さようなら、偽りの家族 のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

13 チャプター

第1話

私・江口美月(えぐち みづき)の夫――桐谷彰吾(きりたに しょうご)は、インフルエンサーの森本絵奈(もりもと えな)と専属契約を結んだ。彼女はセレブ妻のキャラクターを売りにして、夫婦間の親密さを匂わせる投稿をSNSにアップしているが、彼女が住んでいるあの高級マンションは、彰吾が私のために買ってくれたものだ。そのことを問いただしても、「ただの演出だろ。いちいち目くじらを立てるな」と、彰吾は面倒くさそうに吐き捨てるだけだ。胸に湧き上がる疑念を、無理やり押し殺した。息子の桐谷陽斗(きりたに はると)がひどい風邪をこじらせて、私は何日も徹夜で看病を続けた。そんなある日、疲労のあまり倒れ込んだとき、陽斗と彰吾のひそひそ話が聞こえてきた。「パパ、今回は僕が仮病を使ってあげたから、パパと絵奈ちゃん、一緒にいられたんだよ。ママ、すっかり騙されてるね。今度はパパの番だよ。ママに内緒で、僕も絵奈ちゃんと一緒に住みたい!」寝室のドアの前に立ち尽くす。視線の先には、彰吾の肩に寄りかかって、声を潜めてそんなことを囁く陽斗の姿がある。水なしで飲み込んだ薬が、まるで巨大な石のように喉につかえている。それに加えて下腹部を襲う激痛に、立っていることもままならない。彰吾は甘やかすような笑みを浮かべて、陽斗を腕の中に抱き寄せる。「いい子だ。絵奈も会いたがってたぞ。これは男同士の秘密だからな、ママには内緒だ」まるで氷の海に突き落とされたかのように、全身の震えが止まらない。逃げるように寝室から後ずさって、洗面所に駆け込む。蛇口から出る冷たい水が肌に触れて、ようやくほんの少しだけ理性を引き戻す。ここ数日、陽斗が体調を崩していた。それなのに、どうしても病院へは行きたがらなかった。幼い頃から体が弱くて、食事も人一倍気を使って育ててきた。普段から少し走っただけでも息を切らしてしまう。気が気ではなく焦りばかりが募る中、出張中だった彰吾がなんとか往診の医者を手配してくれた。診察を受けて薬を処方されたものの、一向によくなる気配はない。毎晩のように頭が痛いと泣き言を言っていた。何日も徹夜で看病を続けて、運悪く重なった生理のせいで、気絶しそうなほどの下腹部の痛みに耐えている。ほんの1時間前、帰宅した彰吾を玄関で迎えたとき、彼は心底痛ましそうな顔をして私を抱き
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第2話

ぐちゃぐちゃになった感情を無理やり押し殺して、青ざめた顔に無理やり笑みを貼りつけて、寝室へと足を踏み入れる。私の姿が目に入った途端、陽斗は大げさに「痛い、痛い」と呻き声を上げ始める。いつも通りを装って、「まだ頭痛い?」と優しく声をかける。プイッと顔を背けて、彰吾の胸にぐりぐりと顔を押し付ける。「ママが来たらもっと痛くなった。パパ抱っこして!」子供特有の、隠しきれない露骨な嫌悪感だ。顔に張り付いていた笑顔が引きつって、背筋が凍りつく。私の顔色が曇ったのに気づいた彰吾が、慌ててフォローを入れる。「ずっと会えなかったから、パパが恋しかったんだろうな。美月もこの数日大変だったし、俺が陽斗を会社に連れて行くから、家でゆっくり休んでてくれ」気遣うような口調ではあったが、その言葉にはどこか気持ちがこもっていないことが痛いほど伝わってくる。陽斗も待ちきれない様子で立ち上がって、「ママ、もう大丈夫だから。パパと一緒に会社に行く!」とはしゃいでいる。さすがにまずいと思ったのか、取って付けたように「ママ、ゆっくり休んでね」と付け加える。二人は顔を見合わせて、嬉しそうに笑い合っている。その瞳の奥には、隠しきれない喜びが踊っている。苦い感情に戸惑いと無力感が混ざり合って押し寄せる。喉が詰まって、声を出すこともできない。だが、二人は私の異変など気にも留めず、いそいそと出かける準備を始めている。陽斗に先ほどの弱々しい面影はすでになく、お気に入りのスケッチブックまで抱え込んでいる。誰かにプレゼントを渡すのだという。私に隠れるように彰吾にだけ中身を見せて、いたずらのように目を細めた。彰吾は「すごく上手に描けてるじゃないか」と笑顔で褒める。二人はまた、何かを共有しているかのような笑みを交わす。そのスケッチブックは、陽斗が普段から一番大切にしている宝物だ。私が見ようとするといつも隠して、「ママにはサプライズだから」と言っていたものだ。実は、こっそり中を覗き見たことがある。描かれていたのは二人の大人と、一人の子供。あの時は、私へのプレゼントだとばかり思って密かに喜んでいた。今になって分かった。母親である私はとっくにそこから排除されて、絵を見ることも許されていないのだ。彰吾は陽斗と耳打ちしながら手をつないで部屋を出て行く間際、思い出した
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第3話

