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後悔は、雪になって

後悔は、雪になって

作家:  如子完了
言語: Japanese
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概要

切ない恋

執着

ひいき/自己中

妻を取り戻す修羅場

不倫

里奈の父親が痴漢の濡れ衣を着せられて逮捕されたあと、彼女は10回も仁に面会を求めた。 けれど、一度として会えなかった。 ほどなくして判決が下る。 父親は強制わいせつの罪で有罪となり、僻地へ送られることになった。 そして犯罪者の娘である里奈もまた、地元の組織の決定で見知らぬ田舎の男との縁談を押しつけられ、7日後には父親とともに地方へ移住することになった。 薄暗い部屋の中で、父親は肩を震わせながら泣いていた。 「里奈、すまなかった......父さんがお前を巻き込んでしまった......仁のところへ行け。あいつはあんなにお前を大事にしてたんだ、放っておくはずがない......きっと何とかしてくれるはずだ......」 だが里奈は泣かなかった。 父親の残した数少ない古い衣服を丁寧に畳み、色褪せた青い布製のバッグへ詰め込む。 感情を押し殺したような静かな声だった。 「行っても無駄よ。この数日、もう十分すぎるほど会いに行ったから」 「でもお前たちは婚約してるじゃないか!」 父親は痩せ細った手で彼女の腕を掴む。 「仁はお前のことを本当に好きだった。事情を知ればきっと......」 「もういいの、お父さん」 里奈はその言葉を遮り、窓の外へ視線を向けた。 「私の中では、もう終わったことだから。向こうへ行ったら、二人でちゃんと暮らそう」

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21 チャプター
第1話
村越里奈(むらこし りな)の父親が痴漢の濡れ衣を着せられて逮捕されたあと、彼女は10回も岩田仁(いわだ ひとし)に面会を求めた。けれど、一度として会えなかった。ほどなくして判決が下る。父親は強制わいせつの罪で有罪となり、地方の開拓地へ送られることになった。そして犯罪者の娘である里奈もまた、地元の組織の決定で見知らぬ田舎の男との縁談を押しつけられ、7日後には父親とともに地方へ移住することになった。薄暗い部屋の中で、父親は肩を震わせながら泣いていた。「里奈、すまなかった......父さんがお前を巻き込んでしまった......仁のところへ行け。あいつはあんなにお前を大事にしてたんだ、放っておくはずがない......きっと何とかしてくれるはずだ......」だが里奈は泣かなかった。父親の残した数少ない古い衣服を丁寧に畳み、色褪せた青い布製のバッグへ詰め込む。感情を押し殺したような静かな声だった。「行っても無駄よ。この数日、もう十分すぎるほど会いに行ったから」「でもお前たちは婚約してるじゃないか!」父親は痩せ細った手で彼女の腕を掴む。「仁はお前のことを本当に好きだった。事情を知ればきっと......」「もういいの、お父さん」里奈はその言葉を遮り、窓の外へ視線を向けた。「私の中では、もう終わったことだから。向こうへ行ったら、二人でちゃんと暮らそう」その声があまりにも穏やかだったせいで、父親は一瞬言葉を失い、そのあとさらに激しく泣き出した。翌朝。仁がやって来た。きっちりとした黒い制服を身にまとい、肩章が朝日に冷たく光っている。扉を開けた瞬間、外の風が吹き込み、荒れ果てた小さな家にはまるで似つかわしくないほど、彼は相変わらず端正で凛としていた。「里奈」低い声で彼は呼ぶ。「この数日、清美の就職のことで動き回ってたんだ。それで......叔父さんの件を今日になって初めて知った」里奈は背を向けたまま、最後のマフラーを鞄へ押し込む。仁は彼女の後ろへ歩み寄り、肩に触れようとして、途中でその手を止めた。「俺に任せてくれ。今からでも人を当たって再調査してもらう。叔父さんは真面目な人だ、あれは絶対に冤罪だ」里奈は振り返り、長年愛してきたその顔を見つめた。二人は幼なじみだった。路地
