All Chapters of 醜い私に死ねと言った家族が泣いた日: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

交通事故で顔に深い傷を負って二年目、私、高梨真香(たかなし まなか)は重度のうつ病を患った。夫の高梨徹(たかなし とおる)は、私の面倒を見てもらうためだと言って、自分の秘書、相川莉奈(あいかわ りな)を家に連れてきた。たとえ顔が変わってしまっても、徹は昔と変わらず私を愛してくれているのだと、私は信じていた。けれど、その夜。目を覚まして部屋を出ると、夫の部屋から莉奈の甘えたような涙声が漏れてきた。「私、ただ見ていられなかったんです。美羽ちゃんはまだ小さいし、真香さんはずっと情緒が不安定で、顔だってまだ……」美羽ちゃんとは、私と徹の娘、高梨美羽(たかなし みう)のことだ。「美羽ちゃん、毎日あんなお母さんを見ているんですよ。怖くならないはずがないじゃないですか。徹さん……私が真香さんの薬をこっそり替えたこと、怒っていませんよね?」部屋の中が、しばらく静まり返った。やがて聞こえてきたのは、徹の低い声だった。「お前も、美羽のことを思ってのことだろう……それに、真香をせめて穏やかに逝かせてやるほうが、このまま苦しませ続けるよりずっといい」その先の言葉は、もう耳に入らなかった。心臓を強く握り締められ、そのまま息まで止められてしまうような痛みだった。胸元を押さえた拍子に、首にかけていたネックレスがぷつりと切れた。まるで、私と徹の関係がとっくに壊れていたことを、今さら思い知らされたみたいだった。私はずっと、自分が先に壊れてしまったのだと思っていた。でも違った。先に壊れていたのは、私が最後まで信じようとしていた徹の愛だった。……膝から力が抜けそうだった。それでも私は、その場を離れた。気づけば、下唇に歯が食い込んで、血の味がしていた。そうでもしなければ、泣き出してしまいそうだった。今はただ、美羽に会いたかった。今の私に、もう一度生きたいと思わせてくれるのは、美羽だけかもしれなかった。けれど、眠っている美羽のベッド脇まで行き、小さな頬にそっとキスをしようとしたときだった。美羽は悪い夢から覚めたみたいにぱっと目を開け、そのままわっと泣き出した。「美羽、泣かないで……ママだよ。怖くないよ……」けれど、いくら声をかけても、美羽は泣きながら私を押し返し、小さな手で叩いてきた。少しでも近づ
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第2話

莉奈は美羽を抱き、徹と一緒に部屋を出ていった。さっきまで温かみのあった部屋には、息が詰まりそうな冷たさだけが残った。私はもう、本当にここを出ていかなければならない。部屋に戻ると、私は震える手で、八年間一度も連絡しなかった番号に、たった一言だけメッセージを送った。たった一言。それなのに、その文字を打つだけで、どれほどの時間がかかったのか。どれほどの力を使い果たしたのか。自分でもわからなかった。【お母さん】……大学に通っていた頃、私と徹はちょっとした有名人だった 。そんな私たちが出会い、そのまま結婚までたどり着いたのは、自然な流れのようでいて、どこか夢みたいでもあった。徹は貧しい家庭で育ち、何としても出世したいという野心を持っていた。一方の私は、裕福な家で何不自由なく育った、いわゆるお嬢様だった。家柄も育ちも、あまりに違いすぎた。私たちの交際に真っ先に反対したのは、母だった。母が止めようとすればするほど、私は意地になって反発した。いちばん心細かったとき、徹は私の手を握って約束してくれた。これから先も、愛するのは私だけだと。何があっても、私を一番に考えると。その言葉を信じたからこそ、私は母と縁を切ることを選んだ。そして、裕福な家の娘として持っていたものを、すべて手放した。この八年、私は徹のためにできることは何でもしてきた。