Masuk地方名門・久世家の御曹司に嫁いだ篠原美緒は、若奥様と呼ばれながら、姑の嫌味、小姑の尻拭い、夫・怜央の無関心に耐えていた。 さらに発覚した夫の浮気。それでも久世家は美緒を責め、彼女の実務能力だけを都合よく利用し続ける。そんな中、投資家・鷹宮奏真だけが美緒の才能を見抜く。 「これは手伝いではありません。経営判断です」――その一言をきっかけに、美緒は離婚と起業を決意する。 久世家を出た元嫁が、自分の名前で会社を興し、愛も人生も選び直す逆転再生ラブストーリー。 本編完結済、番外編を更新予定です!
Lihat lebih banyak久世家の朝は、門が開く前から始まる。
まだ空は薄く青く、庭石の縁には夜の湿り気が残っていた。高い塀の向こうから、坂道を上ってくる車の音がかすかに聞こえる。新聞配達のバイクが一度止まり、また遠ざかっていく。その音は門の内側へ届く前に、どこかよその世界のものになった。
美緒は玄関先に立ち、新聞受けから取り出した朝刊を両手でそろえた。
重い門は、まだ閉じている。外から見れば、それは久世家の格式を示すものなのだろう。代々この地方都市で名を知られてきた旧家にふさわしい、堂々とした門構え。高い塀の内側には手入れされた庭が広がり、松の枝は季節に合わせて整えられている。飛び石には落ち葉ひとつ残されておらず、玄関の木戸は朝の光を吸って黒く艶めいていた。
けれど内側にいる美緒には、門の立派さよりも、塀の高さばかりが先に見えた。
外には通勤する人がいて、学生がいて、まだ眠たげな町が動き始めている。だが美緒はそこへ出ていく人間ではない。門の内側で、家の一日が滞りなく進むように整える人間だった。
新聞の端を揃え、義父の分と怜央の分を分ける。経済紙を上に、地元紙を下に。宗一郎は地元紙を先に読むことが多いが、来客のある日は経済紙の一面に目を通してから、地元欄へ移る。だから今日は経済紙を一番上にした。そんな小さな順番も、いつの間にか美緒の中では間違えてはいけないものになっていた。
玄関の花の向きが、ほんの少し傾いている。
美緒は新聞を小脇に抱え、花器の前に膝を折った。白い椿の花弁には、まだ水の気配が残っている。昨日の夕方、庭師が帰ったあとに佳乃子が選んだものだった。美緒は茎の角度をわずかに変え、正面から見たときに花がこちらへ向くように整えた。
この家では、何かが少し曲がっているだけで目立つ。
新聞の端。玄関の花。客用のスリッパ。廊下に差す光の中の小さな埃。
誰かが大きな声で責めるわけではない。けれど、誰かが必ず気づく。気づいたあとで、たしなめるように微笑む。美緒さん、こういうところは、その家の空気が出るのよ。以前、佳乃子がそう言ったときの声を、美緒は今でも覚えている。
だから美緒は、気づかれる前に直す。
廊下へ上がると、磨かれた床板が朝の光を細く映した。音を立てないように歩く。そうしなさいと命じられたことはない。けれどこの家に来てから、美緒は自然と足音を抑えるようになった。広い廊下には先祖の写真が並んでいる。古い額縁の中から、知らない男たちと女たちが、いつも同じ顔でこちらを見ていた。
結婚してこの家に入った日は、これが歴史なのだと思った。
すごい家に嫁いだのだと、少し怖くて、少し誇らしかった。怜央の隣で頭を下げ、佳乃子に案内されながら、ここがこれから自分の家になるのだと考えようとした。けれど何年経っても、廊下の艶や先祖の写真や、来客用に整えられた応接室を見るたびに、美緒は自分がまだ客のような気がした。
いや、客ならもう少し、気を抜けたかもしれない。
美緒はダイニングの隅にある小さな家事机へ新聞を置いた。そこで手帳を開く。白い紙面には、今日の予定が細い字で並んでいた。
