All Chapters of 流産した私は天才ピアニストへの華麗な転身: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

空港?もう二度と戻らない?律はすぐに秘書へ飛行機の運航情報の確認を命じた。そして、役所に離婚記録の照会をかける。秘書からの返事はすぐに来た。紗雪が乗った国際線は、数時間前には離陸しているらしい。そして、役所の返事も早かった。離婚届は数日前に受理されていて、紗雪は、どうやら律が署名して渡した法的効力を持つ白紙の同意書を使っていたらしい。律はその場に立ち尽くし、全身から血の気が引いていくのを感じた。あの白紙の紙は、律が紗雪を愛し抜いていた頃に、限りない信頼と愛情を込めた贈り物だった。紗雪はそれをずっと大切に持っていて、決して使おうとはしなかったのに。まさか最初で最後の使い道が、二人の関係を終わらせるためだなんて。知らないうちに切り捨てられ、一方的に関係を断ち切られた怒りが、毒蛇のように律の心を蝕んだ。どうしてこんな真似ができるんだ?どうしてこれほど冷酷になれるんだよ?!心の内が混乱と怒りで埋め尽くされていたその時、病院の志保を担当している看護師から電話が入った。「神谷様、小池様の精神状態が非常に不安定で、お腹の子供にも影響が出ていますので、すぐに来ていただくことは可能でしょうか?」律は苛立ちを隠せないまま、眉間を揉んだ。こみ上げる感情を無理やり押し殺し、病院へと急ぐ。病室でニュースを見たのだろう。そこには、青ざめた顔の今にも泣きそうな志保がいた。志保がそっと律の胸に寄り添い、おずおずと口をひらく。「律くん……ニュース見たよ……律くんたち……本当に離婚したの?」律は志保の少し膨らんだお腹と、消え入りそうなその表情を見つめた。湧き上がる得体の知れない虚しさと苛立ちを消し去り、志保を抱き寄せると、淡々と答えた。「ああ、離婚した」志保の瞳にわずかな喜びがよぎったが、すぐに律を慮る表情を作った。「そう……なら、これで私と赤ちゃんも堂々と一緒にいられるね。それに、律くんにもこれ以上迷惑かけなくて済む……」そう言いながら、志保は自身の腹部を優しくなでる。「でも……紗雪さんに悪い気がして……」「紗雪」という名前を聞き、律の胸に棘が刺さったような痛みが走った。しかし、律は志保の話を遮り、自分でも驚くほど冷たい声で言い放つ。「あいつのことなんか気にするな。もう気持ちがなかったんだから、離婚するのが当然の結果だろ?志保さんと俺た
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第12話

画面には、律と紗雪が過ごした9年間が映し出された。高校でバスケをして律が怪我をした時、紗雪は目を潤ませ、「自業自得」「危ないことして」などと言いながら、そっと傷を洗って薬を塗ってくれた。大学のスピーチコンテストで賞を取った時、客席から見守ってくれていた紗雪の瞳は、どんな照明よりもきらきらと輝いていた。こっそりとデートをしていた時。律にからかわれて、「もう!」と楽しそうに肩を叩いた、あの弾けるような紗雪の笑顔。結婚式の日、神父の前で愛を誓ったあの瞬間。彼女の頬には、幸せの涙が伝い落ちていた。その他にも、日常のふとした場面が数多く収められていた。紗雪のピアノを弾く時の真剣な横顔、ソファで静かに本を読む姿。記念日を忘れた律に怒りながらも、プレゼントをもらえばつい笑ってしまっていた、あの可愛い表情……加えて、BGMはもの悲しく、胸に響くものだった。投稿に寄せられたコメントも、律の心をちくちくと刺してくる。【9年か……こんな9年、人生に何度もあるってわけじゃないよね】【学生から結婚までいったのに……現実ってそんな甘くないのかな?】【神谷社長が好きになった女って一体どんななんだろうね。神谷夫人よりもいい人がいるっていうの?】