All Chapters of 幼なじみに奪われた夫と、灰になった私の心: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話

夫の西岡英吾(にしおか えいご)が幼なじみの及川空音(おいかわ そらね)のために家を飛び出したのは、これで19回目だった。ある日、私は英吾の引き出しに、2枚の映画のチケットがひっそりと挟まっているのを見つけた。「サプライズにするつもりだったのに」英吾は素っ気なく言った。「先に見つけちゃったなら仕方ない。夜、映画館で待ってろ」その夜、私・西岡絵里奈(にしおか えりな)は開演から終演まで、ずっと待ち続けた。――でも、英吾は来なかった。帰り道、何気なくスマホをスクロールしていると、空音のSNSの投稿が目に留まった。【映画には連れて行ってもらえなかったけど、花火を用意してくれたし……今回だけは、特別に許してあげる】思わず顔を上げると、夜空の向こうで、色とりどりの花火が咲き乱れていた。どうしてだろう。今この瞬間、彼を愛し続ける気力が、底の抜けた器から水がこぼれるように、静かに消え去っていく気がした。……疲れ果てて玄関の扉を開けると、脱ぎ散らかされた革靴が真っ先に目に飛び込んできた。苛立ちに任せて、それを足先で払いのける。あの映画のチケットだって、結局は他人に向けられた幸せを横からかすめ取っただけのものだったのだと思うと、惨めな自分が笑えてくる。この10年間、私はずっと空音の影に隠れて、道化師のように生きてきた。リビングへ向かうと、英吾はソファに深く腰掛け、何事もなかったかのように、いつも通りこちらへ手を差し出してきた。「水」「自分で取ればいいじゃない。手、ついてないの?」思わずそう冷たく言い返した。以前の私なら、すぐさまお茶を淹れて、甲斐甲斐しく世話を焼いて、少しでも英吾の気を引こうと必死になっていただろう。底冷えするような静けさの中で、もうわかっている。無理に手繰り寄せた幸せは、どこまでいっても苦い味しか残らないのだと。今日の私の態度が意外だったのか、英吾は珍しく少しだけ口調を和らげた。「今夜は会社で急な案件が入って、約束を忘れてた。映画はまた別の日にすればいいだろ。それより、そのヒステリーをどうにかしろよ。そんな顔をして一緒に映画館に並んだら、俺の面目が丸潰れだ」カッと頭に血が上った。妻に黙って裏でこそこそ他の女と会っておきながら、平然と私を責めるというのか。積もり積も
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第2話

英吾に家を追い出された。それでも、後悔は微塵もなかった。ただ、唯一の心残りがあるとすれば、英吾がまだ離婚届に署名していないことだ。10年間、裏切りと失望を繰り返されるうちに、かつて抱いていた「好き」という感情がどんなものだったか、もう思い出せなくなっていた。今の胸の奥で渦巻いているのは、英吾と空音に対する、抑えようのない怒りだけだった。青春のすべてを、ほんの少しでも英吾に振り向いてもらいたい一心で捧げてきた。それなのに空音は、何もしなくても彼の愛情をすべて手に入れている。英吾はもう私と結婚しているというのに、空音は今でも事あるごとに彼の前に姿を現す。まるでこの結婚が、私だけが無理やり成立させた紛い物であるかのように見せつけるために。でも本当は……空音こそが、私たちの間に割り込んできた側なのに。そこまで考えると、怒りで全身が小刻みに震えた。どうして私が身を引いて、あんな最低な二人の仲を取り持ってやらなければならないのか。裏でこそこそ逢瀬を楽しみたいというのなら、いっそ堂々と晒し者にしてやる。私はSNSで裏アカウントを作成し、妻としての視点から、この10年間に英吾と空音がしてきた数々の仕打ちをすべて書き綴った。夫は上場企業の副社長で、姓は西岡。不倫相手は、芸能界で急速に頭角を現してきた及川という若手女優と、あえてぼかした書き方で。空音がこれまで見せつけるように送りつけてきた「仲良しアピールの写真」も一緒に添付した。