俺を犠牲にした妻は、異世界の旅人でした のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 9

9 チャプター

第1話

妻は異世界から来た旅人だった。異世界の者は、「下層世界」の人間と恋に落ちることを禁じられている。それでも彼女――神代雫(かみしろ しずく)は、俺に一目惚れした。彼女は俺に惹かれるたび、魂を引き裂かれるような激痛に襲われていた。そんな苦しみを、彼女は九十九回も耐えてきた。その後、俺は海外の反政府組織に攫われ、終わりの見えない凄惨な拷問を受け続けた。心が壊れかけたその時、俺はふと思い出した。かつて雫が教えてくれた、異世界と繋がる秘術のことを。必死の思いで術を成功させた。だがそこで耳にしたのは雫と、異世界の導師との会話だった。「雫、どうして自分で反政府組織と接触して、智也(ともや)を攫わせたりしたんだ?彼は君の最愛の人じゃなかったのか?」雫の声は、氷のように冷たかった。「本来、この苦難を受けるはずだったのは蒼馬(そうま)なの。蒼馬を救うためには、こうするしかなかった。智也はこの世界の主人公。『世界の意志』に守られているから、死ぬことはない。今回の任務が終われば、私は永遠にこの世界に残れる。その時は、ちゃんと智也に償うつもり」俺は胸が引き裂かれるほど苦しかった。そして、悪党たちが再び俺に近づいてきた時、俺は抵抗することを完全に諦めた。……「ふん、本当にしぶとい男だわ」一人の女が嘲るように言った直後、左脚に再び激痛が走った。気が狂いそうなその痛みに、俺はとうとう堪えきれず、低いうめき声を漏らした。「へぇ、やっと声を出したのかしら?」もう一人の女は面白くなってきたらしい。俺はようやく重たい瞼をこじ開けた。目の前にいた女は、けばけばしい化粧をしていて、その顔には病的な興奮が浮かんでいた。女は真っ赤に焼けた鉄の棒を手に持ち、俺の目の前でひらひらと揺らす。そして次の瞬間、それを勢いよく俺の胸に突き刺した。「ぁあっ!!」悲鳴が喉を裂く。胸の奥まで焼き尽くされそうだった。焼けつくような熱が、神経を這うように全身へ広がっていく。「そうこなくっちゃ。叫ばなきゃ面白くないでしょ?」女は満足げに笑うと、今度は反対側の胸に鉄棒を押しつけた。俺は歯を食いしばり、必死に声を殺す。分かっている。俺が苦しめば苦しむほど、こいつらは喜ぶ。だから俺は、ただ黙って耐えるしかなかった。早く終われ
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第2話

導師の声も、一気に緊張を帯びた。「雫、智也がもう危ない。このままじゃ……」「詳しく言わないで。聞いたら、私……辛くなるから」雫は慌てて遮った。その声は苦しげに震えている。「……いいわ。次は、智也が男として生きられないようにして」「なっ……!?」導師が思わず声を上げた。「子供はいらないのか?雫、誰より子供が好きだっただろ!」「たとえ智也に子供ができなくても、私は彼を愛してる。たとえ一生、セックスのない結婚生活になっても。……全部、完璧に再現しないと。でなければ、本の筋書きが蒼馬の身に起きてしまう」雫の声には、ほんのわずかな揺らぎすらなかった。その冷たさは、俺の耳には悪魔の囁きのように響いた。やがて誰かが、錆びついた巨大なペンチを持ってきた。すでに絶望しきっていた俺でさえ、恐怖で後ずさる。男としての尊厳だけは失いたくなかった。それは俺にとって、あまりにも残酷すぎた。結婚してから、雫は毎日のように、昼も夜も関係なく俺を求めてきた。「いつか、私たちの子供が欲しい」「三人で幸せな家庭を作りたい」そう言って、幸せそうに未来を語っていた。だから俺は、この任務が終わったら、ちゃんとコンディションを調整し、彼女との子供を作ろうと思っていた。なのに今、彼女は自らその可能性を断とうとしている。俺が反応する間もなく、誰かが乱暴に俺の両脚を押さえつけた。次の瞬間、全身を貫くような激痛。あまりの痛みに意識が飛びそうになる。だが強制的に意識を保つ薬を打たれていたせいで、俺の意識は無理やり保たれていた。地獄そのものの苦痛を、はっきりと感じ続けながら。「これじゃ本当に去勢だな……哀れなもんだ……」ペンチを持った男は、血まみれの俺を見て、耐えきれないように顔を背けた。朦朧とする意識の中、雫の声が聞こえる。わずかに震えていた。「智也……絶対に生きてて。私が任務を終えれば、この世界に永遠に残れるの。そうしたら、ちゃんとあなたに償うから……」何で償うつもりなんだ。お前の言う「愛」でか?俺は力なく笑った。もう涙すら流れなかった。俺はあの人間の屑どもに、ボロ雑巾のように地面を引きずられ、そのまま悪臭漂う水牢に放り込まれた。冷たく汚れた水に、ただ浸され続ける。どれほど時間が経ったのかも分からない。よ
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第3話

