All Chapters of 流産した私は天才ピアニストへの華麗な転身: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

上流階級の社交界では、こんな噂がまことしやかに囁かれていた――この世の男は誰だって浮気する可能性がある。だが、神谷律(かみや りつ)だけは別だ、と。律は己に厳しく、品格を何より重んじる男だった。そして、彼の眼差しが向く先は、学生時代から連れ添い、妻となった神谷紗雪(かみや さゆき)ただ一人。しかし結婚して5年目、紗雪のもとに、律に愛人がいるという知らせが届く。送られてきた写真を見た瞬間、紗雪は固まってしまった。なぜならその愛人というのが、誰もが想像するような若く美しい女性でもなければ、仕事で成功を収めた魅力的な女性でもなかったのだ。相手は、離婚歴のある、それも小さな弁当屋の店主。特別な家柄でもなければ、人目を引くような美貌の持ち主でもない。それどころか、律より3歳も年上だった。だが、その写真の中で律が彼女に向ける眼差しには、隠しようのない深い愛情と優しさが宿っていた。夜の9時、律が帰宅した。相変わらず、完璧にスーツを着こなした姿で、冷静で近寄りがたいほど整った佇まい。紗雪は明かりもつけず、リビングのソファに座って彼を待っていた。律が近づいてきた瞬間、彼女は手元にあった写真の束を勢いよく投げつける。写真が床に散らばり、乾いた音を立てた。「律。どういうこと?」律が一瞬だけ黙り込んだ。そしてしゃがみ込み、床に散らばった写真を一枚ずつ拾い上げていく。潔癖症気味の彼なら、本来であれば写真についた埃の方を気にするはずなのに、そのとき律が指先でそっと拭ったのは、写真に写る女性の頬についた薄い汚れだった。律は写真を手にしたまま顔を上げると、静かに口を開いた。「どういう事も何も、彼女のことが好きなんだ」その瞬間、紗雪は喉を見えない手で締めつけられたように、呼吸ができなくなり、頭の中が真っ白になった。「好き?」紗雪の声が震える。「じゃあ私は何?律、16歳の夏、あなたが私に告白してくれたとき、耳を真っ赤にしながら、一生私だけを愛し抜く、他の女なんか絶対に好きにならないって言ってくれたよね?」しかし、取り乱す紗雪の姿を見つめる律の瞳には、微塵も迷いはなく、ただ疲弊だけが浮かんでいた。「ああ」そして、相変わらず淡々とした、それでいて残酷なほどにも冷たい声で律が続ける。「でもな、紗雪。もう、お前を愛することに疲れたんだよ。付き合っ
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第2話

紗雪は雷に打たれたような衝撃を受け、その場に立ちすくんだ。自分でも何にこれほど動揺しているのか、分からない。志保が突然事故に遭ったから?いや、違う……きっと、あの女がすでに律との子供を孕んでたからだろう。律と結婚して5年間、律はずっと避妊具を使用していたから、二人の間には子どもができることはなかった。それなのに、律は一緒になって間もない志保と……1週間後、律が帰ってきた。彼は何も言わない。問い詰めることも声を荒げることもなく、ただ紗雪には意図が読めない、底知れぬ瞳でじっと彼女を見つめていた。それから急に紗雪の手を強引に引き、無理やり衣服を脱がせ始める。「律!何するの!」恐怖を感じた紗雪は、抵抗した。それでも律は耳を貸さず、そのまま紗雪をベッドに押し倒すと、まるで狂ったように彼女を求めた。その夜から丸2ヶ月の間、律はまるで人が変わってしまったようだった。会社にも行かず、志保に連絡をすることもなく、昼夜関係なく紗雪を激しく求め続ける。一日に何度も、休む暇さえない激しさは、自傷行為にも思えるほどで……体も心も限界に達した紗雪は屈辱を味わいながらも、心のどこかでは淡い望みを抱いていた。もしかしたら彼は、深く傷ついているのかもしれない。それとも目が覚めたから、こうやって志保を忘れ、自分の元へ帰ってこようとしているのか?だから、紗雪は黙ってすべてを受け入れ、されるがままになった。