All Chapters of 流産した私は天才ピアニストへの華麗な転身: Chapter 21 - Chapter 29

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第21話

携帯を握ったまま固まった律。携帯を握る指先が、白くこわばっている。これまでに感じたことのない、突き放されたような屈辱と無力感が、冷たい潮のように押し寄せてくる。この時初めて、律は心の底から思い知った。自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだと……駿に電話で冷たくあしらわれても、律は諦めるどころか、かえって執着心に火がついた。紗雪が完全に自分の世界から消え、他の男に抱かれるなど受け入れられるはずがない。紗雪が国内で大切なピアノのリサイタルを開くと聞いた。おそらく、これが最後のチャンスになるだろう。コンサート当日の夜。会場は満席だった。律は暗い客席の隅に座り、スポットライトの中で輝く紗雪の姿を見つめていた。彼女が奏でる音は、情熱的に高まり、ときに優しく心を包み込む。その一音一音には、彼女が歩んできた人生そのものが込められていた。もはや自分だけのために演奏していた頃の紗雪はいない。彼女は広い世界へ羽ばたき、多くの人に愛され、その才能を存分に花開かせていた。終演後の拍手はいつまでも鳴り止まない。紗雪は何度もアンコールステージに現れ、疲労を感じさせながらも、満足げな笑みを浮かべていた。律はすぐに立ち上がり、この日のためにわざわざ空輸で取り寄せた、紗雪が昔好きだった希少な花束を手に、楽屋へと急ぐ。彼女が昔褒めてくれたスーツに着替え、過去の好みを懸命に思い出しながら、あの頃の影を探そうとあがいた。楽屋の入り口で、ようやくメイクを落として帰ろうとする紗雪を見つけることができた律。紗雪はラフな服装で、疲れてはいるものの、瞳は澄んで落ち着いていた。「紗雪」律は一歩近づき、花束を差し出す。自分でも気づかないうちに、声には切羽詰まった響きが溢れた。「コンサート、お疲れ様。少しだけ……二人で話せないかな?」紗雪は立ち止まり、静かに彼の手元の華やかな花束を一瞥すると、感情の欠片もない、距離を置くような眼差しを律に向けた。「神谷社長」紗雪は冷ややかに、かつ丁寧に言葉を紡ぐ。「コンサート関連の契約や交渉なら、マネージャーを通してください。私的なご用件なら……」間を置いた彼女の口元に、薄らとした皮肉な笑みが浮かび、視線が再び花束に向けられた。「受け付けませんので。それに……」紗雪は律の固まった顔を見据え、丁寧に言った。「も
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第22話

駿は、最初から最後まで律を見なかった。まるで彼がそこにいないかのように……紗雪の肩を抱き寄せ、駿は彼女を守るように並んで外へと歩き出した。律はその場に凍りついた。二人の仲むつまじい後ろ姿と、自分には一度も見せたことのない紗雪の穏やかな笑顔が、胸を締めつける。あまりの痛みに息もできない。ファサッ。力が抜け、律の手から花束が滑り落ちた。紗雪を繋ぎ止めようとした、あまりに情けない花束が冷たい床に転がる。行き交う人々が、その花を踏みつけていく。華やかだった花びらは、あっという間に踏みにじられて散らばった。それは、さんざん踏みにじられ、それでも諦めきれない律自身の「遅すぎた愛」そのもののように見えた。恋愛での失敗が続いた律は、仕事に没頭した。仕事の成功という形で、心の空虚感と敗北感を埋めようとしていたのだ。ほどなくして、都心部の一等地、「スカイ・コア」の入札という、大事な機会が訪れた。この土地は利便性が抜群で、開発の大きな可能性を秘めていたので、どの大手不動産会社も喉から手が出るほど欲しい物件だった。神谷グループの社運をかけたプロジェクト。律が自ら指揮を執り、精鋭を集めて競合入札のための計画を練り上げる。しかし、最大のライバルが一ノ瀬グループだと分かり、律たちのチームは大きなプレッシャーを感じた。一ノ瀬グループは実力だけでなく、「アートをビジネスの核にする」という斬新な構想を打ち出してきて、それは芸術ホールや景観と商業施設を融合させるというものだった。入札当日、会場は緊張に包まれていた。律は自らチームを率いてプレゼンに臨んだ。自社の提案には絶対の自信があった。地元で築いてきた人脈や豊富なネットワーク、そして市場への深い理解において、神谷グループが他社に後れを取ることはないと確信していたからだ。しかし、結果発表の瞬間、律の笑みが凍りつく。落札したのは、一ノ瀬グループ。それは、わずかな差だった。審査員長は「芸術とビジネスの融合」という核心的なコンセプトを絶賛し、新しい街のシンボルになると高く評価した。このニュースは瞬く間に業界へ広まった。それも、神谷グループが、一番の得意分野で完敗したという理由で……さらに律を追い詰めたのは、その後の祝賀パーティーでの出来事だった。記者が駿に質問をぶつけた。「今回の設
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第23話