顔にはモザイクをかけたものの、目ざといネットの住人たちは、瞬く間に二人の正体を突き止めた。コメント欄には、私に同情し、英吾たちを責める声が次々と寄せられた。【新栄グループの西岡副社長がこんなクズだったなんて。お金持ちって、やっぱり遊び方がえげつないね】【でも正直、ああいう財力目当ての結婚なんて、最初から割り切り前提でしょ。副社長の浮気なんて普通だし、惚れた方の負けじゃない?】もちろん、空音の熱狂的なファンたちも黙ってはいなかった。【うちの空音ちゃんは若くてきれいで、あんたみたいなおばさんよりずっといいのよ。自分の男ひとり繋ぎ止められなかったくせに、よくも空音ちゃんを責められるわね】【そもそも空音ちゃんと西岡副社長は、幼なじみで運命の二人なの。あなたが横から割り込んできたから、こ
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第3話

予想通り、トレンド入りから3分も経たないうちに、英吾から怒涛のようにメッセージが届き始めた。【絵里奈、お前がこんなに陰険な人間だとは思わなかった】【俺を振り向かせるために、こんな卑劣な手を使うのか?本当に滑稽な道化師だな】【はっきり言っておく。たとえ裸で俺の前に寝転がったとしても、俺は一切見向きもしない】【今すぐあの投稿を消せ。もし空音に何かあったら、100倍にして叩き返してやる】……もうここまで来てしまったら、引き返せる道などどこにもない。黙って泣き寝入りしろだなんて、そんな都合のいい話に誰が乗るものか。私は目を細め、静かに英吾へ電話をかけた。「投稿を訂正してほしいなら、条件があるわ。離婚協議書と離婚届に署名してくれたら、私はすぐにきれいさっぱり姿を消すよ」向こうから、底冷えのするような冷酷な笑い声が聞こえてきた。「ふふん、やっぱりな。お前みたいな女が目当てにしているのは、結局俺の金なんだろ。離婚にこだわるのも、財産分与が目当てなんだろ」思わず、呆れたような苦笑いが込み上げてきた。ちゃんと離婚協議書に目を通せば、私が要求しているのは法律上当然もらうべき分だけであり、一円たりとも不当に請求などしていないとわかるはずなのに。「この10年間、あなたのために、この家のために、私は自分のすべてを注ぎ込んできたの。それくらいは、もらって当然の権利でしょ」怒りを噛み殺すように、一言一言区切って告げた。「お前が?この家に何をしたって言うんだ?平凡な女が必死に取り入って、図々しく俺の部屋に上がり込んだだけじゃないか。よくもまあ、自分の手柄みたいに言えたものだな。白昼夢でも見てるのか。よく聞け。俺のそばでずっと支えてきてくれたのは、いつだって空音だけだ。ネットの連中だって言ってるだろう。横から割り込んできたのは、お前の方なんだよ」スマホを握る手に、ギリッと力が入った。少しばかりは、10年の夫婦としての情が残っているのだと信じたかった。しかし現実には、最初から私などただの邪魔者でしかなかったのだ。どれだけ図太く振る舞おうとしても、さすがにこの屈辱には耐えきれない。奥底から込み上げてくる涙を必死に呑み込みながら、努めて穏やかな声を作って言った。「そうね、私はお金しか見えてない卑しい女。それでいいわ。だから
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第4話

英吾はきっと知らない。この10年間、私が彼のお金を1円たりとも使わなかったことを。結婚したときに渡された銀行のカードは、署名を済ませた離婚協議書と離婚届と一緒に封筒に同封し、彼の会社宛てに郵送した。郵便局を出ると、外はどしゃ降りの雨だった。薄いTシャツ1枚のまま、私はあてもなく街を歩き続けた。まるで、彷徨う亡霊のように。ふと、隣に黒いハマーが停まり、ウィンドウがゆっくりと下がると、見知らぬ男性が丁寧に声をかけてきた。「よかったら、乗っていきませんか」私はぼんやりと首を横に振り、そのまままた歩き出した。あんなに煮えたぎっていた怒りは、気づけばもう消え失せていた。