LOGIN上流階級の社交界では、こんな噂がまことしやかに囁かれていた――この世の男は誰だって浮気する可能性がある。だが、神谷律(かみや りつ)だけは別だ、と。 律は己に厳しく、品格を何より重んじる男だった。そして、彼の眼差しが向く先は、学生時代から連れ添い、妻となった神谷紗雪(かみや さゆき)ただ一人。 しかし結婚して5年目、紗雪のもとに、律に愛人がいるという知らせが届く。 送られてきた写真を見た瞬間、紗雪は固まってしまった。 なぜならその愛人というのが、誰もが想像するような若く美しい女性でもなければ、仕事で成功を収めた魅力的な女性でもなかったのだ。
View More駿は5年前よりずっと成熟していた。しかし、紗雪を見つめるその瞳には、相変わらず隠しきれない愛情と誇らしさが宿っている。駿は紗雪に花束を手渡すと、自然な仕草でその腰を引き寄せ、額に軽くキスをした。スポットライトを浴びる紗雪が、彼の胸で幸せそうに微笑んでいる。そして、二人の薬指には同じプラチナリングが輝き、眩しいほどの光を放っていた。会場からは再び温かい拍手と、祝福の歓声が沸き起こった。想は父を見上げて、小さな声で尋ねた。「お父さん、あの人すごくきれいだね。女優さんとか?」しかし、律は何も答えない。舞台上の二人をじっと見つめ、目に見えない何かに心を締めつけられるような、息ができなくなるほどの痛みに耐えていた。自分の薬指にふと指で触れる。そこにあるはずの指輪はもうない。わずかに残っていた痕跡も、年月を経て今ではかなり薄くなっている。結局自分は、「傍観者」になることすら許されない、ただの邪魔な存在に過ぎなかったらしい。律はコンサートが終わるのを待たずに、息子の手を引いて賑やかな会場を後にした。二人の背中が、冬の夜空に身を隠すように消えていく。数日後。東都にて。律は一人車を走らせ、郊外の荒れ果てた山頂にある公園を訪れていた。そこは、16歳の時、初めて紗雪に想いを告げた場所だった。今では、見る影もなく荒れ、雑草が伸び放題になっている。かつて二人の名前を刻んだ桜の木も枯れてしまい、枝だけがどんよりとした空へ向かって寂しく伸びていた。枯木の前に立ち、ひび割れた樹皮に触れる。ひんやりと冷たい。その瞬間、冷たい風が吹き抜け、地面に溜まった枯れ葉を舞い上げた。冷え切った木の幹にもたれかかり、目を閉じた律は、まるで時間が戻っていくような錯覚を覚える。ふと、あの日の光景が脳裏に蘇った。陽射しの眩しい、穏やかな午後。16歳の紗雪は真っ白な制服のスカートを揺らし、高い位置で結んだポニーテールを弾ませながら、友人たちと楽しそうに駆け回っていた。その笑顔は太陽のように明るく、見ているだけで心まで温かくなるほど眩しい。そして、同じく16歳だった自分。まだ何も知らず、青臭くて、少しだけ不器用で、それでも妙な自信だけは持っていた。耳まで真っ赤に染めながら、人生で一番の勇気を振り絞って彼女の前へ駆け出す。「さ、紗雪!お……お前が好きだ!俺と付き
かつてはあれほどプライドが高く、すべてを支配していた律。そんな彼の口から出た言葉は、どこか滑稽で悲哀に満ちていた。これが、プライドを完全に捨て去った、彼にできる最後の引き留めだった。それを聞いた紗雪は、ゆっくりと振り返り、もう一度律の顔を見つめた。その瞳には、嫌悪も、あざけりも、哀れみすらもなく、ただ透き通るような、静けさだけがあった。彼女は小さく首を横に振る。それはまるで、まだ迷いから抜け出せない魂に、静かにため息をついているようだった。そして、紗雪は立ち上がるとベッドへ近づき、乱れた掛け布団の端をそっと直す。その仕草は、先ほど彼の唇を潤したときと同じように優しかった。けれど、だからこそ、かえって距離の遠さを感じさせたのだった。「律」彼女は男の顔を見つめ、静かに告げた。まるで、最後の言葉のように。「元気でね」そう言い残すと、紗雪はもう立ち止まらなかった。迷いのない足取りで病室のドアへと向かっていく。床に響くハイヒールの音が、静かに規則正しく響き、その一歩一歩が、律の心臓を押し潰していった。律は必死に手を伸ばしたが、何かを掴むことはできず、ただ冷たい空気をすくい取っただけ。紗雪の後ろ姿がドアの向こうへ消えていく。ゆっくりと閉まっていくドアを、律はただ見送ることしかできなかった。