All Chapters of 好きだと言ってくれれば: Chapter 1 - Chapter 10

18 Chapters

第1話

「景!」聞き慣れたその名前に、私・夏目澪(なつめ みお)は息を呑んで、勢いよく顔を上げた。少し離れたところで男女が向かい合って立っている。女性はふんわりとした優しい顔立ちで、お腹が少しふくらんでいる。男性は背が高くて、凛とした立ち姿……まぎれもなく、結婚してまだ一ヶ月しか経っていない私の夫、神崎景(かんざき けい)だった。その光景に、頭の中が真っ白になる。とっさに角の陰に身を隠して、ようやく思考が追いついた頃には、もう二人の声は聞こえなくなっていた。彼女、妊娠しているんだ。景の好きな人が、妊娠した。彼が健診に付き添う姿は、あまりにもお似合いで、幸せそうだ。赤ちゃんは、両親に望まれて生まれてくるべきだ。そっと下腹部を撫でて、しばらく立ち尽くした後、別のフロアへと向かった。看護師から中絶手術を受けるには原則として配偶者の同意が必要になると言われた。お腹に手を当てたまま、きっぱりと言った。「必要ありません。自分の体は自分で責任を持ちます。産むかどうかも私が決めることですから」同意書に自分の名前だけサインして、外の椅子で待つことにした。白石結愛(しらいし ゆあ)の声が遠くから近づいてくる。「そんなことないよ。今のところつわりも全然ないし、きっとこの子がすごくいい子なんだね」ふと視線を向けると、景と結愛が並んで歩いている。彼の片手には紙袋が握られていて、たぶん結愛の葉酸だろう。視線が交差する。彼は一瞬足を止めて、驚いたような顔をした。まさかこんな所で私に会うとは思っていなかったのだろう。立ち上がって、ふっと口角を上げてみせた。「奇遇ね」景の表情は、あっという間にいつも通りの冷静なものに戻った。「どうしてここに?」淡々とした問いかけ。低く、どこか上の空のような響きを含んだ声だ。私はただ微笑んだまま、問い返した。「あなたこそ?」「ちょっと用事でな。そっちはもう済んだのか?」「まだ少しかかりそう」「そうか、じゃあ先に行く」それだけ言うと、私の横を通り過ぎていく。結愛はこちらに向かって軽く会釈をして、ふんわりと微笑むと、そのまま彼の後を追っていった。再び腰を下ろした。冷たいプラスチックの椅子がやけに硬く感じる。やがて手術台に仰向けになって、頭上で無影灯が眩しく点灯する。目を閉じると、目
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第2話

私は俯いたまま、静かに首を横に振る。「あなたを追いかけて行ったわけじゃないわ」「分かってる」景はそう言って、手を伸ばして私の頬をそっと撫でた。「お前はいつも聞き分けがいい。俺が選んだ女だ、期待を裏切るような真似はしないだろう」確かに、私は景が選んだ相手だ。彼との政略結婚を望む家は数え切れないほどあった。その中で、うちには何の強みもない。年商50億円程度のうちの会社は、この界隈では中堅にも届かないちっぽけな企業だと言われている……それでも彼は私を選んだ。理由は単純。従順で、自己主張が少なくて、彼に干渉しようとしないから。結婚したところで、今まで通り自由気ままに振る舞えるのだ。彼にとって、この結婚はただ家族に対する体裁に過ぎない。だけど私にとっては、実家の会社を救うための最後の命綱だった。景を必要としている。正確に言えば、両親が、そしてうちの会社が彼を必要としているのだ。その結果、うちは欲しかったものを手に入れた。そして今のところ、景もこの結婚に不満はないらしい。「先に寝るね」無理に笑顔を作って、ベッドに潜り込む。しばらくして、衣擦れの音と足音が耳に届いた。景は部屋を出ていった。目を閉じて、体を丸める。少し、肌寒い。次第にまぶたが重くなって、まどろみの中へと引きずり込まれていく。ふと、誰かに抱き寄せられる感覚がした。少しひんやりとした大きな手が下腹部に添えられて、そこから官能的な手つきで上へと這い上がってくる。景だ。ハッと目が覚めて、反射的にその手を押さえた。「今日は……ちょっと具合が悪いの」「どこが?」低く掠れた声が耳元で響く。少し熱を帯びた唇が、首筋に落とされる。思わず身をすくめてしまう。脳裏に、彼と妊婦姿の結愛が並んで立っている光景が自動的に再生された。心の奥底から、強い拒絶反応が湧き上がってくる。「本当に気分が優れないの。今夜は、やめて」懇願するように口にする。彼の手は下腹部に置かれたまま動かない。静かに抱きしめられた状態が続いて、やがて、腕の力を少し強めた。「寝よう」結婚してからというもの、彼が家で夜を明かす時は、決まって毎晩こうして私を抱きしめて眠る。最初は、ほんの少しだけ期待していた。これは彼なりの愛情表現なのだと自分に言い聞かせていた。けれど、どんなに愚かでも
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第3話