病室のベッドで点滴を受けながらも、絵奈が投稿した動画が頭から離れない。彼女の動画に映る「社長」との日常は、彰吾とのいちゃいちゃ記録そのものだ。彰吾は、彼女がタピオカミルクティーをこぼしてスーツを汚したとき、代わりの服を選ばせるという名目でショッピングモールへ連れ出して、実際には彼女にいくつものブランド品を買い与えている。彼女が行きたがっていたライブのチケットを手配して、さりげなくプレゼントしたかと思えば、開演後にちゃっかり隣の席に座って偶然を装ったりもする。かつて私には一度も向けてくれなかったそんな細やかな気遣いを、今は彼女を喜ばせるために惜しみなく注いでいるのだ。挙句の果てには、陽斗に仮病を使わせて私の気を逸らして、出張と偽って彼女と旅行にまで行っていた。胸の奥が鈍く痛む。虚しさも惨めさも通り越した先にあったのは、底知れぬ悲しみと怒りだ。「熱がありますね。数日入院した方がいいでしょう」点滴を替えに来た医師は、私の顔色が悪いことに気づいて、眉をひそめる。「ご家族は?入院になるなら、着替えなどを持ってきてもらうよう連絡してください」力なく笑う。「入院の手続きも準備も、全部自分でできますから」病室の手配を済ませて、重い体を引きずって病院内のコンビニへ向かう。点滴スタンドを押す手は小刻みに震えていて、壁に寄りかかって少し休もうと立ち止まったとき、見覚えのある姿が視界に飛び込んでくる。少し離れた場所にいるのは、陽斗と手を繋ぐ彰吾だ。そして、彰吾が気遣わしげに支えている人は……他でもない絵奈だ。「普段からあんなに跳ね回るのは危ないって言ってたろ?いい大人なのに足首を捻挫するなんて」彰吾の大きくて厚い手が絵奈の腰に回されて、彼女を自分の胸元へと引き寄せる。眉をひそめて叱ってはいるものの、その声には隠しきれない心配が滲んでいる。呼吸が止まりそうになる。スマホを握りしめる手が震える。画面には、彰吾から届いたばかりのメッセージが表示されている。【美月、本当にごめん。急な会議が入った。終わったらすぐそっちに行くよ】彰吾が絵奈をベンチに座らせて、その場に片膝をついて彼女の足首を優しくマッサージするのを、ただ見つめていることしかできない。すると、陽斗も慌てて駆け寄って、彰吾の真似をし始める。「パパ、早くお薬もらってきて!僕
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第4話