そんなある日、激しい吐き気に襲われた紗雪は、ある胸騒ぎを覚え、ひとりで病院に行って検査を受けた――結果は妊娠。まだ平らなお腹をなでる。もしかしたらこの子が、夫婦の間の溝を埋めてくれるかもしれない。だが、現実はそんなに甘くはなかった。律に妊娠を伝えても、かつてのような優しい表情はなく、その表情は氷のように冷たいものだった。少しの沈黙の後、彼はボディーガードの一人に目配せをすると、淡々と命令を下す。「こいつを2階から投げ落とせ」紗雪は自分の耳を疑った。「律、な……何言ってるの?お腹の中には、あなたの赤ちゃんがいるんだよ!」だが紗雪を見つめる律の瞳には、かつての優しさも、深い愛情も、もう残ってはいなかった。そこにあるのは、怒りと悲しみ……そして、抑えきれない憎しみだった。「じゃあお前は、あの時、志保さんのお腹に俺の子がいたこと
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第3話

紗雪は書類に署名をすると、弁護士を呼んだ。「離婚に関する手続きをお願いします」紗雪の声は、少し恐怖を感じるほど、静かだった。弁護士が頷く。「承知いたしました。離婚届にはご主人様の署名がありませんので、先ほどお持ちいただいた署名入りの書面を代用したい、ということでよろしいですね?ただ、かなり特殊なケースですので、手続きには一か月ほどお時間をいただくかと思います」「分かりました」無表情のまま、紗雪は言った。「なるべく急いでください」弁護士が部屋を出ると、病室には紗雪だけとなった。そっと目を閉じたが、涙はもう出ない。心が空っぽになってしまい、悲しむ力さえ残っていなかったのだ。その時、病室のドアが静かに開いた。弁護士が戻ってきたのかと思い紗雪が目を開けると、そこには一番会いたくない相手、志保が立っていた。志保が自分から訪ねてくるとは思ってもみなかった。「何の用ですか?」紗雪の声が掠れる。「紗雪さん」相変わらず、気弱でおとなしい雰囲気の志保。その手には、保温ジャーが握られていた。「律くんが、紗雪さんにしたことを聞きました。もし、私がその場にいたのなら、絶対に止めたのに……」そんな芝居がかった言葉など、聞きたくもなかった紗雪は、冷ややかな目で志保を見つめた。しかし、志保は涙ぐみながら一方的に話し続ける。「でも、律くんの気持ちも分かってあげてください。私たちの子供を失った時の律くん、私に抱きつきながら、子どもみたいに泣いていたんです。あの子どもは二人の愛の結晶だったのに、って……それに、律くんは一睡もせずに、何日も私の看病をしてくれて……」その一つ一つの言葉が、まるで毒を含んだナイフのように、ボロボロになった紗雪の心をえぐっていく。「もし、そんなことを言いにきたのであれば」紗雪の掠れた声が、志保の話を遮った。「帰っていただけますか?」すると、怯えたような表情を浮かべた志保が、すぐに手元の保温ジャーを紗雪に差し出す。「ち……違うんです。栄養のあるものを食べて欲しくて、野菜スープを作ってきたんです」「結構ですので、持ち帰ってください」紗雪は嫌悪を隠さずに、顔を背けた。その瞬間、志保から怯えるような雰囲気が消え、冷たい表情がその顔に浮かぶ。「そんな……このスープは絶対に飲んでもらわないと……」次の瞬間、なん
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第4話

ドアを開けた律は、ちょうど紗雪が志保に平手打ちを叩き込む瞬間を目撃した。一瞬で険しい表情を浮かべた律が、大股で病室の中へと入ってきて、紗雪を乱暴に突き飛ばした。ただでさえ意識を取り戻したばかりの紗雪は、バランスを崩し、背中を冷たい壁に強打した。あまりの痛さに息を呑む。「紗雪!何しているんだよ!」志保を庇うように立っている律が、怒りに震える目で紗雪を睨みつけた。すると、志保はすぐに律の胸に顔をうずめ、泣きじゃくりながら出鱈目なことを言い始める。「律くん……紗雪さんのこと、責めないであげて。