あとに残ったのは、これからどこへ向かえばいいのかもわからない、底知れない虚無感だけ。自分の潔白を証明する術もわからないし、たとえ何を訴えたところで、英吾は決して信じてくれないだろうということも、嫌というほど思い知らされていた。背後から足音が近づいてきたかと思うと、先ほどの男性が私の頭上に傘を差し出した。「濡れますよ。どうか、ご自愛を」私がお礼を言う間もなく、彼はその言葉だけを残して去っていった。胸の奥が、じんわりと痛んだ。10年も連れ添った夫から一度もかけられたことのない温かい言葉を、見ず知らずの他人からかけられることになるなんて。それでも、冷え切っていた心は、ほんの少しだけ、ふっと軽くなった。SNSを開くと、あの投稿についたコメントはすでに1万件を超えていた。私はアカウントを非公開設定に切り替え、静かにスマートフォンの画面を消した。ネット上では、嵐が吹き荒れるような一夜だった。私が突然沈黙したことで、ネットの住人たちはざわつき始めた。大量の雇われた書き込み部隊が私を執拗に叩き、心無い言葉で罵倒し続けたけれど、私は一切の反論をしなかった。最初のうちは擁護してくれる声もあったが、だんだんとその声は小さくなり、風向きはがらりと変わった。「西岡副社長の不倫」というスキャンダラスな話題は、いつの間にか「悪意ある者が西岡副社長の婚約者を陥れようとした捏造」という構図へと塗り替えられていった。それでも不思議なことに、私を特定しようとする人間は誰一人として現れなかった。誰かが、見えないところで私を守ってくれている。でも、それが英吾ではないことだけ
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第5話

「及川さん、お上手だね。さすがは芸能界の新星と呼ばれるだけのことはある」皮肉めいたその響きに、空音の顔色がわずかに曇った。「あなた、何者?何のつもり?」けれど私は、声の主の顔を見た瞬間、心臓が止まりそうになった。あの雨の日、私に傘を差し出してくれた男性だった。英吾も、ひどく驚いているようだった。不思議なことに、その男性を前にすると、さっきまでの英吾の威圧感は嘘のように鳴りを潜めた。彼はどこか畏まった様子で2歩ほど後ずさると、掠れた声で言った。「……おじさん」「おじさん!?」私と空音は、同時に声を上げて、絶句した。けれどその男性――西岡颯介(にしおか そうすけ)は、特に私たちの反応を気にした様子もなく、ごく自然な足取りで私の隣に立ち、口を開いた。「今の一幕について、少し話してもいいかな」すかさず英吾が口を挟んだ。「女同士の些細ないざこざです。おじさんが出てくるような話じゃありません」「くだらない揉め事?そうは思わないけどね。及川さんのやり口は、百戦錬磨のビジネスマンよりもよほど手が込んでいる気がするよ」颯介は右手の薬指に嵌められたシンプルなリングをさりげなく撫でながら、涼やかな視線を私へと流した。「英吾、君はもっとものの道理がわかる人間だと思っていたけど。さっきの防犯カメラの映像、もう押さえてあるんだ。お茶を自分にかけたのは、及川さん自身だよ。もう一度、自分の目で見てみるかい?」どうして英吾の家族である彼が私の味方をしてくれるのか、不思議でならなかった。英吾は明らかに動揺していた。空音も、まさかこんな展開になるとは予想していなかったのだろう。慌てた様子で、縋りつくように英吾の腕を掴んだ。「英吾、私を信じてくれないの?この女は昔、あなたに媚びを売って転がり込んできたような最低な人間よ。そんな女のために、私の人格を疑うっていうの?」人間、追い詰められれば何でも口走るものだ。颯介は不快げに眉をひそめ、淡々と言い放った。「英吾、この人が君の婚約者なのか。目上の人間に面と向かって物を言うだけならまだしも、確たる根拠もなく他人の名誉を傷つけるとは。とても西岡家の嫁には迎えられないね」私は少しほっとした。さっきの空音の悲鳴はかなり大きかったため、周りには野次馬が集まり、スマホをこちらに向けている人も少なくな
