All Chapters of 子なし十年、取り上げた赤子は夫の愛人の子: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

新しい職場への異動初日。私は、容態が急変した妊婦の対応に追われていた。 看護師たちと懸命に処置を続け、どうにか母子ともに一命を取り留める。 ほっと息をついたのもつかの間、ベッドの上の彼女は、スマホを耳に当てると弾んだ声を上げた。 「ねえ、あなた、男の子だったわよ!」 そのとき、通話口から漏れ聞こえてきた向こうの声。 「よかった、本当によかった」 聞き慣れたはずのその響きに、私の動きはぴたりと凍りついた。 十年間、ずっとすぐ隣で聞き続けてきた音。 ――疑いようのない、私の夫の声だった。……「古川先生、古川玲奈(ふるかわ れな)先生」不意に呼ばれた名前に、はっと我に返る。「患者さんがお呼びですよ」そう言って、看護師はベッドに横たわる、出産を終えたばかりの母親へと視線を送った。つられて病床を見やる。若いからだろうか、大仕事を終えた直後とは思えないほど、彼女の血色は良かった。「先生、うちの子、元気ですよね?」不安げな問いかけに、喉の奥に込み上げた苦い塊をぐっと飲み込み、私は小さく頷いた。「ええ。今のところ、母子ともに何の問題もありませんよ」手元のカルテに目を落とす。そこにある名前は「原田詠美(はらだ えいみ)」。医師である私の言葉に安心したのか、詠美の頬は、歓喜に熱を帯びてほんのりと赤らんだ。「もう、うちの人ったらまだ来ないの?遅いんだから。ねえ先生聞いて、うちの旦那様、すっごくお金持ちなのよ。もう四十近いのになかなか子どもに恵まれなくて。だから今日のことを知ったら、絶対に大喜びしちゃうわ」無邪気そのものなその声が鼓膜を揺らすたび、私の胸の内側は、急速に温度を失っていく。その時、病室の重いドアが押し開かれ、息を切らして駆け込んできた男の姿が目に飛び込んできた。「すみません、原田詠美はどこですか!?」ついさっきまでベッドで大人しくしていた彼女が、弾かれたように甘ったるい声をあげる。「ここよ、あなた!」私は、そのすぐ傍らに立っていた。サージカルマスクに、すっぽりと髪を覆う医療用キャップ。顔の半分以上は隠れているとはいえ、万が一にも気づかれたら――咄嗟に身を固くし、隣にいた看護師の背後へと隠れようとした。けれど、それは全くの杞憂だった。古川健太(ふるかわ けんた
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第2話

心身ともにすり減らして帰宅すると、リビングにやわらかな明かりが灯っていた。そこには、エプロンをつけた健太が立っていた。「おかえり。こんな時間まで何してたんだよ。お前の好きなもの、作っておいたぞ」「良き夫」の笑顔が、赤ん坊を抱きかかえていた彼の横顔と、脳内でぴたりと重なり合った。「……おい、どうした?ぼーっとして。いくらなんでも働きすぎだろ。いっそのこと、医者なんて辞めちゃえばいいのに。家でずっと、のんびり暮らせばいいじゃないか」私はただ視線を足元へと落とし、無言でパンプスを脱いだ。「子どももいないのに、一日中、家で何をするっていうの」健太はふっと距離を詰め、背後から腕を回してきた。「じゃあ……今から作ればいいだろ」彼のシャツから、かすかなにおいが鼻先を掠めた。独特の、甘ったるいミルクのにおい。産婦人科医である私は、母乳の匂いをよく知っている。胸の奥に、激しい痛みが込み上げた。「……健太。私があなたのために、卵管を摘出したこと、まさか忘れたの?」びくっと、彼の身体が強張った。そして誤魔化すように小さく笑った。「ちょっとした冗談じゃないか」私はその腕をすげなく振り払った。もしも今日の出来事を知らなかったら、信じてしまっていたのだろうか。大学を卒業する前の私たちは、ふたりともまだ何も知らなかった。ただ覚えているのは、あの夜の月明かりの下で、彼がひどく魅力的に見えたことだけ。