佳乃子の茶道仲間へ渡す手土産の確認。義父の午前中の来客予定。怜央のクリーニング受け取り。親族への季節の礼状。久世物産関係者から届いた贈答品の返礼リスト。応接室の花の入れ替え。莉奈が午後に顔を出すかもしれない、という昨日の電話のメモ。
そのどれもが、美緒自身の予定ではなかった。
美緒はペン先で、ひとつずつ確認済みの印をつけていく。ペンは細く、黒いインクが紙にきれいに乗る。昔から、手帳に予定を整理することは嫌いではなかった。むしろ混乱したものを見える形に整えるのは、美緒にとって安心できる作業だった。
けれど今、手帳に並んでいるのは、自分以外の誰かが困らないための予定ばかりだった。
スマホが机の上で小さく震えた。
画面を見ると、母の由紀子からだった。
無理してない? お父さんも気にしていました。時間があるときに連絡ください。
短い文章だった。けれどその一文を読んだだけで、美緒の胸の奥が少し緩んだ。母の声は文字だけでも分かる。遠慮がちで、踏み込みすぎないように気をつけながら、それでも心配せずにはいられない声。
美緒は返信欄を開き、「大丈夫」と打った。
そこまで打って、指が止まる。
いつも同じだった。大丈夫。元気です。怜央さんも忙しそうです。お義母さまにもよくしていただいています。そう書けば、父も母もひとまず安心する。普通の家庭で堅実に暮らしてきた両親にとって、久世家は今でもどこか緊張する相手だった。結婚式の日、父の誠一が慣れないモーニングを着て、何度もネクタイの位置を直していたことを思い出す。母は留袖の袖口を気にしながら、久世家の親族へ何度も頭を下げていた。
一人娘を名家に嫁がせた両親が、どこかで肩身の狭い思いをしていることを、美緒は知っていた。
三十一歳にもなって、父と母に心配をかけるわけにはいかない。
美緒は短く息を吐き、続きを打った。
大丈夫。朝は少し忙しいけれど、落ち着いたら電話します。
送信してから、スマホを伏せた。胸に残った小さな痛みを、手帳のページをめくる動作で押し込める。今日の午後、応接室の花を替えるなら、客間の空気も入れ替えておいた方がいい。義父の来客が誰なのかは聞かされていないが、地元金融機関の誰かなら、床の間の掛け軸も無難なものにした方がいいかもしれない。
美緒は立ち上がり、キッチンへ向かった。
朝食の支度は、通いの家政婦が来る前に大枠を整えておく。名家なのだから使用人に任せればいい、というものでもなかった。佳乃子の中では、嫁が気づいておくべき細部と、家政婦に任せる仕事とは別のものらしい。
湯呑みを棚から出す。佳乃子のものは薄い灰青の磁器。宗一郎のものは少し厚みのある白磁。怜央は朝、コーヒーだけで済ませることが多い。だが今日は午前から会議があると言っていたから、軽く食べられるものも用意した方がいい。
美緒は冷蔵庫を開け、昨夜のうちに下ごしらえしておいた小鉢を確認した。味噌汁の出汁は鍋に取ってある。焼き魚は義父の好みに合わせて塩分を控えめにする。佳乃子は朝から脂の強いものを好まない。
手を動かしながら、美緒の目は自然と次に整えるべきものを探していた。
台拭きの折り目。箸置きの位置。花器の水。来客用の茶葉の残量。玄関からダイニングまでの廊下に落ちていた小さな葉。美緒はそれを見つけるたびに拾い、拭き、直した。
気づいてしまう性分だった。曲がったもの、足りないもの、誰かがあとで困るもの。そういうものを、美緒は見過ごせない。
銀行に勤めていた頃もそうだった。提出された資料の小さな数字のずれ、資金繰り表の空白、取引先の言葉の端に滲む不安。誰かが見落としたものに気づき、それを整理するのが美緒の仕事だった。あの頃は、それが自分の役割だと胸を張れた。地味でも、必要な仕事だと思えていた。
今、その同じ力は、湯呑みの向きや花の角度や、久世家の体面を保つために使われている。
そのことに、はっきりとした不満があるわけではなかった。嫁いだのだから、家のことをするのは当然だ。怜央を支えるのも、佳乃子に教わるのも、久世家に馴染むためには必要なことなのだと、美緒は自分に言い聞かせていた。
