上流階級の社交界では、こんな噂がまことしやかに囁かれていた――この世の男は誰だって浮気する可能性がある。だが、神谷律(かみや りつ)だけは別だ、と。律は己に厳しく、品格を何より重んじる男だった。そして、彼の眼差しが向く先は、学生時代から連れ添い、妻となった神谷紗雪(かみや さゆき)ただ一人。しかし結婚して5年目、紗雪のもとに、律に愛人がいるという知らせが届く。送られてきた写真を見た瞬間、紗雪は固まってしまった。なぜならその愛人というのが、誰もが想像するような若く美しい女性でもなければ、仕事で成功を収めた魅力的な女性でもなかったのだ。相手は、離婚歴のある、それも小さな弁当屋の店主。特別な家柄でもなければ、人目を引くような美貌の持ち主でもない。それどころか、律より3歳も年上だった。だが、その写真の中で律が彼女に向ける眼差しには、隠しようのない深い愛情と優しさが宿っていた。夜の9時、律が帰宅した。相変わらず、完璧にスーツを着こなした姿で、冷静で近寄りがたいほど整った佇まい。紗雪は明かりもつけず、リビングのソファに座って彼を待っていた。律が近づいてきた瞬間、彼女は手元にあった写真の束を勢いよく投げつける。写真が床に散らばり、乾いた音を立てた。「律。どういうこと?」律が一瞬だけ黙り込んだ。そしてしゃがみ込み、床に散らばった写真を一枚ずつ拾い上げていく。潔癖症気味の彼なら、本来であれば写真についた埃の方を気にするはずなのに、そのとき律が指先でそっと拭ったのは、写真に写る女性の頬についた薄い汚れだった。律は写真を手にしたまま顔を上げると、静かに口を開いた。「どういう事も何も、彼女のことが好きなんだ」その瞬間、紗雪は喉を見えない手で締めつけられたように、呼吸ができなくなり、頭の中が真っ白になった。「好き?」紗雪の声が震える。「じゃあ私は何?律、16歳の夏、あなたが私に告白してくれたとき、耳を真っ赤にしながら、一生私だけを愛し抜く、他の女なんか絶対に好きにならないって言ってくれたよね?」しかし、取り乱す紗雪の姿を見つめる律の瞳には、微塵も迷いはなく、ただ疲弊だけが浮かんでいた。「ああ」そして、相変わらず淡々とした、それでいて残酷なほどにも冷たい声で律が続ける。「でもな、紗雪。もう、お前を愛することに疲れたんだよ。付き合っ
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