Masuk地方名門・久世家の御曹司に嫁いだ篠原美緒は、若奥様と呼ばれながら、姑の嫌味、小姑の尻拭い、夫・怜央の無関心に耐えていた。 さらに発覚した夫の浮気。それでも久世家は美緒を責め、彼女の実務能力だけを都合よく利用し続ける。そんな中、投資家・鷹宮奏真だけが美緒の才能を見抜く。 「これは手伝いではありません。経営判断です」――その一言をきっかけに、美緒は離婚と起業を決意する。 久世家を出た元嫁が、自分の名前で会社を興し、愛も人生も選び直す逆転再生ラブストーリー。
Lihat lebih banyak久世家の朝は、門が開く前から始まる。
まだ空は薄く青く、庭石の縁には夜の湿り気が残っていた。高い塀の向こうから、坂道を上ってくる車の音がかすかに聞こえる。新聞配達のバイクが一度止まり、また遠ざかっていく。その音は門の内側へ届く前に、どこかよその世界のものになった。
美緒は玄関先に立ち、新聞受けから取り出した朝刊を両手でそろえた。
重い門は、まだ閉じている。外から見れば、それは久世家の格式を示すものなのだろう。代々この地方都市で名を知られてきた旧家にふさわしい、堂々とした門構え。高い塀の内側には手入れされた庭が広がり、松の枝は季節に合わせて整えられている。飛び石には落ち葉ひとつ残されておらず、玄関の木戸は朝の光を吸って黒く艶めいていた。
けれど内側にいる美緒には、門の立派さよりも、塀の高さばかりが先に見えた。
外には通勤する人がいて、学生がいて、まだ眠たげな町が動き始めている。だが美緒はそこへ出ていく人間ではない。門の内側で、家の一日が滞りなく進むように整える人間だった。
新聞の端を揃え、義父の分と怜央の分を分ける。経済紙を上に、地元紙を下に。宗一郎は地元紙を先に読むことが多いが、来客のある日は経済紙の一面に目を通してから、地元欄へ移る。だから今日は経済紙を一番上にした。そんな小さな順番も、いつの間にか美緒の中では間違えてはいけないものになっていた。
玄関の花の向きが、ほんの少し傾いている。
美緒は新聞を小脇に抱え、花器の前に膝を折った。白い椿の花弁には、まだ水の気配が残っている。昨日の夕方、庭師が帰ったあとに佳乃子が選んだものだった。美緒は茎の角度をわずかに変え、正面から見たときに花がこちらへ向くように整えた。
この家では、何かが少し曲がっているだけで目立つ。
新聞の端。玄関の花。客用のスリッパ。廊下に差す光の中の小さな埃。
誰かが大きな声で責めるわけではない。けれど、誰かが必ず気づく。気づいたあとで、たしなめるように微笑む。美緒さん、こういうところは、その家の空気が出るのよ。以前、佳乃子がそう言ったときの声を、美緒は今でも覚えている。
だから美緒は、気づかれる前に直す。
廊下へ上がると、磨かれた床板が朝の光を細く映した。音を立てないように歩く。そうしなさいと命じられたことはない。けれどこの家に来てから、美緒は自然と足音を抑えるようになった。広い廊下には先祖の写真が並んでいる。古い額縁の中から、知らない男たちと女たちが、いつも同じ顔でこちらを見ていた。
結婚してこの家に入った日は、これが歴史なのだと思った。
すごい家に嫁いだのだと、少し怖くて、少し誇らしかった。怜央の隣で頭を下げ、佳乃子に案内されながら、ここがこれから自分の家になるのだと考えようとした。けれど何年経っても、廊下の艶や先祖の写真や、来客用に整えられた応接室を見るたびに、美緒は自分がまだ客のような気がした。
いや、客ならもう少し、気を抜けたかもしれない。
美緒はダイニングの隅にある小さな家事机へ新聞を置いた。そこで手帳を開く。白い紙面には、今日の予定が細い字で並んでいた。
佳乃子の茶道仲間へ渡す手土産の確認。義父の午前中の来客予定。怜央のクリーニング受け取り。親族への季節の礼状。久世物産関係者から届いた贈答品の返礼リスト。応接室の花の入れ替え。莉奈が午後に顔を出すかもしれない、という昨日の電話のメモ。
そのどれもが、美緒自身の予定ではなかった。