それでも、ふとした瞬間に、自分の手が何を整えているのか分からなくなることがある。
家なのか。
仕事なのか。
それとも、自分がここにいてもいい理由なのか。
廊下の奥で、古い振り子時計が低く鳴った。六時半。家の空気が少しずつ、人の気配を含み始める。
美緒は手を拭き、背筋を伸ばした。
佳乃子が現れたのは、それから十分ほど後だった。
朝の光の中でも、佳乃子は隙のない人だった。淡い藤色の上着に、きちんと整えられた髪。化粧は薄いのに顔色は明るく、指先まで手入れが行き届いている。大きな声を出すことはない。足音さえ静かで、けれど家の空気は彼女が廊下に立った瞬間、少しだけ張りつめる。
美緒はすぐに向き直った。
「おはようございます、お義母さま」
佳乃子は柔らかく微笑んだ。
「おはよう、美緒さん。今朝も早いのね」
「はい。お義父さまのお客様がいらっしゃるかもしれないと伺っていましたので」
「そう。助かるわ」
佳乃子の目が、美緒の顔から服へ、そして髪へと静かに移った。
美緒は思わず、背中に力を入れた。今日の服は、ベージュのブラウスに紺のスカートだった。派手ではない。久世家の朝にふさわしいように、控えめで、きちんと見えるものを選んだつもりだった。髪も低い位置でまとめ、後れ毛が出ないようにピンで留めている。
佳乃子は少し首を傾けた。
「美緒さんは、いつも控えめでいいわね」
「ありがとうございます」
褒め言葉として受け取るべきなのだと、美緒はすぐに判断した。けれど佳乃子の視線は、まだ美緒の顔色を測るように留まっている。
「ただ、今日はお父様のお客様もいらっしゃるでしょう。久世家の嫁としては、もう少し顔色が明るく見えるものでもよかったかもしれないわ」
美緒は指先をそっと重ねた。
「申し訳ありません。着替えてまいります」
「責めているわけではないのよ」
佳乃子は、困ったように笑った。
「若い方は地味にすれば上品だと思いがちだけれど、場に合う華というものもあるの。少しずつ覚えていけばいいわ。美緒さんなら、きっと分かると思って」
「はい。気をつけます」
責めているわけではない。
その言葉が添えられるたび、美緒は、責められたと感じる自分の方が間違っているような気持ちになった。佳乃子は声を荒げない。冷たい言葉を直接投げつけるわけでもない。ただ、足りないものを教えてくれる。久世家にふさわしくなるために、親切に指摘してくれている。
そう思えば、胸の痛みは美緒の未熟さだった。
美緒は廊下の姿見へ視線を向けた。
鏡の中の自分は、確かに顔色がよくはなかった。三十一歳。若すぎるわけではない。けれど、佳乃子の前では、いつまでも未熟な嫁として立たされる。派手ではないが、顔立ちは悪くないと怜央は昔言ってくれた。落ち着いていて安心する、とも。
今は、その落ち着きさえ、華の足りなさに見えるのかもしれない。
美緒は一度だけ目を伏せた。
「すぐに、口紅だけ少し明るいものに替えてまいります」
「そうね。その方がいいわ」
佳乃子は満足したように微笑み、ダイニングの席へ向かった。美緒はキッチンへ戻りかけた足を止め、洗面室へ向かう。鏡の前でポーチを開け、普段より少し赤みのある口紅を取り出した。
唇に色を足す。ほんの少しだけ。
それだけで、鏡の中の自分は別の人のように見えた。久世家に合わせて整えられた、自分ではない誰か。
美緒は口紅の蓋を閉め、ポーチをしまった。
朝食が終わる頃、宅配便が届いた。
玄関先で受け取った荷物には、母の字で美緒の名前が書かれていた。見慣れた丸みのある字。宛名の横には、小さく「野菜と少しだけお菓子」と添えられている。
その字を見た瞬間だけ、美緒の胸は少し緩んだ。