【上流階級にも愛があったと思ってたんだけどな……もう、消えちゃったみたい】【@神谷律、人の心を踏み躙った人なんか、幸せになれないから!】バタン!律は乱暴にノートパソコンを閉じた。胸が苦しくて、息もできない。胸の中には、自分でも分からない鋭い痛みが突き刺さり、律は苛立ちながらネクタイを緩めた。先ほど見たものの全てを、頭から追い出したかったのだ。自分の選択が正しいと示すため、律は志保をビジネス交流会へと連れて行き始めた。だが、初めての交流会は散々なものだった。場慣れしていない志保は極度に緊張し、海外の重要顧客に赤ワインをこぼしてしまった。取り乱して見苦しく謝る姿に、周りの出席者も引いてしまい、先方の機嫌も一気に損ねた。律は怒りを飲み込み、その場を取り繕い続けたが、疲労でどうにかなりそうだった。周囲の視線や噂話が、肌に刺さるように伝わってくる。「神谷社長の新しい相手……元の奥さんと比べると、その……」「しっ、聞こえるだろ。まあ、確かに雲泥の差だな」「紗雪さんは気品も会話のセ
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第13話

律の激しい言葉に、友人たちは言葉を失い、顔を見合わせることしかできなくなった。それでも律は気づいていた。友人たちの言葉が、植物の種のように、心の中で静かに根を張り始めていることに……律は強い酒を煽った。膨らみ続ける不安と、消せない後悔の念を紛らわせるために。志保との絆を証明するため、律はある場所を選んだ。それは、かつて紗雪との記念日には食事をしていた、都内を一望できる高級レストランだった。そして、紗雪にプロポーズした場所でもある。同じ席、同じ夜景、そして当時紗雪が好んだメニューを並べた。だが、向かい側に座る志保は、明らかに浮いていた。カトラリーの使い方がぎこちなく、耳障りな音を立てる。料理が運ばれても値段が高いだの、量が少ないだのと不満をこぼし、さらには外国語のメニューが分からないので、その都度律が説明しなくてはならなかった。極め付けは、興奮のあまり大声で話し始め、周りの客に白い目で見られたのだった。律は目の前の席を見つめた。かつて紗雪がいた場所に意識が向かい、当時の記憶が溢れ出してくる。優雅なドレスに身を包んだ紗雪の姿。落ち着いた振る舞い。レストランの中央にあったピアノで奏でた「夢の中のウェディング」。あの日の輝きが、今でも昨日のように思い出された。当時の彼女は眩しいほど輝き、この特別な場所に誰よりも似合っていた。それに比べて……ソースをこぼして慌てふためく姿を見ても、愛しさは感じず、込み上げたのは、言いようのない苛立ちと鋭い痛みだった。こだわり抜かれたディナーは、終始気まずく、味気ないまま幕を閉じた。1年後、志保が男の子を出産した。父親としての喜びに浸ろうとした。しかし、皺だらけの赤子を抱き、志保に似たどこにでもいる平凡な顔立ちを見た瞬間、言葉にできない喪失感に襲われた。かつての記憶が脳裏をかすめる。紗雪は以前、自分の腕の中で、甘えながらこう言っていた。「ねえ律。将来女の子が産まれたら、絶対あなたに似て瞳の綺麗なかわいい子のはずだよね」今となってはその娘どころか、そう語った本人も遠い場所へ行ってしまった。産後、志保の庶民気質で恥知らずな言動はさらにひどくなった。高い健康食を拒んでは隠れてデリバリーを頼み、栄養士に見つかって叱られては、大騒ぎをした。さらに、子どもが泣き止まないと感
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第14話