美緒はペン先で、ひとつずつ確認済みの印をつけていく。ペンは細く、黒いインクが紙にきれいに乗る。昔から、手帳に予定を整理することは嫌いではなかった。むしろ混乱したものを見える形に整えるのは、美緒にとって安心できる作業だった。
けれど今、手帳に並んでいるのは、自分以外の誰かが困らないための予定ばかりだった。
スマホが机の上で小さく震えた。
画面を見ると、母の由紀子からだった。
無理してない? お父さんも気にしていました。時間があるときに連絡ください。
短い文章だった。けれどその一文を読んだだけで、美緒の胸の奥が少し緩んだ。母の声は文字だけでも分かる。遠慮がちで、踏み込みすぎないように気をつけながら、それでも心配せずにはいられない声。
美緒は返信欄を開き、「大丈夫」と打った。
そこまで打って、指が止まる。
いつも同じだった。大丈夫。元気です。怜央さんも忙しそうです。お義母さまにもよくしていただいています。そう書けば、父も母もひとまず安心する。普通の家庭で堅実に暮らしてきた両親にとって、久世家は今でもどこか緊張する相手だった。結婚式の日、父の誠一が慣れないモーニングを着て、何度もネクタイの位置を直していたことを思い出す。母は留袖の袖口を気にしながら、久世家の親族へ何度も頭を下げていた。
一人娘を名家に嫁がせた両親が、どこかで肩身の狭い思いをしていることを、美緒は知っていた。
三十一歳にもなって、父と母に心配をかけるわけにはいかない。
美緒は短く息を吐き、続きを打った。
大丈夫。朝は少し忙しいけれど、落ち着いたら電話します。
送信してから、スマホを伏せた。胸に残った小さな痛みを、手帳のページをめくる動作で押し込める。今日の午後、応接室の花を替えるなら、客間の空気も入れ替えておいた方がいい。義父の来客が誰なのかは聞かされていないが、地元金融機関の誰かなら、床の間の掛け軸も無難なものにした方がいいかもしれない。
美緒は立ち上がり、キッチンへ向かった。
朝食の支度は、通いの家政婦が来る前に大枠を整えておく。名家なのだから使用人に任せればいい、というものでもなかった。佳乃子の中では、嫁が気づいておくべき細部と、家政婦に任せる仕事とは別のものらしい。
湯呑みを棚から出す。佳乃子のものは薄い灰青の磁器。宗一郎のものは少し厚みのある白磁。怜央は朝、コーヒーだけで済ませることが多い。だが今日は午前から会議があると言っていたから、軽く食べられるものも用意した方がいい。
美緒は冷蔵庫を開け、昨夜のうちに下ごしらえしておいた小鉢を確認した。味噌汁の出汁は鍋に取ってある。焼き魚は義父の好みに合わせて塩分を控えめにする。佳乃子は朝から脂の強いものを好まない。
手を動かしながら、美緒の目は自然と次に整えるべきものを探していた。
台拭きの折り目。箸置きの位置。花器の水。来客用の茶葉の残量。玄関からダイニングまでの廊下に落ちていた小さな葉。美緒はそれを見つけるたびに拾い、拭き、直した。
気づいてしまう性分だった。曲がったもの、足りないもの、誰かがあとで困るもの。そういうものを、美緒は見過ごせない。
銀行に勤めていた頃もそうだった。提出された資料の小さな数字のずれ、資金繰り表の空白、取引先の言葉の端に滲む不安。誰かが見落としたものに気づき、それを整理するのが美緒の仕事だった。あの頃は、それが自分の役割だと胸を張れた。地味でも、必要な仕事だと思えていた。
今、その同じ力は、湯呑みの向きや花の角度や、久世家の体面を保つために使われている。
そのことに、はっきりとした不満があるわけではなかった。嫁いだのだから、家のことをするのは当然だ。怜央を支えるのも、佳乃子に教わるのも、久世家に馴染むためには必要なことなのだと、美緒は自分に言い聞かせていた。
それでも、ふとした瞬間に、自分の手が何を整えているのか分からなくなることがある。
家なのか。
仕事なのか。
それとも、自分がここにいてもいい理由なのか。
廊下の奥で、古い振り子時計が低く鳴った。六時半。家の空気が少しずつ、人の気配を含み始める。