私は俯いたまま、何も言えなくなる。そもそも、なぜ景がそこまで怒っているのか分からなかった。まさか、私にあの子を産んでほしかったの?でも、愛情もぬくもりもない家庭に、自分の子を産み落とすことなんてできない。景に顎を掴まれて、ぐいっと上を向かされる。無理やり目を合わせられると、その甘く魅力的な瞳からいつもの余裕は完全に消え失せて、底知れぬ凄みだけが渦巻いている。薄い唇がゆっくり開く。一言一言噛み締めるよう吐き出す。「澪……お前は俺の子を堕ろしたんだな。何か言うことはないのか?」冷え切った声で、景が問いただす。口を開いて、乾ききった喉からようやく絞り出したのは、短い一言だ。「……ない」しばらく沈黙が続く。やがて景は小さくうなずいた。「そうかよ」顎から手を離す。氷のように冷たい視線でしばらく私を見下ろした後、振り返り、そのまま立ち去った。近くで奈々が息をのむ音が聞こえた。そちらに少し顔を向けると、彼女は慌てて視線を逸らした。私は何も言わず二階へ上がった。寝室のドアを開ける。広すぎる部屋を見渡しながら、しばらく立ち尽くした。それからウォークインクローゼットへ向かって、荷物をまとめ始める。とはいえ、自分の物なんてほとんどない。ここで使っている物はすべて、景が用意したものばかりだ。もっと正確に言えば、景自身が選んだわけでもない。洋服、靴、バッグ、ジュエリー……「神崎家の若奥様」になっただけで、毎日のように高級ブランドから品物が届く。実家から持ってきたわずかな私物をスーツケースに入れる。情けないほど少なくて、ケースの中は半分も空いている。荷造りを終えて、ソファに腰を下ろす。足元のスーツケースをぼんやり見つめる。どうやら取り返しのつかないことをしてしまった。父に電話した方がいいかもしれない。会社を助ける約束は、もう果たせそうにないから。両親はきっと悲しむだろう。どれくらい時間が経っただろうか。突然、外から義母・神崎雅子(かんざき まさこ)の優しい声が聞こえてきた。「澪ちゃん」慌てて部屋を出る。雅子は私を見るなり駆け寄って、両手をぎゅっと握りしめて心配そうに尋ねた。「どういうことなの?本当に赤ちゃんを……」景の動きがこれほど早いとは思ってもみなかった。小さく頭を下げる。「お義母さん、ごめんなさい」
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第4話