頼れる後ろ盾も人脈もなかった彼を、今では顔の広い会社経営者にまで押し上げた。そこまで支えてきたのは、他でもない私だった。けれど、事故で顔に傷が残った今、八年もそばで支えてきた私は、徹に疎まれるだけの存在になっていた。だからせめて、私がまだこの世にいるうちに、深く傷つけてしまった母に、もう一度だけ「お母さん」と言いたかった。孤独と悲しみに押し潰されそうになりながら、どうにか一夜を越えた。けれど朝が来ても、少しも楽にはならなかった。また苦しい一日が始まるだけだった。誰にも会わないように、私はなるべく音を立てずに部屋を出た。それなのに、外から帰ってきた莉奈と鉢合わせてしまった。莉奈はいつも、私や徹の前では優しく気の利く女を演じていた。けれど私と二人きりになると、そんな優しさはどこにもなかった。莉奈は驚いたように目を見開いた。
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第3話

けれど、美羽の手を引いて学校へ送っていこうとしたとき、美羽は泣きながら私の手を振り払った。「ママに送ってほしくない。ママ、顔がこわいもん。みんなに笑われちゃう」その言葉を聞くたびに、胸が痛んだ。事故で顔に傷が残ったばかりの頃、徹はそのたびに美羽を叱り、「ママにそんなことを言うな」と言ってくれていた。けれどその日、徹は私のすぐ隣に立っていた。そして、ひどく苛立った声で、私に向かって吐き捨てた。「今日は美羽の入学式だぞ。大事な日なんだ。お前みたいな化け物が母親だなんて、ほかの子に笑われたらどうするんだ」化け物。徹が初めて、私をそんなふうに呼んだ。そのときには、もうわかっていた。これから先も、愛するのは私だけだと。何があっても、私を一番に考えると。そう約束してくれた徹は、一年もたたないうちに、私を見るたび嫌悪を隠さなくなっていた。私は必死に感情を押し殺し、全身の力を振り絞って莉奈を押しのけようとした。莉奈は、今の私をこれ以上刺激してはいけないことくらい、わかっているはずだった。それでも彼女は、わざと私を追い詰めるように口を開いた。「そういえば、真香さん。私、謝らなきゃいけないことがあるんです。あなたをはねて逃げた車、ずっと見つからなかったでしょう?あれ、徹さんの車だったんです。あの日は徹さんが運転していて、私が隣でキスしようとしたせいで、事故になったんですよ」……私は言葉を失い、顔を上げて莉奈を見た。二人は、私が事故に遭う前からすでに不倫関係にあったのだ。そんなことも知らずに、昨夜の私はまだ、二人の関係をただの過ちだと思い込もうとしていた。事故以来、私と徹はずっと寝室を分けていた。こんな姿で、徹の前に出ることなんてできなかった。愛する人にこんな姿を見られたくない。そう思う気持ちと、わずかに残った自尊心が、私を徹から遠ざけていた。徹だって男だ。私を抱けなくなった以上、外で相手を求めても仕方ないのかもしれない。莉奈は、たまたまその相手だっただけ。そこに本気の気持ちなんてない。私はそう思って、必死に自分を納得させていた。けれど、違った。二人はずっと前から、私の知らないところで裏切り続けていたのだ。「離して。聞きたくない、聞きたくない……
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第4話

徹は、本気で美羽を連れていくつもりだった。真っ暗だった私の世界から、最後に残った光まで奪おうとしていた。美羽がそばにいなければ、私はきっと一日だって耐えられない。「やめて……美羽を連れていかないで。美羽に会えなくなったら、私はどうやって生きていけばいいの……」それを聞いた莉奈は、鼻で笑った。「今の真香さん、気持ちが不安定すぎるんです。徹さんだって、あなたが美羽ちゃんに何かしないか心配してるんですよ。それに……」莉奈は私のそばまで来て、耳元に口を寄せ、声をひそめた。「美羽ちゃん、本当はあなたに会いたくないんですよ」気づけば、部屋に残っていたのは私だけだった。