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第6話

英吾が我に返る前に、私は颯介の後について店のドアを出た。車に乗り込んだとき、ようやく緊張の糸が解けた。「助かりました。本当に、ありがとうございます」「大したことじゃないよ。あの女のやり方が、気に入らなかっただけさ。演技が過剰すぎる」軽い口ぶりだったけれど、そんな単純な正義感だけの話ではないような気がした。「どうして私を助けてくれたんですか」颯介は少しだけ笑みをこぼした。「世の中の出来事に、そんなに明確な理由が必要かな。絵里奈さん、この世の男の全員が、善悪の区別もつかないクズというわけじゃないんだよ」胸の中で、何かがふっと温かく揺れた。それ以上、私から紡げる言葉はなかった。家に帰り、新栄グループの親族関係について調べてみた。英吾と結婚して10年、彼は私を一度も実家に連れて行くことはなく、会社の内部事情について聞かせてくれることもなかった。今さら調べてみて、ようやくわかったことがある。颯介は新栄グループの筆頭株主であり、一方、英吾の持ち株はたったの1.8%にすぎない。つまり、英吾の執行副社長という仰々しい肩書きは、名ばかりのお飾りに過ぎなかったのだ。頭の中で、ある大胆な計画がはっきりと形を結び始めた。世の中にまともな男性はいくらでもいる。英吾という、すでに価値のない男に縋り続ける必要なんて、もうどこにもないのだ。その夜、英吾から電話がかかってきた。10年に及ぶ結婚生活の中で、彼の方から自発的に電話をかけてきたことなど数えるほどしかなかったのに。電話口から聞こえる声は、どこか酷くぎこちなかった。「絵里奈……何してる?」「食事中よ」「今日の午後のこと、俺が悪かった。誤解してた、すまん」「言いたいことはそれだけ?じゃあ、切るね」「待ってくれ……渡したカード、なんで一度も使わなかったんだ?」思わず、自嘲気味の笑いが漏れた。「あなたの汚いお金を、一円たりとも使いたくなかったからよ。もし使ったら、どうせお金目当ての卑しい女って罵られるのがオチだもの。でも結局、使わなくても同じことを言われたわね。こんなことなら、最初から遠慮なく使っておけばよかったわ」「そういうつもりじゃなかったんだ。ごめん、俺は最低だった。これまでお前に何をしてきたか……俺は、人間以下だ」「やっと自分の愚かさに気づい
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第7話

英吾の態度がなぜあれほどまでに急変したのか、私には痛いほどわかっていた。ああいう類いの男は、自分のことを盲目的に崇拝し、すがりついてくれる女がそばにいないと、心のどこかが満たされないのだ。己のちっぽけな虚栄心と、どうしようもない空虚さを埋め合わせるために。けれど、私はもう尻尾を振って彼につきまとっていた頃の惨めな自分ではない。失われた10年間を取り戻すことはできないけれど、これからの人生は、すべて自分のためだけに使っていく。カフェでの出来事――空音が私を陥れようとした自作自演の一部始終を収めた動画は、瞬く間にネット上に拡散され、再びSNSのトレンド1位へと躍り出た。さらに、英吾自身がSNSに私との婚姻届の写真を公開したことで、騒ぎはかつてないほど大きく燃え上がった。こうして空音は、名実ともに本物の「有名人」になった。もっとも、全国規模の大炎上という不名誉な形ではあったけれど。かつて私を嬉々として叩いていたネットの住人たちは見事なまでに手のひらを返し、今度は一斉に空音へと非難の矛先を向けた。彼女が公の場に姿を現すたび、周囲から罵声を浴びせられ、スマホを向けられた。所属事務所には抗議の電話やメールが殺到し、入口付近には「不倫女」「恥知らず」と書かれた紙まで貼られるようになった。今頃、彼女が正気を保てているかどうかも怪しいところだ。かつて唯一の強力な後ろ盾であった英吾は、今や彼女の顔を見ようとすらしないのだから。孤立無援となった空音は、生き残るために、金持ちの中年男たちに媚びを売って食いつなぐしか道が残されていなかった。