「お嬢様、あれほど待ち望んでいた赤ちゃんなのに……本当に、手放してしまうんですか?」「一ノ瀬美桜(いちのせ みお)さん」看護師に呼ばれ、私は立ち上がった。幼い頃から私の世話をしてくれた佐伯澄江(さえき すみえ)は、目を真っ赤にし、私の腕をつかむ手には力が入った。「旦那様が知ったら、きっとお怒りになります」私は澄江の手をそっとほどき、手術室へ向かった。「怒るどころか、きっと喜ぶわ」この子は、初めから彼に望まれていなかったのだから。司と結婚して6年。子どもができないことを理由に、私は義母から散々責められてきた。ようやく授かった命を手放すのが、つらくないはずがない。澄江は、この妊娠を私がどれほど待ち望んでいたか、ずっとそばで見てきた。私は手にしたネックレスへ目を落とした。司にもらった品の中では、いちばんささやかなものだった。それでも、私にとっては何より大切だった。結婚した夜、司は自らこのネックレスを着けてくれた。「美桜、君と結婚するのがずっと夢だった。これから先、何があっても俺が守る」私は幼いころから、白い蓮の花が好きだった。だから司が、この蓮をかたどったネックレスを選んでくれたのだと思っていた。あの頃は、一生をともにしたい人にようやく出会えたのだと信じていた。ところが妊婦健診で、医師から思いもよらないことを告げられた。「検査結果を見る限り、避妊作用のある薬を長期間摂取していた可能性があります」頭の中が真っ白になった。医師の言葉を聞いた瞬間、毎晩の光景がよみがえった。司は寝る前になると、決まって温かいミルクを用意し、「よく眠れるから」と私に飲ませていた。私はずっと、司が気遣ってくれているのだと思っていた。違った。彼は、私との間に子どもを望んでいなかったのだ。優しさだと信じていたものは、すべて嘘だった。そう気づいた途端、胸の奥が冷たく沈んだ。手術を終えて家に戻ってからも、澄江はずっとそばについていてくれた。麻酔が切れるにつれ、下腹部が重く痛み始めた。そのとき、不意に寝室のドアをたたく音がした。「美桜、どうした?どうして鍵をかけてるんだ?」ドアの向こうから、司の声がした。 心配しているようで、どこか苛立ちもにじんでいた。今にもドアをこじ開けて入ってきそうな勢いだった。
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