「大丈夫。俺がちゃんと責任を取るから」若さゆえの勢いで重ねた夜。やがて検査薬に浮かび上がった二本の線を前に、私たちはただ呆然と立ち尽くした。卒業を目前に控えたあの日、私はおずおずと言ってみたのだ。「……産んでも、いいんじゃないかな」途端に、健太の顔がさっと曇った。「馬鹿言うなよ。まだ二人ともまともな仕事すらないのに、どうやって育てていくんだ。それに俺、昔から子どもって苦手なんだよ……ずっと二人だけでいいじゃないか」そして彼は、私の両手をそっと包み込み、真剣な瞳でこう続けたのだ。「お前、医者になりたいんだろ?今ここで子どもなんか作ったら、お前の夢が全部台無しになっちゃうじゃないか」当時の私は過酷な病院実習の真っ最中で、心身ともに、いささかの余裕も残されていなかった。葛藤の末に……私はお腹の小さな
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第3話

「古川先生、最近すごく痩せましたよね?」翌日の昼下がり。私の隣に、研修医の青山洋平(あおやま ようへい)が、紙コップのコーヒーを差し出しながら腰を下ろした。言われて自身の頬に触れてみる。確かに、以前よりげっそりと肉が削げていた。本当のことを言うつもりなどない。「……ちょっとね。きつめのダイエットをしてるの」努めて平静に返したが、洋平は不意にすっと顔を近づけてきて、私はぎょっと身体を固くした。「先生は、今のままでもう十分きれいですよ。これ以上痩せなくていいです」彼の吐息が、わずかに頬に触れる。少し居心地が悪くなった。が、次の瞬間、彼はさっと勢いよく体を引いた。「あ、やばい、当直の時間だ!」大げさに溜め息をつきながら、バタバタと階段を下りていく洋平の後ろ姿が遠ざかるにつれ、強張っていた口元が自然と緩んだ。自分が初めて研修医だった頃の記憶が蘇る。……若いって、いいな。そこへ、看護師から内線が入った。「先生、原田詠美さんがお呼びです」手の中の残りのコーヒーを一息に飲み干し、ふう、と息をついた。顔など見たくもない。けれど職業倫理上、主治医として患者に会いに行かないわけにはいかないのだ。病室のドアを開けると、そこには病院の寝間着を身につけているというのに、いささかも華やかさを失っていない詠美が座っていた。「どうされましたか、何か気になる症状でも?」白衣を着ている以上、仕事に私情を挟む余地などない。相手が、誰であろうとも。彼女は悪びれる様子も、恥じる様子もなく、少し心配そうな顔を作って言った。「あのね先生……私、体型ってちゃんと戻りますかね。その……これからの『夜の生活』に影響するかと思って」「帝王切開ですから、直接的な影響は大きくありません。術後数ヶ月もすれば回復します」私の事務的な回答にようやく満足したのか、詠美はふふっと微笑み、その手を、わざわざ私の目の前へと差し出してみせた。「先生、見てください、きれいでしょう?これ、夫に買ってもらったんです」あの日、病室で私の目を灼いた五カラットのダイヤモンド。私は当たり障りなく頷いた。「私、帝王切開の傷跡が残ったら彼に引かれるかと思ったんですけど、彼が言うんですよ……」詠美は言いかけて、こらえきれないというように、くすく
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第4話

彼女の顔から、素の焦りが覗いた。大きく目を見開いて、私を見つめる。「私に殴られる音でも録ろうっていうの?ほんと、やることが下品ね」私はそのまま、詠美の姿をじっくりと値踏みするように眺めた。「夜のお店のママに、安っぽい演技でも習ったの?」詠美が荒々しく机を叩き、こちらの鼻先へ指を突きつけてきた。「このおばさん、何言ってんの。口を慎みなさいよ!」昨日、友人に調べてもらった彼女の経歴が頭に浮かんだ。つくづく思う――男という生き物は、骨の髄までああいう類の女に弱いものらしい、と。「図星でしょ?