美緒は手を拭き、背筋を伸ばした。
佳乃子が現れたのは、それから十分ほど後だった。
朝の光の中でも、佳乃子は隙のない人だった。淡い藤色の上着に、きちんと整えられた髪。化粧は薄いのに顔色は明るく、指先まで手入れが行き届いている。大きな声を出すことはない。足音さえ静かで、けれど家の空気は彼女が廊下に立った瞬間、少しだけ張りつめる。
美緒はすぐに向き直った。
「おはようございます、お義母さま」
佳乃子は柔らかく微笑んだ。
「おはよう、美緒さん。今朝も早いのね」
「はい。お義父さまのお客様がいらっしゃるかもしれないと伺っていましたので」
「そう。助かるわ」
佳乃子の目が、美緒の顔から服へ、そして髪へと静かに移った。
美緒は思わず、背中に力を入れた。今日の服は、ベージュのブラウスに紺のスカートだった。派手ではない。久世家の朝にふさわしいように、控えめで、きちんと見えるものを選んだつもりだった。髪も低い位置でまとめ、後れ毛が出ないようにピンで留めている。
佳乃子は少し首を傾けた。
「美緒さんは、いつも控えめでいいわね」
「ありがとうございます」
褒め言葉として受け取るべきなのだと、美緒はすぐに判断した。けれど佳乃子の視線は、まだ美緒の顔色を測るように留まっている。
「ただ、今日はお父様のお客様もいらっしゃるでしょう。久世家の嫁としては、もう少し顔色が明るく見えるものでもよかったかもしれないわ」
美緒は指先をそっと重ねた。
「申し訳ありません。着替えてまいります」
「責めているわけではないのよ」
佳乃子は、困ったように笑った。
「若い方は地味にすれば上品だと思いがちだけれど、場に合う華というものもあるの。少しずつ覚えていけばいいわ。美緒さんなら、きっと分かると思って」
「はい。気をつけます」
責めているわけではない。
その言葉が添えられるたび、美緒は、責められたと感じる自分の方が間違っているような気持ちになった。佳乃子は声を荒げない。冷たい言葉を直接投げつけるわけでもない。ただ、足りないものを教えてくれる。久世家にふさわしくなるために、親切に指摘してくれている。
そう思えば、胸の痛みは美緒の未熟さだった。
美緒は廊下の姿見へ視線を向けた。
鏡の中の自分は、確かに顔色がよくはなかった。三十一歳。若すぎるわけではない。けれど、佳乃子の前では、いつまでも未熟な嫁として立たされる。派手ではないが、顔立ちは悪くないと怜央は昔言ってくれた。落ち着いていて安心する、とも。
今は、その落ち着きさえ、華の足りなさに見えるのかもしれない。
美緒は一度だけ目を伏せた。
「すぐに、口紅だけ少し明るいものに替えてまいります」
「そうね。その方がいいわ」
佳乃子は満足したように微笑み、ダイニングの席へ向かった。美緒はキッチンへ戻りかけた足を止め、洗面室へ向かう。鏡の前でポーチを開け、普段より少し赤みのある口紅を取り出した。
唇に色を足す。ほんの少しだけ。
それだけで、鏡の中の自分は別の人のように見えた。久世家に合わせて整えられた、自分ではない誰か。
美緒は口紅の蓋を閉め、ポーチをしまった。
朝食が終わる頃、宅配便が届いた。
玄関先で受け取った荷物には、母の字で美緒の名前が書かれていた。見慣れた丸みのある字。宛名の横には、小さく「野菜と少しだけお菓子」と添えられている。
その字を見た瞬間だけ、美緒の胸は少し緩んだ。
箱は重すぎない。台所へ運んで開けると、新聞紙に包まれた野菜と、瓶詰めの梅干し、それから父が好きだった地元の和菓子店の包みが入っていた。高価なものではない。けれど、一つひとつが丁寧に詰められていた。隙間には、母の短い手紙が入っている。
朝晩まだ冷えます。身体に気をつけて。梅干しは今年のものです。怜央さんにもよろしく。
美緒は手紙を指先でなぞった。
そのとき、背後から佳乃子の声がした。
「あら、ご実家から?」
美緒はすぐに振り返った。
「はい。母が、少し野菜を送ってくれたようで」