私が悪いの……私なんかがここに来るべきじゃなかったから……」赤くなった志保の頬を見て、心を痛めた律は、紗雪を再び睨みつけ、声を荒らげた。「紗雪、まさかお前がこんなことする女だったとはな。志保さんはお前のことを心配して、お見舞いに来てくれたんだぞ?なのに、どうしてそんな態度を取るんだ?」怒りで完全に我を忘れた律は、入り口に控えさせていたボディガードへ冷酷に命じる。「こいつに100発平手打ちをしろ。志保さんを傷つけたんだ。何倍にしてでも、苦しめてやる」志保がわざとらしく、律を引き止めた。「そんなの駄目だよ、律くん!紗雪さんは意識を取り戻したばかりだし、何より子どもを失ったの。そんなことしたら、体がもたないよ……」律は志保を強く抱きしめ、紗雪への怒りをあらわにする。「志保さん、あなたは本当に優しい人だ。でも、そんなんだから、いつも付け込まれるんだぞ?今日という今日は、こいつに分からせてやるんだから」そう言って、ボディーガードへと視線を向けた。「おい、お前ら。やれ!」指示を受けたボディガードが紗雪の方へ詰め寄ってくる。9年も愛し続けてきた夫が、自分ではない別の女を庇い、自分に対しては無慈悲なまでに残酷だった。かつて、その手で守られていたのは、紛れもなく自分だったのに!ボディーガードの手が振り下ろされるその瞬間、紗雪は力の限り叫んだ。心の底に溜まっていた悲痛な叫びが、かすれた声となって溢れ出る。「律!忘れたの?!あなたが私の両親のお墓の前で何て誓ったか!一生かけて私を守るって、泣かせることは絶対にしないって言ったよね?!これ全部……忘れちゃったの?!」その瞬間、志保を抱きしめている律の腕がぴくりと震えた。彼の瞳に一瞬だけ何か複雑な揺ら
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第5話

紗雪は1週間の入院生活を送った。この1週間、彼女は魂が抜けたようだった。決まった時間に食事をし、薬を飲み、治療を受ける。泣くこともなく、騒ぐこともなく、口を利く事もなかった。看護師が薬を変えに来ればされるがままになり、使用人が運ぶ食事を機械的に口へ運ぶ。胸に空いた大きな穴は、冷水で満たされているようで、無感情に等しかった。ひどくどんよりとした曇り空の日、紗雪は退院した。暗い雲が立ち込め、息苦しさを感じる。退院手続きを済ませた紗雪が、病院の玄関でタクシーを呼ぼうとしていると、そこへ、見覚えのあるロールスロイスがゆっくりと停まった。窓が開くと、律の冷ややかだが気品溢れる横顔が見え、その横の助手席には志保が座っていた。まるで、血液が凍りついたかのように、紗雪の体が固まる。紗雪のやつれた顔が目に入ると、律はわずかに眉をひそめたが、すぐいつもの無表情に戻った。彼が無意識のうちに志保を引き寄せ、その肩を抱いた。まるで大切なものでも守るように。「乗れ」その声は、今日の空模様と同じ、微塵も温かみが無かった。紗雪はその場に立ち尽くし、爪が食い込むほど拳を強く握りしめた。志保が申し訳なさそうに口をひらく。「紗雪さん、外は風が強いですから、早く乗ってください。私が律くんに、紗雪さんを迎えに行こうって言ったんです。それに……これまでのことは誤解ですから、律くんのことは責めないであげてください」それを聞いていた律は志保を一度見つめ、優しく微笑む。しかし、再び紗雪へ向き直った時には、いつもの無表情に戻っていた。「志保さんがどうしてもって言うから、お前を迎えに来てやったんだ。紗雪、志保さんはお前にこんなによくしてくれるのに、お前はどうだ?言っておくけど、俺が守るのは志保さんだから、お前はしっかり神谷グループの社長夫人をこなせ。これ以上志保さんを傷つけるなよ」神谷グループの社長夫人?紗雪は苦笑いを浮かべる。もう何も言いたくないし、この目の前の男と二度と関わりたくなかった。紗雪は車を避け、その場を離れようとした。「紗雪!」律が車のドアを開けて降り、紗雪の腕を掴む。その力の強さに紗雪は顔をしかめた。「いい加減にしろ。車に乗れ!」苛立った彼の声を聞いていると、自分の拒絶がまるでわがままでしかないように思えてくる。紗雪は振り払