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第2話
公園へ着いてからというもの、仁は終始清美の世話を焼いていた。階段では彼女の腕を支え、ラムネを買えば先に瓶の栓を開けて手渡す。湖畔を歩くときも、無意識に湖側を自分が歩き、清美を内側へ庇っていた。「里奈」ふいに振り返り、彼は言い訳するように口を開く。「恩師には本当に世話になったんだ。あの人がいなければ、今の俺はない。清美はその人のたった一人の娘だから......ちゃんと面倒を見てやりたい。もう......気にしないでくれ」里奈は何も答えなかった。ただ二人の後ろを歩きながら、仁の背中を見つめる。制服姿の彼は肩幅が広く、腰は引き締まり、松の木のように真っ直ぐだった。通り過ぎるたび、若い娘たちがこっそり見惚れている。けれど本人は気づきもしない。その意識はすべて清美へ向けられていた。正式な婚約者である自分ですら、ただの添え物みたいだった。貸しボート乗り場へ着くと、仁は三人乗りの小舟を借りた。「清美はボートに乗ったことないから。せっかくだし、体験させてやりたい」そう言いながら、まず清美を慎重に船へ乗せる。里奈は自分で跨いで乗り込んだ。小さな船だった。三人で乗ると少し窮屈だ。仁がオールを握り、清美はその向かい、里奈は船尾へ座る。湖面は静かで、陽射しを受けて水面がきらきらと揺れていた。湖の中央まで来た頃、里奈は足元に違和感を覚えた。視線を落とすと、船底の継ぎ目から水が滲み出している。量は多くないが、確実に漏れていた。「仁」嫌な予感を覚え、彼女は眉を寄せる。「この船、水が漏れてる」仁はオールを止め、腰を屈めて確認した。その瞬間だった。船体が大きく揺れ、亀裂が一気に広がる。大量の水が勢いよく流れ込んできた。「沈む......!」清美が悲鳴を上げ、船縁へしがみつく。仁は即座に判断した。「清美、俺と泳いで岸へ戻る。里奈は船で待ってろ。清美を岸まで送ったら、すぐ戻る」里奈は信じられないという目で彼を見る。「彼女は泳げるのに、私は泳げないのよ?本気でそれを言ってるの?」湖水はすでに膝まで達していた。氷のように冷たい。仁は清美の重いコートを脱がせながら、急ぎ口調で言う。「清美は泳げても、足がつったり、体力が尽きたりしたら危険だ。お前は船に乗
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第3話
「......怒って、ないのか?」仁は探るように問いかけた。里奈はゆっくり顔を向ける。その瞳は空っぽだった。「仁はもう、説明してくれたんでしょう?だから怒る理由ないじゃない」その瞬間、仁の胸が理由もなくざわついた。ちょうどその時、病室の扉が開く。目を赤くした清美が入ってきた。彼女はすでに乾いた服へ着替え、髪も整えている。手にはリンゴの入った袋を提げていた。「里奈さん、目が覚めたんですね!」彼女は慌ててベッド脇へ駆け寄り、心配そうに顔を覗き込む。「体の方は大丈夫ですか?本当に怖かった......ごめんなさい。全部、私のせいです。私が――」「清美」仁が口を挟んだ。「あれは清美のせいじゃない。謝る必要はない」清美は一瞬きょとんとしたあと、柔らかく笑う。「じゃあ、湯たんぽにお湯入れてきますね。里奈さん、湖に落ちて身体が冷えてるだろうし、温めないと」仁は頷いた。「俺は食堂で何か買ってくる」彼は一度里奈を見た。何か言いたげだったが、結局そのまま病室を出て行く。部屋には二人だけが残った。清美は洗面所で湯たんぽへお湯を入れ始める。ざあざあと水音が響いていた。しばらくして、熱湯の入った湯たんぽを持って戻ってくる。だが彼女はそれを里奈へ渡さなかった。ベッド脇に立ったまま、手の中のゴム製の湯たんぽを見下ろしている。「里奈さん」彼女は小さな声で言った。「湯たんぽって、面倒ですよね。ちょっと温まるまで時間もかかるし。実はもっと早く、身体全部を温める方法があるんです」里奈が意味を理解する前に――清美は突然、湯たんぽの栓を捻った。次の瞬間、沸きたての熱湯がそのまま里奈の胸元へ浴びせかけられる。「――っ、ああぁっ!!」激痛が一瞬で全身を貫いた。里奈は悲鳴を上げ、ベッドの上で跳ね起き、そのまま重く倒れ込む。熱湯は入院着を一気に濡らし、皮膚を剥ぎ取るような灼ける痛みが広がった。目の前が真っ黒になり、息もできない。もがいた拍子にベッドから転げ落ち、頭を棚の角へ強く打ちつける。そこで意識は完全に途切れた。再び目を覚ました時には、外はもう夜になっていた。病室には小さな明かりが一つだけ灯っている。仁がベッド脇に座り、彼女の手を握っていた
