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子なし十年、取り上げた赤子は夫の愛人の子

子なし十年、取り上げた赤子は夫の愛人の子

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言語: Japanese
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概要

婚姻生活

スカッと

ひいき/自己中

愛人

クズ男

ドロドロ展開

逆転

新しい職場への異動初日。私は、容態が急変した妊婦の対応に追われていた。 看護師たちと懸命に処置を続け、どうにか母子ともに一命を取り留める。 ほっと息をついたのもつかの間、ベッドの上の彼女は、スマホを耳に当てると弾んだ声を上げた。 「ねえ、あなた、男の子だったわよ!」 そのとき、通話口から漏れ聞こえてきた向こうの声。 「よかった、本当によかった」 聞き慣れたはずのその響きに、私の動きはぴたりと凍りついた。 十年間、ずっとすぐ隣で聞き続けてきた音。 ――疑いようのない、私の夫の声だった。

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第1話

第1話

新しい職場への異動初日。私は、容態が急変した妊婦の対応に追われていた。

看護師たちと懸命に処置を続け、どうにか母子ともに一命を取り留める。

ほっと息をついたのもつかの間、ベッドの上の彼女は、スマホを耳に当てると弾んだ声を上げた。

「ねえ、あなた、男の子だったわよ!」

そのとき、通話口から漏れ聞こえてきた向こうの声。

「よかった、本当によかった」

聞き慣れたはずのその響きに、私の動きはぴたりと凍りついた。

十年間、ずっとすぐ隣で聞き続けてきた音。

――疑いようのない、私の夫の声だった。

……

「古川先生、古川玲奈(ふるかわ れな)先生」

不意に呼ばれた名前に、はっと我に返る。

「患者さんがお呼びですよ」

そう言って、看護師はベッドに横たわる、出産を終えたばかりの母親へと視線を送った。

つられて病床を見やる。若いからだろうか、大仕事を終えた直後とは思えないほど、彼女の血色は良かった。

「先生、うちの子、元気ですよね?」

不安げな問いかけに、喉の奥に込み上げた苦い塊をぐっと飲み込み、私は小さく頷いた。

「ええ。今のところ、母子ともに何の問題もありませんよ」

手元のカルテに目を落とす。そこにある名前は「原田詠美(はらだ えいみ)」。

医師である私の言葉に安心したのか、詠美の頬は、歓喜に熱を帯びてほんのりと赤らんだ。

「もう、うちの人ったらまだ来ないの?遅いんだから。ねえ先生聞いて、うちの旦那様、すっごくお金持ちなのよ。もう四十近いのになかなか子どもに恵まれなくて。だから今日のことを知ったら、絶対に大喜びしちゃうわ」

無邪気そのものなその声が鼓膜を揺らすたび、私の胸の内側は、急速に温度を失っていく。

その時、病室の重いドアが押し開かれ、息を切らして駆け込んできた男の姿が目に飛び込んできた。

「すみません、原田詠美はどこですか!?」

ついさっきまでベッドで大人しくしていた彼女が、弾かれたように甘ったるい声をあげる。

「ここよ、あなた!」

私は、そのすぐ傍らに立っていた。

サージカルマスクに、すっぽりと髪を覆う医療用キャップ。顔の半分以上は隠れているとはいえ、万が一にも気づかれたら――

咄嗟に身を固くし、隣にいた看護師の背後へと隠れようとした。

けれど、それは全くの杞憂だった。

古川健太(ふるかわ けんた)の瞳に映っているのは、生まれたばかりの赤ん坊と、ベッドにいる詠美だけ。すぐ目の前にいる私のことなど、彼の視界からは完全に締め出されていた。