佳乃子は箱の中をのぞき込むようにした。表情は穏やかだった。けれど美緒は、新聞紙で包まれた野菜や梅干しの瓶が、この台所の中で急に場違いに見えるのを感じた。
「あたたかいご実家ね。お気持ちはありがたいけれど、こういうものは置き場所に困ることもあるのよね」
「あ……申し訳ありません。すぐに整理します」
「いいのよ。責めているわけではないの。ただ、久世の家にはいただきものも多いでしょう。管理する側も大変だと思って」
「はい。母には、次から事前に連絡するよう伝えます」
佳乃子は、手紙へ視線を落とした。
「篠原のお父様とお母様は、本当に美緒さんのことが心配なのね。一人娘さんですものね」
美緒は笑おうとした。
「はい。少し、心配性で」
「でも、もう久世の人間なのだから、ご実家にも少しずつ安心していただかないと」
柔らかな声だった。
ただ、その言葉は箱の中の野菜よりも重く、美緒の手元へ沈んだ。
もう久世の人間。
結婚したのだから、その通りだ。篠原美緒ではなく、久世美緒。怜央の妻であり、久世家の嫁。父と母が心配するのはありがたいけれど、いつまでも実家に気持ちを残しているようではいけない。
そう考えようとするほど、母の手紙の文字が胸に残った。
美緒は梅干しの瓶を取り出し、冷蔵庫へしまった。野菜は新聞紙を外し、使いやすいように分ける。和菓子は義父と佳乃子に出せるかを考え、包みを確認した。久世家で出すには少し素朴すぎるかもしれない。けれど父が好きな店だと思うと、自分だけで食べるのも申し訳なかった。
「お茶請けに、お出ししてもよろしいでしょうか」
美緒が尋ねると、佳乃子は少し考えるような間を置いた。
「そうね。今日はお客様用には別のものを用意しているから、私たちでいただきましょうか」
「ありがとうございます」
なぜ礼を言ったのだろう。
そう思ったのは、言葉が口から出たあとだった。
自分の実家から届いたものを、家の中に置かせてもらう。その許可を得たような気持ちになっていることに、美緒は気づきたくなかった。
怜央が降りてきたのは、七時半を少し過ぎた頃だった。
階段を下りる足音は、佳乃子とは違って少し軽い。スーツは濃紺で、白いシャツに薄いグレーのネクタイを合わせている。髪は整えられ、香水の清潔な匂いがふわりと漂った。外に出れば、誰もが振り返るような御曹司。美緒も初めて会った頃、その華やかさに少し緊張した。
怜央はスマホを見ながらダイニングへ入ってきた。
「おはよ」
「おはようございます。コーヒー、すぐに淹れますね」
「ああ、頼む」
怜央は椅子に腰を下ろし、置かれていた新聞を軽くめくった。美緒はコーヒーを淹れながら、トーストと小さなサラダを用意する。怜央は朝食を取らないことも多いが、出しておけば少しは口にする。食べなければ片づければいい。それもいつものことだった。
「今日、夜いらないから」
怜央が新聞から目を離さずに言った。
「会食ですか?」
「うん。取引先。母さんに言っといて」
「承知しました」
「あと、昨日の資料どこ置いた? ほら、来週の商談のやつ」
美緒はカップを置きながら答えた。
「書斎のデスク右側に、青いファイルでまとめています。名刺リストは一番上に挟みました」
「ああ、助かる」
怜央は軽く言って、コーヒーに手を伸ばした。
その言葉を聞くたび、美緒は少しだけ救われた気持ちになる。助かる。短くて、何気ない言葉。けれど自分がここにいる意味を、少しだけ確かめられる気がした。
ただ、その言葉が美緒自身へ向けられているのか、美緒の働きへ向けられているのか、まだ考えたことはなかった。
「今日の午後、莉奈が来るかもしれないって言ってたな」
怜央が思い出したように言う。
「昨日、お電話がありました。新しい企画のことで、少し相談したいそうです」
「なら、適当に聞いてやって。莉奈、数字のことになるとすぐ混乱するから」
「私で分かる範囲でしたら」
「美緒なら分かるだろ」
怜央は悪気なく笑った。
その笑顔は、外で見せるものより少し緩い。家族に向ける気安さなのだろう。美緒はそう受け取ろうとした。妻として頼られている。家族として必要とされている。だから、忙しくても、疲れていても、できることはしておきたい。