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第4話
里奈は呆然とした。彼を見つめる。相変わらず整ったその顔が、今はひどく見知らぬものに思えた。そして突然、涙が出なくなった。胸いっぱいに溜まっていた悔しさも、苦しさも、伝えたかった言葉も――全部が喉元で塞がり、最後には深い絶望だけが残る。――そう。全部、解決したのだ。彼女は涙を拭い、背を向けて静かに目を閉じた。その後の数日間、仁は病院へ泊まり込みで彼女を看病した。食事を食べさせ、薬を塗り替え、夜は病室の椅子で眠りながら付き添う。けれど里奈は、もう彼に一言も話さなかった。......退院の日。仁は車で彼女を商店街へ連れて行った。彼はスキンクリームや髪留め、淡い水色のスカーフ、それに箱入りの高級菓子を二つ買い込む。里奈は、彼がそれを車へ積み込む様子を見ながら、自分への埋め合わせなのだと思った。「......必要ないわ」久しぶりに口を開く。「持って帰って」だが仁は軽く笑い、エンジンをかけた。「お前へのじゃない。今日は清美の誕生日なんだ。これはあの子へのプレゼント」里奈の指先がぎゅっと強張る。車はそのまま大きな邸宅の前で停まった。庭からは賑やかな音楽と笑い声が聞こえてくる。仁は大量の荷物を抱えて車を降り、動かない彼女を見て振り返った。「降りろよ。前の件、清美もずっと気にしてて、お前に会いづらそうにしていたんだ。でもこれからも顔を合わせるんだし、あまり険悪なままじゃ困るだろ。今日の贈り物は俺が代わりに選んだから、お前から渡して関係を修復しよう」里奈は車内で黙ったまま胸元を押さえた。火傷の跡が、じくじくと疼く。清美は熱湯を浴びせた相手だ。その本人と「仲直り」しろと言うのか。――どれだけ馬鹿げているの。「行かない」短く言い切る。しかし仁は車のドアを開け、そのまま彼女の腕を掴んだ。「わがままを言うな。みんな見てるんだ。プレゼントを渡して、少し話せばそれで終わりだから」力が強すぎて、里奈は半ば無理やり車から引きずり下ろされた。庭は華やかに飾り付けられていた。色とりどりのリボンや風船。若い男女が大勢集まっている。清美は真新しい赤いワンピースを着て、人々の中心で笑っていた。二人の姿を見つけると、すぐ駆け寄ってくる。「仁さん!里
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第5話
仁の目つきが鋭く変わった。その視線が、その場にいる全員をゆっくり見渡していく。彼はただ立っているだけで強い威圧感を放つ男だった。ひとたび表情を曇らせれば、庭全体が息苦しいほど静まり返る。「清美のネックレスは大切な形見だ。必ず見つけてくれ」低い声だったが、有無を言わせぬ圧迫感があった。「全員の潔白を証明するためにも、捜索に協力してもらう。男性は俺が確認する。女性は――」彼は近くにいた年配の婦人会の代表へ視線を向けた。「申し訳ありませんが、お願いできますか」つまり、持ち物検査だ。だが仁の立場を考えれば、誰も正面から反対などできない。しかも「遺品」ともなれば尚更だ。代表は頷き、女性たちのポケットや鞄を順番に調べ始める。そして里奈の番になった時――代表は困ったように仁を見た。仁は、感情の読めない顔で立っている里奈を見つめ、低く言い放つ。「例外はなしだ」代表は仕方なく口を開いた。「村越さん、失礼しますね」彼女が里奈のコートのポケットへ手を入れた、その瞬間――中から、なくなったはずの銀のネックレスが出てきた。しかも取り出された時には、留め具が壊れて切れていた。清美はそれを奪い取るように抱きしめ、さらに激しく泣き出す。「どうして......盗んだだけじゃなくて壊したんですか!?