かつて愛した人も、何より大切な美羽も、もういない。部屋の中は、ひどく静かだった。視線が、ベランダの窓、ローテーブルの果物ナイフ、コンロのガス栓へと、ぼんやり流れていく。どれも今の私には、この苦しみを終わらせてくれるものに見えた。私はふらりと立ち上がった。もう何も考えられないまま、いちばん近くにあったものへ向かって歩き出した。そのとき、スマホの着信音が突然鳴り響いた。その音に驚いて、私はようやく我に返った。画面には、もう何年も見ていないはずなのに、忘れられない番号が表示されていた。「お母さん……ごめん。私、もうだめみたい。生まれ変われば、またお母さんの子になりたい……」「真香、そんなこと言わないで。あなたにはまだ私がいるの。そばにいられなかったけど、ずっと心配してた。どんな姿になっても、あなたは私の娘よ。苦しかったよね。ひとりでよく耐えたね。お願い、もう少しだけ待って。あなたを助ける方法があるの……」母の声を聞いた途端、張り詰めていたものが切れたように、私は声を上げて泣いた。私は、すべての人に捨てられたわけではなかった。この世界にはまだ、私を本当に大切に思ってくれる人がいたのだ。母の言葉を何度も思い返しているうちに、さっきまで死ぬことしか考えられなかった気持ちが、ほんの少しだけ薄れていった。電話を切って少しすると、手の中のスマホがまた震えた。母からのメッセージだった。【真香、お願い。私のためにも、あなた自身のためにも、10分だけ待って】【このあと送るものを読んでから、決めてくれない?】すぐあとに
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第5話

「真香さん、保護者会は私たちが代わりに出るって言いましたよね。それなのに、本当に来るなんて。その顔で学校に来たら、美羽ちゃんがどんな目で見られるか、考えなかったんですか?こんなママがいるんだって、みんなに笑われるんですよ……」そのとき、近くから子どもの声がした。「美羽ちゃん、この人、ほんとにママなの?」「美羽ちゃん、自分のママはすっごくきれいだって言ってたよね?」美羽の同級生だった。まずい、と思った。今の私を美羽の同級生に見られるわけにはいかない。美羽が傷つく。きっと、恥ずかしい思いをする。そう思って、慌てて否定しようとした。けれどその前に、美羽の声がはっきり聞こえた。「違うよ。この人、ママじゃない。こっちのきれいな人が私のママだよ」そう言って、美羽は莉奈のそばへ行き、その手を握った。「ママ、なんでこのこわいおばさんを学校に連れてきたの?やだよ、見たくないよ」莉奈はにっこり笑って、美羽の頬を撫でた。「ごめんね。ママが悪かった。お腹すいたでしょう?先にパパと何か食べてきて。ママはちょっと用事を済ませたら、すぐ行くから。ね?」美羽は嬉しそうにうなずいた。そして私には一度も目を向けないまま、同級生と、誰のママがきれいかを話していた。徹の目には、はっきりと嫌悪が浮かんでいた。その瞬間、私はもう、何もかも終わったのだと思った。「真香、これから美羽のことにはもう口を出すな。これ以上、みっともない真似はするな。俺も、あまりひどいことはしたくない」徹はそれだけ言うと、こちらの返事も待たずに背を向けた。莉奈は私の前まで来ると、見下ろすように笑った。「本当にみじめですね。娘にも夫にも嫌われて。私が真香さんなら、とっくに死んでます。もちろん、今からでも遅くありませんよ。真香さんだって、美羽ちゃんにはまともなママがいて、徹さんには人前に出しても恥ずかしくない奥さんがいたほうがいいと思いません?」誰も、もう私を必要としていない。理由はそれぞれ違っても、結局はみんな、私がいなくなればいいと思っている。私は、笑いながら去っていく莉奈の背中を見つめた。その瞬間、不思議なくらい何も感じなかった。悲しみも、わかってもらえない孤独も、どこかへ消えていた。みんな、私に死んでほ