佳乃子が湯呑みを置きながら、穏やかに言った。
「美緒さんがいてくれると、怜央も安心ね」
「そうだな。細かいところ、俺より見てくれるし」
怜央は何でもないことのように頷いた。
美緒は微笑んだ。
「お役に立てているなら、よかったです」
そう言いながら、胸の奥で何かが小さく動いた。
役に立つ。
それは、妻として大切にされることと同じなのだろうか。
答えを探す前に、怜央が立ち上がった。コーヒーは半分残っている。トーストには一口しか手をつけていなかった。
「じゃ、行ってくる」
「お弁当は……」
「今日はいい。昼も外」
「分かりました。お気をつけて」
美緒は玄関まで見送った。怜央の鞄を渡し、車の鍵を確認し、ハンカチを差し出す。怜央はそれを受け取って、軽く笑った。
「ほんと、助かる」
その言葉だけを残して、怜央は門の外へ出ていった。
車のエンジン音が遠ざかる。門が閉まる音が、朝の空気の中で重く響いた。外へ向かった怜央の気配はすぐに消え、残されたのは、整えられた玄関と、履かれなかった客用スリッパの列と、佳乃子の静かな存在だった。
宗一郎も少し遅れて出かけた。会合があると言い、地元紙だけを手に取って車へ乗った。美緒は玄関で頭を下げた。
「いってらっしゃいませ、お義父さま」
宗一郎は短く頷いただけだった。無関心というほど冷たくはない。けれど、美緒の挨拶に立ち止まるほどでもない。その距離感が、この家での美緒の立場をよく表していた。
佳乃子は宗一郎を見送ると、ダイニングへ戻ってきた。
家の中が、一瞬だけ静かになる。
美緒はようやく、自分のためのお茶を淹れた。朝から何度も湯を沸かしていたのに、自分の湯呑みに注ぐのは初めてだった。淡い湯気が上がる。母の送ってくれた梅干しの瓶を冷蔵庫へ入れたせいか、指先にまだ少し、紙と土の匂いが残っていた。
その匂いを嗅いだだけで、実家の台所が浮かんだ。
小さな流し。母の使い込んだまな板。父が朝、新聞を読みながら飲む薄いお茶。久世家のように広くはない。磨き上げられた廊下も、先祖の写真もない。けれど、そこでなら美緒は足音を気にせず歩けた。
湯呑みに手を伸ばしかけたとき、佳乃子が声をかけた。
「美緒さん」
美緒はすぐに手を止めた。
「はい」
「今日の午後、少し応接室を整えておいてくれる? お父様のお客様がいらっしゃるかもしれないから」
「承知しました」
「それから、床の間のお花も見ておいて。今朝の玄関のお花はきれいだったわ」
「ありがとうございます」
褒められたはずなのに、美緒の肩から力は抜けなかった。佳乃子は湯呑みを手にした美緒へ、やわらかく微笑んだ。
「こういうことはね、言われる前にできるようになると、本当の意味で久世家の嫁になれるの」
美緒は、ほんの少しだけ息を止めた。
「はい。気をつけます」
「美緒さんは真面目だから、少しずつ覚えていけばいいわ」
佳乃子はそう言って、静かに廊下の奥へ去っていった。
残されたダイニングで、美緒は冷めかけた湯呑みを見下ろした。ほんの少し前まで、湯気が立っていたはずだった。今は表面が静かになり、白い湯呑みの縁だけが朝の光を受けている。
飲もうと思えば、飲める。
けれど応接室の花を整えなければならない。床の間も確認しなければならない。佳乃子に言われたからではない。言われる前にできるのが、久世家の嫁なのだ。
美緒は湯呑みから手を離した。
椅子を戻し、手帳を持つ。応接室の花は、季節に合うものに替えた方がいい。義父の客が銀行関係者なら、あまり華美ではなく、けれど貧相にも見えないものを選ばなければならない。茶器も確認する。客用の座布団は昨日干したが、もう一度埃を払っておこう。
廊下へ出ると、古い振り子時計が低く鳴った。
まだ午前九時にもなっていない。
それなのに、もう一日分の疲れが胸の奥に沈んでいる。
美緒は足音を立てないように、応接室へ向かった。磨かれた廊下に、自分の姿がぼんやり映る。ベージュのブラウス。少し明るくした口紅。低くまとめた髪。久世家の嫁として、できるだけ正しく整えた自分。