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第6話

焦った使用人は右往左往しながら、何度も律に電話をかけていたが、一向に出る気配はない。紗雪は重い瞼を開け、掠れた細い声で呟く。「もうかけないでいいよ……どうせ、出ないから」そう言う紗雪の笑みは泣き顔よりも痛々しかった。「律は今……小池さんの誕生日を祝ってるから」使用人はため息をつき、それ以上は何も言わなかった。ただ黙って解熱剤を持ってきて、紗雪にそっと飲ませた。薬を飲んだ紗雪は、深い眠りについていたのだが、夜遅く激しい音を立ててドアが開けられたことにより、目を覚ました。酒の匂いと外の冷気をまとった律が入ってきた。その顔は、恐ろしいほどに引きつっている。「紗雪!」律はベッドに近づくと、骨が折れそうなほどの強さで彼女の手首を掴んだ。「どうして来なかったんだ?志保さんは一晩中、お前を待っていたんだぞ!目が真っ赤になるくらい泣いていた。俺はあの人に一滴の涙も流させたくないのに、お前はこんなことしやがって!」激しく揺さぶられて、紗雪は眩暈がした。もう何も感じないと思っていたのに、胸にはまた激痛が走る。かつて、彼が涙を流させたくない相手は自分だったのにな。紗雪は重い瞼を持ち上げ、心の底から愛していた男の顔を見つめた。しかし、今では恐ろしいほどに他人に見える。そう思った瞬間、ひどく滑稽に感じた。「だから何?」熱のせいで声は掠れていたけれど、不思議なほど静かで、とても冷え切っていた。「私を殺すの?」律が鼻で笑う。「そんなことはしない。あの人を泣かせたんだから、お前のことを徹底的に泣かせてやる」そう言って律は携帯を取り出し、電話をかけた。「紗雪の親友、同僚、親戚……とにかく紗雪に関係するやつを集めろ。紗雪を泣かせた奴に、20億円くれてやる」30分も経つと、家の中は人でごった返した。一番初めに出てきたのは、親友だと思っていた吉川杏奈(よしかわ あんな)だった。これまで、一緒に買い物をし、秘密を分かち合い、落ち込んだ時には支え合ってきたのに。「紗雪、お願いだから泣いて」杏奈の声は震えていた。「20億円あったら、一生遊んで暮らせるんだよ?」紗雪が全く反応を示さないのを見て、杏奈はいきなり彼女の頬を張り飛ばす。「何、澄ましてるのよ?神谷社長の奥さんだからって何様のつもり?」紗雪の頬は焼けるように痛んだが、それでも依然として涙は
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第7話

高熱の中、さらに精神的な追い打ちをかけられ、そのまま意識を失った紗雪。再び目を覚ますと、ぼんやりとした意識の中で、律の声が聞こえた。「医者を呼べ!」どうやら、自分は病院に運ばれたらしい。すると、いつの間にか現れた志保が、優しい声でそれを止めた。「律くん、お医者さんは呼ばなくて大丈夫。うちの田舎にね、すぐに目を覚まさせる方法があるの。私を信じて。ただ、他の人には部屋から出ていって欲しいの」紗雪は、人々がその場から離れていくのを感じていた。そして次の瞬間には、背中に激しい痛みが走った。何とか目を開けると、なんと志保がカミソリの刃で彼女の背中を傷つけていたのだ。「痛っ!」激しい痛みに襲われ、紗雪は必死に逃れようともがく。しかしそんな彼女を、志保が力任せに押さえつけた。「動かないでください。これはうちの地元に伝わる民間療法なんです。早く良くなりますから、我慢してください」「こんな民間療法……あるわけないじゃないですか……」紗雪は冷や汗を流しながらも、さらに激しく抵抗する。こんなの治療なわけない。ただの拷問だ!紗雪は残った最後の力を振り絞り、志保を思いきり突き飛ばした!不意をつかれた志保が、声を上げながら、そのまま床に倒れ込む。ちょうどその時、律が部屋に飛び込んできた。「志保さん、大丈夫か!」律は慌てて志保に駆け寄り、彼女を心配そうに抱き起こす。そして怒りに満ちた目で紗雪を睨みつけた。「そもそもお前が先に志保さんを傷つけたんだろ!