ずいぶん早くから体を売って、ようやく条件のいい買い手を見つけたってことでしょ」詠美が顔を真っ赤にして勢いよく立ち上がり、椅子が床と擦れてひどく耳障りな音を立てた。「あんたこそさぁ、さっさと離婚してあげれば?自分のためにもね」私はただ無言で、扉のほうへと手を差し示した。「出て行って!」彼女が荒々しい足取りで去ると、すぐに健太へ離婚協議書のファイルを送信した。既読はついたが、返信はない。構わない。引き延ばしたいなら、こちらも付き合ってやる。あの堪え性のない詠美が、果たしていつまでおとなしく耐えられるかどうか、見物だ。それから二日間、彼女は嘘のようにおとなしかった。ところが三日目の朝。朝一番に病院へ着くと、私の診察室の前が尋常ではない騒ぎになっていた。「古川玲奈のせいよ、あのヤブ医者!うちの子に何かしたに決まってるわ!」「最低の医者よ!」入り口付近に、見ず知らずの患者や家族が幾重にも人垣を作って押し寄せている。ざわめきをかき分けて進むと、詠美が赤ちゃんをしっかりと抱きかかえながら、声を上げて泣きじゃくっていた。「今度は何のつもりよ!」私の咎めるような声に、髪を振り乱した詠美が、あろうことか赤ちゃんを抱えたままの体勢で、猛然とこちらへ体当たりしてきた。「うちの元気な子を返して!」洋平が咄嗟に彼女を羽交い締めにしてくれなければ、私は強く押し倒されていたところだった。「何があったの?」眉をひそめて近くの看護師に尋ねると、彼女は青ざめた顔で私を人垣の外へ引っ張り出し、周囲を気にしながら小声で言った。「赤ちゃんの哺乳力が弱くて。発育不良のサインのひとつです」「それで、それを私のせいにしようと
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第5話

周囲の喧騒が、ざわめきへと変わる。鈍くきしむ腹部を両手で押さえながら、こみ上げる憎しみとともに言葉を絞り出した。「もう終わりよ、私たち」健太の瞳が、ぐらぐらと激しく揺れた。何か言おうとして喉を震わせ、ただ私の手を掴み、「ごめん、ごめん」とうわ言のように繰り返すだけだった。そこへ、背後から詠美の絹を裂くような悲鳴が上がった。「あなた!傷口が開いたみたい、痛い、痛いの!」健太は弾かれたように私の手を振り払い、すぐさま詠美のもとへと駆けていった。「大丈夫か?」彼はただの一度も、振り返ろうとはしなかった。詠美の体を大事そうに抱き上げて、処置室へと走り去っていく。遠ざかる二人の背中。その肩越しに詠美がくるりとこちらを向き、声を出さずに口の動きだけで、優越感に満ちた笑みを浮かべて告げた。――あんたの負け。お腹の痛みが重く増していく。それと同時に、下腹部の奥から、生温かいものがとめどなく滲み出ていく感覚があった。洋平が膝をついて、私の目の前にしゃがみ込む。「先生、しっかり!」薄れゆく意識の中、必死に私を抱き起こそうとする洋平の姿と、愛人を抱えて去る健太の背中が、意識の彼方へと引き裂かれるように遠ざかっていった。次に瞼を押し開けたとき、真っ白な病室の枕元には洋平だけがいた。私が微かに身じろぎすると、その気配で私の意識が戻ったことに気づいた彼が、すっと水を差し出してくれた。「私の体、どうなってるの?」彼は言葉を選ぶように黙った。「もう少し落ち着いてからにしましょう」「大丈夫。教えて」洋平は消え入りそうな声で告げた。「赤ちゃんが……助かりませんでした」赤ちゃん?その単語の輪郭が、すぐには頭の中に結びつかない。私の手は、お腹の上へと置かれていた。「流産……したってこと?」洋平が小さく頷いた。ふふ、と思わず乾いた声が漏れた。一度こぼれ落ちた笑いは、もうどうやっても止まらなくなった。あの愛人の女には子どもが無事に産まれた。そして私の子どもは――その命の存在を知ったその日が、そのまま実の父親の手によって奪われた日になったのだ。どうして。いくらなんでも、ひどすぎる!「先生、泣いていいですよ」洋平が優しい声で言った。その瞳には、ただ私を案じる純粋な痛みだけが滲んでいた
