All Chapters of 後悔は、雪になって: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

――昔、知り合いだった人。その言葉は刃となって、仁の胸へ深く突き刺さった。淳の表情が険しくなる。彼は仁を真っ直ぐ見据えた。「つまりあんたが、他の女のために里奈を労働更生施設送りにして、自分の手で書類に印を押して、この土地へ追いやった元婚約者ってわけか?」仁の顔から血の気が引いた。「俺は――」「言い訳はいい」淳は冷たく遮った。「里奈から全部聞いてる。あんたがやったこと、一つ残らずな」仁は里奈を見る。声が震えていた。「里奈、聞いてくれ。あの時の俺は知らなか――」「知っていたでしょう」里奈は静かに言った。「ネックレスの件があの人の仕組んだことだって、あなたは知っていた。それでも私を施設へ送った」彼女の声は淡々としている。「父の件だってそう。冤罪の可能性があると分かっていたのに、あなたはあの人の就職の世話を優先して、私には一度も会わなかった」そして、ゆっくりと告げた。「仁。あなたは何も知らなかったんじゃない。全部知った上で、彼女を選んだの」一言ごとに、刃が肉を削ぐようだった。仁は膝をついた。27歳にして隊長となり、これまで頭を下げられる側だった男が。土の庭に、まっすぐ跪いた。淳も思わず目を見張る。里奈も一瞬だけ息を呑んだが、すぐに視線を逸らした。「すまない、里奈......」仁の声は涙で詰まる。「本当に悪かった。殴っても、罵ってもいい。命を取られても構わない。でも......俺を捨てないでくれ」彼は懇願する。「頼む。俺と帰ってくれ」里奈は背を向けた。「帰ってください」静かな声だった。「私は今、幸せです。戻るつもりはありません」「どこが幸せなんだ!」仁は目を真っ赤にして叫ぶ。「こんな苦しい場所で!お前の手を、足を見ろ!お前はこんな苦労をする人間じゃないはずだ!」「それでも、あなたの傍にいるよりはましです」その一言に、仁は凍りついた。里奈は振り返らないまま続ける。「あなたの傍にいたら、あの人と仲睦まじくするあなたを見なきゃいけなかった。何度も見捨てられて、裏切られて。あなた自身の手で労働更生施設へ送られて。父のことで毎晩眠れなくなって」彼女は小さく息を吐いた。「ここでの苦しみは体だけ。なのにあなたの傍で味
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第12話

仁は、それでも去ろうとはしなかった。町役場で「技術指導員」という名ばかりの肩書きをもらい、わずかな手当を受け取っていたが、役場の事務所には一度も足を踏み入れなかった。毎日、夜も明けきらないうちに裏山にある林へ向かい、見晴らしがよく、それでいて身を隠せる場所を見つけては、一日中そこに座り続けた。そこからなら、里奈の家の庭も、門前の土道も見渡せた。鶏が最初の時の声をあげる頃、彼女は起きる。まず台所からかすかな物音が聞こえ、それから戸がきしみながら開く。里奈は大きな木桶を二つ提げ、ふらつきながら村外れの井戸へ向かう。その桶は彼女には重すぎた。数歩歩くたびに立ち止まり、肩で息をしながら持ち手を持ち替えていた。仁は拳を固く握り締めた。爪が手のひらに食い込み、血が滲むほど力を込めて、ようやく駆け寄って代わりに運びたい衝動を抑え込む。――できない。自分にはそんな資格はない。自分が姿を見せれば、彼女を余計につらくさせるだけだ。水を運び終えると、里奈は竈に火を入れ、朝食の支度を始める。煙突から灰色の煙が立ちのぼり、朝霧の中へと溶けていく。やがて日が昇ると、彼女は粗末な陶器の茶碗を手に庭へ出て、しゃがみ込みながら鶏に餌をやる。痩せた鶏たちが周りに集まり、里奈は穀物をひとつかみ撒きながら、小さく声をかける。朝日に照らされた横顔は静かで、表情らしい表情はない。朝食を済ませると、今度は村の女性たちとともに畑へ向かう。