それは彼女との距離を隔てるのと同時に、彼が密かに抱いていた最後の希望に終止符を打つ瞬間でもあった。彼の苦しげな荒い息遣いと、規則正しく電子音を刻み続ける医療機器の音だけが、病室に残された。窓の外からは暖かな日差しが差し込んでいる。しかし、冷え切って、荒れ果てている彼の心の奥が温まることは、二度となかった。月日は流れて、あっという間に5年の歳月が過ぎた。……X国の首都。会場はきらびやかな照明に照らされ、立ち見が出るほどの満員だった。今夜は、世界的に有名なピアニストである紗雪のワールドツアー最終公演。多くの注目を集める、特別な音楽の宴だった。客席の端にある目立たない席に、ひっそりと腰を下ろす二つの人影があった。律は、仕立ての良い黒いスーツを着ていた。彼の顔にも時の流れが刻まれており、かつての刺々しさは消えて、どこか落ち着いた寂しげな雰囲気を漂わせている。その隣には、律の面影のある7歳か8歳ほどの男の子が、少しおどおどした様子で
消毒液の匂いが立ち込める集中治療室では、モニターの電子音が静かに響いていた。律は果てしない暗闇と激痛の中で数日間苦しんだ後、ついに、意識の奥へかすかな光が差し込むのを感じた。重い目蓋をかろうじて開けると、かすんだ視界がゆっくりと焦点を結び始める。まず目に入ったのは、窓から差し込む、少し青白い陽の光だった。そしてその次に、ベッドの脇に座る静かな後ろ姿が見えた。紗雪だ。上品なアイボリーのタートルネックを着た紗雪が座っていた。横顔を彼に向け、窓の外を見つめるその表情はとても静かで、何の感情も読み取れない。柔らかな日差しが彼女の輪郭をふちどり、まるでうっすらと光のベールをまとっているかのようだった。その瞬間、律は時間が巻き戻ったかのような錯覚に陥った。あの自分が裏切りを犯してしまう前の、ふたりで穏やかに過ごした暖かい午後。胸が激しく締めつけられた。せつなさと喜びが一気に押し寄せてきて、涙があふれそうになる。乾燥した唇を動かして声を出そうとしたが、結局はかすれた息が漏れただけだった。その小さな動きに、紗雪が気づいた。顔を向けて律の顔を見る彼女の表情は、驚きも感動もなく、ただ、眠りから覚めたばかりの普通の患者を眺めるようなものだった。ベッドサイドにあるコップを手に取ると、綿棒にぬるま湯を含ませて彼の渇いた唇を潤した。慣れた手つきのごく自然な動作だったが、そこにははっきりとした距離感があった。そのささやかなことがきっかけとなり、律の胸に、ずっと押し込まれていた後悔が、堰を切ったようにあふれ出す。あまりにも激しい感情が急に押し寄せたからか、律からはプライドも理性もすべてなくなっていた。突き動かされるように手を伸ばすと、最後の力を振り絞り、紗雪の手首をギュッと掴んだ。手の甲にはまだ点滴の針が刺さっており、力を入れたせいで細かく震えていた。手のひらの傷もふさがっておらず、物に触れるだけで鋭い痛みが走る。「紗雪……紗雪……」消え入りそうで、掠れている律の声。それでも何かに取り憑かれたような必死さで、まるでその姿を目に焼きつけようとするかのように、紗雪をじっと見つめ続けている。「ごめん……俺が馬鹿だったんだ……何も見えていなかった……本当に最低だった……」真っ赤な目から涙があふれ、白い頬を伝って枕を濡らした。ビジネ
この突然の騒ぎは、まるで全てを映し出す鏡のようだった。崩れ去った律のプライドと、紗雪の決して揺るがない固い決意。その全てを、残酷なほどはっきりとあぶり出した。それはプロポーズの雰囲気を壊すどころか、むしろ良い薬のようになった。紗雪にとって、誰が本当にこれからの人生を任せるべき人なのかを、はっきりと見極めるきっかけにもなったのだから。紗雪は振り返り、すでに立ち上がって、自分を心配そうに見つめている駿に視線を向ける。そして深く息を吸い込むと、吹っ切れたような、まっすぐな笑みを浮かべた。自ら手を伸ばして、駿の手を握りしめ、静かだがはっきりとした声で言う。「駿、よろしくお願いします。あなたと一緒に、新しい未来を見てみたい」その瞬間、レストランは割れんばかりの拍手と、祝福の歓声に包まれた。駿は感極まって、紗雪を強く抱きしめる。まるで失いかけた宝物を、再びその手に取り戻したかのように。