これはお父さんが遺してくれた、たった一つの形見なのに......!」仁の顔色がみるみる険しくなった。彼は大股で近づき、切れたネックレスを手に取る。それから里奈を見るその眼差しには、驚きと失望、そして押し隠された迷いが混ざっていた。「里奈」声は重く沈んでいる。「......何か言うことはあるか?」里奈は彼を見た。それから、泣き崩れる清美を見た。涙に濡れた顔の奥に、隠しきれない悪意が見える。その瞬間、もう何もかもがどうでもよくなった。疲れ果てて、言い訳をする気力すら湧かない。「私が盗んでないって言ったら?」彼女は静かに口を開く。「彼女の嘘だって言ったら、あなたは信じる?」仁の喉がわずかに動いた。だが、答えは返ってこない。代わりに清美の泣き声がさらに大きくなった。周囲からも小さな囁きが漏れ始める。「現物が出てきたんだから......」「まさか村
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第6話
労働更生施設で、里奈に割り当てられた仕事は下水掃除だった。一日目。悪臭に耐えきれず、彼女は三度も吐いた。手のひらの皮は擦り剥け、焼けるように痛む。二日目。腰が曲がったまま伸ばせないほど疲れ切り、夜は冷たい雑魚寝部屋で、周囲の人たちのいびきを聞きながら朝まで眠れなかった。三日目の午後。清美がやって来た。上品なウールのコートを着込み、手には小袋のお菓子。後ろには、仁からつけられた部下が控えている。彼女は作業場のそばで鼻を押さえながら、泥と汚れにまみれた里奈を上から下まで見回し、くすりと笑った。「もっと手強い相手かと思ってたのに」豆を口へ放り込みながら、軽い口調で言う。「まさか、ちょっと細工しただけで、仁さんがあっさりあなたをここへ送るなんてね」里奈はスコップに体重を預けたまま、何も答えなかった。「どうしたの?悔しい?」清美は二歩ほど近づき、声を潜める。「じゃあ、もう一つ秘密を教えてあげる。あなたのお父さん、『女の子に触った』って通報されたでしょう?あの女の子は、わ・た・し」里奈は勢いよく顔を上げた。「私が仕組んだの」清美は目を細めて笑う。「わざと転んで、助け起こそうとしたお父さんに触られたって騒いだだけなの。だって相手は男で、私は女だもの。私が被害者だって言えば、みんな信じるでしょう?」――ガンッ!頭の中で何かが爆発したようだった。耳鳴りが止まらない。視界がぐらぐら揺れる。清美の歪んだ笑顔だけが、目の前で醜く滲んでいた。父親は――冤罪だった。誠実で、真っ直ぐに生きてきた父親が。突然変質者の汚名を着せられ、人生を壊され、地方へ追いやられようとしている父親が。全部、この女の気まぐれな悪意のせいだった。怒りと悲しみが、一瞬で全身を呑み込む。「どうして......!どうしてそこまでするの!?」「だって、仁さんが好きだから」清美は当たり前のように答えた。「で、あなたは彼の婚約者でしょう?私と仁さんが一緒になるためには、一番邪魔だったの。だから消えてもらわなきゃ」――そんな理由で?そんなくだらない理由で、この女は自分と父親を地獄へ突き落としたのか。里奈はもう耐えられなかった。彼女は突然前へ飛び出し、清美の顔へ掴みかかろうとする。
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第7話
泣きたかった。叫びたかった。どうしてそんなことができるのか、問い詰めたかった。けれど言葉が喉元まで込み上げたところで、里奈は目の前の男を見つめる。相変わらず整った顔。それなのに、もう別人みたいに遠かった。その瞬間、全部がどうでもよくなった。彼女は深く息を吸い込み、喉奥へ込み上げた血の味も、荒れ狂う感情も、無理やり押し殺す。顔に残ったのは、死んだような無表情だけだった。「今日来たのは、その話をするためじゃない」里奈は淡々と言った。「地方移住者と同行家族の名簿よ。確認して、署名を」仁は少し意外そうに眉を寄せ、名簿を受け取った。「なんでお前がこれを?」何気ない口調で尋ねながら、彼は最後のページを開く。だが中身をちゃんと確認することもなく、そのまま机の引き出しから公印を取り出し、指定欄へ赤い印を押した。――どうして里奈が持って来たのか。