それなのに志保さんは嫌な顔一つせずに、お前を助けようとしてくれてるんだ。それをそんな態度を取るなんて、どうかしているぞ!」紗雪は痛みのあまり声が出ず、ただ彼をじっと睨みつけることしかできなかった。志保が律の胸にしがみつき、涙を浮かべる。「もういいの、律くん。これは、痛みが強い方法だから、紗雪さんもわざとじゃ無かったと思うし……だから、責めないであげて……」「だめだ!」律は志保をひどく不憫に思い、言った。「絶対に謝らせるから!」紗雪に向き直り、冷たく命令する。「紗雪、志保さんに謝れ!」紗雪は歯を食いしばったまま、顔をそむけた。その態度に、律の怒りは頂点に達し、ドアの方にいるボディーガード一に言い放った。「紗雪を謝らせろ!」ボディーガード一はすぐに命令に従い、一人が紗雪の膝裏
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第8話

すると律が足を止め、少し迷う素振りを見せながらも、なんと引き返してきたのだ。紗雪の胸に一瞬、かすかな期待がよぎる。しかし、律は紗雪に見向きもせず、志保がさっき倒れたあたりをすばやく手で探り、端が少し焦げたお守りを拾い上げたのだった。それは、志保がいつも大切に持ち歩いていたもの。なんだ、それを拾いに戻っただけだったのか。「ふふっ……ふふふふ……」紗雪は笑った。蔓延する煙と燃え盛る炎の中で、涙を流しながら笑い転げた。昔、自分が少し指を切っただけでも、彼は大げさなほど心配して、抱きかかえて病院まで走ってくれたのに。今は、火の中で死にそうになっていても、別の女のためにお守りを優先する。律はお守りを見つけると、再び志保を腕に抱き、紗雪を振り返りもせず立ち去っていった。二人の背中が見えなくなったそのとき、激しく燃え上がる梁が大きな音を立てて、紗雪の上へ崩れ落ちてきた。再び、意識が闇の中へと消えていったのだった。再び目を覚ますと、紗雪は自分のベッドの上にいた。枕元に立つ律が、ばつが悪そうにそっけない声で言った。「昨日は少し混乱していたから、お前があそこにいるなんて気づかなかったんだ。もし知っていたら、俺は……」知っていたら、どうしたというのだ?紗雪は心の中でそっとつぶやき、皮肉な笑みをうかべた。志保を放り出して、自分を先に助けてくれたとでもいうのか?そんなこと、ありえない。昔は自分のことだけを見てくれていたから、いつでもすぐに駆けつけてくれた。だが、今の彼の心には志保しかいないのだから、志保以外の姿など、見えるはずがない。あまりの虚しさに、紗雪は律と言葉を交わす気力さえなかった。何も言わずに寝返りを打ち、彼に背を向けて目を閉じる。自分と話すことを拒絶する紗雪の姿を見て、律は眉間にしわを寄せた。何か言いたかったが、結局は眉間を揉み、枕元のテーブルに水と薬を置いただけだった。「薬、飲んでおけよ」それから数日間、律は予想外にも仕事に行かず、家に留まって書斎で仕事をしていた。それでも紗雪は、律を完全に無視し続けた。この徹底した沈黙が、律の胸を少しずつ刺激し、ひどくいら立たせた。そして紗雪が黙り込んで5日目の夕方、律はとうとう仕事を切り上げ、紗雪のベッドへと歩み寄った。「紗雪」律は少し不
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第9話

その日、律は志保を家に連れて帰ってきた。「紗雪、これまでのことはもう水に流そう。志保さんの体はまだ休養が必要で、このまま一人暮らしを続けさせるのは心配だから、今日からここに住まわせることにした。だから、お前も……志保さんと仲良くしてほしい」その日から、かつて紗雪と律だけの場所だったはずの「家」は、完全に律と志保の愛の巣へと変わってしまった。二人の遠慮のない笑い声が嫌でも耳に入ってきたし、律が志保をどれほど甘やかしているかも見せつけられる日々。彼らはリビングのソファでキスを交わし、ダイニングテーブルで互いを求め合っていた。それどころか、かつて紗雪が毎日のように弾いていたピアノの前でさえ、情事を重ねていたのだ。