ただ静かに見つめていると、健太は恐る恐る赤ん坊を抱き上げ、その小さな顔をしげしげと覗き込んだ。

「……俺に似てるな」

そう呟いて、今度は詠美へ満面の笑みを向ける。

「よく頑張ってくれた。お祝いに、別荘を買っておいたよ。それから、これ。お前がずっと欲しがってた、五カラットのダイヤだ」

「うそ、最高!」

白いライトを浴びて、その大粒の石が鋭い光を放った。

その光が、私の目に痛いほど突き刺さった。

二人は周囲の目など完全に忘れた様子で、言葉を交わし合っている。傍らの看護師たちが、ひそひそと羨望の目を向けていた。

「出産しただけで別荘って、ちょっと信じられないよね」

「かなりの年の差夫婦っぽかったし。ほんとに『本妻』なのかも怪しいところだけどね」

「いいじゃん、愛人だってあれだけ貢いでもらえるなら大勝利よ。今の時代、下手な本妻より愛人のほうがよっぽどいい暮らししてたりするんだから」

――もう、限界だった。

私は踵を返し、逃げるように自分の診察室へと駆け込んだ。

マスクを引き剥がし、白衣を脱ぎ捨て、キャップを外す。

キャスター付きの椅子に崩れ落ちるように腰を掛け、ただ呆然と宙を見つめていると、何の予告もなく、ふいに涙が溢れ出した。

拭っても、拭っても、止めどなく頬を伝っていく。両手で必死に口元を塞いだものの、抑えきれない嗚咽が指の隙間から、ひっ、と情けない音を立てて漏れた。

泣きじゃくるうちに、空っぽの胃袋がひっくり返るような吐き気が込み上げてくる。

そういえば今日は、朝からろくに食事も摂らないまま、詠美の急変に駆けつけたのだった。

そこでようやく、すとんと腑に落ちた。

先ほどの看護師たちの噂話。あの滑稽な「本妻」という笑い話の主人公は他でもない、この私だ。

夫が外で作った子どもを、医者である私が、この手で無事に取り上げたのだ。

こんな悪趣味な喜劇が他にあるだろうか。

小刻みに震える指でスマホを取り出し、適当なデリバリーを頼もうとアプリの画面をスクロールする。

ところが、震える指先が誤って「緊急連絡先」に登録された名前、健太の番号をタップしてしまった。

無機質な発信音が響く。

我に返り、通話終了の赤いボタンを押した。

やがて注文した食事が届くまで、彼からの折り返しは一度もなかった。

昔は私の電話には必ず一番に出てくれた。どうしても出られない時だって、数分後には必ず折り返してくれたというのに。

今は私なんかよりずっと、大好きな人がそばにいるから。

砂を噛むような気味悪さで、無理やり食べ物を胃の腑へと押し込む。

たとえ夫を失ったとしても。

私はここで、医者として働き続けなければならないのだから。

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レビュー

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第1話
新しい職場への異動初日。私は、容態が急変した妊婦の対応に追われていた。 看護師たちと懸命に処置を続け、どうにか母子ともに一命を取り留める。 ほっと息をついたのもつかの間、ベッドの上の彼女は、スマホを耳に当てると弾んだ声を上げた。 「ねえ、あなた、男の子だったわよ!」 そのとき、通話口から漏れ聞こえてきた向こうの声。 「よかった、本当によかった」 聞き慣れたはずのその響きに、私の動きはぴたりと凍りついた。 十年間、ずっとすぐ隣で聞き続けてきた音。 ――疑いようのない、私の夫の声だった。……「古川先生、古川玲奈(ふるかわ れな)先生」不意に呼ばれた名前に、はっと我に返る。「患者さんがお呼びですよ」そう言って、看護師はベッドに横たわる、出産を終えたばかりの母親へと視線を送った。つられて病床を見やる。