答えは簡単だった。今回、地方へ送られる人間の中に、彼女自身も含まれているからだ。里奈はかすかに口元を歪める。答えようとした、その時だった。突然、執務室の扉が開く。清美が顔を覗かせ、にこやかに笑った。「仁さん、今日はお休み取って、新作映画に連れてってくれるって言ってたよね?準備できたよ!行きましょう」仁は里奈をちらりと見た。一瞬だけ迷うような表情を浮かべたが、すぐに頷く。「ああ、行こう」上着を手に取り、扉へ向かう。だが途中で足を止め、振り返った。「里奈、今回は映画のチケットが二枚しか取れなかったんだ。来週にしよう。来週は必ずお前も連れて行くから」里奈は何も答えなかった。彼女の静かな顔を見つめていると、仁の胸にまたあの言いようのない不安が込み上げてくる。何か言おうと口を開きかけた。しかし清美が彼の腕を抱き寄せる。「早くしないと始まっちゃうよ!」扉が閉まった。廊下に響く二人分の足音が、少しずつ遠ざかっていく。里奈はその場に立ち尽くしたまま、手の中の名簿を見下ろした。最後のページ。家族欄には、「村越里奈」という名前が整った文字で記されている。その上には、仁が押したばかりの真っ赤な公印。彼自身の署名。彼自身の印。――自分を追放するための印だった。里奈は静かに名簿を閉じ、執務室を後
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第8話
映画を見終えた後、仁は清美を家まで送っていった。車の中で、清美は甘えるような声を出す。「仁さん、今日の映画すごく面白かった~来週も一緒に観に行きましょうか?」仁は上の空のまま、「ああ」とだけ返した。頭に浮かぶのは、里奈が執務室を去る時のあの顔だった。静かで。冷え切っていて。まるで何も残っていないみたいな顔。彼は眉を寄せる。「清美。今日、君が急に執務室へ来たのは良くなかった。里奈もいたんだ。あんな言い方をしたら、誤解される」清美はすぐに不満そうな顔をした。「映画が始まる時間だったから呼びに来ただけなのに......また里奈さん怒ったの?ほんと心が狭い人だよね。仁さんは十分優しくしてるのに、感謝もしないなんて」仁は返事をしなかった。彼女を家の前で降ろすと、そのまま車をUターンさせ、村越家へ向かう。胸の奥の得体の知れない不安が、どんどん大きくなっていた。里奈の顔を、一目見たかった。村越家へ着き、扉を叩く。だが返事はない。隣家の住人が顔を出した。「村越親子を探してるのかい?今朝、車で連れて行かれたわよ。地方移住だって」仁の頭が真っ白になる。「......移住?何の話だ?」「ほら、強制わいせつの罪で処分が決まったでしょう?お父さんが地方送りになって、娘さんも家族だから同行。朝早く地元の組織の車が迎えに来たわ。もう県境を越えてる頃じゃないかしら」その瞬間。仁の脳裏に、午後の里奈の言葉が蘇る。「地方移住者と同行家族の名簿よ。確認して、署名を」――そして自分は、ろくに中身も見ず、最後のページに印を押した。仁は弾かれたように車へ飛び乗り、警備隊へ戻った。執務室へ駆け込み、机や棚をひっくり返す勢いで名簿の控えを探す。――ない。彼は震える手で地元の組織へ電話をかけた。受話器を握る指先が震えている。「今日の移住者の中に、村越里奈が入ってるのか?!」電話口の相手は怪訝そうに答えた。「ええ、岩田さんご本人が署名と押印をされましたよ。里奈さんは村越浩一郎(むらこし こういちろう)の娘として、北方の紅葉村へ移住です。あ、そうそう。向こうでは林淳(はやし じゅん)っていう男性と結婚する予定だそうです。地域定着支援の一環で――」そこまで聞いたところで、仁は電話を叩き切
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第9話