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第6話

それからの日々、健太は宣言通り、毎朝欠かさず病室に顔を出した。どれほど冷たくしても、彼は終始穏やかな顔をしていた。彼のスマホに詠美から着信があっても、出なくなっていた。「はい、どうぞ」健太が、りんごを食べやすい大きさに剥いて差し出してくる。それは以前、私が彼にしていたことだ。顔を背けて、黙っていた。「俺は彼女のことが好きなわけじゃない。ただ、一度の過ちで子どもができてしまって」「過ち?健太、自分でおかしいと思わないの?」彼は泣きそうな顔をした。「玲奈、本当だよ。気持ちはない。ただ、子どもが欲しくなったときに、彼女がいただけで……それに、彼女も、彼女なりにかわいそうな境遇で……」氷のように冷たく見返した。「彼女を不憫に思ってるのね?」健太が、意表を突かれたようにはっとした顔をした。「……当たってる?」しばらくの空白があって、彼はすがるように小さく頷いた。好きじゃないなんて言っておきながら。心配して胸が痛むなんて、いちばん深い「好き」じゃない。誰かを好きだからこそ、その人を思って胸が痛むのだ。「なら、穏やかに終わりにしましょう」それでも彼は、絶対に首を縦には振らなかった。やがて迎えた退院の日。病室のドアを開けると、そこには大きなバラの花束を抱え、病室の前に片膝をついている健太の姿があった。「盛大な結婚式をしてやると約束したよな」花束とともに掲げられた指輪が、きらきらと輝く。皮肉なものだ。あの日病室で詠美の手にはまっていたものと、全く同じカラット数のダイヤだった。「覆水盆に返らずって言うでしょ。遅すぎたのよ」彼が何か言おうとしたとき、別の声が割り込んだ。「なに情けないことしてんの、立ちなさい!あなたが頭を下げることなんてないわよ!」健太が驚いた顔をした。「母さん、なんで?」ドカドカと足音を立てて踏み込んできた姑の古川智子(ふるかわ さとこ)は、私を値踏みするように一瞥してから、健太に言った。「詠美ちゃんが教えてくれなかったら、あなたいつまで隠すつもりだったの」そして後ろにいた詠美の手をいかにも優しげに引き、ソファに座らせた。「出産したばかりなんだから、無理しちゃだめよ」詠美ちゃん、と。なんと甘く親しげな呼び方だろう。姑は、私には一度だって優し
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第7話

病室の片隅で、智子が嫌味を並べ立てた。「もういい歳でしょうに。離婚したら、もらい手なんていないわよ。うちの息子は違う。若い奥さんに、跡取りの息子まで生まれたんだから。だいたい、最初からあなたたちの結婚には反対だったのよ」離婚協議書をバッグにしまいながら、冷ややかに言い返した。「健太が就職したばかりで給料が少なかった頃、私が生活費を出してあげていたときは、何も仰いませんでしたよね」大学を出たての頃、健太の収入は研修医だった私よりさらに低かった。智子はいつも「働いたら親に仕送りしなさい」と彼から金をむしり取っていた。私の両親は、新卒の給料ではカツカツだろうと、毎月仕送りを送ってくれていた。おかげで健太は、給料のほとんどを母親に吸い上げられており、私の援助がなければ食費にも事欠く有様だった。健太にとって、最も触れられたくない過去である。「俺が稼げるようになってから、ちゃんと全額返しただろ。母さんにそんな口の利き方をするな。俺がいなかったら、お前の給料で豪邸が買えた?高級車を乗り回せた?」彼がなおも言い返そうとしたところで、背後から声がした。「古川先生ほどの腕がある方なら、誰の力も借りずに今以上の生活ができますよ」「またお前か!」健太がギリッと奥歯を噛み締めた。洋平が私の隣に立ち、ティッシュを取り出して頬の血に当てた。「あとでちゃんと手当てしましょう」「俺の女に気安く触るな!」健太が血相を変えて洋平を引き剥がそうとする。が、詠美がその腕にしがみついた。「ねえ、先生にも好きな人ができたんでしょ。