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第6話

スマホが床に落ち、画面に大きなひびが入った。ぎざぎざに割れたその線は、私の顔に残った傷跡によく似ていた。次の瞬間、徹は家を飛び出していた。私が本当にそんな選択をしたなんて、どうしても信じられなかったのだろう。かつては、私を苦しませ続けるくらいなら、穏やかに逝かせたほうがいいとまで考えていたくせに。それでも、私が本当に死んだと聞いた瞬間、徹は何かの間違いであってほしいと願った。死んだのは、私ではないはずだと。冷えきった霊安室で、徹は白い布をかけられた遺体の前に立っていた。その顔からは、すっかり血の気が引いていた。職員が布をめくった瞬間、徹は足元がふらつき、思わず後ろへよろめいた。川の水で膨れ上がった体は、もう元の顔立ちもわからないほど変わり果てていた。それでも、顔に残った数本の傷跡だけは、間違いなく私のものだった。けれど徹は、そのときだけは自分が見間違えているのだと思いたかった。徹は遺体のそばにしゃがみ込んだまま、長いあいだ何も言えずにいた。しばらくして震える手を伸ばしたものの、傷跡には触れられず、力なく手を下ろした。「真香……ごめん。俺が悪かった。俺が全部悪かった……頼む、戻ってきてくれ……」徹がどれほど泣いても、目の前の遺体が答えることは二度となかった。今さら後悔しても、もう遅い。私を裏切ったときも、莉奈に傷つけられる私を見ていたときも、徹は一度も私を守ってくれなかった。そんな後悔に、今さら何の意味があるのだろう。徹はその場を離れられず、霊安室に一時間ほど留まっていた。何度か声をかけられて、ようやく重い足取りで外へ出た。それでも車に乗る気にはなれず、あてもなく道を歩いた。外の光は目に刺さるほど眩しかったが、徹はそれにすら気づいていないようだった。家に戻ったころには、もう夕方になっていた。美羽はソファに座り、昔、私が買ってあげたうさぎのぬいぐるみを抱いたまま、何も言わずにじっとしていた。莉奈はまだ家にいた。徹がこんな様子で戻ってくるとは思っていなかったのか、どこかうれしそうに見えた。徹の姿を見ると、すぐに駆け寄ってきた。「徹さん、何かあったんですか?」莉奈が待っていたのは、私が死んだという知らせだった。それも当然だ。彼女があそこまで私を追い詰め
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第7話

徹は美羽を抱き寄せた。その声は、ひどくかすれていた。「違う。パパが悪かったんだ。ママにひどいことをしたのは、パパだ。パパのせいで、ママはいなくなったんだ」徹は美羽を抱きしめたまま、声を殺して泣いた。その背中が、小さく震えていた。この瞬間、徹は初めて、本気で後悔した。死ぬべきだったのは、真香ではなく自分だったのだと。……莉奈はそばに立ったまま、みるみる表情をこわばらせた。徹がこんな反応をするとは思っていなかったのだ。私が死ねば、堂々と徹のそばにいられる。美羽の母親にもなれる。莉奈はそう思っていたのだろう。けれど徹の様子を見て、思い知ったはずだ。私が死んだからといって、私の存在まで消せるわけではないのだと。莉奈は唇を噛み、徹に近づいて、その腕に触れようとした。「徹さん、そんな顔しないでください。徹さんだって、真香さんを穏やかに逝かせてあげたほうがいいって思っていたじゃないですか」その一言で、私の死の責任まで徹に押しつけたようなものだった。事故で顔に傷が残ってから、私は見た目への不安に押し潰され、うつ病になり、性格まで別人のように変わってしまった。徹は、そんな私から逃げたかったのだ。いつか誰にも気づかれないまま、静かにいなくなってくれればいいと、本気で思っていた。けれど、この二年で私が背負ってきた苦しみも、私の人生を壊したあの事故も、元をたどれば徹が招いたものだった。徹は莉奈の手を乱暴に振り払った。