かつて「わがままで耐えられない」と捨てた元妻は、もう9年という歳月のなかで、律の一部になっていたようだ。彼女のプライド、その才能、甘えてくる姿、少し怒りっぽいところ。そのすべてが、律の人生に欠かせないものになっていた。それなのに、自分の手で紗雪を突き放し、手に入れたと思っていた「良妻賢母」など、ただの独りよがりの幻想でしかなかったらしい。目が覚めた今、残ったのは果てしない虚しさと後悔だけ。だが、すべてはもう遅すぎた。かつて自分を心から愛してくれていた紗雪は、あの火事の時に、他でもない自分自身の手によって殺してしまっていた。残された自分も、魂が抜けてしまったように、心が空っぽだ。自ら選んだ牢獄の中で、これからの人生をずっと、この胸の痛みと共に生きていかなければならない。時間が経っても、律の心に空いた穴が塞がることはなかった。むしろ、あの遅すぎた後悔が、日を追うごとに苦いものになっていく。志保との暮らしは、彼が夢見ていたような温かくて穏やかなものではなく、むしろ日を重ねるごとに、埋めがたい価値観のズレで、言い争いが増えていった。さらには、男の子を産んでから、志保は自分の立場が確固たるものになったと思い込んだらしい。日に日に欲深く、目先のことしか見えなくなっていった。贅沢をするだけでは満足できなくなった志保は、子供を理由にして、律に高額な資産や株の譲渡を求め、挙げ句の果てには、会社の幹部に何もできない親戚を無理やり雇うように言い張った。「ねえ、律くん。私の従兄はとても真面目な人なの。どこかの子会社の副部長にでもできないかしら?」「私の姪も仕事を探しているんだけど、営業のいいところで勉強させてくれないかな?」「うちの子は将来、神谷家を継ぐんでしょう?だったら、今のうちにいろいろ買ってあげてもいいんじゃない?」このような勝手な要求ばかりをしていては、会社の幹部や株主が黙っているはずもなく、彼らは会議の席で、遠回しに律へ何度も苦言を呈した。いい加減うんざりしていた律は、またもや遠い親戚の雇い入れをお願いする志保に対し、静かだが厳しい言葉を投げかけた。「志保さん、会社は遊び場じゃないんだ。厳しい基準をクリアした奴だけが働ける。だから、あなたはおとなしく、子供の面倒だけ見ていてくれ」志保は一瞬、呆気に取られていたが、す
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第15話

宴は最悪の雰囲気になり、そのままお開きになった。律はかつてないほどの屈辱を味わっていた。パートナーのせいで肩身の狭い思いをする――そんな経験は、紗雪と一緒にいた頃には一度もなかった。紗雪は名家の令嬢として育ち、立ち居振る舞いは洗練され、どんな場でも品格を失わない。彼の隣に立てば、その存在は自然と彼の評価を高めてくれ、少なくとも今のように、周囲の笑いものになることはなかった。だが、不運はそれだけでは終わらなかった。ちょうどその頃、神谷グループはとても厄介な海外のプロジェクトを抱えていた。相手企業の担当者はひどく気難しく、企業としての歴史や芸術的なセンス、世間のイメージを非常に気にする人物だった。かつて、こういった高いセンスや交渉力が必要な場面では、紗雪が裏で的確な助言をくれていたし、時には彼女が自ら前に出て、その豊かな教養と温かい人柄で問題を解決に導いてくれていたのだった。しかし今、チームが出した案は散々な評価で、志保に至っては全く状況を理解していない。それどころか「お金で解決すればいいじゃない」などという見当はずれなことさえ口にする。律は、仕方なく自分で先方とやり取りすることになったが、以前のようにスムーズにはいかず、ひどく疲れ果ててしまった。夜遅くにようやく書斎へ戻った彼は、参考にするため、過去に成功した資料を探すことにした。何かに導かれるようにして、彼はフォルダにパスワードを入力し、非公開データを表示させる。その中には、紗雪のイニシャルと日付がつけられたファイルが静かに並んでいた。それは、かつて律が、何気なくバックアップとして残しておいたもので、紗雪が彼のために作ってくれた、大切な取引先との打ち合わせ記録やプロジェクトのメモがぎっしりと残っていた。その中の一つをクリックしてみる。そこにあったのは、紗雪の端正で力強い筆跡だった。内容は整理され、論理も緻密だった。相手企業の文化的背景、芸術的な好み、抱えているであろう懸念まで鋭く分析され、提示された解決策は巧みでありながら、誠意にも満ちていた。文字の端々から、彼女の並外れた才能と洞察力がにじみ出ている。これらを用意するために、彼女が毎晩遅くまで資料を調べて、一生懸命がんばってくれた姿が目に浮かぶようだった。律はそれを見つめているうちに、まるで見えない手に
