LOGIN交通事故で顔に深い傷を負って二年目、私、高梨真香(たかなし まなか)は重度のうつ病を患った。 夫の高梨徹(たかなし とおる)は、私の面倒を見てもらうためだと言って、自分の秘書、相川莉奈(あいかわ りな)を家に連れてきた。 たとえ顔が変わってしまっても、徹は昔と変わらず私を愛してくれているのだと、私は信じていた。 けれど、その夜。 目を覚まして部屋を出ると、夫の部屋から莉奈の甘えたような涙声が漏れてきた。 「私、ただ見ていられなかったんです。美羽ちゃんはまだ小さいし、真香さんはずっと情緒が不安定で、顔だってまだ……」 美羽ちゃんとは、私と徹の娘、高梨美羽(たかなし みう)のことだ。 「美羽ちゃん、毎日あんなお母さんを見ているんですよ。怖くならないはずがないじゃないですか。 徹さん……私が真香さんの薬をこっそり替えたこと、怒っていませんよね?」 部屋の中が、しばらく静まり返った。 やがて聞こえてきたのは、徹の低い声だった。 「お前も、美羽のことを思ってのことだろう…… それに、真香をせめて穏やかに逝かせてやるほうが、このまま苦しませ続けるよりずっといい」 その先の言葉は、もう耳に入らなかった。 心臓を強く握り締められ、そのまま息まで止められてしまうような痛みだった。 胸元を押さえた拍子に、首にかけていたネックレスがぷつりと切れた。 まるで、私と徹の関係がとっくに壊れていたことを、今さら思い知らされたみたいだった。 私はずっと、自分が先に壊れてしまったのだと思っていた。 でも違った。先に壊れていたのは、私が最後まで信じようとしていた徹の愛だった。
View More徹の声は涙声になっていて、必死にすがっているのがわかった。「戻ってきてくれ。今度こそ、ちゃんと償う。美羽のことも、真香のことも大事にするから」慎也が私の手をそっと握り直し、徹に警告するような目を向けた。「結女さんから離れてください。彼女は椎名結女さんです。あなたの言う真香さんではありません」私は慎也の手を軽く引き、もういいと合図した。それから、もう一度徹を見た。声は自分でも驚くほど冷たかった。「もう一度だけ言います。私は真香さんではありません。真香さんは三年前に亡くなりました」そう言って、私は慎也の手を取ったまま背を向けた。背後では、美羽が声を張り上げて「ママ」と泣き叫んでいた。徹は追いかけてこようとしたが、莉奈に腕をつかまれていた。私は一度も振り返らず、そのままレストランを出た。背後の泣き声も、言い争う声も、少しずつ遠ざかっていった。慎也は何も聞かず、そっと私の背中に手を添えて、隣を歩いてくれた。きっと、何もかも察していたのだと思う。それでも私に話させようとはせず、黙ってそばにいてくれた。あれはただの偶然の再会で、あの場を離れれば、また元の静かな生活に戻れると思っていた。けれど、徹があそこまで私を追ってくるとは思っていなかった。翌朝、スタジオの入ったビルの前まで来たところで、徹の姿が目に入った。目は赤く充血していて、顔色も悪い。一睡もしていないのは明らかだった。私を見るなり、徹はすぐに近づいてきた。「真香、わかってる。真香なんだろ?もう否定しないでくれ」私は足を止め、表情を変えずに徹を見た。「言ったはずです。私は椎名結女です」それでも徹は、まだ諦めなかった。必死に言葉を続けた。「俺を許せないから、認めたくないんだろ。真香、本当に悪かった。取り返しのつかないことをしたって、今ならわかる。莉奈は最初から俺を愛してたわけじゃない。金が目当てだっただけだ。真香がいなくなってから、あいつは美羽にもひどいことをした。怒鳴ったり、手を上げたりもしてた。あいつとはもう別れた。美羽は今でも毎日、真香を探してる。夜中に泣いて起きて、ママに会いたいって言うんだ。真香、頼む。戻ってきてくれ。もう一度だけ、やり直させてくれ」徹は、自分がどれほど後悔している
「お金があるから一緒にいるだけです。そうじゃなきゃ、とっくに別れてますよ」美羽は泣き声を上げ、小さな体を震わせながら徹の手を振りほどいた。「やだ、パパなんかいらない。ママがいい。パパ、ママがいい。ママを連れて帰ってきて……もうママのこと化け物なんて言わない。もうママに、あっち行ってって言わないから……」徹の目が、一瞬で赤くなった。彼は美羽を抱き寄せ、かすれた声でなだめた。「美羽、大丈夫だ。パパがいる。パパがママを探すから……でも……ママはもういないんだ。パパでも、もう見つけられない」そのとき、徹の視線がふとこちらに向いた。私を見た瞬間、徹はその場で動きを止め、目を離せないようにじっと見つめていた。徹は美羽から手を離して立ち上がり、重い足取りでこちらへ歩いてきた。その目には、驚きと戸惑いが浮かんでいた。私はとっさに身を引こうとしたが、母がそっと私の手に手を重ね、小さく首を振った。大丈夫だと、目で伝えてくれていた。徹は息がかかりそうなほど近い距離で立ち止まると、私の顔を食い入るように見つめ、震える声でつぶやいた。「真香……?」声まで震えていた。「真香なのか……?」私は何も答えず、冷ややかに彼を見返した。けれど徹の目には、少しずつ確信が浮かんでいった。「真香だ……間違いない。その目元を、俺が見間違えるわけがない」徹が私の顔に触れようと手を伸ばした、そのときだった。聞き慣れた声がした。「結女さん、どうしました?」いつの間にか、慎也が傘を手にそばまで来ていた。彼は自然に私の隣に立ち、そっと私の手を握ってから、徹を見た。「失礼ですが、結女さんに何かご用ですか?」「結女……?」徹はその名前を小さくつぶやいた。私を見て、慎也を見て、もう一度、傷ひとつない私の顔に視線を戻した。戸惑いと疑いが、その顔にはっきり浮かんでいた。そのとき、美羽が徹の腕の中から抜け出し、こちらへ走ってきた。涙で濡れた顔を上げ、私をじっと見つめていた美羽は、突然胸に飛び込んできて、ぎゅっと腰にしがみついた。「ママだ……やっぱりママだ。ママ、私のこと、いらないって思ったんじゃなかったんだね。ママ、もうどこにも行かないで。お願い……」泣きじゃくる幼い声でそう言い