徹の目があまりにも冷たくて、莉奈は思わずたじろいだ。「真香にいなくなってほしかったのは、お前だろ。俺の妻の座に収まって、楽な暮らしがしたかったんだろ。そのために、真香を追い詰めた。裏で何をしてたか、俺が何も知らないとでも思ってたのか?お前がいなければ、真香は死ななかった」莉奈の顔から、さっと血の気が引いた。徹の目には、言い訳など許さないほどの憎しみがあった。何を言っても、今の徹には届かないのだと、莉奈にもわかった。部屋には、美羽のすすり泣く声と、徹が泣くのを必死にこらえる気配だけが残っていた。冷えきった空気の中に、罪悪感と絶望だけが重く沈んでいるようだった。そのころ私は、別の場所にある病室で母からその話を聞いていたが、不思議なほど心は波立た
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第8話

以前よく見ていた悪夢も、自殺を考えてしまうことも、少しずつ減っていった。朝まで眠れる日が増え、デザインスタジオの同僚にも笑って挨拶できるようになった。街を歩いていても、すれ違う人の視線を、怖いものだとばかり思わなくなっていった。私はもう、暗闇の中で裏切りと醜さから抜け出せずにいた高梨真香ではない。今の私は、椎名結女(しいな ゆめ)。新しい顔で、自分のために生きていく、まったく別の私だった。デザインスタジオでの仕事にも、だんだん慣れていった。アシスタントからデザイナーになり、自分のデザイン案を任されるようになって、社長やクライアントにも認めてもらえるようになった。休みの日には、母と公園を散歩したり、美術展へ行ったり、以前なら怖くてできなかったことにも少しずつ挑戦した。気づけば、私はかつての自分を少しずつ取り戻していた。それどころか、前よりも自信を持って、人前でも落ち着いて笑えるようになっていた。宮野慎也(みやの しんや)と出会ったのは、雨の日だった。遅くまで残業したのに傘を忘れてしまい、私はスタジオの入ったビルの下で雨を眺めていた。そこへ、黒い傘を差した彼がやって来て、私の前で足を止めた。「よかったら、途中まで傘に入りませんか?」穏やかな声だった。余計な詮索も下心もなく、ただ親切で声をかけてくれたのがわかった。私は少し戸惑ってから、うなずいた。歩いている間、私たちはほとんど話さなかった。私のマンションの前に着いたところで、彼がようやく口を開いた。「宮野慎也です。近くに住んでます。デザイン関係の仕事をしています」「椎名結女です」私が名乗ってお礼を言おうとすると、彼は先に小さく笑った。「気にしないでください。ついでですから。よく遅くまで残っていますよね。また傘がないときは、遠慮なく連絡してください」それから、私たちは少しずつ親しくなっていった。彼も離婚していた。元妻に裏切られたが、最後は責め立てることなく、静かに別れたらしい。私にも触れてほしくない過去があることを、彼はわかっていたのだと思う。それでも、無理に聞こうとはしなかった。残業で遅くなった日には、温かい食事を差し入れてくれた。デザイン案で行き詰まったときには、一緒に考えてくれた。彼は踏み込みすぎな
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第9話

「お金があるから一緒にいるだけです。そうじゃなきゃ、とっくに別れてますよ」美羽は泣き声を上げ、小さな体を震わせながら徹の手を振りほどいた。「やだ、パパなんかいらない。ママがいい。パパ、ママがいい。ママを連れて帰ってきて……もうママのこと化け物なんて言わない。もうママに、あっち行ってって言わないから……」徹の目が、一瞬で赤くなった。彼は美羽を抱き寄せ、かすれた声でなだめた。「美羽、大丈夫だ。パパがいる。パパがママを探すから……でも……ママはもういないんだ。パパでも、もう見つけられない」そのとき、徹の視線がふとこちらに向いた。私を見た瞬間、徹はその場で動きを止め、目を離せないようにじっと見つめていた。