春の農繁期が始まり、どこの畑にも人影があった。彼女に割り当てられた畑は斜面にあり、土は固く、石も多い。鍬を振る姿はぎこちなく、何度か振り下ろしただけで肩で息をつき、柄にもたれて呼吸を整える。それから汗を拭い、また腰を曲げる。昼になると、弁当を提げて淳のもとへ向かった。中には雑穀のおにぎりと漬物が入っている。淳は別の畑で働いていた。上半身を裸にし、褐色の背中を汗が流れ落ちている。里奈は畑の端にしゃがみ込み、夢中で食べる淳を見守りながら、ときおり水筒を差し出した。食べ終えた淳は手の甲で口元を拭い、にかっと笑う。そして袖で彼女の額の汗を拭こうと手を伸ばした。里奈は反射的に少し顔を逸らした。淳の手は宙で止まり、気まずそうに引っ込められる。だが次の瞬間にはまた
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第13話

仁の頭の中で、何かが弾けた。考えるより先に、彼はずぶ濡れの上着を脱ぎ捨て、そのまま川へ飛び込んだ。川の水は骨まで凍りつくほど冷たく、無数の針が全身の毛穴を同時に刺すようだった。思わず身震いしながらも、彼は激流に翻弄されるその人影へ向かって懸命に泳ぐ。流れはあまりにも速く、巨大な力で彼の身体を下流へ引きずっていく。歯を食いしばり、必死に手足を動かす。胸の奥で燃えているのは、ただ一つの思いだった。――淳を死なせるわけにはいかない。もし彼が死んだら、里奈は......ようやく少しだけ笑えるようになった彼女は。ようやく未来に希望を見出しかけた彼女は。やがて、彼は淳の腕を掴んだ。触れた肌は氷のように冷たい。額は深く裂け、血が顔の半分を覆っていた。川の水と混ざり、その惨状は目を覆いたくなるほどだった。仁は腕で彼の首をしっかり抱え込み、もう片方の腕で必死に水をかく。激流に逆らいながら、一歩ずつ岸へ近づいていった。一掻きごとに全力を使い果たす。肺は今にも破裂しそうで、冷たい水が何度も口や鼻に流れ込む。何度も限界が訪れた。このまま二人とも沈んでしまうのではないかと思った。だが目を閉じれば浮かぶのは、里奈の青白い顔と、その空っぽな瞳だった。だから手を放せなかった。どれほど時間が経ったのか分からない。ようやく足先が岸辺の泥に触れた。何人もの村人が駆け寄り、二人を引き上げる。仁は泥の上へ倒れ込み、大きく息を吐いた。寒さで全身が激しく震え、一言も発することができない。村の医療係が飛んできて、意識を失った淳の応急処置を始めた。額の傷は深く、血が止まらない。「駄目です!すぐに病院へ運ばないと!頭を強く打っています!」だが連日の豪雨で、町へ続く唯一の山道は崩落していた。トラックも車も通れない。仁は地面に手をついて立ち上がると、ふらつきながら淳のそばへ向かった。そして腰を落とし、その身体を背負う。淳は体格が良く、ずっしりと重い。膝が崩れそうになる。それでも歯を食いしばり、なんとか踏みとどまった。「岩田さん、その身体では......!」隊長が慌てて止めようとする。「どいてくれ」掠れた声だったが、有無を言わせない響きがあった。仁は淳を背負
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第14話

「必要ありません」里奈はそう一言だけ告げると、仁の手から鍬を取り上げようとした。仁は鍬の柄を強く握り締めた。ざらついた木の柄が手のひらの水ぶくれを押しつけ、痛みに目尻が引きつる。それでも手を離さない。彼の目は痛々しいほど赤く充血していた。血走った瞳の奥には、疲労と、そして絶望にも似た執着が渦巻いている。かすれた声で、震えを押し殺すように言った。「里奈......頼む。せめて、罪を償う機会をくれ。里奈のために何かさせてくれ。そうでないと......本当に、気が狂いそうだ......」里奈はその視線を受け止めた。