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第2話

作者: リリ
心身ともにすり減らして帰宅すると、リビングにやわらかな明かりが灯っていた。

そこには、エプロンをつけた健太が立っていた。

「おかえり。こんな時間まで何してたんだよ。お前の好きなもの、作っておいたぞ」

「良き夫」の笑顔が、赤ん坊を抱きかかえていた彼の横顔と、脳内でぴたりと重なり合った。

「……おい、どうした?ぼーっとして。いくらなんでも働きすぎだろ。いっそのこと、医者なんて辞めちゃえばいいのに。家でずっと、のんびり暮らせばいいじゃないか」

私はただ視線を足元へと落とし、無言でパンプスを脱いだ。

「子どももいないのに、一日中、家で何をするっていうの」

健太はふっと距離を詰め、背後から腕を回してきた。

「じゃあ……今から作ればいいだろ」

彼のシャツから、かすかなにおいが鼻先を掠めた。独特の、甘ったるいミルクのにおい。

産婦人科医である私は、母乳の匂いをよく知っている。

胸の奥に、激しい痛みが込み上げた。

「……健太。私があなたのために、卵管を摘出したこと、まさか忘れたの?」

びくっと、彼の身体が強張った。そして誤魔化すように小さく笑った。

「ちょっとした冗談じゃないか」

私はその腕をすげなく振り払った。

もしも今日の出来事を知らなかったら、信じてしまっていたのだろうか。

大学を卒業する前の私たちは、ふたりともまだ何も知らなかった。

ただ覚えているのは、あの夜の月明かりの下で、彼がひどく魅力的に見えたことだけ。

「大丈夫。俺がちゃんと責任を取るから」

若さゆえの勢いで重ねた夜。やがて検査薬に浮かび上がった二本の線を前に、私たちはただ呆然と立ち尽くした。

卒業を目前に控えたあの日、私はおずおずと言ってみたのだ。

「……産んでも、いいんじゃないかな」

途端に、健太の顔がさっと曇った。

「馬鹿言うなよ。まだ二人ともまともな仕事すらないのに、どうやって育てていくんだ。それに俺、昔から子どもって苦手なんだよ……ずっと二人だけでいいじゃないか」

そして彼は、私の両手をそっと包み込み、真剣な瞳でこう続けたのだ。

「お前、医者になりたいんだろ?今ここで子どもなんか作ったら、お前の夢が全部台無しになっちゃうじゃないか」

当時の私は過酷な病院実習の真っ最中で、心身ともに、いささかの余裕も残されていなかった。

葛藤の末に……私はお腹の小さな命を手放した。

それだけじゃない。彼が子どもはいらないと言ったから、私は片方の卵管を切除することを選んだ。

もしも時間をあの日に巻き戻せるのなら。

私は過去の自分のもとへ全力で駆け寄り、その思い上がった頬を、ありったけの力で張り飛ばしてやりたい。

この大馬鹿者、と。

リビングには、手料理の香りが満ちている。淡い黄色の灯りが、この空間をいかにも柔らかく包み込んでいた。

私がずっと夢に描いてきた、温かな家のかたち。

ゆっくりと瞼を閉じ、そして、もう一度開いたとき。

私のなかで、決定的な何かが静かに固まっていた。

「健太。離婚しましょう」

左手の薬指から、シンプルな銀の指輪を外し、彼の目の前へと差し出した。

健太は息を呑み、完全に言葉を失った。それから、信じられないという顔で私を見つめ返した。

「……離婚、だって?」

少しの間を置いて、彼はあからさまに態度を和らげた。

「……分かった。最近ずっと仕事が忙しくて、お前のことほったらかしにしてたよな。悪かった。でも、こうして時間ができたらお前のために飯だって作ってるし」

問い詰めたかった。

その言葉は、本当に私を心配してのものなのか。それとも、罪悪感をごまかすための、ただのポーズなのかと。

私は踵を返し、寝室へ向かって荷物をまとめ始めた。

私が畳んで入れた服を、彼が引っ張り出す。

口づけしようとすり寄ってくる顔を、思いきり背けて拒絶する。

抱きしめようとするその腕を、振り払う。

そんな無言のせめぎ合いを唐突に断ち切ったのは、彼のスマホの着信音だった。

画面を目にした瞬間、健太は反射的に、探るような目を私に向けた。

「……会社からだ」

以前の彼は、仕事の電話であっても私の前で隠そうとなんてしなかった。

「お前は俺の妻なんだから、会社の機密くらい耳に入ったっていい」なんて、言ったくせに。

数分後、戻ってきた彼の顔は、あっさりしたものだった。

「急な出張が入った。いいか、少し頭を冷やして待ってろ。どこにも行くなよ」

そう言い含めると、彼は再び私の左手を取り、抜き取られた指輪を強引にはめようとする。

そのまま私の手の甲にそっと唇を落とし、愛おしげに目を細めてみせた。

「この指輪は、俺たちにとって特別なものだろ。ちゃんとしたでっかいダイヤも、そのうち買ってやるから」

私は指輪をふたたび外すと、すぐ横の壁に向かって思いきり投げつけた。

その瞬間、健太の表情が、一瞬にして暗く沈んだ。

「……下手に出れば出るほど図に乗りやがって。どうやら少し、甘やかしすぎたな」

指輪が乾いた音を立てて床に落ちる。それと全く同時に、健太も踵を返し、部屋を出ていった。

私の視線は、フローリングを転がっていく銀の輪を、ただ静かに追い続けていた。

古い記憶が、じわじわと滲み出してくる。

「金はないけど、これ、俺が手作りした指輪だ」

不慣れな作業で手が傷だらけになっていても、彼は全く気にしていなかった。

ただただ、瞳をきらきらと輝かせて。まるで私が、彼の世界のすべてであるかのように。

「いつか絶対に豪邸を買って、豪華な結婚式を挙げてやる」

――そして彼は、本当に成功した。

医療業界の新星として莫大な財を成し、かつて私に誓った約束のほとんどを果たしてみせた。

ただひとつ違っていたのは。

その豪邸の中にいたのが、別の女だったということだけ。

……もう、いらない。

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