おめでたいことじゃない?」私は冷笑して、嘲るような口調で言い返した。「そっちこそ何なの。二人がとっくにそういう関係だったとしたら、あなたの言う純愛なんて誰が信じるの?」洋平がおかしそうにふっと笑った。「誤解しないでください。古川先生はどこかの誰かと違って芯のある方ですよ。今は僕が一方的に追いかけているところなんで」そして、ポケットから指輪を取り出した。「先生、晴れて独身に戻られたことですし――僕のことも、選択肢のひとつとして考えてみてはくれませんか」健太の目が真っ赤に充血した。また殴りかかろうとするのを、智子が必死に引き止めた。「行くわよ、健太!今のあなたの奥さんは詠美ちゃんなの!最初か
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第8話

財産分与の結果。健太が保有していた株式の半分、現金一億円、居住用マンション二戸、商業用テナント三区画を受け取った。十年という長く空虚な結婚生活が、まったくの無駄ではなかったということか。「これからは一生、先生のヒモとして生きていきます」洋平がおどけたように目を輝かせて言った。離婚の知らせを聞いた旧友たちは、皆一様に同情してくれた。ある日、大学時代の友達が血相を変えて訪ねてきた。「健太くんの会社の株、まだ持ってる!?」「どうしたの?」ただならぬ気配に、思わず身を乗り出した。「内部情報なんだけど、あそこの主力のワクチンに重大な欠陥が見つかったらしいの。まだ上のごく一部にしか漏れてない情報だって」熟考の末、まだ市場が完全に静かなうちに、手持ちの株式を毎日少しずつ売り抜けた。最後のひと株まで現金化し終えた直後、業界内で噂が流れ始めた。間一髪だったことに、胸を撫で下ろした。ネットバンキングの莫大な残高表示を眺めていると、自然と微笑が漏れた。愛を失って、巨万の富を得た。これはこれで、痛快な人生かもしれない。「古川先生、院長がお呼びです」診察室のドアがノックされた。院長室に通されると、院長の顔からは、いっさいの感情が抜け落ちていた。「何でしょうか」「短い在籍期間ではあったが、古川先生はずっと真摯に仕事に取り組んでくれていたね」そのいかにもな前置きで、背筋に悪寒が走った。「だがね……外部から『古川玲奈は故意に医療ミスを起こし、新生児に危害を加えた』という正式な告発状が届いてしまってね」一瞬で、怒りが全身を駆け巡った。離婚が成立してなお、まだこの私にまとわりつくつもりか。「病院としても無視はできない。とりあえず、内部調査が正式に終わるまでの間、本日から休職という形をとってもらえないだろうか」私はただ無言で深く頭を下げ、院長室をあとにした。休職初日の朝。泥のように眠ってやろうと思っていたのに、着信音に現実へ引き戻された。「……先生!今日お休みなんですか!?」電話の主は洋平だった。ざっと事情を話すと、彼は声を荒らげた。「先生、絶対に気に病まないでください。病院側の調査には、僕が目を光らせておきますから」「いいのよ。私、もうこの仕事そのものに少し疲れてしまっていたところだ
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第9話

洋平から電話があった。「ネット世論対策会社を使って反撃しますか?」「私の合図を待ってちょうだい」病院の調査結果をまず待つ。公式な調査結果という盾を得てから、詠美の問題に対処する。騒ぎが大きくなって病院のイメージにも関わることから、病院は素早く動いた。調査の結果、古川玲奈医師の処置にいっさいの過失は認められなかった。発育遅延の原因についても、妊娠期における母体の生活習慣に起因する旨が正式にリリースされた。詠美は当然納得せず、涙ながらに反論動画を出し続けた。彼女のフォロワーたちも信じて疑わず、コメント欄には私への罵倒が溢れた。ネット上の詠美は、優しくて裕福で哀れな主婦。そして私は、年を取って色あせた、腹黒く毒々しい捨てられた元妻。