Masuk藤堂グループが崩れれば、当時まだ離婚手続きの途中だった私や一ノ瀬家も、両家の争いに巻き込まれかねなかった。景人はもともと、神崎家と藤堂家の争いに関わるつもりなどなかった。それでも私を守るため、黒瀬家が一ノ瀬家の味方であることを、自ら明らかにしてくれたのだ。そこまで考えて、晃の周到さに初めて恐ろしさを覚えた。「神崎晃が何を考えているのか、昔からわからなかった」かつて私は晃と婚約し、心から慕っていた。若い頃には、晃も同じ思いを抱いていた時期があったのかもしれない。けれど晃にとって、私への思いなど、権力や利益の前では取るに足りないものだったのだろう。景人は、晃とも司とも違う。私を誰かのための駒として利用したりはしない。私は景人の胸へ寄り添った。「遠回りしたけれど、もう一度、景人と巡り合えてよかった」景人は少し耳を赤くしながら、私を抱き寄せた。「あのとき、僕がもっと勇気を出していれば、美桜も司と結婚せずに済んだのに」私は笑い、頬へ軽く口づけた。「もう過ぎたことよ。今は幸せだから」結婚して2年目、私は妊娠した。以前の流産があまりにもつらいものだったため、景人は私の身体をこまやかに気遣い、少しの無理もさせまいとした。不安に駆られると、涙声で言うことさえあった。「絶対に無理するな。僕は、美桜が無事でいてくれればそれでいい」私は笑って景人の手を取り、そっとお腹へ当てた。「私は、この子に会いたい。景人と私の子だから」景人の母は、出産時の合併症で亡くなっている。そのことが、今も心に深い傷を残していた。少しでも不安を和らげようと、景人は私を郊外のお寺へ安産祈願に連れていってくれた。お寺の山門近くで、思いがけず過去の人と再会した。片脚が不自由な男が地面に手をつき、私たちの前へ出て金を求めてきた。汚れた服に伸び放題の髪。見る影もないほど、みすぼらしい姿だった。景人は男を遠ざけようとしたが、祈願に来た日でもあり、財布から何枚かの札を取り出した。「これで食事でもしてください。妻が怖がっているので、道を空けてもらえますか」景人が私の腰を抱いて通り過ぎようとすると、男が顔を上げた。悲しみに満ちた目で、まっすぐ私を見つめている。「美桜……」司だった。わずか2年で、かつて自信に満ちてい
絵麻は床へひざまずき、何度も頭を下げた。「お姉さん、お願い、もう許して。わざと陥れようとしたわけじゃないの!一ノ瀬家では、誰も私を好きになってくれなかった。私はただ、生きていくための道が欲しかっただけ。いったい、私の何が悪いの?」景人は眉を寄せ、私の前へ出た。そして警備員へ、2人を外へ出すよう指示した。私は景人の腕へそっと触れ、司の前まで歩いた。司の顔が明るくなった。「美桜、やっぱり、まだ俺のことを……」私は司の伸ばした手を避け、静かに告げた。「私はあなたを許さない。6年間、絵麻のために私を愛しているふりをして、利用し続けたことも」一度言葉を切り、司をまっすぐ見据えた。「それから、子どものことも。私たちの子どもは、あの夜、庭で失ったんじゃない。その前に、私は手術を受けていたの。あなたが毎晩私に飲ませていたのが避妊薬だと知ったから。あの子は、生まれる前からあなたに拒まれていたのよ」司は言葉を失い、力が抜けたようにその場へ座り込んだ。そして両手で顔を覆い、うめくように泣き始めた。あれほど自信に満ちていた人が、私の前で泣いていた。けれど、もう心は動かなかった。私は景人の腕を取り、式場の奥へ向かった。背後から司が何度も私の名を呼んだが、一度も振り返らなかった。……あの日の結婚式を境に、司は心身ともに追い詰められ、酒に頼るようになり、体調も急速に崩したという。結婚式での騒動をきっかけに、絵麻が藤堂邸の離れで暮らしていたことは、瞬く間に世間に知れ渡った。神崎家の孫を身ごもった嫁が、別の男の屋敷で暮らしていた。それだけでも十分な醜聞だった。だが、事態はそれだけでは終わらなかった。やがて藤堂邸の使用人から、司が絵麻と絵麻が雇った男たちを地下室に一晩閉じ込め、暴行を加えさせたという証言が出た。その夜を境に、絵麻は子を失ったのだという。晃は、司が自分の妻を監禁し、子どもを失わせた責任を追及するという名目で、藤堂グループとの提携を全面的に解消した。神崎グループが手を引くと、金融機関や主要取引先も相次いで取引を見直し、藤堂グループの経営は急速に傾いていった。一見すると、晃は妻を傷つけられたことへの復讐に動いたように見えた。ところが、ほどなくして、絵麻は路上で亡くなっているのが見つかった。