一方、店から追い出され、冷たい廊下で座り込んでいた律は、中から聞こえる幸せそうな声によって、底知れない闇と絶望の中に突き落とされていた。プロポーズの成功から、紗雪と駿の距離は一気に縮まった。二人の仲は以前にも増して深まり、公式的な場所にも一緒に出席するようになった。そんな二人の姿は、まさにアートとビジネスの美しい結びつきとして、各界から大きな注目を集めていた。一方、プロポーズ現場で無様にも拒絶された律は、立ち直れないほど激しく落ち込んでいた。それでも諦めることなどできず、身を焦がすような痛みだけが、かろうじて彼を生かし続けていた。あらゆる手段を使って紗雪の近況を追う姿は、まるで怪我をした獣のようで、傷ついた部分を舐めながら、いつ来るとも知れない好機を、闇の中でじっとうかがっているようだった。そして、そのチャンスはあまりにも残酷な事件と共にやってきた。神谷グループはあるプロジェクトで、海外の大手企業と数兆円規模ものビジネスをめぐって競っていて、その際、律はかなり強引な手法を用いた。しかし、それは相手の利益を真正面から踏みにじるものであり、その一件以来、両社の関係は修復不可能なほど悪化していた。さらに、その相手はかなり複雑で、復讐のためなら、かなり悪どいこともするような企業だった。そこで彼らは、駿と親しい紗雪が、律の最も気にしている存在である
紗雪は雷に打たれたような衝撃を受け、その場に立ちすくんだ。自分でも何にこれほど動揺しているのか、分からない。志保が突然事故に遭ったから?いや、違う……きっと、あの女がすでに律との子供を孕んでたからだろう。律と結婚して5年間、律はずっと避妊具を使用していたから、二人の間には子どもができることはなかった。それなのに、律は一緒になって間もない志保と……1週間後、律が帰ってきた。彼は何も言わない。問い詰めることも声を荒げることもなく、ただ紗雪には意図が読めない、底知れぬ瞳でじっと彼女を見つめていた。それから急に紗雪の手を強引に引き、無理やり衣服を脱がせ始める。「律!何するの
上流階級の社交界では、こんな噂がまことしやかに囁かれていた――この世の男は誰だって浮気する可能性がある。だが、神谷律(かみや りつ)だけは別だ、と。律は己に厳しく、品格を何より重んじる男だった。そして、彼の眼差しが向く先は、学生時代から連れ添い、妻となった神谷紗雪(かみや さゆき)ただ一人。しかし結婚して5年目、紗雪のもとに、律に愛人がいるという知らせが届く。送られてきた写真を見た瞬間、紗雪は固まってしまった。なぜならその愛人というのが、誰もが想像するような若く美しい女性でもなければ、仕事で成功を収めた魅力的な女性でもなかったのだ。相手は、離婚歴のある、それも小さな弁当屋の
その日、律は志保を家に連れて帰ってきた。「紗雪、これまでのことはもう水に流そう。志保さんの体はまだ休養が必要で、このまま一人暮らしを続けさせるのは心配だから、今日からここに住まわせることにした。だから、お前も……志保さんと仲良くしてほしい」その日から、かつて紗雪と律だけの場所だったはずの「家」は、完全に律と志保の愛の巣へと変わってしまった。二人の遠慮のない笑い声が嫌でも耳に入ってきたし、律が志保をどれほど甘やかしているかも見せつけられる日々。彼らはリビングのソファでキスを交わし、ダイニングテーブルで互いを求め合っていた。それどころか、かつて紗雪が毎日のように弾いていたピアノの前
すると律が足を止め、少し迷う素振りを見せながらも、なんと引き返してきたのだ。紗雪の胸に一瞬、かすかな期待がよぎる。しかし、律は紗雪に見向きもせず、志保がさっき倒れたあたりをすばやく手で探り、端が少し焦げたお守りを拾い上げたのだった。それは、志保がいつも大切に持ち歩いていたもの。なんだ、それを拾いに戻っただけだったのか。「ふふっ……ふふふふ……」紗雪は笑った。蔓延する煙と燃え盛る炎の中で、涙を流しながら笑い転げた。昔、自分が少し指を切っただけでも、彼は大げさなほど心配して、抱きかかえて病院まで走ってくれたのに。今は、火の中で死にそうになっていても、別の女のためにお守り
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