手術が終わった後、俺は病室に運ばれると、そのまま眠ったふりをした。雫と顔を合わせたくなかった。今の俺の心は、あまりにも疲弊していて、もう限界だった。やがて雫がやって来る。彼女はベッド脇に腰を下ろし、涙を俺の頬に落とした。「あなた、ごめんなさい……もう二度と、こんな苦しい思いはさせないから……」もし昔の俺なら、彼女のこんな姿を見た瞬間、すぐに起き上がって「大丈夫だよ」と慰めていただろう。だが今は、吐き気しか込み上げなかった。その時、病室の入口で物音がした。「雫さん、お腹空いてない?朝ご飯、買ってきたよ」宇野蒼馬(うの そうま)だ。雫は俺の手を離し、振り返りもせずに断った。「今は食欲ないの。蒼馬が先に食べて。あと三時間後にはヘリで帰国してもらうから。ここは危険なの」「えー、一人で帰るのが怖いよ。雫さんも一緒に来てくれる?」蒼馬の声には、露骨な甘えが混じっていた。「駄目。私は夫についていないと」雫は即答で断る。「でも、本当に怖いんだよ……」雫は一瞬ためらった。そして結局、折れてしまう。「……分かった。先に隊のみんなに指示だけ出してくる」彼女はいつも、「愛してるのは智也だけ」と言っていた。なのに蒼馬を前にすると、いつだって甘かった。彼の頼みを、一度だって本気で拒んだことがなかった。雫が背を向けて病室を出た瞬間、蒼馬は、ようやく本性を現した。彼は俺のベッドまで歩み寄ると、いきなり俺の頬を張った。「起きてるんだろ?芝居はやめろ。覚醒剤を打たれてたことくらい、みんな知ってる」蒼馬は俺を見下ろし、嘲りと得意げな笑みを浮かべる。「どうだ?男として終わった気分は。手足も潰されたんだってなぁ。ほんと可哀想」俺は苦痛に耐えながら目を開け、冷たい視線で奴を睨みつけた。「……俺がこんな姿になっても、雫はお前と結婚なんかしない」蒼馬は雫を狂ったように愛していた。だが雫は、一度たりともその想いに応えたことがない。蒼馬の顔色が変わる。だがすぐに、鼻で笑った。「神代智也(かみしろ ともや)、調子に乗るなよ。知らないみたいだから教えてやる。雫さんが僕をここに連れ戻したのはな、お前の手柄を奪うためなんだよ。今回の逃亡犯逮捕の功績、全部僕のものになる」俺は目を見開き、喉から血を吐くように声を絞り出した
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第4話

仲間たちは慌てて俺を担架に乗せ、空港へ向かって走った。空港に着くと、ちょうど出発しようとしていた雫と蒼馬に鉢合わせた。藤井由美(ふじい ゆみ)は真っ先に駆け寄り、雫の腕を掴んで叫んだ。「早く!先に智也さんを乗せて!容体が危険なの、このままじゃ本当に死んでしまう!」だが雫は、考える間もなく首を振った。「駄目。ヘリには二人しか乗れないの。先に蒼馬を帰国させるわ。ここじゃ、危険すぎる」その口調は断固としていて、微塵の迷いもなかった。由美は怒鳴る。「智也さんは死にかけてるんだよ!?彼は雫さんの夫でしょ!?それでも蒼馬を送る方が大事なの!?」蒼馬はわざと弱々しい表情を作り、小さな声で言った。「雫さん、大丈夫だよ……智也さん、たぶん嫉妬してるだけだから。雫さんは智也さんと帰ってあげて。僕は一人でも平気だから……」雫は一瞬ためらう。だが蒼馬のその言葉を聞いた途端、再び決意を固めたようだった。「智也は大丈夫。さっきだって容体は安定してたじゃない。みんなして、彼に合わせて私を騙そうとしてるだけでしょう。今はわがままを言ってる場合じゃないの!」そう言うと、彼女は蒼馬の手を引いてヘリに向かう。由美は泣きながら雫を引き止めた。「智也さんは本当にもう危ないの!見捨てる気なの!?」雫は冷たくその手を振り払う。そして俺を見下ろし、重たい声で言った。「あなた、少しは聞き分けて。蒼馬を送り届けたら、すぐ迎えに戻るから。変なやきもち焼かないで」――違う、雫。俺は嫉妬なんかしてない。本当に、死にかけてるんだ。俺は担架の上で痛みに喘ぎ、もう声すら出せなかった。体の感覚が、少しずつ消えていく。意識も次第に霞んでいく。雫はゴーグルを外し、俺の傍に歩み寄った。彼女はそっと酸素マスクをずらし、耳元に温かい吐息を落とす。「六時間だけ待ってて」彼女は爛れた俺の口元に触れる。その腕には、かつての任務で俺をかばって負った傷の痕がまだ残っていた。「全部終わったら、一緒に桜を見に行こう?あなた、ずっと見たがってたでしょう?」……俺はもう、桜なんて見たくなかった。彼女を待ちたいとも、思えなかった。俺はただ、目を開けたまま見ていた。雫が蒼馬を連れてヘリに乗り込むのを。プロペラが回り始めるのを。機体が少しずつ空に浮か
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第5話