雅子も、きっと悲しんでいるだろう。けれど、優しくしてくれるからといって、その恩に報いるためだけに子どもを産むことはできない。その時、ノックの音が響いた。返事をする間もなく、奈々がトレイを手に入ってくる。「栄養のつく薬膳です。少し飲んでください。ここに置いておきますから」何も答えなかった。奈々はベッドサイドのテーブルに茶碗を置くと、ちらりとこちらを見て、不満げに口を引き結んで出て行った。この家にやって来たその日から気づいていた。奈々が私を好きではないこと、いや、むしろ見下していることに。でも、気にはならない。しょせん、彼女はただの他人にすぎないのだから。私が気にしていたのは、景が私にどう接するか、それだけだった。けれどもう、その執着も手放すべき時なのだ。最初から自分のものじゃないなら、いくら手を伸ばしたところで絶対に手に入らない。なら、もう手を離そう。景を解放して、そして私も、自分の人生を取り戻すために。薬膳を飲み終えて、器を持って一階へ降りる。それを見た家政婦の田中さんが慌てて駆け寄ってきた。「奥さま、どうして降りてこられたんですか?今はしっかりお体を休めて、調子を整えなきゃいけない時期なんですよ」田中さんは私の手から器を受け取った。「夕食はもうすぐできますから。上に戻って何か羽織ってきてください」掃除をしていた奈々がこちらを一瞥して、また無言で作業に戻る。視線を外して、田中さんに向けて小さく微笑んだ。「寒くないから大丈夫」田中さんは私の足元に目を落とした。「せめて靴下を履いてください。冷えは禁物ですよ」「うん」少しの間を置いてから、尋ねる。「景は夕食に戻る?」「先ほどお電話で伺いました。旦那さまは、先にお食事を済ませるように、待たなくていいと」田中さんはそう言って、小さくため息をついた。「奥さま、今は仕方ありませんよ。旦那さまも、今は混乱されているのかもしれません。本当は奥さまのことをとても気に掛けていらっしゃいますから」実際のところ、景がなぜあんなに怒っているのか、私にはさっぱり分からない。だって、代わりに子どもを産んでくれる人がいるじゃないか。彼はそんなに、子どもが好きなのだろうか?部屋に戻って、靴下を履いて再び降りてくると、田中さんがすでにアイランドキッチンに夕食を並べてくれていた。一人で静
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第5話  

雅子が言った。「やっぱり、ご両親には知らせておいた方がいいと思うわ」芽衣も頷いて同意する。小さく返事をした。「後で、お母さんに電話してみます」それから少し雑談をして、芽衣に早く帰るように促した。彼女には大事をとってほしい時期だし、今度は私から会いに行くと約束した。二人が帰った後、部屋に戻って母に電話をかけた。母の反応は予想通りだった。「どうして一人で決めたの?もし何かあったらどうするの」と文句を言って電話を切ってしまった。それから一時間もしないうちに、両親が揃ってやってきた。「どうしてあんなことしたの?」母は怒りと悲しみが入り混じった顔で、目元を赤くしている。父はそばに座ったまま、黙り込んでいる。ベッドの端に腰掛けた母が、私の手をぎゅっと握った。「澪、お母さんに本当のことを言いなさい。ここで辛い思いをしてるんじゃないの?」「そんなことないよ」無理に笑顔を作ってみせる。「やっぱり……」母の目から涙がこぼれ落ちた。彼女は涙を拭いながら声を詰まらせる。「全部、うちの会社のために……こんなに辛い思いをさせてしまって」父は隣で深いため息をついた。本当は、辛い思いなんて少しもしていなかった。それどころか、景と結婚できると知った時、私は有頂天になって、自分が世界で一番幸せな人だと思っていたくらいだ。景のことが好きだった。中学生の頃からずっと。そう、中学から高校まで、彼とはずっと同級生で、もう十年近く密かに想いを寄せていた。結愛も、私たちの同級生だった。だから、痛いほどよく知っていた。景の好きな人が結愛だということを。あの頃、結愛は学校一の美少女で、景は誰もが憧れる存在だった。二人はお似合いで、誰もが彼らを運命のカップルだと信じて疑わなかった。私はただ、景への気持ちを心のずっと奥底にしまい込んで、誰にも言えずにいるしかなかった。高校を卒業して、私たちは離れ離れになった。景と結愛は同じ大学に進学して、付き合い始めたと風の噂で聞いた。けれど、どうしてだろう。神崎家が政略結婚の相手を探すとなった時、景は結愛を手放して、私を選んだのだ。ただ、私が素直で従順だから?でも、それだけの理由で彼と結婚することになったとは、どうしても思えなかった。母はまだ父を責めている。娘を不幸に突き落とした、と。「もういいだろう!」父が低
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第6話