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第16話

しかし、返ってきた返事はどれも同じで、やんわりと断られるか、一方的に電話を切られるかだった。とうとう、しつこさに耐えかねた友人の一人が、態度は冷たかったが、それでも紗雪の電話番号を教えてくれた。「紗雪のスタジオの連絡先。用事があるなら自分でかけて」律は藁にもすがる思いで、すぐその番号に電話をかけた。しばらくして電話がつながると、事務的で落ち着いた若い女性の声が聞こえた。「はい、椎名紗雪スタジオです」「紗雪さんをお願いできますか?神谷律と申します」律は逸る気持ちを必死に抑えながらそう告げた。少しの沈黙が続いた後、冷静にはっきりとした相手の声が返ってきた。「申し訳ございません。椎名はただいまスケジュールの空きがございません。また、個人的なご連絡にはお答えしかねますので、もしお仕事の話でしたらスタジオの窓口にメールを送ってください。もし、その他の要件でしたら弁護士を通してください。では、失礼いたします」プー……プー……プー……虚しい音だけが響く。どうやら自分は、紗雪の世界から、完全に締め出されてしまったらしい。律は携帯を握ったまま固まっていた。窓から見える華やかな都会の夜景も、彼に押し寄せる心の暗闇を消し去ることはできなかった。そして、あっという間に何年かの月日が経った。まだ相変わらず志保と一緒に暮らしていた律。ある日、東都の名士や海外の賓客が集まる格式高いチャリティーパーティーがあり、パートナー同伴が必須だったため、律はやむを得ず志保を伴って出席していた。志保はこの日のために念入りに着飾っていた。高価なドレスを身にまとい、目を奪うほど豪華なジュエリーを身につけ、その顔には隠しきれない優越感が浮かんでいる。しかし会場に足を踏み入れた途端、彼女の場慣れしていない様子と教養のなさはすぐに露呈した。海外の招待客たちの洗練された会話についていけず、テーブルに並ぶカトラリーを使う順番にも戸惑う。さらには、ある有名海外ブランドの創業者との会話の席で、相手の洒落たジョークの意味を理解できず、その場の空気を凍らせてしまった。そして気まずさを誤魔化そうとしたのか、「そのブローチ、とても高そうですね!」と場違いな大声で褒めてしまう。周囲からは思わず苦笑が漏れ、ちらちらと視線が集まった。律は怒りを押し殺しながら何度もフォロ
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第17話

目の前の彼女はまばゆいほどに美しく、彼の記憶の中にあるどの瞬間よりも、まぶしい輝きを放っていた。あまりの美しさに息をのむと同時に、強い悔しさとやりきれないほどの嫉妬が、激しく胸を締め付ける。かつて、その美しい彼女の隣に並び、誇らしげに注目を浴びていたのは、自分だったのに。しかし、今は……志保も紗雪の姿に気づき、呆気に取られていたが、すぐに、その瞳の奥に深い嫉妬と憎しみを浮かべた。自分があまりにも無惨に負けているという事実が悔しかったが、何より、無視されているのが許せなかった。志保は深く息を吸い込むと、シャンパングラスを片手に、わざと腰をくねらせながら紗雪の前へと歩み出た。そして貼りついたような笑みを浮かべ、大きな声を出す。「あら、紗雪さんじゃないですか?お久しぶりですね!お元気そうで何よりです。