この事実のほうが、失恋なんかより何百倍も辛い。愛を失っただけじゃない。仕事の面でも完敗し、誰の目にも明らかな形でどん底に叩き落とされた。その晩、律は一人で、かつて紗雪とよく通ったバーへ向かった。強い酒を何杯も煽ったが、それでも胸の中の悔しさや悲しさは、少しも消えてくれない。気がつくと、隣に見覚えのある男が座っていた。幼馴染の陣内拓海(じんない たくみ)だった。泥酔する律を見ても、拓海は冷ややかだった。むしろ、鼻で笑っている。「なんだ?あの神谷社長が酒で憂さ晴らし?今さら後悔してるのか?でもなあ、もう遅いよ」律は焦点の合わない目で拓海を見て顔を上げた。拓海は容赦なく、律の傷口に塩を塗り込む。「一ノ瀬を見ろよ。家柄も容姿も実力も、全部一流だ。それに紗雪への愛情だって本物だろ?どこを取ってもお前より上じゃないか。昔、紗雪はあんなに尽くしてくれたのに、お前が大事にしなかった報いだ。変な女にうつつを抜かした結果がこれだよ!」「言わないでくれ……頼む……もう黙って……」律は頭を抱え、掠れた声を漏らした。「本当に、俺が馬鹿だった……俺は、最低のクズだ……」どれだけ後悔しようと、どれだけ胸を痛めようと、失ったものはもう戻らない。自分を一途に愛し続けてくれた女性を、自らの手で遠ざけてしまったのだから。彼が負けたのは、ただの恋やビジネスではない。人生そのものに負けたのだ。志保との離婚の手続きは、驚くほど簡単に済んだ。律はあらゆる手段を使い、志保に文句を言わせる隙さえ与えなかった。一生遊んで暮らせる額の慰謝料を志保に渡した。ただし、条件は厳しく、子供の親権も面会権も一切放棄し、すぐに東都を去った後は、二度と戻らないこと。志保は泣き叫び、暴れ、必死に抵抗した。しかし、律の心はすっかり凍りついていて、怒りで顔を歪める志保の姿を、ただただ煩わしいと感じるだけだった。最後には弁護士とボディーガードの手で、志保はまるでゴミのように追い払われ、彼女は金を手に、東都から飛行機で追放された。残された子供については、神谷家本邸に預けて母親や家政婦の多惠子に任せることにした。というよりも、もう見たくないというのが本音だ。子供を見ると、自分が過去にどれほど愚かだったか思い出してしまうから。障害となっていた志保を取り除いても、荷を下ろした感
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第24話

紗雪は手首を軽く振り、氷のように冷たい目で言い放った。「このビンタは、病院であなたにやられたことへのお返しです。志保さん、見苦しい真似はやめてください。律があなたを選ばないのは、あなたに価値がないからでは?それを私にぶつけてどうするんですか?これ以上邪魔をするなら、あなたの卑しい親戚ともども、東都で暮らせないようにしますからね」紗雪の圧倒的な気迫に志保は凍りついた。その時、激しいブレーキ音と共に律の車が駆けつけてきた。志保は律を見ると、救いを求めるように駆け寄り、涙を流しながら彼に抱きつこうとする。「律くん!やっと来てくれたんだね!見て……この女が私を殴ったの!それに脅迫までしてくるんだよ!」しかし律は志保に見向きもせずに、その視線を紗雪に固定していた。その瞳には、切迫した思いと、まるで縋るような卑屈さが混じっている。律が縋り付く志保を突き放すと、その勢いで、彼女は無様に地面へと倒れ込んだ。「消えろ!」律は激しい口調で怒鳴ると、紗雪の元へ駆け寄った。「紗雪、大丈夫か?遅れてすまない。この女は俺が片付けるから。もうお前の邪魔はさせないよ」そう言った律は、唖然として座り込んでいる志保の方を向き、紗雪の前で自分の決意を見せつけるかのように、あろうことか志保の頬に平手打ちを叩き込んだのだった。「誰が紗雪に会えと言った?!二度と俺たちの前に姿を見せるなと言ったはずだよな?」律は鬼気迫る剣幕で志保を叱りつけ、紗雪の機嫌を取ろうとした。何が起きたか理解できないでいる志保は、呆然と頬を抱えながら、信じられないといった顔で叫ぶ。「律くん……どうして、この女のために私を殴るの?」紗雪は冷めた目で彼らを見つめ、皮肉な笑みを浮かべる。それに、二人とこれ以上関わるのも億劫だったので、紗雪はその場を去ろうとした。「紗雪!待ってくれ!」律が慌てて呼び止める。「すぐに、こいつとの関係を切るから、少しだけ時間をくれ!俺たち……」それでも、紗雪の足は止まらない。ただ、紗雪の冷たい声が、風に乗って律の耳に聞こえてきた。「律。あなたたちのことなんて、どうでもいい。二度と邪魔をしないで」紗雪の背中と、泣き叫ぶ志保を交互に見つめ、律の胸には焦りと虚無が広がった。無理やり志保を立ち上がらせると、そのまま警察へと送るよう運転手に指示を出す。これで
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第25話