使用人たちは誰もがうつむいて、足早に通り過ぎ、見て見ぬふりをした。ある日の深夜、紗雪は慌ただしい足音と動揺に満ちた叫び声のせいで、目を覚ました。ドアを開けると、服が乱れている律が、これまでに見たこともないほど慌てふためき、同じく衣服の乱れた志保を抱きかかえていた。それに、志保の下半身からは血が流れ出していて、苦しそうにうめいていた。律は狂ったように階段を駆け下り、外へ飛び出していった。しばらくして執事がやってくると、複雑な表情で言った。「奥様、旦那様が病院に来るようにと」紗雪は多くを聞かずに、黙って車に乗り込む。病院に着いて初めて、紗雪は何が起きたのかを知った。激しすぎる行為が原因で、志保は黄体破裂を起こし、さらに搬送後に妊娠していることも発覚したらしい。その影響で大出血を引き起こし、母子ともに危険な状態に陥っていた。一刻を争う状況のため、大量の輸血が必要だったが、あいにく志保は希少なRhマイナス血液型で、病院には備蓄がなかった。そして紗雪もまた、同じRhマイナスだった。だから律は、紗雪に有無を言わせず、無理やり採血室へと閉じ込めた。「抜け!」律が医師に怒鳴り散らす。「抜けるだけ抜け!志保さんの危険がなくなるまでずっとだ!」医師は躊躇しながら言った。「神谷さん、奥様の体はかなり弱っていますので、これ以上採血すると、命に関わって……」「紗雪はどうなったっていい!」律が医師の言葉を遮った。「何が何でも、志保と俺の子供を助けろ!」紗雪はどうなったっていい……ベッドに横たわる紗雪は、その凍てつくほ
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第10話

紗雪が投稿した短い投稿文は、静かな湖に投げ込まれた巨大な石のように、瞬く間に大きな波紋を広げた。【16歳のとき、あなたが私を一生愛し続けると言ってくれたね。そして、20歳のとき、私たちは結婚し、あなたは永遠の愛を誓ってくれた。でも25歳……あなたは他の女性を愛するようになってしまった。だから今日、私たちは離婚するんだよ。あなたが誓ってくれた今までの言葉、あなたに返すね。それに、私の気持ちももうあなたのところにはないから。もう私は、神谷グループの社長夫人なんかじゃない。あなたとは一切関係ない、一人の女、椎名紗雪に戻るから@神谷律】告発や非難ではない。ただ静かに語られた9年間の男女の変遷。しかし、その一言一句が見る者の胸を締めつけ、紗雪の深い絶望と断固たる決意を感じさせた。【#神谷夫婦離婚】というワードは、猛烈な勢いでトレンドの1位に躍り出た。その横には、「急上昇」の文字が。ネット界隈は騒然とし、誰もが言葉を失った。【嘘でしょ!神谷夫婦が離婚?!そんなわけないじゃん。東都で一番お似合いの夫婦だったのに!】【16歳から25歳まで……9年だよ!学生の頃から一緒で、結婚までしたのにどうして?】【『他の女性を愛するようになってしまった』ってことは……不倫?!あの神谷社長が?あんな潔癖で有名なのに?】【神谷夫人は私たちの女神なのに!ピアニストとしての才能もあって、家柄も美貌も完璧。なのに、神谷社長は他の女にうつつを抜かしてるわけ?】【@神谷律、どういうことなの!】【『あなたが誓ってくれた今までの言葉、あなたに返すね。それに、私の気持ちももうあなたのところにはないから』苦しい!あまりにも悲しすぎる】神谷グループと律の個人の携帯には、取材の電話が嵐のように押し寄せ、パンク状態に陥っていた。仕事関係者や共通の友人たちからも、信じられないという様子の連絡が次々と届く。【神谷社長、これ……本当ですか?どうして奥様とそんなことに……】【律、一体何があったんだよ?あんなに上手くいっていたじゃないか】【律、ネットの記事は何かの間違いだよな?紗雪ちゃんとお前のことはずっと見てきた。なのに、長年積み上げてきた愛はどうしたんだよ?】その頃、律は重要な国際Web会議を行っていた。それでも、秘書は慌てて会議室に飛び込み、律の不機嫌
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