芸能界というのは、一度でも深く足を踏み入れてしまえば、そう簡単には抜け出せない泥沼のような世界なのだ。あれほど高い場所でふんぞり返っていた人間が、一夜にして泥水をすするような場所まで落ちる。その絶望的な落差に耐えきれず、空音は持ち前の傲慢さが仇となり、機嫌を損ねては業界の実力者たちを次々と敵に回してしまった。英吾のように、何でも無条件で甘やかしてくれる男など、一歩外へ出ればどこにも存在しない。権力を持つ彼らは、もっと陰湿で残酷なやり方で、人を徹底的に屈服させる術を知っている。そしてある夜の会合で、空音は無理やり酔い潰された。正確に言えば、薬を盛られたのだ。その夜、何人もの男たちが代わる代わる彼女の部屋
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第8話

「それが最初から私に近づいた目的だったというわけですか?」私は溶けかけたアイスをスプーンで弄びながら、少しばかり棘のある口調で言った。「違うよ。あの雨の日、君を見かけたのは本当に偶然だ。誓ってもいいさ。そういえば、俺に傘を1本、貸しっぱなしになってるよね」そのささやかな「貸し」を口実に、私は颯介と手を組むことに決めた。すぐに英吾へ連絡を入れた。明日の午前9時、区役所で正式に離婚の手続きを済ませる、と。翌朝。区役所の前で、私は颯介の大きな黒いハマーから堂々と降り立った。待ち構えていた英吾の目が、嫉妬と屈辱でみるみる血走っていくのがわかった。「いつから俺の叔父とできてたんだ……絵里奈、お前って女は本当に節操がないな」「これでも君の叔母になる人だぞ。口の利き方に気をつけろ」颯介に冷たく一喝され、英吾は悔しげに押し黙った。胸のつかえが、すっと下りていくのを感じた。「誤解しないでちょうだい。颯介さんとは、あのカフェで初めてお会いしたのよ。それに、私たちはこれから赤の他人になるんじゃなかったかしら。自分が腐っていると、他人のことも全部汚く見えるものなのね」私も遠慮せずにきっぱりと言い返してやった。英吾は一言も反論できず、忌々しげに離婚の手続きを終えると、負け犬のようにすごすごと立ち去っていった。「意外と迫力があるんですね。あいつ、私にはすぐに噛みついてきたのに、あなたには何も言い返せなかったですよ」「うちに嫁いできたら、あいつにとって正式な目上の身内になるからね。うちは家訓がひどく厳しいから、さすがのあいつも露骨には逆らえないのさ。それに、彼は愛人に産ませた子だからね。本家でそこまで大きな顔もできないんだ」「愛人の子……」思わず絶句した。10年間も連れ添っていたというのに、英吾が不倫の末に生まれた婚外子だったなんて、まったく知らされていなかった。彼のあの軽薄な浮気性も、もしかしたら血筋が影響しているのかもしれない。「そう。彼の母親は、今でも西岡家で正式な立場を与えられていない。俺の兄には娘ふたりいるだけだったから、祖父が温情で会社に入れてやり、平社員から経験を積ませてやったんだ。それが要領よく立ち回ってね、社内の人間からの評判も悪くなかった。でも人間という生き物は、上の立場に行けば行くほど強欲になる。ここ数年、
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第9話

お互いの利害が一致しただけの契約関係だと、頭ではわかってはいた。それでも、颯介のあまりに真摯な態度に触れていると、私はだんだんこれが本物の恋であるかのような錯覚に陥りそうになっていた。二人でショーケースを覗き込んで真剣な顔で指輪を選び、私が純白のウエディングドレスを試着して……まるで本当に愛し合って結婚するカップルのように、あちこちを忙しく動き回った。颯介は、その幸せそうな写真を自身のSNSに堂々と投稿した。添えられた短い一言は、【大切にしてくれる人がいないのなら、いつか必ず、大切にしてくれる人が現れるものだ】。アップされた写真は、ドレスショップで寄り添い合う、私たちのツーショットだった。私は、すぐに乗り換えたって言われるんじゃないかと心配していた。