もう過去のつらい思い出からは、すっかり抜け出せたみたいで安心しました。ところで、隣の素敵な男性は……新しい彼氏さんですか?おめでとうございます!」志保は挑発をたっぷり込め、周囲の関心を紗雪の新しい恋に引きつけようとした。一瞬にして、会場中の視線が、その小さな片隅に集まる。律は顔をしかめ、焦って止めに入ろうとしたが、もう間に合わなかった。紗雪が足を止め、冷静な目を志保へ向けた。でも、それはまるで、どこか滑稽な道化師でも見つめているかのような視線だった。すると、紗雪がふっと口元を緩め、どこか冷ややかで軽蔑を含んだ静かな笑みを浮かべると、上品にグラスを持ち上げた。「志保さん。お久しぶりです」そして、一呼吸置いた紗雪は、志保の隣で顔を青ざめさせている律へ、ほんの一瞬だけ視線を向ける。そして、再び視線を戻し、静かに口を開いた。その声はどこまでも落ち着いていて、感情的な響きは微塵もなく、志保の見栄と虚栄で塗り固めた化けの皮を、淡々と切り裂いていくようだった。「そちらもおめでとうございます。ついに……願いが叶ったみたいで」「願いが叶った」たったそれだけの言葉。しかし、志保にとっては、それが耳元で雷鳴のように響いた。かつて人目を避けるように使った姑息な手段や、周到に仕組んだ駆け引き。そしてようやく手に入れたはずなのに、どこか満たされない今の立場も、その一言だけで、すべてを見透かされたような気がした。志保の顔がみるみる赤く
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第18話

「神谷社長」と、彼女は言った。冷たく澄んだ泉のような声。その一言が、限界まで張り詰めていた律の心を容赦なく切り裂いた。「場をわきまえてください」一旦間を置くと、紗雪は律を横目に見てから、顔を真っ青にしている志保に視線を移す。そして、口角を歪め、ふっと鼻で笑った。「あなたがあの日、私とお腹の子どもを2階から突き落とすと決めた瞬間から、私たちの間に話すことなんてないんですよ」そう言うと、紗雪はもう律を見ようともしなかった。そばで待つ駿の腕に自然と寄り添い、ふたりは並んで人混みの中へと歩き去っていく。お似合いで、迷いのない後ろ姿。律はその場から動けずにいた。その宙で行き場をなくした指に残るのは、冷たい虚しさだけ。周囲の抑えた笑い声や、憐れみや軽蔑が込められた視線が、無数の針となって容赦なく律に突き刺さる。そして、憤りと屈辱に顔を歪める志保と、遠ざかっていく、まぶしいほど輝いている紗雪を見比べた……あまりにも大きな落差。そして、取り返しのつかない敗北感が律を飲み込んでいく。このチャリティーパーティーが導火線のように、律が長年胸の奥に押し込めてきた焦燥感、恐れ、そして報われない執着心……その全てに火をつけた。紗雪の圧倒的な美しさと、何一つ非の打ち所がないほど完璧だった隣のあの男。その姿は棘のように律の心に突き刺さり、夜も眠れぬほどの苦しみを与えていた。会社に戻るなり、律はあらゆる人脈と手段を使って、駿という男の身辺調査を徹底的に行った。すぐに恐ろしいほど詳細な結果が、机の上に並べられた。駿という男は、格式高い名家に生まれ、家業も金融や芸術、さらには美術品といった数多くの分野に広がっており、その財力や影響力は神谷グループに少しも引けを取らなかった。そして、駿自身も海外の大学で学び、経済学と美術史の博士号を持っているらしく、優れた経営者であるとともに、国際的な芸術品収集家としても業界で名が知れ渡っているようだ。何よりも重要なのは、浮いた噂ひとつない真っ白な経歴。まさに完璧な、最高ランクの独身男性と言っても過言ではないだろう。調査報告の最後には、こう添えられていた。【一ノ瀬駿は椎名紗雪に対し、誠実かつ熱心なアプローチを続けている。そして椎名紗雪の方も拒絶はしておらず、ふたりの関係は急速に縮まっているようだ】バンッ!