箱は重すぎない。台所へ運んで開けると、新聞紙に包まれた野菜と、瓶詰めの梅干し、それから父が好きだった地元の和菓子店の包みが入っていた。高価なものではない。けれど、一つひとつが丁寧に詰められていた。隙間には、母の短い手紙が入っている。
朝晩まだ冷えます。身体に気をつけて。梅干しは今年のものです。怜央さんにもよろしく。
美緒は手紙を指先でなぞった。
そのとき、背後から佳乃子の声がした。
「あら、ご実家から?」
美緒はすぐに振り返った。
「はい。母が、少し野菜を送ってくれたようで」
佳乃子は箱の中をのぞき込むようにした。表情は穏やかだった。けれど美緒は、新聞紙で包まれた野菜や梅干しの瓶が、この台所の中で急に場違いに見えるのを感じた。
「あたたかいご実家ね。お気持ちはありがたいけれど、こういうものは置き場所に困ることもあるのよね」
「あ……申し訳ありません。すぐに整理します」
「いいのよ。責めているわけではないの。ただ、久世の家にはいただきものも多いでしょう。管理する側も大変だと思って」
「はい。母には、次から事前に連絡するよう伝えます」
佳乃子は、手紙へ視線を落とした。
「篠原のお父様とお母様は、本当に美緒さんのことが心配なのね。一人娘さんですものね」
美緒は笑おうとした。
「はい。少し、心配性で」
「でも、もう久世の人間なのだから、ご実家にも少しずつ安心していただかないと」
柔らかな声だった。
ただ、その言葉は箱の中の野菜よりも重く、美緒の手元へ沈んだ。
もう久世の人間。
結婚したのだから、その通りだ。篠原美緒ではなく、久世美緒。怜央の妻であり、久世家の嫁。父と母が心配するのはありがたいけれど、いつまでも実家に気持ちを残しているようではいけない。
そう考えようとするほど、母の手紙の文字が胸に残った。
美緒は梅干しの瓶を取り出し、冷蔵庫へしまった。野菜は新聞紙を外し、使いやすいように分ける。和菓子は義父と佳乃子に出せるかを考え、包みを確認した。久世家で出すには少し素朴すぎるかもしれない。けれど父が好きな店だと思うと、自分だけで食べるのも申し訳なかった。
「お茶請けに、お出ししてもよろしいでしょうか」
美緒が尋ねると、佳乃子は少し考えるような間を置いた。
「そうね。今日はお客様用には別のものを用意しているから、私たちでいただきましょうか」
「ありがとうございます」
なぜ礼を言ったのだろう。
そう思ったのは、言葉が口から出たあとだった。
自分の実家から届いたものを、家の中に置かせてもらう。その許可を得たような気持ちになっていることに、美緒は気づきたくなかった。
怜央が降りてきたのは、七時半を少し過ぎた頃だった。
階段を下りる足音は、佳乃子とは違って少し軽い。スーツは濃紺で、白いシャツに薄いグレーのネクタイを合わせている。髪は整えられ、香水の清潔な匂いがふわりと漂った。外に出れば、誰もが振り返るような御曹司。美緒も初めて会った頃、その華やかさに少し緊張した。
怜央はスマホを見ながらダイニングへ入ってきた。
「おはよ」
「おはようございます。コーヒー、すぐに淹れますね」
「ああ、頼む」
怜央は椅子に腰を下ろし、置かれていた新聞を軽くめくった。美緒はコーヒーを淹れながら、トーストと小さなサラダを用意する。怜央は朝食を取らないことも多いが、出しておけば少しは口にする。食べなければ片づければいい。それもいつものことだった。
「今日、夜いらないから」
怜央が新聞から目を離さずに言った。
「会食ですか?」
「うん。取引先。母さんに言っといて」
「承知しました」
「あと、昨日の資料どこ置いた? ほら、来週の商談のやつ」
美緒はカップを置きながら答えた。
「書斎のデスク右側に、青いファイルでまとめています。名刺リストは一番上に挟みました」
「ああ、助かる」
怜央は軽く言って、コーヒーに手を伸ばした。
その言葉を聞くたび、美緒は少しだけ救われた気持ちになる。助かる。短くて、何気ない言葉。けれど自分がここにいる意味を、少しだけ確かめられる気がした。