若いからだろうか、大仕事を終えた直後とは思えないほど、彼女の血色は良かった。「先生、うちの子、元気ですよね?」不安げな問いかけに、喉の奥に込み上げた苦い塊をぐっと飲み込み、私は小さく頷いた。「ええ。今のところ、母子ともに何の問題もありませんよ」手元のカルテに目を落とす。そこにある名前は「原田詠美(はらだ えいみ)」。医師である私の言葉に安心したのか、詠美の頬は、歓喜に熱を帯びてほんのりと赤らんだ。「もう、うちの人ったらまだ来ないの?遅いんだから。ねえ先生聞いて、うちの旦那様、すっごくお金持ちなのよ。もう四十近いのになかなか子どもに恵まれなくて。だから今日のことを知ったら、絶対に大喜びしちゃうわ」無邪気そのものなその声が鼓膜を揺らすたび、私の胸の内側は、急速に温度を失っていく。その時、病室の重いドアが押し開かれ、息を切らして駆け込んできた男の姿が目に飛び込んできた。「すみません、原田詠美はどこですか!?」ついさっきまでベッドで大人しくしていた彼女が、弾かれたように甘ったるい声をあげる。「ここよ、あなた!」私は、そのすぐ傍らに立っていた。サージカルマスクに、すっぽりと髪を覆う医療用キャップ。顔の半分以上は隠れているとはいえ、万が一にも気づかれたら――咄嗟に身を固くし、隣にいた看護師の背後へと隠れようとした。けれど、それは全くの杞憂だった。古川健太(ふるかわ けんた
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第2話
心身ともにすり減らして帰宅すると、リビングにやわらかな明かりが灯っていた。そこには、エプロンをつけた健太が立っていた。「おかえり。こんな時間まで何してたんだよ。お前の好きなもの、作っておいたぞ」「良き夫」の笑顔が、赤ん坊を抱きかかえていた彼の横顔と、脳内でぴたりと重なり合った。「……おい、どうした?ぼーっとして。いくらなんでも働きすぎだろ。いっそのこと、医者なんて辞めちゃえばいいのに。家でずっと、のんびり暮らせばいいじゃないか」私はただ視線を足元へと落とし、無言でパンプスを脱いだ。「子どももいないのに、一日中、家で何をするっていうの」健太はふっと距離を詰め、背後から腕を回してきた。「じゃあ……今から作ればいいだろ」彼のシャツから、かすかなにおいが鼻先を掠めた。独特の、甘ったるいミルクのにおい。産婦人科医である私は、母乳の匂いをよく知っている。胸の奥に、激しい痛みが込み上げた。「……健太。私があなたのために、卵管を摘出したこと、まさか忘れたの?」びくっと、彼の身体が強張った。そして誤魔化すように小さく笑った。「ちょっとした冗談じゃないか」私はその腕をすげなく振り払った。もしも今日の出来事を知らなかったら、信じてしまっていたのだろうか。大学を卒業する前の私たちは、ふたりともまだ何も知らなかった。ただ覚えているのは、あの夜の月明かりの下で、彼がひどく魅力的に見えたことだけ。「大丈夫。俺がちゃんと責任を取るから」若さゆえの勢いで重ねた夜。やがて検査薬に浮かび上がった二本の線を前に、私たちはただ呆然と立ち尽くした。卒業を目前に控えたあの日、私はおずおずと言ってみたのだ。「……産んでも、いいんじゃないかな」途端に、健太の顔がさっと曇った。「馬鹿言うなよ。まだ二人ともまともな仕事すらないのに、どうやって育てていくんだ。それに俺、昔から子どもって苦手なんだよ……ずっと二人だけでいいじゃないか」そして彼は、私の両手をそっと包み込み、真剣な瞳でこう続けたのだ。「お前、医者になりたいんだろ?今ここで子どもなんか作ったら、お前の夢が全部台無しになっちゃうじゃないか」当時の私は過酷な病院実習の真っ最中で、心身ともに、いささかの余裕も残されていなかった。葛藤の末に……私はお腹の小さな
