――逃げようなんて、無駄だよ。低く甘い声が、耳元で囁いた。「君が縁を切るたびに、僕は何度でも結び直す」ぞくり、と背筋が震える。「だから諦めて。君は一生、僕から逃げられない」――この男は、狂っている。そう理解した時にはもう遅かった。私は、シーラ。シーラ・デストーロ。デストーロ男爵の一人娘であり――この狂った恋愛至上主義国家に転生してしまった、元・離婚弁護士だ。私の家は、代々縁切り屋を生業としている。表向きは国の外交に貢献したとか適当な理由で爵位を授けられたが、実態は、貴族たちのドロドロした愛憎劇を裏で処理する「感情の掃き溜め」が必要だったからに過ぎない。私は、相変わらず一着しかないドレスを着まわしている。寄ってくる男も、私の家柄を馬鹿にしながら胸元ばかりをジロジロ見てくる下品な奴らばかり。「相変わらず『壁の花』ね、シーラ。男を挑発するようなドレスを着て。本当は縁切り屋の特権で、誰かの婚約者を略奪しようとしているんじゃないの?」「この前もヌレギーヌ公爵と寝たらしいですわ。はしたない」ヒソヒソと聞こえる悪口の雨。前世、法廷で罵詈雑言を浴び慣れている私からすれば、雛鳥のさえずりのようなものだ。気にしてないし、別に。別に。私は、この仕事に誇りを持っている。「愛」だの「運命」だのと脳内麻薬に浮かれている連中には一生理解できないだろうけれど、私には見えるのだ。人と人の間に流れる、粘着質で傲慢な、魔力の「糸」が。ホールの中心で踊る人々へ視線を向ける。そこには煌びやかなピンクや、眩しい金色の糸が幾重にも交差していた。前世の知識で言わせてもらえば、ドーパミンの過剰分泌による一時的な錯覚。見ているだけで胃が焼けそうな、甘ったるい幸福の象徴。けれど、会場の隅。テラスへと続くカーテンの影に、ひときわ異質な「糸」が絡みついているのを見つけた。それはどす黒く変色し、まるで相手を絞め殺そうとする毒蛇のような、棘だらけの鎖。「……あら、あれは完全に『腐って』いるわね。民法……じゃなくて、この国の倫理観でもアウトなやつ」私は手に持っていた薄いシャンパングラスを給仕の盆に置くと、誰にも気づかれないように壁際を這い、会場を後にした。ひんやりとした夜気が肌を刺すテラスの陰。そこには、さっきの毒蛇のような鎖に繋がれた一人の令嬢が、自分を抱きしめるよう
Last Updated : 2026-06-26 Read more