口を開きかけたその時、景が先に声を上げた。 「お義父さん、お義母さん、澪のことは安心してください。俺がちゃんと面倒を見ますから」喉まで出かかった言葉を飲み込む。父は私をちらりと見て、景に向かって頷いた。「それではよろしく頼みますよ、神崎さん。私たちはこれで」「お義父さん、お義母さん……」景は数歩歩み寄って、明らかに何か言いたげな様子を見せる。しかし、両親はすでにエレベーターのボタンを押して、扉は閉まってしまった。景は振り返ってこちらを見る。その深く暗い瞳には、読み取れない感情が渦巻いている。彼に向かって小さく頷いて、背を向けて二階の部屋へと戻った。景はずっと後ろを歩いて、そのまま部屋についてくる。ドアを閉めると、彼は冷たく鼻で笑って、皮肉たっぷりに父の言葉を反芻した。「神崎さん、か」「チッ」と不機嫌そうに舌打ちをする。「勝手に子を堕ろしておいて、被害者ぶるのか。両親の前で俺の悪口を言うなんて、大した度胸だな」どうしてそんな風に受け取るのだろう?振り返って、きっぱりと返す。「言ってないわ」彼はソファに腰を下ろして、背もたれに両腕を広げてふんぞり返った。「じゃあ説明してみろよ。お前はどういうつもりだ?お義父さんとお義母さんはどういうつもりなんだ?」「お義母さんが、この事は私の両親にも知らせるべきだと言ったから、そうしただけ。二人はただ私を見に来ただけよ」淡々と、事実だけを説明する。景は明らかに、この話を終わらせる気はないようだ。面白がるようにこちらを見つめる。その甘い瞳には、皮肉めいた笑みが浮かんでいる。「両親は他に何も言ってなかったか?」言ったわ。離婚してもいいって。でも、私は小さな嘘をつくことにした。「特に何も。ただ、体をしっかり休めなさいって」景は眉を片方軽く上げた。「そうか。なら、せいぜいゆっくり休むんだな」もう一度彼をちらりと見てから、ベッドへ向かう。景がリモコンを手に取って、カーテンを閉める。分厚い遮光カーテンが、寝室から一筋の光さえも奪い去った。衣擦れの音と足音が聞こえて、直後、隣のマットレスが沈み込む。景もベッドに入ってきたのだ。背後から抱き寄せられて、自分の体がビクッとこわばるのを感じた。彼もそれに気づいたのだろう、冷たい声で聞いてくる。「どうした?」目を閉じて、短
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第7話

そっと目を閉じて、心の中で自分に言い聞かせる。考えるのをやめよう、もう彼を好きでいるのをやめよう。自己暗示というのは案外バカにできないもので、少なくとも胸の痛みは少しだけ和らいだ。……景が帰宅したのは午後5時を過ぎた頃だ。手に提げていた大きな紙袋を田中さんに手渡す。「夜はこれで頼む」部屋にこもりきりなのも息が詰まるので、私は一階に降りてテレビを見ていた。田中さんは袋の中身を覗き込んで、パッと明るい声を上げた。「承知いたしました!」彼女は私を見てニコリと笑って、キッチンへと消えていく。何だろう。少し首を傾げる。奈々が慌てて出迎えて、景の上着を受け取った。「お帰りなさいませ。夕食のリクエストはございますか?」しかし景はこちらをじっと見つめたまま、奈々に上着を押し付けると迷わず近づいてくる。そして私の隣に腰を下ろして、あろうことか、ふっと微笑みかけてきた。「佐藤先生が、一日中ベッドで寝ているのも良くないって言ってたからな。明日、別荘に連れて行く。あっちなら室内も広いから少しは歩き回れるだろう。まあ、外の風に当たるのは厳禁だがな」あまりにも突然の態度の変化に、頭がついていかない。もう、怒っていないのだろうか?首を横に振った。「いいわ。どうせ外に出られないなら、この家の階段を上り下りするだけで十分だから」景はじっと私の顔を見つめてくる。居心地が悪くなって尋ねた。「……何?」彼はまた笑みを作った。「顔色を見てたんだ。だいぶ良くなった。前みたいに青白くない」一体、どうしてしまったのだろう?態度が軟化しただけじゃない。帰宅時間も異様に早いし、昼間に帰ってくることすらある。たまらず口を開いた。「会社、忙しくないの?」百歩譲って会社の仕事が落ち着いているとしても、遊び歩かないのはおかしい。彼には遊び仲間が多くて、飲み会やパーティーの誘いも絶えないはずだ。私もたまに付き合わされることがあったけれど、結局彼らの輪にはどうしても入れなかった。この質問が気に障ったのか、景の機嫌がスッと引いていくのが分かる。口元の笑みを消して、意味ありげな視線を向けてくる。「忙しいに決まってるだろ。だが、お前が手術台から降りたばかりなんだから、家に残って面倒を見るしかないじゃないか」結局、私のせいだというのか。その言葉はどこか皮肉めいて
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第8話