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第3話
「古川先生、最近すごく痩せましたよね?」翌日の昼下がり。私の隣に、研修医の青山洋平(あおやま ようへい)が、紙コップのコーヒーを差し出しながら腰を下ろした。言われて自身の頬に触れてみる。確かに、以前よりげっそりと肉が削げていた。本当のことを言うつもりなどない。「……ちょっとね。きつめのダイエットをしてるの」努めて平静に返したが、洋平は不意にすっと顔を近づけてきて、私はぎょっと身体を固くした。「先生は、今のままでもう十分きれいですよ。これ以上痩せなくていいです」彼の吐息が、わずかに頬に触れる。少し居心地が悪くなった。が、次の瞬間、彼はさっと勢いよく体を引いた。「あ、やばい、当直の時間だ!」大げさに溜め息をつきながら、バタバタと階段を下りていく洋平の後ろ姿が遠ざかるにつれ、強張っていた口元が自然と緩んだ。自分が初めて研修医だった頃の記憶が蘇る。……若いって、いいな。そこへ、看護師から内線が入った。「先生、原田詠美さんがお呼びです」手の中の残りのコーヒーを一息に飲み干し、ふう、と息をついた。顔など見たくもない。けれど職業倫理上、主治医として患者に会いに行かないわけにはいかないのだ。病室のドアを開けると、そこには病院の寝間着を身につけているというのに、いささかも華やかさを失っていない詠美が座っていた。「どうされましたか、何か気になる症状でも?」白衣を着ている以上、仕事に私情を挟む余地などない。相手が、誰であろうとも。彼女は悪びれる様子も、恥じる様子もなく、少し心配そうな顔を作って言った。「あのね先生……私、体型ってちゃんと戻りますかね。その……これからの『夜の生活』に影響するかと思って」「帝王切開ですから、直接的な影響は大きくありません。術後数ヶ月もすれば回復します」私の事務的な回答にようやく満足したのか、詠美はふふっと微笑み、その手を、わざわざ私の目の前へと差し出してみせた。「先生、見てください、きれいでしょう?これ、夫に買ってもらったんです」あの日、病室で私の目を灼いた五カラットのダイヤモンド。私は当たり障りなく頷いた。「私、帝王切開の傷跡が残ったら彼に引かれるかと思ったんですけど、彼が言うんですよ……」詠美は言いかけて、こらえきれないというように、くすく
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第4話
彼女の顔から、素の焦りが覗いた。大きく目を見開いて、私を見つめる。「私に殴られる音でも録ろうっていうの?ほんと、やることが下品ね」私はそのまま、詠美の姿をじっくりと値踏みするように眺めた。「夜のお店のママに、安っぽい演技でも習ったの?」詠美が荒々しく机を叩き、こちらの鼻先へ指を突きつけてきた。「このおばさん、何言ってんの。口を慎みなさいよ!」昨日、友人に調べてもらった彼女の経歴が頭に浮かんだ。つくづく思う――男という生き物は、骨の髄までああいう類の女に弱いものらしい、と。「図星でしょ?ずいぶん早くから体を売って、ようやく条件のいい買い手を見つけたってことでしょ」詠美が顔を真っ赤にして勢いよく立ち上がり、椅子が床と擦れてひどく耳障りな音を立てた。「あんたこそさぁ、さっさと離婚してあげれば?自分のためにもね」私はただ無言で、扉のほうへと手を差し示した。「出て行って!」彼女が荒々しい足取りで去ると、すぐに健太へ離婚協議書のファイルを送信した。既読はついたが、返信はない。構わない。引き延ばしたいなら、こちらも付き合ってやる。あの堪え性のない詠美が、果たしていつまでおとなしく耐えられるかどうか、見物だ。それから二日間、彼女は嘘のようにおとなしかった。ところが三日目の朝。朝一番に病院へ着くと、私の診察室の前が尋常ではない騒ぎになっていた。