そこにある感情はあまりにも複雑で、もはや理解したいとも思えなかった。かつて命よりも大切に愛した男。そして、自分を地獄へ突き落とした男。その男が今、物乞いのように救いを求めている。だが彼女の胸には、もう何も残っていなかった。憎しみすら、どこか遠くへ薄れていた。彼女はそっと手を離し、何も言わずに背を向けて去っていった。仁は、細くてもまっすぐ伸びたその背中が畦道の向こうへ消えていくまで見送った。鍬を握る手には白く血が引いている。彼は長いことその場に立ち尽くしていた。朝霧が晴れ、太陽が昇ってもなお。やがて再び鍬を振り上げる。一打、一打。まるで自分を罰するように、固く締まった土へ叩きつけた。それからの一か月、仁は林家の重労働をすべて引き受けた。畑を耕し、種をまき、水を運び、薪を割る。疲れというものを知らないかのように、夜明け前には現れ、星が出るまで働き続けた。手のひらの古い水ぶくれは破れ、かさぶたになり、その上からまた新しい水ぶくれができる。それが何度も繰り返され、やがて血と泥にまみれた分厚いタコへと変わっていった。肩の皮もとっくに擦り切れている。汗が染み込むたびに焼けるように痛んだが、彼は一度も弱音を吐かなかった。真昼の炎天下。ある日、里奈が水を持ってきた。彼女は畦道まで来ると、器を置き、仁を一瞥しただけで立ち去ろうとする。仁は鍬を置き、そっとその茶碗を手に取った。縁には小さな欠けがある。昔から彼女の家で使われていた茶碗だった。彼は壊れ物を扱うように両手で包み込み、少しずつ飲んだ。二度目に持ってきたのは冷たい麦茶だった。
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第15話

淳は黙ったままの里奈を見たが、それ以上は何も聞かなかった。「外は暑い。中に入ろう」ただそう言っただけだった。......その夜。月が昇り、冷たい光が川面を静かに照らしていた。淳は川辺で仁を見つけた。仁は大きな岩の上にしゃがみ込み、川の水で顔を洗っている。流れる水が手の傷口や泥を洗い流し、うっすらと赤く染まっていた。足音に気づいて振り返り、相手が淳だと分かると、再び視線を川へ戻して水をすくい、顔へとかけた。淳は彼の前まで歩いてくると、ズボンのポケットからクシャクシャの札束を取り出した。それを仁の濡れた手に押し付けた。「日当だ。もう来るな」仁は手の中の紙幣を見つめた。湿気を帯び、淳の体温が残っている。受け取るでもなく、突き返すでもない。ただ指先がわずかに緩み、濡れた紙幣は指の隙間から滑り落ちて川辺の小石の上へ散らばった。低い声で言う。「俺は、金のためじゃない」「だから余計に来てほしくねえんだよ!」淳が突然怒鳴った。静かな川辺にその声が鋭く響き渡る。真っ赤になった目を見開き、胸を激しく上下させながら、長く押し殺していた怒りを一気に吐き出した。「お前はいったい何がしたいんだ?!あそこまで里奈を苦しめてたんだぞ!本当に分かってるのか?!」一歩踏み込み、指先が仁の鼻先に届きそうな距離まで迫る。「毎日毎日あいつの前をうろついて、昔の傷を思い出させてるんだ!お前があの吉岡とかいう女のために里奈を矯正施設送りにしたことも!親父さんが冤罪を着せられたのを見殺しにしたことも!そしてお前自身が署名して、あいつをここへ送ったこともな!今のあいつがどんな暮らしをしてるか、一度はちゃんと見たことがあるのか?!全部お前が原因なんだぞ!」淳の声はますます大きくなる。「本当に悪いと思うなら、本当にあいつのためを思うなら――さっさと消えろ!街へ帰れ!もう二度とあいつの前に現れるな!嫌なことを思い出させるな!」首筋に青筋を浮かべながら叫んだ。「少し働いたくらいで罪が償えると思ってるのか?言っとくがな、お前のやってることは何の意味もねえ!ただ里奈に、自分がどれだけ見る目のない女だったか、お前みたいな最低の男を好きになったかを何度も思い出させてるだけだ!」仁は固まった。岩の上に座った
