われ、品質が落ちる。入金より支払いが早く来る。数字の上では前に進んでいるのに、現場は疲弊している。たくさん売れれば、それでいいわけではない。そのことを、美緒は何度も見てきた。森川の資料の端に、小さなコメントがあった。製造数要確認。セット商品の分解販売不可。取引先負担大。賞味期限短く、初回発注数注意。商品ストーリー未反映。その横に、名前が記されている。浜口佐和。商品企画課長。美緒は、その名前を手帳に
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