「古川玲奈のせいよ、あのヤブ医者!うちの子に何かしたに決まってるわ!」「最低の医者よ!」入り口付近に、見ず知らずの患者や家族が幾重にも人垣を作って押し寄せている。ざわめきをかき分けて進むと、詠美が赤ちゃんをしっかりと抱きかかえながら、声を上げて泣きじゃくっていた。「今度は何のつもりよ!」私の咎めるような声に、髪を振り乱した詠美が、あろうことか赤ちゃんを抱えたままの体勢で、猛然とこちらへ体当たりしてきた。「うちの元気な子を返して!」洋平が咄嗟に彼女を羽交い締めにしてくれなければ、私は強く押し倒されていたところだった。「何があったの?」眉をひそめて近くの看護師に尋ねると、彼女は青ざめた顔で私を人垣の外へ引っ張り出し、周囲を気にしながら小声で言った。「赤ちゃんの哺乳力が弱くて。発育不良のサインのひとつです」「それで、それを私のせいにしようと
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第5話
周囲の喧騒が、ざわめきへと変わる。鈍くきしむ腹部を両手で押さえながら、こみ上げる憎しみとともに言葉を絞り出した。「もう終わりよ、私たち」健太の瞳が、ぐらぐらと激しく揺れた。何か言おうとして喉を震わせ、ただ私の手を掴み、「ごめん、ごめん」とうわ言のように繰り返すだけだった。そこへ、背後から詠美の絹を裂くような悲鳴が上がった。「あなた!傷口が開いたみたい、痛い、痛いの!」健太は弾かれたように私の手を振り払い、すぐさま詠美のもとへと駆けていった。「大丈夫か?」彼はただの一度も、振り返ろうとはしなかった。詠美の体を大事そうに抱き上げて、処置室へと走り去っていく。遠ざかる二人の背中。その肩越しに詠美がくるりとこちらを向き、声を出さずに口の動きだけで、優越感に満ちた笑みを浮かべて告げた。――あんたの負け。お腹の痛みが重く増していく。それと同時に、下腹部の奥から、生温かいものがとめどなく滲み出ていく感覚があった。洋平が膝をついて、私の目の前にしゃがみ込む。「先生、しっかり!」薄れゆく意識の中、必死に私を抱き起こそうとする洋平の姿と、愛人を抱えて去る健太の背中が、意識の彼方へと引き裂かれるように遠ざかっていった。次に瞼を押し開けたとき、真っ白な病室の枕元には洋平だけがいた。私が微かに身じろぎすると、その気配で私の意識が戻ったことに気づいた彼が、すっと水を差し出してくれた。「私の体、どうなってるの?」彼は言葉を選ぶように黙った。「もう少し落ち着いてからにしましょう」「大丈夫。教えて」洋平は消え入りそうな声で告げた。「赤ちゃんが……助かりませんでした」赤ちゃん?その単語の輪郭が、すぐには頭の中に結びつかない。私の手は、お腹の上へと置かれていた。「流産……したってこと?」洋平が小さく頷いた。ふふ、と思わず乾いた声が漏れた。一度こぼれ落ちた笑いは、もうどうやっても止まらなくなった。あの愛人の女には子どもが無事に産まれた。そして私の子どもは――その命の存在を知ったその日が、そのまま実の父親の手によって奪われた日になったのだ。どうして。いくらなんでも、ひどすぎる!「先生、泣いていいですよ」洋平が優しい声で言った。その瞳には、ただ私を案じる純粋な痛みだけが滲んでいた
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第6話