その瞬間、律の心臓は張り裂けそうになった。彼は彫像のように暗闇で立ち尽くし、かつて自分のものだったはずの女性が、他の男に抱きしめられている光景をただ眺めていた。猛烈な嫉妬と苦しみに飲まれ、律は我を忘れて走り出した。紗雪のマンションの下へ駆けつけ、一晩中膝をついて許しを求めた。夜露に濡れながら夜明けを迎え、結局は警備員につまみ出された。しかし、そんな悲劇の主人公気取りの姿も、周囲の住人の噂の種になっただけで、紗雪の心は何も動かなかった。紗雪は窓から外を覗くことすらしなかった。律の執着は、かなりうんざりするものだったが、紗雪と駿の愛には一切関係のないことだった。駿は紗雪を尊重し、穏やかで誠実だった。律の狂気じみた行動とは対照的で、紗雪は駿となら健康的な愛を育めると確信していた。紗雪の誕生日、駿はサプライズを計画した。東都一の高さにある回転レストランを貸し切り、白いバラと星のような明かりで会場を装飾し、親しい友人も招待した。店内に足を踏み入れた紗雪は、夢のような光景に目を奪われた。バイオリンの旋律が流れ、窓の外には宝石を散りばめたような夜景が広がっている。駿は紗雪の手を引いて中央へ歩み寄り、全員が見守る中で膝をついた。小さなケースを開き、美しいダイヤモンドの指輪を取り出す。「紗雪」駿は顔を上げ、愛と緊張が溢れる瞳で紗雪を見つめた。「君に出会えたのは俺の人生で一番の奇跡だよ。君の才能も強さも、優しさも全て愛している。過去の傷を消すことはできないけれど、残りの人生の全てを使って君を大切にするよ。誰よりも君を愛し、守り続け、永遠の幸せを約束する。だから、俺と結婚してくれないかな?」紗雪は目の前の素敵な男を見つめた。その真っ直ぐな眼差しには、隠そうともしない愛情と、答えを待つような緊張が浮かんでいる。胸の奥がふっと温かくなり、言葉にできない感情が静かに込み上げてきた。暗い過去は遠のき、新しい未来が見え始めていた。迷いはあったが、その駿の真っ直ぐな言葉が彼女の心を震わせる。紗雪が返事をしようと、口を開いたその時——バンッ!レストランの扉が音を立てて開いた。獣のような男が駆け込んできて、シャンパンタワーをなぎ倒し、店内は騒然となる。律だった。どこで聞きつけたのか、髪を振り乱した律の目が真っ赤に充血し、
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第26話