私が帰ってきていると知って、父は5時過ぎには帰宅した。食卓を囲んでいると、不意に父が切り出した。「澪、離婚のことはどう考えているんだ?」箸を持つ手がピタリと止まる。父がこれほどまでに離婚にこだわっているとは思ってもみなかった。「私は……」「景さま」お手伝いの田中さんの声が響いた。声のした方へ顔を向けると、案の定、景がこちらへ歩いてくるのが見えた。高身長で、圧倒的なオーラと威圧感を放っている。それでいてよく笑う。その整った顔立ちには常に気だるげで不敵な笑みが張り付いているが、決して目は笑っていない。まるで、この世の誰のことも、何事も眼中にないかのように。まっすぐ近づいてくると、私の隣の椅子を引いて腰を下ろした。「お義父さん、お義母さん」と簡単に挨拶した。両親は頷いて、食事は済ませたのかと尋ねる。「まだです」景は田中さんに視線を向けた。「俺にも箸と茶碗を」そう言い終わるや否や、私の方に顔を向ける。「実家に帰るなら、どうして一言言ってくれなかったんだ?」口を開きかけたが、間髪入れずに景が言葉を重ねた。「誰と離婚することを考えてるって?」聞かれていたのだ。相変わらず口元は笑っているが、瞳の奥の冷たさは一段と増している。咄嗟にどう答えていいか分からず、言葉に詰まる。父が深いため息をついて、口を開いた。「俺も妻も、意見は同じです。もし澪のことが好きではないなら、二人でいても幸せになれないし、離婚しなさい。会社については俺ももう歳ですし……このままで構いません」母も静かに頷いた。景の顔に一瞬、ゾッとするような陰りがよぎった。だが次の瞬間には、フッと軽く笑い声をこぼす。「幸せじゃないなんて、そんなことあるはずないでしょう?俺と一緒にいて、楽しくないのか?なあ、澪?」無理やり口角を引き上げる。「お父さんもお母さんも、私のことを心配してくれてるだけだから。ほら、冷めないうちに食べよう」田中さんが食器を運んできた。食卓は水を打ったように静まり返って、母だけが「もっと食べなさい」と私のおかずに箸を伸ばしてくれる。父は景に向かって、よそよそしい笑みを浮かべた。「神崎さんも遠慮なくどうぞ」景はまるでおかしな冗談でも聞いたかのように笑い出す。「お義父さん、娘婿は半分息子みたいなものですよ。そんな他人行儀な。俺たち
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第9話