それからの日々、健太は宣言通り、毎朝欠かさず病室に顔を出した。どれほど冷たくしても、彼は終始穏やかな顔をしていた。彼のスマホに詠美から着信があっても、出なくなっていた。「はい、どうぞ」健太が、りんごを食べやすい大きさに剥いて差し出してくる。それは以前、私が彼にしていたことだ。顔を背けて、黙っていた。「俺は彼女のことが好きなわけじゃない。ただ、一度の過ちで子どもができてしまって」「過ち?健太、自分でおかしいと思わないの?」彼は泣きそうな顔をした。「玲奈、本当だよ。気持ちはない。ただ、子どもが欲しくなったときに、彼女がいただけで……それに、彼女も、彼女なりにかわいそうな境遇で……」氷のように冷たく見返した。「彼女を不憫に思ってるのね?」健太が、意表を突かれたようにはっとした顔をした。「……当たってる?」しばらくの空白があって、彼はすがるように小さく頷いた。好きじゃないなんて言っておきながら。心配して胸が痛むなんて、いちばん深い「好き」じゃない。誰かを好きだからこそ、その人を思って胸が痛むのだ。「なら、穏やかに終わりにしましょう」それでも彼は、絶対に首を縦には振らなかった。やがて迎えた退院の日。病室のドアを開けると、そこには大きなバラの花束を抱え、病室の前に片膝をついている健太の姿があった。「盛大な結婚式をしてやると約束したよな」花束とともに掲げられた指輪が、きらきらと輝く。皮肉なものだ。あの日病室で詠美の手にはまっていたものと、全く同じカラット数のダイヤだった。「覆水盆に返らずって言うでしょ。遅すぎたのよ」彼が何か言おうとしたとき、別の声が割り込んだ。「なに情けないことしてんの、立ちなさい!あなたが頭を下げることなんてないわよ!」健太が驚いた顔をした。「母さん、なんで?」ドカドカと足音を立てて踏み込んできた姑の古川智子(ふるかわ さとこ)は、私を値踏みするように一瞥してから、健太に言った。「詠美ちゃんが教えてくれなかったら、あなたいつまで隠すつもりだったの」そして後ろにいた詠美の手をいかにも優しげに引き、ソファに座らせた。「出産したばかりなんだから、無理しちゃだめよ」詠美ちゃん、と。なんと甘く親しげな呼び方だろう。姑は、私には一度だって優し
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第7話
病室の片隅で、智子が嫌味を並べ立てた。「もういい歳でしょうに。離婚したら、もらい手なんていないわよ。うちの息子は違う。若い奥さんに、跡取りの息子まで生まれたんだから。だいたい、最初からあなたたちの結婚には反対だったのよ」離婚協議書をバッグにしまいながら、冷ややかに言い返した。「健太が就職したばかりで給料が少なかった頃、私が生活費を出してあげていたときは、何も仰いませんでしたよね」大学を出たての頃、健太の収入は研修医だった私よりさらに低かった。智子はいつも「働いたら親に仕送りしなさい」と彼から金をむしり取っていた。私の両親は、新卒の給料ではカツカツだろうと、毎月仕送りを送ってくれていた。おかげで健太は、給料のほとんどを母親に吸い上げられており、私の援助がなければ食費にも事欠く有様だった。健太にとって、最も触れられたくない過去である。「俺が稼げるようになってから、ちゃんと全額返しただろ。母さんにそんな口の利き方をするな。俺がいなかったら、お前の給料で豪邸が買えた?高級車を乗り回せた?」彼がなおも言い返そうとしたところで、背後から声がした。「古川先生ほどの腕がある方なら、誰の力も借りずに今以上の生活ができますよ」「またお前か!」健太がギリッと奥歯を噛み締めた。洋平が私の隣に立ち、ティッシュを取り出して頬の血に当てた。「あとでちゃんと手当てしましょう」「俺の女に気安く触るな!」健太が血相を変えて洋平を引き剥がそうとする。が、詠美がその腕にしがみついた。「ねえ、先生にも好きな人ができたんでしょ。おめでたいことじゃない?」私は冷笑して、嘲るような口調で言い返した。「そっちこそ何なの。二人がとっくにそういう関係だったとしたら、あなたの言う純愛なんて誰が信じるの?」洋平がおかしそうにふっと笑った。「誤解しないでください。古川先生はどこかの誰かと違って芯のある方ですよ。今は僕が一方的に追いかけているところなんで」そして、ポケットから指輪を取り出した。「先生、晴れて独身に戻られたことですし――僕のことも、選択肢のひとつとして考えてみてはくれませんか」健太の目が真っ赤に充血した。また殴りかかろうとするのを、智子が必死に引き止めた。「行くわよ、健太!今のあなたの奥さんは詠美ちゃんなの!最初か