健太が妻を捨てたことさえ、彼女のコメント欄では「仕方のないこと」として擁護されていた。――詠美、そのきらびやかな設定がお気に入りなら、そのメッキを一枚残らず剥がしてあげるわ。興信所を使って調べておいた経歴データをまとめ、ネット世論対策会社に渡した。金を積めば、彼らの仕事は恐ろしく早かった。すぐに詠美のコメント欄にコピペが増え始め、ネット上に暴露する人間が次々と現れた。人はやったことに必ず痕跡を残す。「知ってる。夜の店の女だよ。何回も整形して、今のパパを引っ掛けたんだ」「相手の男、奥さんが医者らしいけど『ババアだから余裕で奪える』って言ってたよ」そのコメントを見て、声を出して笑った。当時の同業キャストたちだろう。ネットが最も好むのは、こういった虚像が崩壊する瞬間だ。清楚で上品な設定が嘘だったと分かり、実態は底意地の悪い略奪愛人だったというグロテスクな逆転劇。特に元々のファンが残酷な速度で手のひらを返した。わずか半日でフォロワー数が五万近く消えた。詠美が釈明ライブ配信を強行したが、罵詈雑言の弾幕に耐えかね、数分で強制終了となった。自宅のソファで結末を楽しんでいると、健太から電話がかかってきた。「お前だろ、玲奈。なんてことを、ネットに裏アカで晒し上げるなんて!」奥で詠美の泣き声が聞こえた。「どうしてこんなひどいことを……」胸がすっとした。「私がやったら何なの?ちゃんと止めてくれって言ったのに、聞かなかったじゃない」健太が言葉に詰まり、そ
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第10話

私はただ頷いて、エントランスに向かおうとした。健太が血相を変えて行く手を塞いだ。「彼女から離れて!」洋平が私の前にすっと立った。「お前には関係ないだろうが!」健太が狂犬のように噛みつく。「関係あるわ。彼は今、私の『彼氏』なんだから」二人がまったく異なる意味で同時に固まった。洋平の目元が、嬉しそうに緩んだ。健太が底知れぬ暗い目で私たちを睨んだ。「……やっぱり、お前ら最初からそういう関係だったのか。財産を渡したのは純粋な『慰謝料』のつもりだったのに、この若い男と裏で出来ていたなら話は別だ!最初から俺を騙して財産を巻き上げる計画だったんだろ、この毒婦が!金を返せ、そうすれば今回の不貞は綺麗に水に流してやる!」私の心からの大爆笑が響いた。「健太、奥様に脳髄まで溶かされたの?それとも病院の薬でも処方し直してあげようか?あなたの会社がどれだけ見事に破綻しようと、私にとっては最高のファンファーレよ。一円たりとも返すわけがないでしょう」健太が完全に理性を吹き飛ばし、飛びかかってきた。洋平は素早く身を沈め、一本背負いで、彼を豪快に叩きつけた。その後、しばらく健太の姿を見ることはなかった。私が留学準備を進める頃には、彼の会社の株式は完全に紙くず同然になっていた。本人も検察の特捜部に身柄を拘束されていた。健太と詠美の醜悪な関係も、内部の事情通によってネットに完全に晒されていた。今の詠美はネット上で、石を投げられる「国民的サンドバッグ愛人」としてその名が知れ渡っていた。出国前、マンションのロビーに彼女が赤ん坊を抱えて押しかけてきた。そして、私を睨みながら叫んだ。「最初から会社の株がどうなるか分かってて売り抜けたんでしょう!?」「二度と私の前に姿を見せないで。次にその面を見たら、いっさいの容赦なく警察を呼ぶわ」私が冷徹に突き放すと、腕の中の赤ん坊が火がついたように泣き出した。それでも赤ん坊をあやすことすら忘れて食い下がってくる。結局、彼女は駆けつけた警備員たちによって、外へと引きずり出されていった。洋平は私が海外へ研修に出るつもりだと知ると、仕事を辞めて一緒についてくると言い出した。「ちょっと。いくらなんでも、私のためにそこまで人生を狂わせる必要なんてないのよ?」「いやあ、海外の金髪イケメ
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