手にしていた書類が、ぱさりと音を立てて床に落ちた。雫は信じられないというように、頭の中に響くその通知を何度も反芻した。一度、二度、三度。「死んだ……?智也が、死んだ?」彼女は呆然と呟いた。声は激しく震えている。すぐに導師に通信を繋ぎ、確認を取った。導師はしばらく沈黙したあと、画面に映る、息絶えた智也の姿を見つめながら静かに告げる。「……ああ。彼は死んだんだ」雫は目を見開いた。その瞳には、恐怖と混乱が溢れている。「そんな……!智也はこの世界の主人公なのよ!?『世界の意思』の加護があるのに、どうして死ぬの!?」導師は重く息を吐いた。「雫。君は感情に流されすぎた。この世界の運には限りがあるんだ。君は智也の運の大半を、蒼馬に移した。当然、智也は『世界の意思』の庇護を失う」導師は一度言葉を切り、哀れむような目を向けた。「それだけじゃない。本来なら彼が背負うはずのない苦難まで、君は無理やり背負わせた。彼の運は、とうに蒼馬に奪い尽くされていたんだ。……もう、彼は主人公ではなかった」雫は胸を押さえた。心臓を鷲掴みにされたような痛みで、息すらまともにできない。まさか、自分の手で智也を死に追いやっていたなんて。彼女は激しく首を振った。「違う……!智也は私の夫よ!私が心から愛してる人なの!そんな私が、どうして彼を傷つけるの!?」「雫、事実は変わらない」導師の声は静かで、残酷なほど冷静だった。「君は蒼馬のために、何度も何度も智也を傷つけた。その結果、彼の運は失われ、最終的に死に至ったんだ」雫の脳内で交わされている導師との通信は、他の者には知る由もない。隣にいた蒼馬は、彼女の異変に気づいたらしい。不安げに彼女の腕を揺する。「雫さん?どうした?続き、話してよ……」その瞬間、雫は激しく彼の手を振り払った。胸の内では、巨大な波が荒れ狂っていた。会議中であることも。蒼馬が驚いた顔をしていることも。そんなものを気にする余裕は、もうなかった。彼女はそのまま踵を返し、会議室を飛び出す。蒼馬はその場に立ち尽くした。あんな冷たい態度を取られたのは、初めてだった。彼は唇を噛み、気まずさと悔しさを滲ませながら後を追う。雫はヘリポートに駆け込んだ。何もかも顧みず、ヘリを起動しようとする。智也の
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第6話