以前よく見ていた悪夢も、自殺を考えてしまうことも、少しずつ減っていった。朝まで眠れる日が増え、デザインスタジオの同僚にも笑って挨拶できるようになった。街を歩いていても、すれ違う人の視線を、怖いものだとばかり思わなくなっていった。私はもう、暗闇の中で裏切りと醜さから抜け出せずにいた高梨真香ではない。今の私は、椎名結女(しいな ゆめ)。新しい顔で、自分のために生きていく、まったく別の私だった。デザインスタジオでの仕事にも、だんだん慣れていった。アシスタントからデザイナーになり、自分のデザイン案を任されるようになって、社長やクライアントにも認めてもらえるようになった。休みの日には、母と公園を散歩したり、美術展へ行ったり、以前なら怖くてできなかったことにも少しずつ挑戦した。気づけば、私はかつての自分を少しずつ取り戻していた。それどころか、前よりも自信を持って、人前でも落ち着いて笑えるようになっていた。宮野慎也(みやの しんや)と出会ったのは、雨の日だった。遅くまで残業したのに傘を忘れてしまい、私はスタジオの入ったビルの下で雨を眺めていた。そこへ、黒い傘を差した彼がやって来て、私の前で足を止めた。「よかったら、途中まで傘に入りませんか?」穏やかな声だった。余計な詮索も下心もなく、ただ親切で声をかけてくれたのがわかった。私は少し戸惑ってから、うなずいた。歩いている間、私たちはほとんど話さなかった。私のマンションの前に着いたところで、彼がようやく口を開いた。「宮野慎也です。近くに住んでます。デザイン関係の仕事をしています」「椎名結女です」私が名乗ってお礼を言おうとすると、彼は先に小さく笑った。「気にしないでください。ついでですから。よく遅くまで残っていますよね。また傘がないときは、遠慮なく連絡してください」それから、私たちは少しずつ親しくなっていった。彼も離婚していた。元妻に裏切られたが、最後は責め立てることなく、静かに別れたらしい。私にも触れてほしくない過去があることを、彼はわかっていたのだと思う。それでも、無理に聞こうとはしなかった。残業で遅くなった日には、温かい食事を差し入れてくれた。デザイン案で行き詰まったときには、一緒に考えてくれた。彼は踏み込みすぎな
徹は美羽を抱き寄せた。その声は、ひどくかすれていた。「違う。パパが悪かったんだ。ママにひどいことをしたのは、パパだ。パパのせいで、ママはいなくなったんだ」徹は美羽を抱きしめたまま、声を殺して泣いた。その背中が、小さく震えていた。この瞬間、徹は初めて、本気で後悔した。死ぬべきだったのは、真香ではなく自分だったのだと。……莉奈はそばに立ったまま、みるみる表情をこわばらせた。徹がこんな反応をするとは思っていなかったのだ。私が死ねば、堂々と徹のそばにいられる。美羽の母親にもなれる。莉奈はそう思っていたのだろう。けれど徹の様子を見て、思い知ったはずだ。私が死んだからといって、私の存在まで消せるわけではないのだと。莉奈は唇を噛み、徹に近づいて、その腕に触れようとした。「徹さん、そんな顔しないでください。徹さんだって、真香さんを穏やかに逝かせてあげたほうがいいって思っていたじゃないですか」その一言で、私の死の責任まで徹に押しつけたようなものだった。事故で顔に傷が残ってから、私は見た目への不安に押し潰され、うつ病になり、性格まで別人のように変わってしまった。徹は、そんな私から逃げたかったのだ。いつか誰にも気づかれないまま、静かにいなくなってくれればいいと、本気で思っていた。けれど、この二年で私が背負ってきた苦しみも、私の人生を壊したあの事故も、元をたどれば徹が招いたものだった。徹は莉奈の手を乱暴に振り払った。徹の目があまりにも冷たくて、莉奈は思わずたじろいだ。「真香にいなくなってほしかったのは、お前だろ。俺の妻の座に収まって、楽な暮らしがしたかったんだろ。そのために、真香を追い詰めた。裏で何をしてたか、俺が何も知らないとでも思ってたのか?お前がいなければ、真香は死ななかった」莉奈の顔から、さっと血の気が引いた。徹の目には、言い訳など許さないほどの憎しみがあった。何を言っても、今の徹には届かないのだと、莉奈にもわかった。部屋には、美羽のすすり泣く声と、徹が泣くのを必死にこらえる気配だけが残っていた。冷えきった空気の中に、罪悪感と絶望だけが重く沈んでいるようだった。そのころ私は、別の場所にある病室で母からその話を聞いていたが、不思議なほど心は波立た
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