ただ、その言葉が美緒自身へ向けられているのか、美緒の働きへ向けられているのか、まだ考えたことはなかった。
「今日の午後、莉奈が来るかもしれないって言ってたな」
怜央が思い出したように言う。
「昨日、お電話がありました。新しい企画のことで、少し相談したいそうです」
「なら、適当に聞いてやって。莉奈、数字のことになるとすぐ混乱するから」
「私で分かる範囲でしたら」
「美緒なら分かるだろ」
怜央は悪気なく笑った。
その笑顔は、外で見せるものより少し緩い。家族に向ける気安さなのだろう。美緒はそう受け取ろうとした。妻として頼られている。家族として必要とされている。だから、忙しくても、疲れていても、できることはしておきたい。
佳乃子が湯呑みを置きながら、穏やかに言った。
「美緒さんがいてくれると、怜央も安心ね」
「そうだな。細かいところ、俺より見てくれるし」
怜央は何でもないことのように頷いた。
美緒は微笑んだ。
「お役に立てているなら、よかったです」
そう言いながら、胸の奥で何かが小さく動いた。
役に立つ。
それは、妻として大切にされることと同じなのだろうか。
答えを探す前に、怜央が立ち上がった。コーヒーは半分残っている。トーストには一口しか手をつけていなかった。
「じゃ、行ってくる」
「お弁当は……」
「今日はいい。昼も外」
「分かりました。お気をつけて」
美緒は玄関まで見送った。怜央の鞄を渡し、車の鍵を確認し、ハンカチを差し出す。怜央はそれを受け取って、軽く笑った。
「ほんと、助かる」
その言葉だけを残して、怜央は門の外へ出ていった。
車のエンジン音が遠ざかる。門が閉まる音が、朝の空気の中で重く響いた。外へ向かった怜央の気配はすぐに消え、残されたのは、整えられた玄関と、履かれなかった客用スリッパの列と、佳乃子の静かな存在だった。
宗一郎も少し遅れて出かけた。会合があると言い、地元紙だけを手に取って車へ乗った。美緒は玄関で頭を下げた。
「いってらっしゃいませ、お義父さま」
宗一郎は短く頷いただけだった。無関心というほど冷たくはない。けれど、美緒の挨拶に立ち止まるほどでもない。その距離感が、この家での美緒の立場をよく表していた。
佳乃子は宗一郎を見送ると、ダイニングへ戻ってきた。
家の中が、一瞬だけ静かになる。
美緒はようやく、自分のためのお茶を淹れた。朝から何度も湯を沸かしていたのに、自分の湯呑みに注ぐのは初めてだった。淡い湯気が上がる。母の送ってくれた梅干しの瓶を冷蔵庫へ入れたせいか、指先にまだ少し、紙と土の匂いが残っていた。
その匂いを嗅いだだけで、実家の台所が浮かんだ。
小さな流し。母の使い込んだまな板。父が朝、新聞を読みながら飲む薄いお茶。久世家のように広くはない。磨き上げられた廊下も、先祖の写真もない。けれど、そこでなら美緒は足音を気にせず歩けた。
湯呑みに手を伸ばしかけたとき、佳乃子が声をかけた。
「美緒さん」
美緒はすぐに手を止めた。
「はい」
「今日の午後、少し応接室を整えておいてくれる? お父様のお客様がいらっしゃるかもしれないから」
「承知しました」
「それから、床の間のお花も見ておいて。今朝の玄関のお花はきれいだったわ」
「ありがとうございます」
褒められたはずなのに、美緒の肩から力は抜けなかった。佳乃子は湯呑みを手にした美緒へ、やわらかく微笑んだ。
「こういうことはね、言われる前にできるようになると、本当の意味で久世家の嫁になれるの」
美緒は、ほんの少しだけ息を止めた。
「はい。気をつけます」
「美緒さんは真面目だから、少しずつ覚えていけばいいわ」
佳乃子はそう言って、静かに廊下の奥へ去っていった。
残されたダイニングで、美緒は冷めかけた湯呑みを見下ろした。ほんの少し前まで、湯気が立っていたはずだった。今は表面が静かになり、白い湯呑みの縁だけが朝の光を受けている。