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第19話

志保は律の怒鳴り声にびくっとして振り返った。律のその酷く引きつった暗い顔に一瞬唖然としたが、すぐに不満と怒りがこみ上げてきた。何よりも、今日のチャリティーパーティーで主役のように美しく輝いていた紗雪の姿と、紗雪に心を奪われていた律の様子が、志保の頭から離れず、激しい嫉妬を湧き立たせた。「私が怒鳴り散らしてるって?!」志保が耳を塞ぎたくなるような金切り声でなじるようにまくし立てる。「律くん!私に八つ当たりしてるわけ?!悔しいならあの元嫁に会いに行ってみればいいじゃない!行けるもんなら、行ってきなさいよ!今さら紗雪さんがあなたを相手にするとでも思っているの?!もう、あの人の隣にはあなたよりもずっと若くて、格好よくて、お金がある人がいるんだから!私に当たるのはよしてよね!」その言葉たちは、毒の塗られた鋭いナイフとなって、律の胸の急所を完璧に貫いた。律は激しい怒りで身体を震わせ、志保を指差したが、そのまま何も言えなかった。律を感情のまま罵倒してしまったものの、志保は言いすぎたということにすぐ気づき、律のあまりにも険しい顔を見ると、彼女は再びいつもの可哀想な表情を浮かべ、目に涙をためて言った。「律くん……ごめんなさい……わざとじゃないの……今日のパーティーで紗雪さんに、馬鹿にされたから、ちょっと気が滅入ってて。それに、律くんも、紗雪さんのことばかり考えてるみたいだったから……あなたがどこかに行ってしまうんじゃないかって、心配でたまらなかったの……私みたいな人間は、律くんたちみたいな家柄の人の前では、卑屈になっちゃって……」もし以前なら、こうして自分を下げ、可哀想な表情を浮かべる志保を見れば、律の心は動かされていた。だが今は違った。目の前にあるのは、涙で崩れた顔に、怒りのせいで醜く歪んだ表情。それを見つめる律の脳裏には紗雪の姿が浮かぶ。あの落ち着いた眼差し、揺るぎない自信を宿した表情、そして、凛とした佇まい。比べた瞬間、律の胸に湧き上がったのは同情でも罪悪感でもなかった。ただ、どうしようもない嫌悪感だけ。もう一言たりとも話したくない。そう思った次の瞬間、律は勢いよく背を向けた。そしてドアを乱暴に閉め、そのまま家を後にする。激しい音が響き渡り、邸宅全体が震えたように感じられた。彼が向かったのは、行きつけのバーだった。カウ
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第20話

あまりの事実に律は酔いが一気に覚めた。全身が冷え切り、氷の底に突き落とされたような感覚に襲われる。志保は少しわがままで欲張りなだけだと思っていた。だが彼女が裏で、紗雪にこんなひどい仕打ちをしていたなんて!そんな女のために、自分は紗雪を何度も追い詰めてしまった!紗雪の苦しみと絶望を思い、律の心は張り裂けそうになった。息もできないほどの痛みと共に、志保への嫌悪と憎しみが頂点に達する。律はソファから飛び起きると寝室に駆け込み、眠っていた志保を叩き起こした。「何っ!」驚いて飛び起きた志保は、鬼の形相で自分を見つめている律に尋ねる。「律くん……何してるの!?」律の目は冷え切っていて、まるでゴミを見るような嫌悪感に溢れていた。「お前のしてきたことを全部聞いたぞ。俺はどうかしていた。明日、弁護士に離婚の手続きをさせるから。金は渡すから、もう二度と俺の前に姿を現すな!」一瞬呆気に取られていた志保だったが、状況を理解した瞬間、泣き叫んで、律に縋りついた。「嫌よ!律くん、ごめんなさい!二度とあんなことしないから!私たちには、子供だっているんだよ?許して!あなたがいなきゃ私はだめなの!」「許す?」律は冷たく笑い、志保の手を振り払った。「お前と出会ったのも、一緒になったことも後悔しているよ。お前のその顔を見るだけで吐き気がする!」容赦ない言葉に志保は絶望し、泣き崩れた。「あなたに人の心ってものはないの!?あなたの息子を生んで、ここまで支えてきてあげたのに!紗雪さんが今成功しているから、後悔してるんでしょ?!私を捨てるつもり?諦めて!私は、あなたと離婚なんて絶対しないから!」痺れを切らした律は、ボディーガードを呼んで志保を無理やり引きずり出した。泣き叫んで抵抗する志保を無視し、冷え込む夜の外へと放り投げる。志保を外に出しても、律の心はひどく荒れていたが、そこにはどこか歪んだ「開放感」も混ざっていた。大きな障害を取り除いた今、もしかして……紗雪ともう一度やり直せるのでは?そんな考えが浮かび、律の心臓が激しく高鳴った。縋るような思いで伝手を辿り、苦労の末に紗雪の個人用携帯の番号を入手した。深呼吸をし、祈るような緊張と期待を抱えながら、律は震える指で発信ボタンを押す。ようやく電話が繋がり、とても優しく、心地の良い声が聞こえてきた。
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