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第8話
財産分与の結果。健太が保有していた株式の半分、現金一億円、居住用マンション二戸、商業用テナント三区画を受け取った。十年という長く空虚な結婚生活が、まったくの無駄ではなかったということか。「これからは一生、先生のヒモとして生きていきます」洋平がおどけたように目を輝かせて言った。離婚の知らせを聞いた旧友たちは、皆一様に同情してくれた。ある日、大学時代の友達が血相を変えて訪ねてきた。「健太くんの会社の株、まだ持ってる!?」「どうしたの?」ただならぬ気配に、思わず身を乗り出した。「内部情報なんだけど、あそこの主力のワクチンに重大な欠陥が見つかったらしいの。まだ上のごく一部にしか漏れてない情報だって」熟考の末、まだ市場が完全に静かなうちに、手持ちの株式を毎日少しずつ売り抜けた。最後のひと株まで現金化し終えた直後、業界内で噂が流れ始めた。間一髪だったことに、胸を撫で下ろした。ネットバンキングの莫大な残高表示を眺めていると、自然と微笑が漏れた。愛を失って、巨万の富を得た。これはこれで、痛快な人生かもしれない。「古川先生、院長がお呼びです」診察室のドアがノックされた。院長室に通されると、院長の顔からは、いっさいの感情が抜け落ちていた。「何でしょうか」「短い在籍期間ではあったが、古川先生はずっと真摯に仕事に取り組んでくれていたね」そのいかにもな前置きで、背筋に悪寒が走った。「だがね……外部から『古川玲奈は故意に医療ミスを起こし、新生児に危害を加えた』という正式な告発状が届いてしまってね」一瞬で、怒りが全身を駆け巡った。離婚が成立してなお、まだこの私にまとわりつくつもりか。「病院としても無視はできない。とりあえず、内部調査が正式に終わるまでの間、本日から休職という形をとってもらえないだろうか」私はただ無言で深く頭を下げ、院長室をあとにした。休職初日の朝。泥のように眠ってやろうと思っていたのに、着信音に現実へ引き戻された。「……先生!今日お休みなんですか!?」電話の主は洋平だった。ざっと事情を話すと、彼は声を荒らげた。「先生、絶対に気に病まないでください。病院側の調査には、僕が目を光らせておきますから」「いいのよ。私、もうこの仕事そのものに少し疲れてしまっていたところだ
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第9話
洋平から電話があった。「ネット世論対策会社を使って反撃しますか?」「私の合図を待ってちょうだい」病院の調査結果をまず待つ。公式な調査結果という盾を得てから、詠美の問題に対処する。騒ぎが大きくなって病院のイメージにも関わることから、病院は素早く動いた。調査の結果、古川玲奈医師の処置にいっさいの過失は認められなかった。発育遅延の原因についても、妊娠期における母体の生活習慣に起因する旨が正式にリリースされた。詠美は当然納得せず、涙ながらに反論動画を出し続けた。彼女のフォロワーたちも信じて疑わず、コメント欄には私への罵倒が溢れた。ネット上の詠美は、優しくて裕福で哀れな主婦。そして私は、年を取って色あせた、腹黒く毒々しい捨てられた元妻。健太が妻を捨てたことさえ、彼女のコメント欄では「仕方のないこと」として擁護されていた。――詠美、そのきらびやかな設定がお気に入りなら、そのメッキを一枚残らず剥がしてあげるわ。