飲もうと思えば、飲める。
けれど応接室の花を整えなければならない。床の間も確認しなければならない。佳乃子に言われたからではない。言われる前にできるのが、久世家の嫁なのだ。
美緒は湯呑みから手を離した。
椅子を戻し、手帳を持つ。応接室の花は、季節に合うものに替えた方がいい。義父の客が銀行関係者なら、あまり華美ではなく、けれど貧相にも見えないものを選ばなければならない。茶器も確認する。客用の座布団は昨日干したが、もう一度埃を払っておこう。
廊下へ出ると、古い振り子時計が低く鳴った。
まだ午前九時にもなっていない。
それなのに、もう一日分の疲れが胸の奥に沈んでいる。
美緒は足音を立てないように、応接室へ向かった。磨かれた廊下に、自分の姿がぼんやり映る。ベージュのブラウス。少し明るくした口紅。低くまとめた髪。久世家の嫁として、できるだけ正しく整えた自分。
その姿を見ながら、美緒は思った。
もっと頑張らなければ。
そう思うことに、まだ疑いはなかった。けれどその言葉の奥で、別の何かが小さく息を詰めていた。
応接室の襖を開けると、来客のためだけに整えられた空気が、美緒を静かに迎えた。高価な調度品、磨かれた机、床の間の掛け軸、誰も座っていない椅子。すべてが正しい位置にあり、すべてが美しい。
美緒は花器の前に立ち、椿の向きを直した。
外から見れば、きっと立派な家なのだろう。
けれどこの家の内側で、美緒は今日も、息を潜めるように朝を始めていた。
朝のテーブルには、美緒の仕事の資料が広がっていた。リブランシュの案件ファイル、赤い付箋のついた試算表、地方の小さなメーカーから届いた商品パンフレット。その脇には、奏真が淹れたコーヒーが二つ並んでいる。婚姻届を提出してから、半年が過ぎた。二人で暮らし始めた頃にはまだ新しかった部屋にも、今ではそれぞれの生活の気配が自然に増えている。玄関には美緒のパンプスと奏真の革靴が並び、リビングには美緒の仕事用バッグ、その隣には奏真が読みかけのまま置いた経済誌がある。どちらかの暮らしに、もう一人が入り込んだのではない。二人で選び、暮らしながら少しずつ使い方を決めてきた場所だった。奏真はキッチンでコーヒーを淹れながら、テーブルに広げられた資料へ目を向けた。表紙には、株式会社リブランシュの文字が見える。その下には案件名があり、別の資料には商品別の試算らしい数字が並んでいた。内容までは読まない。以前の自分なら、興味を持った時点で、「見せてください」と言っていたかもしれない。何を見ているのか、どこに問題があるのか、美緒がどんな判断をしようとしているのか。資料を開けば、ある程度は分かるし、気づいたことがあれば問いを置く。長い間、それが二人の関係だった。今は違う。美緒が相談すれば聞き、意見を求められれば答える。そうでなければ、そこに広がっているのは美緒の仕事だった。結婚したからといって、その境界までなくす必要はない。奏真はコーヒーを二つ持って、テーブルへ戻った。「今日は午後から面談でしたね」美緒が資料から顔を上げる。「はい。商工会からの紹介で、味噌蔵の方が来られます」奏真は美緒の前へカップを置いた。「資料は?」「昨日の夜に一通り見ました。商品自体は長く続いているようなんですが、価格設定と販路が曖昧で、ECもほとんど整っていません」「リブランシュ向きですね」美緒が小さく笑った。「そう