この突然の騒ぎは、まるで全てを映し出す鏡のようだった。崩れ去った律のプライドと、紗雪の決して揺るがない固い決意。その全てを、残酷なほどはっきりとあぶり出した。それはプロポーズの雰囲気を壊すどころか、むしろ良い薬のようになった。紗雪にとって、誰が本当にこれからの人生を任せるべき人なのかを、はっきりと見極めるきっかけにもなったのだから。紗雪は振り返り、すでに立ち上がって、自分を心配そうに見つめている駿に視線を向ける。そして深く息を吸い込むと、吹っ切れたような、まっすぐな笑みを浮かべた。自ら手を伸ばして、駿の手を握りしめ、静かだがはっきりとした声で言う。「駿、よろしくお願いします。あなたと一緒に、新しい未来を見てみたい」その瞬間、レストランは割れんばかりの拍手と、祝福の歓声に包まれた。駿は感極まって、紗雪を強く抱きしめる。まるで失いかけた宝物を、再びその手に取り戻したかのように。一方、店から追い出され、冷たい廊下で座り込んでいた律は、中から聞こえる幸せそうな声によって、底知れない闇と絶望の中に突き落とされていた。プロポーズの成功から、紗雪と駿の距離は一気に縮まった。二人の仲は以前にも増して深まり、公式的な場所にも一緒に出席するようになった。そんな二人の姿は、まさにアートとビジネスの美しい結びつきとして、各界から大きな注目を集めていた。一方、プロポーズ現場で無様にも拒絶された律は、立ち直れないほど激しく落ち込んでいた。それでも諦めることなどできず、身を焦がすような痛みだけが、かろうじて彼を生かし続けていた。あらゆる手段を使って紗雪の近況を追う姿は、まるで怪我をした獣のようで、傷ついた部分を舐めながら、いつ来るとも知れない好機を、闇の中でじっとうかがっているようだった。そして、そのチャンスはあまりにも残酷な事件と共にやってきた。神谷グループはあるプロジェクトで、海外の大手企業と数兆円規模ものビジネスをめぐって競っていて、その際、律はかなり強引な手法を用いた。しかし、それは相手の利益を真正面から踏みにじるものであり、その一件以来、両社の関係は修復不可能なほど悪化していた。さらに、その相手はかなり複雑で、復讐のためなら、かなり悪どいこともするような企業だった。そこで彼らは、駿と親しい紗雪が、律の最も気にしている存在である
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第27話

消毒液の匂いが立ち込める集中治療室では、モニターの電子音が静かに響いていた。律は果てしない暗闇と激痛の中で数日間苦しんだ後、ついに、意識の奥へかすかな光が差し込むのを感じた。重い目蓋をかろうじて開けると、かすんだ視界がゆっくりと焦点を結び始める。まず目に入ったのは、窓から差し込む、少し青白い陽の光だった。そしてその次に、ベッドの脇に座る静かな後ろ姿が見えた。紗雪だ。上品なアイボリーのタートルネックを着た紗雪が座っていた。横顔を彼に向け、窓の外を見つめるその表情はとても静かで、何の感情も読み取れない。柔らかな日差しが彼女の輪郭をふちどり、まるでうっすらと光のベールをまとっているかのようだった。その瞬間、律は時間が巻き戻ったかのような錯覚に陥った。あの自分が裏切りを犯してしまう前の、ふたりで穏やかに過ごした暖かい午後。胸が激しく締めつけられた。せつなさと喜びが一気に押し寄せてきて、涙があふれそうになる。乾燥した唇を動かして声を出そうとしたが、結局はかすれた息が漏れただけだった。その小さな動きに、紗雪が気づいた。顔を向けて律の顔を見る彼女の表情は、驚きも感動もなく、ただ、眠りから覚めたばかりの普通の患者を眺めるようなものだった。ベッドサイドにあるコップを手に取ると、綿棒にぬるま湯を含ませて彼の渇いた唇を潤した。慣れた手つきのごく自然な動作だったが、そこにははっきりとした距離感があった。そのささやかなことがきっかけとなり、律の胸に、ずっと押し込まれていた後悔が、堰を切ったようにあふれ出す。あまりにも激しい感情が急に押し寄せたからか、律からはプライドも理性もすべてなくなっていた。突き動かされるように手を伸ばすと、最後の力を振り絞り、紗雪の手首をギュッと掴んだ。手の甲にはまだ点滴の針が刺さっており、力を入れたせいで細かく震えていた。手のひらの傷もふさがっておらず、物に触れるだけで鋭い痛みが走る。「紗雪……紗雪……」消え入りそうで、掠れている律の声。それでも何かに取り憑かれたような必死さで、まるでその姿を目に焼きつけようとするかのように、紗雪をじっと見つめ続けている。「ごめん……俺が馬鹿だったんだ……何も見えていなかった……本当に最低だった……」真っ赤な目から涙があふれ、白い頬を伝って枕を濡らした。ビジネ
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第28話