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第16話

仁は老総監の前に背筋を伸ばして立っていた。そして老人が驚愕の目を見開く中、彼はゆっくりと、まっすぐ膝をついた。膝が冷たい磨き石の床にぶつかり、鈍い音が響く。仁は顔を上げ、怒りで顔を紅潮させた老人を見つめた。その瞳には一片の迷いもなく、ただすべてを賭ける覚悟だけがあった。「総監。村越浩一郎さんは冤罪です。証拠は吉岡清美が捏造したものでした。彼の娘さんは私のせいで理不尽な苦しみを受け、地方へ送られ、望まぬ結婚まで強いられました。もし私が彼らの潔白を証明できなければ、この制服に袖を通し続けることなどできません。そんな生き恥を晒すくらいなら、死んだも同然です」老総監は震える指で彼を指差した。しばらく言葉を失った末、力なく籐椅子に腰を下ろし、大きなため息をつく。一気に何歳も老け込んだようだった。「仁よ......お前というやつは、なぜそこまで頑ななのだ。己が何をしようとしているか分かっているのか?敵に回して良い相手も悪い相手も、すべてを敵に回すことになるのだぞ!約束された出世コースは、これで完全に終わりだ!昇進どころか、警備隊の身分を保っていられるかどうかも怪しい。最悪の場合......不祥事として組織を追われることになるのだぞ!すでに他人の妻となった女のために、そこまでする価値があるというのか?!」老人は声を荒らげた。仁は膝をついたまま背筋を真っ直ぐ伸ばした。その姿は一本の槍のようだった。静かな居間に、はっきりとした声が響く。「構いません。あの親子が胸を張って故郷へ帰れるなら、私は何もいりません。将来も、地位も、この制服さえも......すべて失っても構いません」老総監は長いこと彼を見つめていた。怒りから困惑へ。困惑から深い疲労へ。そして最後には、どこか悟ったような表情へ変わっていく。やがて老人は力なく手を振った。「......立ちなさい。この老いぼれが、もう一度だけ動いてみよう。だが結果は保証できん......あとは自分で何とかしろ」仁は深く額を床につけた。「ありがとうございます、総監」......そこから先は困難の連続だった。進展するたびに新たな妨害が現れ、表立った圧力も陰の工作も次々と降りかかる。仁はほとんど一人で、巨大で硬直した仕組みそのものと戦っていた。証拠
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第17話

里奈はただ一度、彼の方を見ただけだった。その視線は静かに彼の上を通り過ぎ、何ひとつ留まることはなかった。まるで道端の石ころや草を眺めるのと変わらない。そして彼女は背を向け、そのまま家の中へ入っていった。ギィ、と軋む古い木戸が閉まる。仁は門の外に立ち尽くした。真夏の陽射しは容赦なく照りつけ、目の前がくらりと暗くなる。彼はふらりと川辺へ向かった。何度も座ったあの大きな岩の上に腰を下ろす。足元では濁った川が絶え間なく流れていた。しばらく水面を見つめたあと、彼は突然右拳を振り上げる。そして全身の力を込めて、傍らの太い柳の木へ叩きつけた。――ドンッ!幹が激しく揺れ、葉がざわざわと舞い落ちる。拳の甲は瞬く間に裂け、鮮血が滲んだ。骨の奥まで突き刺さるような痛みが走る。それでも彼は何も感じないように、ただ流れ落ちる血を見つめていた。赤い雫が灰色の樹皮と河原の小石を濡らしていく。――痛いか?たぶん少しは。だが心の中に広がる果てしない空洞に比べれば、この程度の傷など何でもなかった。――その日の夜。仁のもとへ、警備隊から緊急電報が届いた。薄い紙一枚。だが、その重みは計り知れなかった。岩田仁。独断で人脈を利用し、地方司法案件へ介入した件について、組織に悪影響を及ぼしたものと認定する。審議の結果、すべての職務を停止する。直ちに本部へ帰還し、事情説明を行うこと。