一緒に暮らす場所を決めるとき、鷹宮は最初、自分の部屋を使えばいいと考えた。一人で暮らすには十分すぎる広さがあり、立地にも不満はない。美緒の事務所へも、鷹宮の会社へも通えない距離ではなかった。家具も一通り揃っている。新しく借りる理由は、数字だけを見ればほとんどない。だから、美緒にそう話した。「今の部屋でも、二人なら十分だと思います」夕食のあと、美緒が持ってきたノートを二人で見ながらだった。結婚すると決めてから、住む場所について何度か話している。美緒は鷹宮の言葉を聞き、「そうですね」と答えたあと、少し考えた。「ただ、一つだけ」「何ですか」「私の机、置けますか」鷹宮は答えようとして、止まった。机。美緒の仕事机。考えていなかった。正確には、美緒が仕事をする場所については考えていた。書斎にもう一つ机を入れればいいと思っていたし、スペースもある。だが、その書斎は現在、鷹宮の仕事部屋だった。壁際には本棚があり、デスクの横には投資先の資料を入れるキャビネットがある。オンライン会議もそこで行い、休日に仕事をするときも使う。そこへ美緒の机を入れる。物理的には可能だった。「書斎なら入ります」鷹宮が答えると、美緒が尋ねた。「鷹宮さんも、そこで仕事をしますよね」「はい」「同時に使って、大丈夫ですか」また、鷹宮は止まった。「私は大丈夫です」「私は、たぶん気になります」予想していなかった答えだった。「音ですか」「それもありますけど」美緒は少し笑った。「資料を見られないようにしないといけないので」鷹宮はすぐに理解した。リブランシュには顧客の経営情報がある。売上。原価。
プロポーズをする日を、鷹宮は特別な記念日にはしなかった。高級ホテルも、夜景の見えるレストランも選ばない。美緒が仕事を終えたあとに無理なく来られて、二人で落ち着いて話せる場所、それだけを基準にした。店を予約するとき、個室にするか少し迷ったが、完全に閉じられた空間はやめた。静かではあるものの、周囲にはほかの客もいる小さなレストランだった。以前、初めて仕事ではない食事をした店とは別だが、大げさな演出がなく、二人で話すための場所として十分だというところは似ていた。当日、美緒は予定どおりの時間に来た。「お待たせしました」「いえ。私も今来たところです」実際には十分ほど前からいたが、それを言う必要はない。美緒が席につき、メニューを開いた。「今日は、お仕事どうでした?」「予定どおりです。篠原さんは?」「少し押しましたけど、終わりました」「藤崎さんは?」「今日は先に帰しました。最近、私より残ろうとするので」「代表が残ると、社員も帰りにくくなりますよ」「言われました」「誰に?」「藤崎さんに」鷹宮は少し笑った。「なら、聞いた方がいいですね」「はい。反省しています」そんな、いつもと変わらない会話から始まった。美緒も、今日の食事に何か特別な意味があるとは思っていないようだった。それでよかった。料理が運ばれ、二人で食べた。美緒が最近受けた案件の話を少しし、鷹宮も投資先であったことを話す。ただ、どちらも相談ではない。こんなことがあった、こう考えたと話せば、相手はそれを聞き、時々意見を返す。恋人になってから、そういう会話が増えた。以前なら、美緒が仕事の話をすれば、鷹宮は自然に問題点を探していた。何を確認すべきか、どこにリスクがあるか、次の判断は何か。今は、必ずしも答えを出す必要はないと分かっている。美緒も同じで、鷹宮の仕事の話を聞いたからといって、すぐ
美緒との結婚を初めて具体的に考えたのは、鷹宮家で両親と食事をした数日後だった。きっかけらしいきっかけはない。美緒から結婚の話をされたわけでも、母から何か言われたわけでもなかった。むしろ怜子はあの日以来、美緒についてほとんど何も聞いてこず、帰り際に、「また時間が合えばいらしてね」と言っただけだった。次はいつなのか、今後はどうするのか、そんなことは一度も言わない。美緒自身も、あの日のことを必要以上に話題にはしなかった。ただ一度、「またお会いしたいです」と言っただけだった。それなのに鷹宮の中には、以前にはなかった考えが残っていた。この先も、美緒と一緒にいたい。恋人として会い、食事をし、休日を過ごす。それだけではなく、もっと長い時間を、日常そのものを美緒と共有したいと思うようになっていた。