INICIAR SESIÓN夫の西岡英吾(にしおか えいご)が幼なじみの及川空音(おいかわ そらね)のために家を飛び出したのは、これで19回目だった。 ある日、私は英吾の引き出しに、2枚の映画のチケットがひっそりと挟まっているのを見つけた。 「サプライズにするつもりだったのに」 英吾は素っ気なく言った。 「先に見つけちゃったなら仕方ない。夜、映画館で待ってろ」 その夜、私・西岡絵里奈(にしおか えりな)は開演から終演まで、ずっと待ち続けた。 ――でも、英吾は来なかった。 帰り道、何気なくスマホをスクロールしていると、空音のSNSの投稿が目に留まった。 【映画には連れて行ってもらえなかったけど、花火を用意してくれたし……今回だけは、特別に許してあげる】 思わず顔を上げると、夜空の向こうで、色とりどりの花火が咲き乱れていた。 どうしてだろう。 今この瞬間、彼を愛し続ける気力が、底の抜けた器から水がこぼれるように、静かに消え去っていく気がした。
Ver másそう呟き、英吾が鋭いナイフの刃を私の首筋にピタリと当てたその瞬間。肌を刺すような冷たい感触と同時に、遠くからけたたましいサイレンの音が響き渡り、間もなくして地下室の重いドアが蹴り破られた。所詮、英吾は人を拉致して刃物を向けるような犯罪は初めての素人だったらしい。突然の警察の突入にひどく動揺し、ナイフを握る彼の手がガタガタと震え出した。その一瞬の隙を、私は逃さなかった。渾身の力を振り絞って彼へ体当たりした。彼は、突入してきた警察官たちにあっという間にその場で取り押さえられた。私は荒く息を切らしながら床に倒れ込み、激しく早鐘を打つ心臓の音を聞いていた。「危なかった……もう少しで、本当に殺されるところだった……っ」警官たちの後ろから駆け込んできた颯介の顔を見た瞬間、ずっとこらえていた恐怖と安堵の涙が一気に溢れ出した。彼は血相を変えて飛び込んでくると、床に倒れた私をきつく抱きしめた。「遅くなってごめん、絵里奈ッ!もうこんなことは、絶対に起こさせない。誓うよ」耳元で囁かれたその声の確かな温もりに触れて、私はようやく全身の力が抜けていくのを感じた。私は彼の広い腕の中で、声を殺して泣きじゃくった。その後、英吾は殺人未遂や数々の罪に問われ、無期懲役の判決を受けた。颯介があの数日間、私のそばを離れて水面下で動き回っていた本当の理由を、私はそのときになってようやく知ることとなった。英吾は裏で着々と株主たちの持ち分を買い集め、取締役会を丸ごと自分の息のかかった人間に入れ替えようと企てていたらしい。颯介はその間ずっと、英吾と結託していた人間たちの汚職や不正の証拠を水面下で集め、一網打尽にする準備を進めていたのだ。もちろん、首謀者である英吾自身の罪も含まれていた。すべての逃げ場を失い、完全に追い詰められた英吾が、逆上して真っ先に思いついたのが、私への逆恨みと八つ当たりだったというわけだ。病院のベッドの上でその全容を聞き終えた私は、九死に一生を得た安堵と、心底呆れる気持ちが入り混じった複雑な心境でぽつりと呟いた。「西岡の一族って、本当に……私みたいな並の人間が、軽々しく関わっていいような世界じゃないですね」颯介は病室のベッドのそばに立ち、まるで叱られた子供のように、ひどく申し訳なさそうな顔をして肩をすくめた。「それくらい強
目を覚ますと、まず、むっとするようなカビの匂いが鼻を突いた。どうやら窓のない地下室のような場所に閉じ込められているらしい。目の前には仮面をつけた男が立っていたが、それが誰なのか、私にはすぐにわかった。「くだらない茶番はやめたら、英吾」私の冷たい声に、彼は乱暴に仮面を引き剥がした。その目には、自分の正体が暴かれたことへの驚きと、どす黒い憎悪が渦巻いている。ロープで椅子に縛りつけられ、身動きひとつ取れない私を見下ろすと、英吾は手を伸ばし、私の首をきつく絞め上げた。「お前は、俺のことが好きだったんじゃないのか。10年間も捧げてきた気持ちをそんなに簡単に捨てて、今度は颯介のやつに乗り換えるのか。あいつみたいに、生まれながらにして何もかもを持っている人間が、俺は一番嫌いなんだよ!」気道が塞がれ、息ができずに苦しかった。けれど、彼に言葉を絞り出すだけの気力はまだ十分に残っていた。「……嫉妬、してるんでしょ。あの人の由緒ある生まれや、誰からも認められているところが羨ましくてたまらないのね。自分が本当は何者なのかくらい、自分が一番よくわかってるんじゃないの?」私の挑発に英吾は激昂し、顔を歪めた。だが、首を絞めていた手が不意に緩んだ。彼が私をまだ「使える駒」だと思っているからだ。「絵里奈……俺とお前は、同じ世界の人間だと思ってたよ」思わず彼に唾を吐きかけた。私があそこまで卑屈になったのは、愛していたからだ。どこかの誰かみたいに、生まれつき薄汚いドブネズミのような人間とは違う。だが、もちろん口には出さない。今ここで彼を逆上させて、本当に取り返しのつかないことをされたら困る。あの空音の悲惨な末路は、嫌というほど知っているのだ。昔からの幼なじみでさえ平気で切り捨てるような冷酷な男が、私にだけ特別な情けをかけてくれるはずがない。「颯介に何を吹き込まれた?なんであいつの言いなりになる気になった?婚約までして――あいつから、一体何をもらったんだ、言え!」本当のことなど、言えるわけがない。私は助けが来るまでの時間を稼ぐため、あえてゆっくりと口を開いた。「ねえ、空音がずっと私のことを『英吾のベッドに転がり込んだ最低な女』って言い触らしていた理由、なぜだか知ってる?」「……言え」「10年前、彼女が私に薬を盛ったからよ」