雫は信じられなかった。ずっと疑いもしなかった蒼馬が、こんなにも冷酷で卑劣な男だったなんて。彼女は言葉を失う。自分は確かに蒼馬に薬を打てとは命じていない。その時、由美がポケットから一つの指輪を取り出し、雫の前に投げ捨てた。「……これ、智也さんからあんたにだって」雫は震える手でそれを拾い上げる。それは、俺たちの結婚指輪だった。彼女の瞳が大きく揺れる。「……夫が、私を捨てた……?」指輪の反射した光が、目に刺さるように痛かった。あの任務の時、彼女は俺を庇って破片を受け、折れた肋骨が内側に食い込んだまま、苦しそうに笑っていた。「もし私が死んだら、他の人と結婚して」俺は泣きながら拒否した。そして弾丸の破片を加工して、この結婚指輪を作ったのだ。結婚した時、俺は彼女に言っていた。――もし俺がお前を要らなくなったら、その時は自分で指輪を外す。なのに今、本当に俺は、指輪を外して返してきた。由美は冷笑する。「そうだよ。智也さんは、自分の妻が蒼馬を連れてヘリに乗るのを、目の前で見たんだ。智也さんを見捨てたのは、他でもないあんたなんだよ。そんな相手を、まだ愛せると思う?」その瞬間、導師のため息交じりの声が、雫の脳裏に蘇った。「さっき通信記録を確認した。智也は、確かにこちらの通信端末に接続していた。おそらく君に助けを求めようとしていたんだろう。だが……私たちの会話を聞いてしまった。それで、助けを求めるのをやめたんだ」雫はずっと思っていた。自分が黙ってさえいれば、智也は永遠に真実を知らないままだと。まさか俺が全部聞いていたなんて。彼女の残酷な言葉を聞きながら、あの地獄を耐えていたなんて。雫は忘れていた。かつて彼女自身で、俺に彼女の通信端末への接続方法を教えたことを。「あなただけは特別だから。連絡さえくれれば、私は絶対に一番早くあなたを見つけるよ。あなたには、絶対に傷一つ負わせない」彼女はそう誓っていた。――だが、何一つ守れなかった。俺を傷つけた。しかも、その傷を与えた張本人は彼女自身だった。その事実が、鋭い刃のように雫の脳を貫く。彼女は苦痛に耐えきれず、その場で体を折り曲げた。俺たちが恋に落ちた頃、雫は自分が異世界の人間だと打ち明けてくれた。「下層世界」の人
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第7話

雫は再び襲ってきた激痛に耐えながら、瞬間移動能力を発動した。その姿は一瞬でその場から消えた。次の瞬間、彼女は蒼馬のすぐ近くに現れていた。突然現れた雫を見て、蒼馬は嬉しそうに駆け寄り、彼女の腕にしがみつく。「雫さん!どこ行ってた?追いつけなかったよ」だが雫は、彼を一瞥すらしなかった。次の瞬間、容赦なく蹴り飛ばす。蒼馬は地面に叩きつけられ、雫はそのまま髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。「……智也に敗血症を誘発する薬を打ったの?」蒼馬は痛みに悲鳴を上げ、怯えきった目で彼女を見る。「ち、違う!僕じゃない!雫さん、何言ってるんだ!?僕が智也さんを害するわけないじゃない!」「まだ嘘をつくの?」雫は彼の首を掴んだ。指に込める力が徐々に強くなっていく。声は氷のように冷たい。「言いなさい。どうしてあんなことをしたの?」「げほっ……雫さん……ぼ、僕は……僕たちのためを思って……」蒼馬は苦しそうに息をしながら、途切れ途切れに答える。「智也が、生きてたら……僕たち、ずっと一緒になれないだろ……?雫さんが僕を好きなの、分かってたんだ……ただ、結婚してたから……」その言葉を聞いた瞬間、雫の目にはっきりとした嫌悪が浮かんだ。首を絞める力がさらに強まる。「ふざけないで。私はあんたなんか好きじゃない!」蒼馬は苦しそうに喘ぎながらも、なお反論した。「う、嘘だ……!だって雫さん、智也より僕に優しかったじゃないか……!好きじゃないわけない……!」雫は汚物でも捨てるように彼を放り投げた。そのまま髪を掴んだまま、地下室へ引きずっていく。薄暗く湿った地下室。そこには、夥しい数の拷問器具が並んでいた。蒼馬は顔を真っ青にして逃げ出そうとする。だが次の瞬間、雫が彼の脚の骨を踏み砕いた。「智也が味わった苦しみ、あなたもちゃんと味わいなさい」雫の声は、どこまでも冷酷だった。「本当なら、もっと色々用意したかったけど……まあいいわ。これだけでも、十分楽しめるはずよ」雫は鉄格子を開き、蒼馬を中に投げ込む。そして赤く焼けた焼印を手に取り、そのまま彼の体に押し当てた。「ぎゃああああっ!やめて!雫、お願い!許してぇぇぇっ!」引き裂かれるような悲鳴が、地下室中に響き渡る。その時になってようやく、蒼馬は自分がどれほど恐ろしい相手を怒らせた
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第8話