列車はまだ到着していなかった。仁はホームへ駆け上がり、追い詰められた獣のように何度も行き来する。夜風に制服の裾が激しくはためいていた。午前2時ちょうど。汽笛を鳴らしながら列車が駅へ滑り込んでくる。仁は一目でそれを見つけた。移住者たちを押し込めた貨物車両。窓には鉄格子が打ち付けられ、中は人でぎゅうぎゅうだった。彼は駆け寄り、格子へしがみついて中を覗き込む。「里奈!里奈!!いるだろ!!」車内がざわついた。窓際に座っていた里奈を、隣の人間が軽く肘でつつく。「......あんた、呼ばれてるよ」里奈はゆっくり顔を上げた。鉄格子の向こうに、仁がいる。髪は乱れ、目は真っ赤に充血し、制服のボタンすら掛け違えていた。いつもの冷静で近寄りがたい姿など、どこにもない。けれど里奈は動かなかった。仁は彼女を見た瞬間、狂ったように車両の扉を引っ張る。だが鍵が掛かっていて開かない。彼は鉄板を叩きながら叫んだ。「里奈!降りてくれ!俺が連れて帰る!お前の父親の件は全部調べ直すから!お前はあんな所へ送られるべきじゃない!まして田舎の男と結婚なんて......!」里奈は静かに彼を見つめ、ゆっくり首を横に振った。仁の声が震える。「俺が悪かった......!里奈、本当に悪かった!一度だけでいい、やり直す機会をくれ!もう二度と清美には会わない!約束するから......!」発車ベルが鳴った。列車がゆっくり動き出す。仁は列車と並んで走りながら、必死に車体を叩く。「里奈!聞いてるのか!!」その時、里奈はようやく口を開いた。鉄格子越しの声は、驚くほど静かだった。「もう追わないで」彼女は彼を真っ直ぐ見つめる。「あの書類に署名したのは、あなた自身よ」列車はさらに速度を上げていく。仁はどんどん引き離されていった。彼は彼女の名前を叫び続けながら線路沿いを走る。だがついに足をもつれさせ、地面へ倒れ込んだ。砂利道で擦れた手のひらから、血が滲む。......仁は林城の宿舎で昼まで昏々と眠り続けた。目を覚ました時には、瞼が腫れ上がっていた。彼は冷水で顔を洗い、無理やり気持ちを落ち着かせる。そしてあらゆる人脈を使って村越浩一郎の事件の再調査を命じた。午後になると
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第10話
仁は、清美の歪んだ顔を見つめた。――気持ち悪い。心の底から、そう思った。恩師が死の間際、彼の手を握って言った言葉を思い出す。「清美を頼む」あの時の自分は、強く頷いた。実の妹のように大切に守ると、そう誓ったのだ。けれど――。その「妹」が、自分の最愛の人を壊した。未来の義父になるはずだった人を陥れた。そして、自分が手にするはずだった幸せを、すべて踏みにじった。仁は目を閉じる。再び開いた瞳は、血のように赤かった。「吉岡清美」その声は冷え切っている。「今日限りで、お前との関係は終わりだ。お前の父親への恩は、これで返した」彼は外へ向かって命じた。「こいつを連れて行け。虚偽告訴と名誉毀損――相応の罪で処分を」清美は悲鳴を上げた。「仁!!こんなことしていいと思ってるの!?お父さんが天国で見てるのよ!!」だが仁は、一度も振り返らなかった。清美の件を処理し終えると、彼はすぐに休暇を取り、二日二晩かけて列車に揺られ、さらにバスや荷車を乗り継いで、ようやく北方の紅葉村へ辿り着いた。制服姿ではあったが、全身は埃まみれ。顎には無精髭が伸び、やつれ切っていて、以前の精悍さは見る影もない。村の責任者は彼を見るなり仰天した。「い、岩田さん!?どうしてこんな場所へ......?」仁は掠れた声で言う。「村越里奈を探している」責任者は困った顔をした。「里奈さんなら、お父さんの浩一郎さんと一緒に農場の仕事へ......ですが岩田さん、その、実は――」「案内してくれ」仁は遮った。責任者は仕方なく先に立つ。道中、仁はこの土地の貧しさを目の当たりにした。荒れた畑。冷たい風。土だらけの道。幼い頃から大切に育てられてきた里奈が、こんな場所でどう暮らしているのか――想像するだけで胸が締めつけられる。開拓地の作業場へ着いた頃には、すでに夕暮れだった。責任者は山裾の粗末な土壁の家を指差す。「あそこです。村越一家はあそこで暮らしています。ただ、岩田さん......ひとつお伝えしなければ」彼は言いにくそうに続けた。「里奈さんは、三日前に村の林さんと結婚されました。地域定着支援の一環で、決定事項だったもので......」仁の全身から、血の気が引いた。彼は
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