お互いの利害が一致しただけの契約関係だと、頭ではわかってはいた。それでも、颯介のあまりに真摯な態度に触れていると、私はだんだんこれが本物の恋であるかのような錯覚に陥りそうになっていた。二人でショーケースを覗き込んで真剣な顔で指輪を選び、私が純白のウエディングドレスを試着して……まるで本当に愛し合って結婚するカップルのように、あちこちを忙しく動き回った。颯介は、その幸せそうな写真を自身のSNSに堂々と投稿した。添えられた短い一言は、【大切にしてくれる人がいないのなら、いつか必ず、大切にしてくれる人が現れるものだ】。アップされた写真は、ドレスショップで寄り添い合う、私たちのツーショットだった。私は、すぐに乗り換えたって言われるんじゃないかと心配していた。ところがコメント欄を開いてみると、そこに並んでいたのは「お幸せに」「素敵な二人」といった祝福コメントばかりだった。いかにも業者が書いたようなコメントの中には、英吾を責めるものまで混じっていた。あの炎上の最中、裏で手を回して私の個人情報を徹底的に守り抜いてくれたのが一体誰だったのか――そのとき、一瞬で腑に落ちた。「……こんなに周到に私を助けておいて、用が済んだら裏切るつもりじゃないですよね。私、一度痛い目を見ているから、警戒心はかなり強い方なんですよ」颯介は涼しい顔で、それでもあくまで白を切り通した。「俺がやったって、どうして言い切れるんだい?たまたま、君の普段からの情報管理が完璧だっただけじゃないか」私は心の中でため息をつきながら、腹をくくって彼の実家へと挨拶に向かった。名家への挨拶ということで、てっきりピリピリとした緊張感の張り詰める場になるだろうと身構えていた。しかし、颯介の家での夕食は、拍子抜けするほど温かで、アットホームな飾り気のないものだった。食事の間中、彼の祖父と母は、まるでお互い競い合うようにして、私の取り皿へ次から次へと料理を取り分けてくれた。私はたまらず、隣に座る颯介にこっそりと耳打ちをした。「英吾は?彼を気まずくさせるために、私を連れてきたんじゃないんですか?」颯介も、口元を隠して小声で答える。「あいつには、本家の食卓に着く資格なんかない。それに、公式に西岡家として外で認めたこともないからね」……どうやら私、とんでもなく巨大で、もう二度と
「それが最初から私に近づいた目的だったというわけですか?」私は溶けかけたアイスをスプーンで弄びながら、少しばかり棘のある口調で言った。「違うよ。あの雨の日、君を見かけたのは本当に偶然だ。誓ってもいいさ。そういえば、俺に傘を1本、貸しっぱなしになってるよね」そのささやかな「貸し」を口実に、私は颯介と手を組むことに決めた。すぐに英吾へ連絡を入れた。明日の午前9時、区役所で正式に離婚の手続きを済ませる、と。翌朝。区役所の前で、私は颯介の大きな黒いハマーから堂々と降り立った。待ち構えていた英吾の目が、嫉妬と屈辱でみるみる血走っていくのがわかった。「いつから俺の叔父とできてたんだ……絵里奈、お前って女は本当に節操がないな」「これでも君の叔母になる人だぞ。口の利き方に気をつけろ」颯介に冷たく一喝され、英吾は悔しげに押し黙った。胸のつかえが、すっと下りていくのを感じた。「誤解しないでちょうだい。颯介さんとは、あのカフェで初めてお会いしたのよ。それに、私たちはこれから赤の他人になるんじゃなかったかしら。自分が腐っていると、他人のことも全部汚く見えるものなのね」私も遠慮せずにきっぱりと言い返してやった。英吾は一言も反論できず、忌々しげに離婚の手続きを終えると、負け犬のようにすごすごと立ち去っていった。「意外と迫力があるんですね。あいつ、私にはすぐに噛みついてきたのに、あなたには何も言い返せなかったですよ」「うちに嫁いできたら、あいつにとって正式な目上の身内になるからね。うちは家訓がひどく厳しいから、さすがのあいつも露骨には逆らえないのさ。それに、彼は愛人に産ませた子だからね。本家でそこまで大きな顔もできないんだ」「愛人の子……」思わず絶句した。10年間も連れ添っていたというのに、英吾が不倫の末に生まれた婚外子だったなんて、まったく知らされていなかった。彼のあの軽薄な浮気性も、もしかしたら血筋が影響しているのかもしれない。「そう。彼の母親は、今でも西岡家で正式な立場を与えられていない。俺の兄には娘ふたりいるだけだったから、祖父が温情で会社に入れてやり、平社員から経験を積ませてやったんだ。それが要領よく立ち回ってね、社内の人間からの評判も悪くなかった。でも人間という生き物は、上の立場に行けば行くほど強欲になる。ここ数年、
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