一ノ瀬家をあとにした司は、藤堂邸へ戻ると、まっすぐかつて美桜が使っていた部屋へ向かった。離婚が成立したことは知っている。それでも、美桜がなぜ自分を見限ったのか、何を見落としていたのかを確かめずにはいられなかった。部屋を探すうち、司はベッド脇の引き出しから、美桜が以前署名した離婚協議書を見つけた。その下には、妊娠中に処方された薬の一覧と、手術同意書も残されていた。どれも薄い紙切れにすぎない。それなのに、手にした司の指は震えた。紙に残る血の跡を見た瞬間、あの夜、澄江が片づけようとしていた血の付いた部屋着が脳裏によみがえった。その瞬間、これまで見過ごしてきた出来事が、一つにつながった。美桜が口数を減らし、笑顔を見せなくなったことも、次第に自分を避けるようになったことも、司にはようやく理解できた。あの夜、ほんの少しでも美桜に目を向けていれば、彼女が子どもを失ったばかりだと気づけたはずだった。それなのに自分は、絵麻から電話がかかってきただけで、美桜を残して出ていった。美桜が手術後の痛みに耐えていた頃、自分は離れで絵麻のために食事を用意し、そばに付き添っていたのだ。司は何かを求めるように、部屋中を探し始めた。けれど、どこを探しても、美桜が日々使っていた物は一つも見つからなかった。残されているのは、自分が贈った品ばかりだった。美桜が自ら選び、大切にしていた物は、すべて持ち去られている。まるで初めから、この部屋で暮らしていなかったかのようだった。司はその場に座り込み、両手で顔を覆った。「美桜……どうして何も言わなかったんだ」絵麻のために特注したアイリスのネックレスも、若い頃の淡い思いの名残でしかなかった。夫婦として過ごした6年の間に、司の心はいつしか美桜へ向いていた。ただ、美桜が自分のもとを離れることなどないと、信じきっていたのだ。たとえ子どもに恵まれなくても、美桜を大切にしていくつもりだった。絵麻を離れに住まわせても、自分の妻はただ一人。その考えは変わらないつもりだった。司は突然、顔を上げた。美桜を追い出したあの日、絵麻が動画を持ち込み、美桜にやられたと泣きついてきたことが頭をよぎった。もし、あれがすべて仕組まれたものだったとしたら。司は目を真っ赤にし、絵麻のいる離れへ駆け込んだ。
ベッドのそばには、景人が選んだ上質なカシミヤのひざ掛けがあった。そしてテーブルには、栄養士に相談して用意してくれた、滋養スープが置かれている。大切なのは、高価な品ではなかった。私の身体を気にかけ、何ができるかを考えてくれることだった。藤堂家に高級な食材が用意できなかったわけではない。司に、その気がなかっただけだ。景人と過ごすうち、形だけでいいと思っていた再婚を、心から楽しみにするようになった。結婚式の前日、司が一ノ瀬家へやって来た。私が藤堂家を出たあと、神崎家は絵麻が海外で療養していると発表し、その居場所を伏せていた。だが、絵麻が別名を使って藤堂邸の離れで暮らしていることは、関係者の間では公然の秘密だった。司は、晃の子まで自分が育てるつもりだったんだろう。望んでいた生活を手に入れたはずだった。それなのに今さら、私を連れ戻そうと一ノ瀬家まで押しかけてきたのだ。執事に行く手を阻まれた司は、苛立ちをあらわにして門を何度も叩いた。「美桜に会わせてくれ。6年も夫婦だったんだ。話す権利くらいあるだろ」幼い頃から私を知る執事たちは、誰も門を開けようとしなかった。父の指示で、警備員が司を敷地の外へ下がらせた。司は門の前へ手土産を並べ、閉ざされた扉に向かって話し始めた。「美桜、これまで傷つけたことは謝る。でも、6年一緒にいたことまで消えるわけじゃない。まだやり直せる。怒りが収まるまで待つから、戻ってきてくれ」通りがかりの人たちが足を止め、司を一途な元夫だと持ち上げた。代わりに私は、嫉妬から夫を捨てた冷たい女にされていく。父はとうとう我慢できなくなり、門を開けさせた。「調停で離婚に同意したのは、あなた自身だろう。今さら何をしに来た」そして結婚式の招待状を司の前へ差し出した。「美桜は明日、景人君と結婚する。祝いに来るつもりなら止めはしないが、邪魔をするなら二度と近づくな」司は招待状を見つめたまま、動かなくなった。やがて、信じられないというように首を振った。「違います。離婚に応じたのは、美桜に少し時間をやれば戻ってくると思ったからです。こんなことで、別の男と結婚するはずがない」司は招待状を握りつぶし、無理に笑みを作ったが、すぐに顔が引きつっていた。私は父の後ろから門前へ出た。「司。離