ところがコメント欄を開いてみると、そこに並んでいたのは「お幸せに」「素敵な二人」といった祝福コメントばかりだった。いかにも業者が書いたようなコメントの中には、英吾を責めるものまで混じっていた。あの炎上の最中、裏で手を回して私の個人情報を徹底的に守り抜いてくれたのが一体誰だったのか――そのとき、一瞬で腑に落ちた。「……こんなに周到に私を助けておいて、用が済んだら裏切るつもりじゃないですよね。私、一度痛い目を見ているから、警戒心はかなり強い方なんですよ」颯介は涼しい顔で、それでもあくまで白を切り通した。「俺がやったって、どうして言い切れるんだい?たまたま、君の普段からの情報管理が完璧だっただけじゃないか」私は心の中でため息をつきながら、腹をくくって彼の実家へと挨拶に向かった。名家への挨拶ということで、てっきりピリピリとした緊張感の張り詰める場になるだろうと身構えていた。しかし、颯介の家での夕食は、拍子抜けするほど温かで、アットホームな飾り気のないものだった。食事の間中、彼の祖父と母は、まるでお互い競い合うようにして、私の取り皿へ次から次へと料理を取り分けてくれた。私はたまらず、隣に座る颯介にこっそりと耳打ちをした。「英吾は?彼を気まずくさせるために、私を連れてきたんじゃないんですか?」颯介も、口元を隠して小声で答える。「あいつには、本家の食卓に着く資格なんかない。それに、公式に西岡家として外で認めたこともないからね」……どうやら私、とんでもなく巨大で、もう二度と
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第10話

目を覚ますと、まず、むっとするようなカビの匂いが鼻を突いた。どうやら窓のない地下室のような場所に閉じ込められているらしい。目の前には仮面をつけた男が立っていたが、それが誰なのか、私にはすぐにわかった。「くだらない茶番はやめたら、英吾」私の冷たい声に、彼は乱暴に仮面を引き剥がした。その目には、自分の正体が暴かれたことへの驚きと、どす黒い憎悪が渦巻いている。ロープで椅子に縛りつけられ、身動きひとつ取れない私を見下ろすと、英吾は手を伸ばし、私の首をきつく絞め上げた。「お前は、俺のことが好きだったんじゃないのか。10年間も捧げてきた気持ちをそんなに簡単に捨てて、今度は颯介のやつに乗り換えるのか。あいつみたいに、生まれながらにして何もかもを持っている人間が、俺は一番嫌いなんだよ!」気道が塞がれ、息ができずに苦しかった。けれど、彼に言葉を絞り出すだけの気力はまだ十分に残っていた。「……嫉妬、してるんでしょ。あの人の由緒ある生まれや、誰からも認められているところが羨ましくてたまらないのね。自分が本当は何者なのかくらい、自分が一番よくわかってるんじゃないの?」私の挑発に英吾は激昂し、顔を歪めた。だが、首を絞めていた手が不意に緩んだ。彼が私をまだ「使える駒」だと思っているからだ。「絵里奈……俺とお前は、同じ世界の人間だと思ってたよ」思わず彼に唾を吐きかけた。私があそこまで卑屈になったのは、愛していたからだ。どこかの誰かみたいに、生まれつき薄汚いドブネズミのような人間とは違う。だが、もちろん口には出さない。今ここで彼を逆上させて、本当に取り返しのつかないことをされたら困る。あの空音の悲惨な末路は、嫌というほど知っているのだ。昔からの幼なじみでさえ平気で切り捨てるような冷酷な男が、私にだけ特別な情けをかけてくれるはずがない。「颯介に何を吹き込まれた?なんであいつの言いなりになる気になった?婚約までして――あいつから、一体何をもらったんだ、言え!」本当のことなど、言えるわけがない。私は助けが来るまでの時間を稼ぐため、あえてゆっくりと口を開いた。「ねえ、空音がずっと私のことを『英吾のベッドに転がり込んだ最低な女』って言い触らしていた理由、なぜだか知ってる?」「……言え」「10年前、彼女が私に薬を盛ったからよ」
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