徹は美羽から手を離して立ち上がり、重い足取りでこちらへ歩いてきた。その目には、驚きと戸惑いが浮かんでいた。私はとっさに身を引こうとしたが、母がそっと私の手に手を重ね、小さく首を振った。大丈夫だと、目で伝えてくれていた。徹は息がかかりそうなほど近い距離で立ち止まると、私の顔を食い入るように見つめ、震える声でつぶやいた。「真香……?」声まで震えていた。「真香なのか……?」私は何も答えず、冷ややかに彼を見返した。けれど徹の目には、少しずつ確信が浮かんでいった。「真香だ……間違いない。その目元を、俺が見間違えるわけがない」徹が私の顔に触れようと手を伸ばした、そのときだった。聞き慣れた声がした。「結女さん、どうしました?」いつの間にか、慎也が傘を手にそばまで来ていた。彼は自然に私の隣に立ち、そっと私の手を握ってから、徹を見た。「失礼ですが、結女さんに何かご用ですか?」「結女……?」徹はその名前を小さくつぶやいた。私を見て、慎也を見て、もう一度、傷ひとつない私の顔に視線を戻した。戸惑いと疑いが、その顔にはっきり浮かんでいた。そのとき、美羽が徹の腕の中から抜け出し、こちらへ走ってきた。涙で濡れた顔を上げ、私をじっと見つめていた美羽は、突然胸に飛び込んできて、ぎゅっと腰にしがみついた。「ママだ……やっぱりママだ。ママ、私のこと、いらないって思ったんじゃなかったんだね。ママ、もうどこにも行かないで。お願い……」泣きじゃくる幼い声でそう言い
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第10話

徹の声は涙声になっていて、必死にすがっているのがわかった。「戻ってきてくれ。今度こそ、ちゃんと償う。美羽のことも、真香のことも大事にするから」慎也が私の手をそっと握り直し、徹に警告するような目を向けた。「結女さんから離れてください。彼女は椎名結女さんです。あなたの言う真香さんではありません」私は慎也の手を軽く引き、もういいと合図した。それから、もう一度徹を見た。声は自分でも驚くほど冷たかった。「もう一度だけ言います。私は真香さんではありません。真香さんは三年前に亡くなりました」そう言って、私は慎也の手を取ったまま背を向けた。背後では、美羽が声を張り上げて「ママ」と泣き叫んでいた。徹は追いかけてこようとしたが、莉奈に腕をつかまれていた。私は一度も振り返らず、そのままレストランを出た。背後の泣き声も、言い争う声も、少しずつ遠ざかっていった。慎也は何も聞かず、そっと私の背中に手を添えて、隣を歩いてくれた。きっと、何もかも察していたのだと思う。それでも私に話させようとはせず、黙ってそばにいてくれた。あれはただの偶然の再会で、あの場を離れれば、また元の静かな生活に戻れると思っていた。けれど、徹があそこまで私を追ってくるとは思っていなかった。翌朝、スタジオの入ったビルの前まで来たところで、徹の姿が目に入った。目は赤く充血していて、顔色も悪い。一睡もしていないのは明らかだった。私を見るなり、徹はすぐに近づいてきた。「真香、わかってる。真香なんだろ?もう否定しないでくれ」私は足を止め、表情を変えずに徹を見た。「言ったはずです。私は椎名結女です」それでも徹は、まだ諦めなかった。必死に言葉を続けた。「俺を許せないから、認めたくないんだろ。真香、本当に悪かった。取り返しのつかないことをしたって、今ならわかる。莉奈は最初から俺を愛してたわけじゃない。金が目当てだっただけだ。真香がいなくなってから、あいつは美羽にもひどいことをした。怒鳴ったり、手を上げたりもしてた。あいつとはもう別れた。美羽は今でも毎日、真香を探してる。夜中に泣いて起きて、ママに会いたいって言うんだ。真香、頼む。戻ってきてくれ。もう一度だけ、やり直させてくれ」徹は、自分がどれほど後悔している
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