仁はその数行を長いこと見つめていた。やがて、ふっと笑った。低く乾いた笑い声が、荒れ果てた部屋に虚しく響く。彼は電報を丁寧に折りたたみ、胸ポケットへしまった。心臓のすぐ上。将来を代償にして得た、浩一郎の潔白。それだけの価値はあった。少なくとも、ようやく一度だけ、彼女のために正しいことができたのだから。――本部からは何度も帰還命令が届いた。だが彼はすべて無視した。ついには辞職願を書き、人づてに送った。それを知った老総監は激怒し、村へ直接電話をかけてきた。受話器越しでも怒鳴り声が震えているのが分かる。「お前は本当に気でも狂ったのか!女ひとりのために前途を捨てるつもりか?!27で隊長になった男だぞ!私の後を継ぐ最有力候補だったのに、自分が何をしているか分かっているのか?これは
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第18話

その瞬間、血が一気に頭へとのぼったかと思うと、次の瞬間にはすべて引いてしまった。手足が冷たくなる。何も考える暇はなかった。意識より先に、体が動いていた。仁は後を追った。全力で走った。淳に追いつきそうになるほどだったが、近づきすぎることはできなかった。ただ少し距離を置いてついて行き、淳の背にぐったりともたれかかる、あの生気のない横顔から目を離せなかった。――どうしたんだ?病気か。それとも倒れたのか。恐ろしい想像ばかりが次々と頭をよぎり、息が詰まりそうになる。そのまま診療所まで追いかけた。小さな診療所はたちまち騒然となった。「先生!彼女を診てください!畑で急に倒れたんです!」淳の叫び声は今にも泣き出しそうだった。白衣に眼鏡の医師が、半ば引っ張られるようにして簡素な診察室へ連れて行かれる。扉が閉まり、外の喧騒は遮断された。仁は廊下の壁にもたれた。冷たく剥げかけた壁だった。全身の力が抜け落ちたようで、耳の奥ではブーンという耳鳴りが続いている。聞こえるのは、自分の荒く重い心臓の鼓動だけだった。鼓膜を叩くような激しい音。どれほど経ったのか分からない。数分だったかもしれないし、一世紀にも感じられた。やがて診察室の扉が開いた。医師は聴診器を外しながら、ほっとしたような笑顔を浮かべていた。そして、落ち着かず待っていた淳に向かって言った。「おめでとうございます、林さん。心配はいりません。見たところ、もうすぐ妊娠二か月ですね。倒れたのは栄養不足と過労、それに軽い熱中症が重なったためです。帰ったらしっかり栄養を取らせて、無理はさせないようにしてください」「に、妊娠......?」淳は意味が理解できないように呆然と繰り返した。医師は笑いながらうなずく。「そうです。お父さんになりますよ」淳の表情が変わった。呆然。困惑。信じられないという顔。そして次の瞬間、巨大な歓喜が目の中で爆発した。顔全体が一気に輝く。仁は扉の隙間から、その光景をはっきり見ていた。淳は診察室へ飛び込み、簡易ベッドから起き上がったばかりの里奈を力いっぱい抱き締めた。まるで全身全霊を込めるように。彼は彼女の首筋に顔を埋め、肩を激しく震わせながら、泣いているのか笑っているのか分
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第19話

生臭い鉄の味が突然喉の奥までせり上がった。仁は腰を折り、激しくえずいた。だが何も吐けない。胃の奥で焼けるような痛みだけが渦を巻いていた。彼はその場にしゃがみ込み、両手で頭を抱えた。指が髪の中へ深く食い込む。喉の奥から漏れ出たのは、瀕死の獣のような呻き声だった。低く、かすれ、言葉にできない苦しみと絶望に満ちている。どれほど泣いたのだろう。声が出なくなるまで。涙さえ枯れ果てるまで。やがて彼はゆっくりと顔を上げた。真っ赤に充血した目。無数の血管が浮かび上がっている。その視線は、足元の濁流へと注がれていた。川は休むことなく流れ続ける。時を、誓いを運び去り。