ビクッと肩が跳ねた。奈々も驚いたようで、一瞬呆然と立ち尽くした後、慌ててこちらへ駆け寄ってくる。震える声で言った。「奥さま、お帰りなさいませ」「ええ」短く返して、そのまま二階へと上がる。上着を脱いだばかりのところへ、景が入ってきた。彼とは目を合わせず、上着を手にウォークインクローゼットへ向かう。後ろからついてきた景が、この前まとめたまま置いてあったスーツケースを指差して、冷ややかな声で問い詰めてきた。「これはどういう意味だ?どこへ行くつもりだ?」それはもう一ヶ月近く前のことだ。子を堕ろしたと知れば彼が怒って離婚を突きつけてくるだろうと思って、あらかじめ準備しておいたものだった。しかし、彼はそうしなかった。それに、私自身の離婚への決意もそれほど固いものではなかった。自分勝手に振る舞って、父の会社を本当に見捨てることなんてできないのだ。スーツケースに近づいて、中から荷物を取り出しながら答える。「少しの間、実家に戻ろうかと思ってたの」景は押し黙った。荷物を元の場所へ片付け終えて、振り返って彼の視線を真っ向から受け止める。……そろそろ、ちゃんと話し合うべきなのかもしれない。「分かってるの。私たちの結婚がただの政略結婚だってこと。あなたがうちの会社を助けてくれたこと、本当に感謝してる。お父さんの会社が景に頼りきりなのも分かってるから、自分の立場はちゃんと弁えてるつもりよ。安心して、景が離婚を口にしない限り、私からそんなこと二度と考えないから」「つまり、前は離婚を考えてたって認めるんだな?」「ええ、でも今はもう割り切ったわ」深呼吸をして、少しだけ笑みを浮かべる。「子どもを諦めたのは……愛のない家庭に生まれてくるべきじゃないと思ったから。それに、あなたと結愛のこともあるし……」下唇を強く噛んで、胸の奥にしまっていた本音をすべて吐き出す。「前に、あなたが結愛を好きだってこと、すごく気にしてたのは認める。でも今はもう大丈夫。約束するわ、これからは絶対に気にしない。もしこのまま『神崎の妻』でいてほしいなら、その役割はちゃんと果たすつもり。もし結愛と一緒になりたいなら、二人の幸せを心から祝福するわ。決定権は、ずっとあなたにあるのよ」景の顔色は見る見るうちに険しくなって、氷の下を流れる冷泉のように、骨の髄まで凍
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第10話

「……黙りなさい!」田中さんが奈々を低く叱りつけた。私は何も言わず、踵を返してその場を離れた。景が呼んでいるのが結愛なら、もう私が出る幕はない。胸の奥に酸っぱいような痛みが走るけれど、不思議と今はとても穏やかな気持ちだ。これはきっと、新しい自分に生まれ変わるための良い兆しなのだ。結愛が来たのかどうかは分からない。そのまま眠りについた。うつらうつらしていた時、誰かにきつく抱きしめられているのを感じて、ハッと目が覚めた。腰に回された腕を振り払って起き上がって、電気をつける。そこには当然のように景が横たわっている。彼は急な光に慣れないのか、目を細めている。「何してんの?」冷たく問い詰める。景は酔いが少し冷めたのか、落ち着いた声で返した。「寝るんだよ。他になにがある?」込み上げてくる嫌悪感に眉をひそめて、無言でベッドから降りる。すぐに景が追ってきて、私の手首を掴んだ。「どこ行くつもりだ?」淡々と答える。「別の部屋で寝るわ」彼の手の力が一段と強くなる。「一体どうするつもりだ?」結愛への想いを抱える彼を、そして彼女と結ばれる彼を、私は静かに受け入れることができる。けれど、結愛に触れたその手で私に触れることだけは、どうしても耐えられない。心の底から、汚らわしいと感じてしまう。彼の手を振り払って、ドアへと歩き出す。また景が追ってくる。もう限界だ。彼に対して残されていたわずかな忍耐も、完全に底をついた。足を止めて、真っ直ぐに彼を見据える。「景のことはもう好きじゃないわ。離婚しよう」景は動きを止めた。「何て言った?」「離婚しようって言ったの……」「俺のことが好き……なのか?」彼は一歩踏み出して、切羽詰まった様子で聞き返してきた。「澪、お前、俺のことが好きなのか?」少しだけ言葉に詰まったけれど、思わず笑みがこぼれた。「ええ、好きだったわよ。中学の頃から、一ヶ月前まではね。でも、今はもう好きじゃない。もし、これからもうちの会社を助けてくれるなら感謝するし、精一杯報いる努力もする。でも、もし助けてくれないならそれでも構わないわ。どんな結果だって受け入れる。両親だってそうだと思う」それだけ言い捨てて、彼の脇を通り抜けようとした。また、手首を掴まれる。堪忍袋の緒が切れた。もう我慢なんてしない。「一体、何をした
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