結婚。言葉にすれば簡単だった。鷹宮にとって、それまで結婚は特別複雑なものではなかった。互いに一緒にいたいと思い、生活を共にし、必要な手続きをして家族になる、それだけだと思っていた。少なくとも、自分について考える限りでは。だが、美緒に同じ意味でその言葉を渡していいのかとなると、そこで引っかかった。ある夜、仕事を終えて自宅へ戻った鷹宮は、ネクタイを外してリビングのソファへ腰を下ろした。照明を一つだけ点け、テーブルには帰宅途中に買った水とスマートフォンを置く。鞄の中には翌日の資料が入ったままだった。いつもなら少しだけ確認するところだが、その日は開かなかった。代わりに、美緒のことを考えた。初めて会ったとき、彼女は久世美緒だった。それが当然だったし、鷹宮も何も疑わなかった。久世怜央の妻であり、久世家の人間として紹介され、資料にも周囲の言葉にも、その名前が使われていた。けれど、久世という名前の下で、美緒自身の名前はどれだけ残っていただろう。鷹宮は、最初に見た資料を思い出した。誰が数字を整
怜央からのメッセージは、短かった。莉奈の資料、今日中に見られる?美緒は、ダイニングのテーブルに広げた企画書を前にして、その文字をしばらく見つめていた。今日中に。莉奈が言った「ちょっと相談」という言葉より、その四文字はずっと重かった。けれど、怜央からの頼みだと思うと、重いと感じる自分の方が間違っているような気がした。窓の外では、庭の木々が夕方の光を受けて暗い影を落とし始めている。昼間には明るく見えた苔の色も、今は深く沈み、飛び石の縁だけがかすかに白く浮いていた。古い振り子時計の音が、廊下の奥から一定の間隔で届く
スマホの画面には、莉奈の名前が表示されていた。お義姉さん、今日おうちにいますよね? ちょっと相談したい資料があって。美緒は、洗い終えた茶器を布巾の上に伏せたまま、その文面を見つめた。ちょっと相談。その言葉は軽かった。少なくとも、断るほど重いものには見えなかった。けれど美緒は知っている。久世家で使われる「ちょっと」は、たいてい、その言葉より少し重い。応接室には、まだ香の匂いが薄く残っていた。先ほどまで来客たちの笑い声が満ちていた部屋は、今は静まり返っている。茶器は洗い終えた。菓子皿も拭いた。座布団も元の位置に戻
応接室の花は、すでに整っていた。けれど美緒は、もう一度だけ花器の向きを確かめた。床の間の掛け軸に対して、枝先がわずかに右へ流れている。ほんの少しのことだった。誰も気づかないかもしれない。けれど、佳乃子は気づく。この家では、気づかれないことよりも、気づかれたときにどう見えるかが大切だった。美緒は花器を両手で持ち、音を立てないように数ミリだけ動かした。陶器の底が畳の上の薄い板に触れる、そのわずかな感触にまで神経が向く。朝から動き続けているせいか、指先が少し冷えていた。応接室は、客を迎えるための部屋というより、久世家が久世家であることを証明するための部屋に見えた。磨かれた座卓。季節に合わ
久世家の朝は、門が開く前から始まる。まだ空は薄く青く、庭石の縁には夜の湿り気が残っていた。高い塀の向こうから、坂道を上ってくる車の音がかすかに聞こえる。新聞配達のバイクが一度止まり、また遠ざかっていく。その音は門の内側へ届く前に、どこかよその世界のものになった。美緒は玄関先に立ち、新聞受けから取り出した朝刊を両手でそろえた。重い門は、まだ閉じている。外から見れば、それは久世家の格式を示すものなのだろう。代々この地方都市で名を知られてきた旧家にふさわしい、堂々とした門構え。高い塀の内側には手入れされた庭が広がり、松の枝は季節に合わせて整えられている。飛び石には落ち葉ひとつ残されておらず、
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