俺は衝撃のあまり、言葉を失った。雫が俺のために、罪のない人間を傷つけている?「……君が説得してくれ」導師は深いため息をついた。「これ以上、彼女に罪を重ねさせないでほしい。我々では『下層世界』に入れないんだ。一つの下層世界には、異世界の旅人は一人しか入れないからね」俺は静かに頷いた。もう雫には会いたくなかった。だが、だからといって、俺のために彼女が無関係な人々を殺していくのを、見過ごすこともできなかった。脳内に響く導師の指示を頼りに、俺は古びた雑居ビルの前に辿り着く。建物の周囲は警察に包囲されていた。拡声器から、絶えず投降を呼びかける声が響いている。「神代雫!お前は完全に包囲されている!武器を捨てて投降しろ!抵抗をやめれば刑も軽くなる!」導師に言われた通り、俺は警戒線を通り抜けた。建物に入った瞬間、鼻を突くような血の匂いが押し寄せ、思わず吐き気が込み上げる。そして俺は、ようやく雫を見つけた。血に染まった部屋の中央に、彼女は静かに立っていた。その背中はひどく痛々しく、まるで命を失った彫像のようだった。床には蒼馬が転がっている。全身血まみれで、もはや原形すら留めていない。他にも数人の男が、半死半生の状態で倒れていた。俺は深く息を吸い込み、ゆっくり雫の背後に歩み寄る。そして、小さく名前を呼んだ。「……雫」彼女の肩が大きく震えた。勢いよく振り返る。空っぽだった瞳が、俺を見た瞬間、光を取り戻した。「……あなた、帰ってきてくれたの……?」俺は彼女を見つめる。胸の奥には、言葉にできない感情が渦巻いていた。かつて心から愛した女が、今ではこんな姿になってしまっている。「雫、どうして、こんなことをしたんだ」彼女の瞳が徐々に狂気を帯びていく。「あなたを失いたくなかったの!絶対に……絶対に嫌だった!」彼女は両手を伸ばし、俺を抱き締めようとする。だが、その腕は空しく俺の体をすり抜けた。俺は苦く笑い、静かに首を振る。「俺はもう死んでる。雫、もうもう俺にこだわるのはやめろ。みんなを解放してやってくれ」彼女の目は絶望と狂気に染まっていた。「あなた、まだ怒ってるんでしょう……?私が、あの時助けなかったから……!だったら今すぐ蒼馬を殺すよ!」彼女は勢いよく振り返り、瀕死の蒼馬を凶悪
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第9話

「例えば、最初から事件が起きないようにするとか、宇野蒼馬を海外に行かせないとか。方法なんて、いくらでもあったはずだ。なのにお前は、俺に代わりに苦しみを背負わせる道を選んだ。雫、お前は本当に、俺を愛してたのか?」雫は賢い女だった。本気で運命を変えようと思えば、もっと穏便なやり方はいくらでも選べたはずだ。それなのに、彼女は最も極端で、最も残酷な方法を選んだ。俺が耐え切れるかどうかなんて、最初から考えてもいなかった。――もうとっくに、俺への気持ちは変わっていたんだ。ただ、自分で認めたくなかっただけで。「俺は確かに、お前に甘かった。でもそれは、俺を愛してくれていた雫に対してだ。故意に俺を傷つける雫にじゃない」俺は少し間を置き、彼女の目を真っ直ぐ見据えた。「雫、俺はもう、お前を愛してない」かつての恋情は、今では底知れない失望と痛みに変わっていた。もう吹っ切れたと思っていた。だが傷口は、今もなお鈍く疼いている。「……私が間違ってた、ごめんなさい……」彼女は力なく床に座り込み、頭を抱えながら嗚咽を漏らした。俺は小さくため息をつく。そして彼女の前に歩み寄り、しゃがみ込んだ。「雫、本当に自分が間違ってたと思うなら、自首しろ。せめて……俺を安心して逝かせてくれ。今お前がしてることは、全部無意味なんだ」彼女は顔を上げ、ぼんやりと俺を見つめる。その目には、強い未練が宿っていた。「……分かった。あなたが望むなら、そうする。待っててね……全部終わらせたら、すぐあなたのところに行くから」彼女はゆっくり立ち上がる。扉を開き、一歩ずつ警察の方に歩いていった。それでも、その視線だけは最後まで俺から離れなかった。瞳には涙が滲んでいる。そして、俺の体はこの血の匂いに満ちた部屋の中で、徐々に薄れていった。最後には、完全に消えていった。……再び目を開けた時、俺はまたあの古風な部屋に戻っていた。「成功した!智也、君はやり遂げたんだ!」部屋の中では、導師たちが歓声を上げていた。まるで俺が凱旋した英雄みたいだった。導師はにこやかに近づいてくる。「智也、次はどんな人間として生きたい?」俺は一瞬、言葉を失った。そして思わず聞き返す。「……もう、『神代智也』には戻れないのか?」導師は残念そうに首
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