新しい職場への異動初日。私は、容態が急変した妊婦の対応に追われていた。 看護師たちと懸命に処置を続け、どうにか母子ともに一命を取り留める。 ほっと息をついたのもつかの間、ベッドの上の彼女は、スマホを耳に当てると弾んだ声を上げた。 「ねえ、あなた、男の子だったわよ!」 そのとき、通話口から漏れ聞こえてきた向こうの声。 「よかった、本当によかった」 聞き慣れたはずのその響きに、私の動きはぴたりと凍りついた。 十年間、ずっとすぐ隣で聞き続けてきた音。 ――疑いようのない、私の夫の声だった。……「古川先生、古川玲奈(ふるかわ れな)先生」不意に呼ばれた名前に、はっと我に返る。「患者さんがお呼びですよ」そう言って、看護師はベッドに横たわる、出産を終えたばかりの母親へと視線を送った。つられて病床を見やる。若いからだろうか、大仕事を終えた直後とは思えないほど、彼女の血色は良かった。「先生、うちの子、元気ですよね?」不安げな問いかけに、喉の奥に込み上げた苦い塊をぐっと飲み込み、私は小さく頷いた。「ええ。今のところ、母子ともに何の問題もありませんよ」手元のカルテに目を落とす。そこにある名前は「原田詠美(はらだ えいみ)」。医師である私の言葉に安心したのか、詠美の頬は、歓喜に熱を帯びてほんのりと赤らんだ。「もう、うちの人ったらまだ来ないの?遅いんだから。ねえ先生聞いて、うちの旦那様、すっごくお金持ちなのよ。もう四十近いのになかなか子どもに恵まれなくて。だから今日のことを知ったら、絶対に大喜びしちゃうわ」無邪気そのものなその声が鼓膜を揺らすたび、私の胸の内側は、急速に温度を失っていく。その時、病室の重いドアが押し開かれ、息を切らして駆け込んできた男の姿が目に飛び込んできた。「すみません、原田詠美はどこですか!?」ついさっきまでベッドで大人しくしていた彼女が、弾かれたように甘ったるい声をあげる。「ここよ、あなた!」私は、そのすぐ傍らに立っていた。サージカルマスクに、すっぽりと髪を覆う医療用キャップ。顔の半分以上は隠れているとはいえ、万が一にも気づかれたら――咄嗟に身を固くし、隣にいた看護師の背後へと隠れようとした。けれど、それは全くの杞憂だった。古川健太(ふるかわ けんた
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