司は、使いの者へこう言い放ったという。「美桜が自分から戻って謝らないかぎり、絶対に許さない。ほかの男と浮気した女にでっち上げて、俺のほうから捨ててやる」司は、私が今も彼を愛していて、そこまで追い詰めれば必ず折れると思い込んでいた。その話を聞いても、もう腹は立たなかった。ただ、呆れるばかりだった。「話し合いで片付かないなら、法的な手続きを取るだけよ」私は婚姻関係が破綻していたことを示す資料をそろえ、離婚の手続きを進めた。当初は拒んでいた司も、調停が進むうち、最後には離婚に同意した。こうして、私たちの離婚は正式に成立した。……それからしばらくして、私は景人の申し出を正式に受けた。景人も私も、もう若くはない。しかも、私にとっては2度目の結婚だ。だから式は、身内だけでささやかに挙げるものだと思っていた。ところが景人は、結婚の挨拶のため自ら一ノ瀬家を訪れ、驚くほど多くの贈り物を用意していた。その量は、かつて司から贈られたものをはるかに上回っていた。驚く私に、景人は穏やかに微笑んだ。「たいしたものじゃありません。いつか美桜さんに受け取ってもらえたらと思って、前から少しずつ揃えていたんです」高価な贈り物より心に残ったのは、景人が私の体調を気にかけてくれたことだった。主治医や栄養士と相談し、無理なく身体を整えられるよう手配してくれた。父の一ノ瀬隆臣(いちのせ たかおみ)も祖母も、そんな彼の気遣いに安心したように喜んでいた。ある日、庭を歩きながら、私は隣の景人へ尋ねた。「景人さんがここまでしてくださるのは、一ノ瀬グループと組みたいからですか?」景人は足を止め、不意を突かれたように私を見た。「父ももう年です。私との結婚のために、余計な負担をかけたくありません。一ノ瀬家の後ろ盾が目当てなら、結婚のお話はお断りします」景人はしばらく私を見つめ、やがて穏やかに笑った。「何もいらない。ただ、美桜さんと一緒にいたいと言ったら、信じてもらえますか?」その言葉を聞くと、何も言えなくなった。景人は手首から、色とりどりのガラス玉をつないだブレスレットを外した。「僕がずっと独身なのは、若くして亡くなった恋人を忘れられないからだと噂されています。でも、その人は生きています。ずいぶん前に、別の人と結婚してしまっ
「私はどうなってもいい。でも、この子には何の罪もないのに……お姉さん、どうしてこんなひどいことができるの?」司は絵麻を支えながら、私をにらみつけた。そして、私の胸元を蹴った。「美桜、見損なったぞ」庭に倒れたまま、痛みをこらえて動画に目を凝らした。映っていたのは、以前、絵麻に嫌がらせをしていた人物と、私が話している場面だった。映像は都合のいいようにつなぎ合わされ、音声まで加工されている。これでは、私がその人物に絵麻を傷つけるよう指示したようにしか見えない。これまで少しでも私のことを見ていたなら、あの映像が不自然だと気づけたはずだ。けれど司には、初めから絵麻を疑う気などなかった。私は身体を丸め、司の足元で必死に声を絞り出した。「違う。私はそんなこと……」言い終える前に、絵麻がふらつき、そのまま司のほうへ倒れかかった。司から見えないところで、絵麻は私へ勝ち誇った笑みを向けた。彼はすぐに絵麻を抱き上げ、離れへ向かった。立ち去る間際、司は振り返りもせず、冷たく言い放った。「仮にも藤堂家の嫁が、嫉妬で妹を陥れるとはな。今夜は庭で頭を冷やせ。絵麻にきちんと謝るまで、屋敷には入れるな」意識が薄れていく。私は必死に手を伸ばした。「助けて……」真冬の庭に一晩いれば、命に関わる。それでも警備員は、司の命令に逆らえず、私を押さえたままだった。司は一度だけ振り返り、言い聞かせるように話した。「美桜、自分がしたことには責任を持て。絵麻がここで暮らすことになっても、お前が俺の妻であることに変わりはない。今は気が立っているだけだ。しばらくの間だけ我慢して、絵麻の言うとおりにしてやってくれ」差し出した手は、靴先で払いのけられた。寒さと痛みに耐えきれず、私はその場で意識を失った。……目を開けると、祖母の一ノ瀬千鶴(いちのせ ちづる)が心配そうに私をのぞき込んでいた。「美桜、よかった……やっと目を覚ましたのね」温かいスープを持つ祖母の顔を見た途端、涙が止まらなくなった。私は祖母にすがり、子どものように泣いた。祖母は悔しそうに唇をかんだ。「司さんが一ノ瀬家の前で、あなたと結婚させてほしいと頭を下げたとき、心から愛しているのだと思った。私が見誤ったせいで、あなたにつらい思いをさせてしまった。景人さ