かつてはあれほどプライドが高く、すべてを支配していた律。そんな彼の口から出た言葉は、どこか滑稽で悲哀に満ちていた。これが、プライドを完全に捨て去った、彼にできる最後の引き留めだった。それを聞いた紗雪は、ゆっくりと振り返り、もう一度律の顔を見つめた。その瞳には、嫌悪も、あざけりも、哀れみすらもなく、ただ透き通るような、静けさだけがあった。彼女は小さく首を横に振る。それはまるで、まだ迷いから抜け出せない魂に、静かにため息をついているようだった。そして、紗雪は立ち上がるとベッドへ近づき、乱れた掛け布団の端をそっと直す。その仕草は、先ほど彼の唇を潤したときと同じように優しかった。けれど、だからこそ、かえって距離の遠さを感じさせたのだった。「律」彼女は男の顔を見つめ、静かに告げた。まるで、最後の言葉のように。「元気でね」そう言い残すと、紗雪はもう立ち止まらなかった。迷いのない足取りで病室のドアへと向かっていく。床に響くハイヒールの音が、静かに規則正しく響き、その一歩一歩が、律の心臓を押し潰していった。律は必死に手を伸ばしたが、何かを掴むことはできず、ただ冷たい空気をすくい取っただけ。紗雪の後ろ姿がドアの向こうへ消えていく。ゆっくりと閉まっていくドアを、律はただ見送ることしかできなかった。それは彼女との距離を隔てるのと同時に、彼が密かに抱いていた最後の希望に終止符を打つ瞬間でもあった。彼の苦しげな荒い息遣いと、規則正しく電子音を刻み続ける医療機器の音だけが、病室に残された。窓の外からは暖かな日差しが差し込んでいる。しかし、冷え切って、荒れ果てている彼の心の奥が温まることは、二度となかった。月日は流れて、あっという間に5年の歳月が過ぎた。……X国の首都。会場はきらびやかな照明に照らされ、立ち見が出るほどの満員だった。今夜は、世界的に有名なピアニストである紗雪のワールドツアー最終公演。多くの注目を集める、特別な音楽の宴だった。客席の端にある目立たない席に、ひっそりと腰を下ろす二つの人影があった。律は、仕立ての良い黒いスーツを着ていた。彼の顔にも時の流れが刻まれており、かつての刺々しさは消えて、どこか落ち着いた寂しげな雰囲気を漂わせている。その隣には、律の面影のある7歳か8歳ほどの男の子が、少しおどおどした様子で
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第29話

駿は5年前よりずっと成熟していた。しかし、紗雪を見つめるその瞳には、相変わらず隠しきれない愛情と誇らしさが宿っている。駿は紗雪に花束を手渡すと、自然な仕草でその腰を引き寄せ、額に軽くキスをした。スポットライトを浴びる紗雪が、彼の胸で幸せそうに微笑んでいる。そして、二人の薬指には同じプラチナリングが輝き、眩しいほどの光を放っていた。会場からは再び温かい拍手と、祝福の歓声が沸き起こった。想は父を見上げて、小さな声で尋ねた。「お父さん、あの人すごくきれいだね。女優さんとか?」しかし、律は何も答えない。舞台上の二人をじっと見つめ、目に見えない何かに心を締めつけられるような、息ができなくなるほどの痛みに耐えていた。自分の薬指にふと指で触れる。そこにあるはずの指輪はもうない。わずかに残っていた痕跡も、年月を経て今ではかなり薄くなっている。結局自分は、「傍観者」になることすら許されない、ただの邪魔な存在に過ぎなかったらしい。律はコンサートが終わるのを待たずに、息子の手を引いて賑やかな会場を後にした。二人の背中が、冬の夜空に身を隠すように消えていく。数日後。東都にて。律は一人車を走らせ、郊外の荒れ果てた山頂にある公園を訪れていた。そこは、16歳の時、初めて紗雪に想いを告げた場所だった。今では、見る影もなく荒れ、雑草が伸び放題になっている。かつて二人の名前を刻んだ桜の木も枯れてしまい、枝だけがどんよりとした空へ向かって寂しく伸びていた。枯木の前に立ち、ひび割れた樹皮に触れる。ひんやりと冷たい。その瞬間、冷たい風が吹き抜け、地面に溜まった枯れ葉を舞い上げた。冷え切った木の幹にもたれかかり、目を閉じた律は、まるで時間が戻っていくような錯覚を覚える。ふと、あの日の光景が脳裏に蘇った。陽射しの眩しい、穏やかな午後。16歳の紗雪は真っ白な制服のスカートを揺らし、高い位置で結んだポニーテールを弾ませながら、友人たちと楽しそうに駆け回っていた。その笑顔は太陽のように明るく、見ているだけで心まで温かくなるほど眩しい。そして、同じく16歳だった自分。まだ何も知らず、青臭くて、少しだけ不器用で、それでも妙な自信だけは持っていた。耳まで真っ赤に染めながら、人生で一番の勇気を振り絞って彼女の前へ駆け出す。「さ、紗雪!お……お前が好きだ!俺と付き
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