その姿を見ながら、美緒は思った。
もっと頑張らなければ。
そう思うことに、まだ疑いはなかった。けれどその言葉の奥で、別の何かが小さく息を詰めていた。
応接室の襖を開けると、来客のためだけに整えられた空気が、美緒を静かに迎えた。高価な調度品、磨かれた机、床の間の掛け軸、誰も座っていない椅子。すべてが正しい位置にあり、すべてが美しい。
美緒は花器の前に立ち、椿の向きを直した。
外から見れば、きっと立派な家なのだろう。
けれどこの家の内側で、美緒は今日も、息を潜めるように朝を始めていた。
森川の赤い付箋は、数字の上に貼られていた。販促費計上後、利益率低下。返品・値引き処理増。初回発注数過大。在庫滞留。EC連動なし。美緒は経理部を出たあとも、その文字を頭の中で繰り返していた。数字は確かに、久世物産の危うさを示している。売上はある。企画も動いている。百貨店催事も、資料の上では成功に見える。けれど、販促費や返品、在庫、値引き処理を差し引くと、残るものは思っていたより薄かった。森川は、それをずっと見ていた。見て、資料に残し、赤い付箋をつけていた。それでも、通らない。その事実が、美緒の胸に重く残っていた。けれど数字だけでは、まだ分からないことがある。なぜ、その商品は売れたのか。なぜ、残ったのか。どこまで作れるのか。誰に負担がかかるのか。美緒は、森川から受け取った資料を抱えたまま、久世物産の廊下をゆっくり歩いた。資料の端には、いくつかの商品名が並んでいる。低糖質和菓子、季節限定ジャム、米粉クッキー、発酵調味料。売上、返品、値引き、在庫。その無機質な欄の向こうに、作っている人の手があることを、美緒はふと思い出した。銀行にいた頃、決算書の数字だけでは分からないことがたくさんあった。売上が伸びている会社でも、社長の顔色は暗いことがあった。注文が増えたことで、材料費が先に出ていく。人手が足りず、残業が増える。納期に追われ、品質が落ちる。入金より支払いが早く来る。数字の上では前に進んでいるのに、現場は疲弊している。たくさん売れれば、それでいいわけではない。そのことを、美緒は何度も見てきた。森川の資料の端に、小さなコメントがあった。製造数要確認。セット商品の分解販売不可。取引先負担大。賞味期限短く、初回発注数注意。商品ストーリー未反映。その横に、名前が記されている。浜口佐和。商品企画課長。美緒は、その名前を手帳に
久世物産の受付で名前を告げる前に、美緒は一度だけ手帳の角を押さえた。中には、昨日書き出した確認リストが挟まっている。商品別原価。販促費。返品条件。在庫保管費。過去販売実績。粗利率。値引き実績。廃棄率。初回発注数の根拠。どれも、莉奈の資料に並んでいた淡い写真や、やわらかなロゴからは遠い言葉だった。KUZÉ ma vie。クゼ・マ・ヴィ。私の暮らし、私らしい毎日。その名前は華やかで、軽やかで、久世物産がこれまでまとってきた古い重さを少しだけ払ってくれるようにも見えた。美緒も、企画そのものを否定したいわけではない。むしろ、地元の良いものを若い人の日常へ届けるという発想には、確かな可能性があると思っている。けれど、それらがなければ、あのブランドはどこにも立てない。手帳の紙は薄いのに、挟んだ確認リストだけが妙に重く感じられた。資料を直すためではない。まず、何が足りないのかを確かめるために、美緒は久世物産へ来ていた。怜央は今朝、軽い調子で言った。「森川さんに話は通しておくから、必要な資料だけ見せてもらって」必要な資料だけ。その言葉は簡単だった。だが、美緒にとっては久世物産の内部資料へ踏み込むことになる。自分は社員ではない。名刺もない。肩書きもない。久世物産の業務命令を受ける立場でもない。それなのに、なぜ自分が資料を確認しに来ているのだろう。その問いは、受付の前に立った今も胸の奥に残っている。けれど、昨日見た収支表の空欄がどうしても気になった。後日確認。概算。確認中。未入力。要確認。それらはただの空白ではなかった。誰かが知っているはずの情報が、企画書まで届いていない。その白さが、美緒には心もとなく見えた。受付の女性が、美緒に気づいて立ち上がった。「久世専務の奥様でいらっしゃいますね」「はい。森川部長にお時間をいただいております」