二度と戻らない過去のすべてを運び去っていく。――死んでしまえばいい。死ねば、もう彼女が他の男に向ける笑顔を見なくて済む。他の男の子どもを宿す姿を見なくて済む。彼女が完全に別の男のものとなり、自分がかつて夢見たすべてを手に入れる姿を見なくて済む。死ねば、楽になれる。その考えが芽生えた瞬間、蔦のように狂った勢いで広がり、彼の理性を瞬く間に絡め取った。仁は川面を見つめた。空虚で、それでいてどこか熱に浮かされたような目だった。そして――何の前触れもなく。何のためらいもなく。一歩、前へ踏み出した。そのまま真っ直ぐに、濁って冷たい川へ身を投げた。水が一瞬で頭上を覆う。口と鼻から流れ込み、激しい窒息感が襲った。肺が焼けるように痛む。冷たい水が全身を包み込み、深みへと引きずっていく。暗闇。冷たさ。そして、解放。――これでいい。このままで。薄れゆく意識の中で、彼はまた18歳の里奈を見た気がした。自分が贈った赤いワンピースを着て、陽だまりの中をくるくると回る彼女。鈴のような笑い声。そのときだった。突然、腕を強い力で掴まれた。そして誰かが必死に彼を水面へ引き上げる。生存本能が勝手に体を動かした。水中でもがく。だがその力は圧倒的だった。大きな水音とともに水面へ引きずり出される。冷たい空気が肺へ流れ込み、仁は激しく咳き込んだ。その直後、顔面に強烈な衝撃が走った。――拳だった。頭が横へ弾かれる。口の中に鉄錆のような血の味が広がった。「この
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第20話

「もう二度と......元には戻らない......」仁はうわごとのように繰り返した。焦点の合わない瞳が虚空を見つめている。淳は立ち上がり、びしょ濡れのズボンを軽く払った。手には泥がべったりと付着した。地面に崩れ落ち、まるで抜け殻のようになった仁を見下ろしながら、彼は酷なほど静かな声で言った。「もう帰れ。そして二度と来るな。本当に里奈に悪いと思ってるなら、男としての意地が少しでも残ってるなら、生きろ。ちゃんと人間らしく生きろ。命を懸けて好きになった相手が、最後には死ぬ死ぬ騒ぐだけの腰抜けだったなんて、そんなふうに思わせるな」そう言い残し、背を向ける。その時、仁がふらつきながら体を起こし、かすれた声で叫んだ。川の水を飲み込み、泣き続けたせいで、その声はひどく途切れ途切れだった。「......どうして......俺を助けた?」淳の足が一瞬止まる。だが振り返らなかった。湿った風に乗って、しゃがれた声だけが届く。「里奈が見てたからだ。俺に助けてやれって」仁はその場で凍りついた。半身を起こしたまま、まるで風化した石像のように動けなくなる。濡れた髪から冷たい雫が頬を伝い落ちる。だが寒さは感じなかった。胸の奥でかろうじて燃えていた最後の灯火が、ぷつりと音を立てて消えた気がした。残ったのは果てしない闇と、凍えるような冷たさだけ。――そうか。自分が死ぬところさえ、彼女は見たくなかったのだ。ただ目に入ったから。だから夫を向かわせて助けさせた。なんという皮肉だろう。なんという......完全な拒絶だろう。仁は川辺で三日三晩を過ごした。食事も取らず、水も飲まず、ほとんど動かない。魂の抜けた抜け殻のようだった。髪は乱れ、髭は伸び、目は真っ赤に充血している。かすかな胸の上下だけが、まだ生きている証だった。その三日間、彼は数え切れないほどのことを考えた。あるいは、何ひとつ考えていなかったのかもしれない。甘かった記憶も、苦しかった記憶も、後悔も。すべてが渦巻き、最後には淳の言葉へと収束していった。――元には戻らない。――もう戻れない。――三日目の夕暮れ。血を流したような夕陽が川面を真紅に染めていた。仁はゆっくりと、実にゆっくりと、冷た
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