興信所を使って調べておいた経歴データをまとめ、ネット世論対策会社に渡した。金を積めば、彼らの仕事は恐ろしく早かった。すぐに詠美のコメント欄にコピペが増え始め、ネット上に暴露する人間が次々と現れた。人はやったことに必ず痕跡を残す。「知ってる。夜の店の女だよ。何回も整形して、今のパパを引っ掛けたんだ」「相手の男、奥さんが医者らしいけど『ババアだから余裕で奪える』って言ってたよ」そのコメントを見て、声を出して笑った。当時の同業キャストたちだろう。ネットが最も好むのは、こういった虚像が崩壊する瞬間だ。清楚で上品な設定が嘘だったと分かり、実態は底意地の悪い略奪愛人だったというグロテスクな逆転劇。特に元々のファンが残酷な速度で手のひらを返した。わずか半日でフォロワー数が五万近く消えた。詠美が釈明ライブ配信を強行したが、罵詈雑言の弾幕に耐えかね、数分で強制終了となった。自宅のソファで結末を楽しんでいると、健太から電話がかかってきた。「お前だろ、玲奈。なんてことを、ネットに裏アカで晒し上げるなんて!」奥で詠美の泣き声が聞こえた。「どうしてこんなひどいことを……」胸がすっとした。「私がやったら何なの?ちゃんと止めてくれって言ったのに、聞かなかったじゃない」健太が言葉に詰まり、そ
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第10話
私はただ頷いて、エントランスに向かおうとした。健太が血相を変えて行く手を塞いだ。「彼女から離れて!」洋平が私の前にすっと立った。「お前には関係ないだろうが!」健太が狂犬のように噛みつく。「関係あるわ。彼は今、私の『彼氏』なんだから」二人がまったく異なる意味で同時に固まった。洋平の目元が、嬉しそうに緩んだ。健太が底知れぬ暗い目で私たちを睨んだ。「……やっぱり、お前ら最初からそういう関係だったのか。財産を渡したのは純粋な『慰謝料』のつもりだったのに、この若い男と裏で出来ていたなら話は別だ!最初から俺を騙して財産を巻き上げる計画だったんだろ、この毒婦が!金を返せ、そうすれば今回の不貞は綺麗に水に流してやる!」私の心からの大爆笑が響いた。「健太、奥様に脳髄まで溶かされたの?それとも病院の薬でも処方し直してあげようか?あなたの会社がどれだけ見事に破綻しようと、私にとっては最高のファンファーレよ。一円たりとも返すわけがないでしょう」健太が完全に理性を吹き飛ばし、飛びかかってきた。洋平は素早く身を沈め、一本背負いで、彼を豪快に叩きつけた。その後、しばらく健太の姿を見ることはなかった。私が留学準備を進める頃には、彼の会社の株式は完全に紙くず同然になっていた。本人も検察の特捜部に身柄を拘束されていた。健太と詠美の醜悪な関係も、内部の事情通によってネットに完全に晒されていた。今の詠美はネット上で、石を投げられる「国民的サンドバッグ愛人」としてその名が知れ渡っていた。出国前、マンションのロビーに彼女が赤ん坊を抱えて押しかけてきた。そして、私を睨みながら叫んだ。「最初から会社の株がどうなるか分かってて売り抜けたんでしょう!?」「二度と私の前に姿を見せないで。次にその面を見たら、いっさいの容赦なく警察を呼ぶわ」私が冷徹に突き放すと、腕の中の赤ん坊が火がついたように泣き出した。それでも赤ん坊をあやすことすら忘れて食い下がってくる。結局、彼女は駆けつけた警備員たちによって、外へと引きずり出されていった。洋平は私が海外へ研修に出るつもりだと知ると、仕事を辞めて一緒についてくると言い出した。「ちょっと。いくらなんでも、私のためにそこまで人生を狂わせる必要なんてないのよ?」「いやあ、海外の金髪イケメ
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