会議室の空気は、まだ明るかった。莉奈のプレゼンが終わったあとも、淡い色の資料はテーブルの上できれいに見えた。KUZÉ ma vie。クゼ・マ・ヴィ。地方の上質を、私らしい毎日へ。名前も、写真も、言葉も、これまでの久世物産にはない軽やかさをまとっている。薄いピンクベージュのロゴ、自然光の中で撮られた小瓶のジャム、米粉クッキー、低糖質和菓子、ハーブティー。どれも、見る人に手に取ってみたいと思わせるだけの力があった。怜央は満足そうに椅子にもたれ、資料の表紙を指で軽く叩いた。「方向性はいいよな」「ですよね」莉奈は嬉しそうに頷いた。「絶対、今までの久世物産とは違う感じが出せると思うんです。若い人にも、久世物産ってちょっといいかもって思ってもらえるような」「うん。変わろうとしてる感じは出る」怜央の声は軽かった。その言い方に、美緒は小さく引っかかった。変わろうとしている感じ。見た目。印象。役員会での通りやすさ。怜央が見ているのは、まずそこなのだと分かる。美緒も、悪い企画だとは思わなかった。むしろ、発想そのものには可能性がある。地元の良いものを、古い贈答品としてではなく、日常の小さな喜びとして届ける。母の日や誕生日、退職祝いのプチギフト。働く女性が、自分のために買う朝食セット。そういう切り口は、今の久世物産には確かに足りていないのかもしれない。けれど、収支表のページを開いた瞬間、その思いはほんの少しだけ止まった。白い欄が、いくつも並んでいた。商品別原価。後日確認。パッケージ費。概算。販促費。別途。百貨店手数料。確認中。EC手数料。未入力。在庫保管費。空欄。返品条件。要確認。初回発注数。目標値のみ。会議室には、まだ莉奈の明るい声の余韻が残っていた。けれど美緒の視線は、淡い色のロゴではなく、収支表の白い欄に落ちたまま動かなかった。空欄は、ただ
怜央が「この前の資料、評判よかったよ」と言ったのは、朝食の席だった。美緒は味噌汁の椀を置きながら、少しだけ手を止めた。湯気が白く上がり、怜央の前でふわりとほどける。いつもと同じ朝だった。義父の新聞はきちんと畳まれ、佳乃子の湯呑みは定位置に置かれ、怜央のコーヒーは冷めないよう最後に淹れた。「評判、ですか」「うん。親父も、役員たちも。数字が見やすかったって」怜央は機嫌がよかった。あの役員会から数日が経っても、その評価はまだ彼の中に残っているらしい。ネイビーのスーツに袖を通す前の、少し砕けた朝の顔で、怜央は軽く笑った。「莉奈の企画も次に進めそうだし。美緒のおかげだな」おかげ。その言葉は、嬉しいはずだった。美緒は箸を並べながら、静かに微笑んだ。「お役に立てたなら、よかったです」本当に、そう思っている。怜央が困らなかったのなら、それでいい。莉奈の企画が通ったのなら、よかった。佳乃子もあの日から機嫌がよく、屋敷の中の空気は少しだけ穏やかだった。久世家の一日は、何事もなかったように整っていた。けれど美緒の中には、あの日から小さな引っかかりが残っている。褒めてほしかったわけではない。ただ、なかったことにはされたくなかった。そう心の中で言葉にしかけたとき、怜央がコーヒーに手を伸ばしながら言った。「でさ、今日、莉奈の新ブランドの打ち合わせがあるんだ。美緒も少し来られる?」美緒は顔を上げた。「私が、ですか」「うん。堅苦しい会議じゃないよ。家族内の確認みたいなものだから」家族内の確認。そう言われると、会社の仕事ではないように聞こえる。けれど美緒は、もうその言葉の軽さを素直には受け取れなくなっていた。前も、ちょっと相談だった。家族だから、得意だから、分かるだろうから。そういう言葉の中で、資料はいつの間にか役員会に持ち込まれ、怜央の成果になった。美緒は布巾を畳み直しながら尋ねた。「私が伺っても、