その声に、彰吾は弾かれたように振り返る。私の冷たい視線とぶつかると、彼はばつが悪そうに目を逸らす。「陽斗の具合がまた急に悪くなって、病院へ連れてきたんだ。そこでたまたま、絵奈に会って……」「へえ、そう。で、陽斗はどうなの?私もちょうど入院することになったから、着替えとか荷物を持ってきてくれない?」強張る頬を引き上げながら、あえてそれ以上は追及しなかった。しかし、私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、絵奈の目にはあっという間に涙が浮かんだ。彼女は下唇を噛んで、怯えたように彰吾の袖を掴む。彼の背後に隠れるように身を縮める。「美月さん、どうか誤解しないでください。私、この町に出てきたばかりで、病院に行くのも一人で……社長はただ、そんな私をかわいそうに思ってくれただけで……」今にも泣き出しそうな姿は、まるで私がひどい言葉で彼女を虐げたかのようだ。彰吾はいたわるように絵奈を引き寄せて、庇うように彼女の前に立ちはだかる。おまけに陽斗までが絵奈の腰に抱きついて、まるで敵でも見るかのように私を睨みつける。「ママ、絵奈ちゃんはかわいそうよ。ママには僕がついててあげるから。パパはこの後絵奈ちゃんを送っていかないといけないんだ」陽斗の言葉に、彰吾もすぐさま同調する。「ああ、彼女はこの後まだ仕事があるからな。俺は後でそっちに行くよ」彼の口調には苛立ちが混じっている。特に、隣にいる絵奈があからさまに萎縮しているのを見てからは、まるで私を物分かりの悪い子供でも見るかのような目を向けている。濡れたまつ毛を伏せている絵奈が、ちらりと私を見て、すぐにまた目を逸らす。その若々しく澄んだ瞳の奥には、隠しきれない優越感と哀れみがはっきりと浮かんでいる。まるで容赦ないスポットライトのように、私の惨めな姿を白日の下に晒している。陽斗がうっとうしそうに私の袖を引っ張る。「ママ、具合悪いだろ?早く病室へ戻ろう」息子の幼い声が鋭い棘となって突き刺さって、私はこの現実を受け入れるしかない。この三人は、とっくの昔に強固な絆で結ばれて、私だけが完全に蚊帳の外に追いやられているのだ。胸の奥から込み上げる悲しみはどうやっても抑えきれず、喉のつかえを無理やり飲み込む。「……わかった。仕事、頑張って。陽斗もそっちに任せるわ」体裁を繕って笑みを浮かべ、背を向
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第5話

病室のベッドで、すっかり冷めきった弁当を口に運びながら、絵奈がアップした最新の動画を眺めている。【誰かさんが、半日かけて買ってきてくれた限定のフルーツタルト!】その店には見覚えがある。病院のすぐ近くにあるベーカリーで、毎日数量限定で販売されて、デリバリーも一切行っていない。とっくに麻痺していたはずの心が、またしても鈍く痛む。彰吾が病院へ見舞いに来たのは、ただの「ついで」に過ぎなかったのだ。自傷行為のように、絵奈の最新動画を何度も繰り返し再生する。動画の中から、あどけない子供の声が響いてくる。「絵奈ちゃん!僕のママになってくれる?」コメント欄では推測が飛び交い、一番上に固定されたコメントはこうだ。【この子、もしかして社長さんの子供?前に絵奈ちゃんが、母親に捨てられたかわいそうな子がいるって言ってたよね】絵奈は返信こそしなかったものの、そのコメントにしっかりと「いいね」を押していた。事実を完全に捻じ曲げたそのコメントに、怒りが一気に沸点に達する。しかしそれに続いて襲ってきたのは、残酷な現実が胸をえぐるような痛みだ。彰吾はこの事態をはっきりと把握しているはずなのに、何一つ弁明しようとはしない。陽斗でさえも、本気で絵奈を母親にしたいと願っている。私が入院して数日経つというのに、彰吾からは電話一本、メッセージ一通も送られてきていないのだから。退院して家に戻ると、定期契約している食材の宅配サービスから、最近の注文についての確認の電話が入る。陽斗は胃腸が弱いため、私はわざわざ栄養士の資格まで取って、毎日新鮮な野菜を取り入れたメニューを考えてきた。それなのに、最近の陽斗はこう言って嫌がるようになったのだ。「ママの料理って、いつも同じようなものばかり。ハンバーガーが食べたい!」あの時、てっきり彰吾が会社でデリバリーでも頼んで食べさせたのだと思って、「ああいうのは栄養のバランスが良くないから。ママの料理は栄養満点よ」と注意した。すると彰吾は、鼻で笑ってこう遮ったのだ。「でも陽斗はそれ嫌いだろ。せっかく作っても無駄じゃないか。最近は料理までまともにできなくなったのか?」何気ない皮肉だった。けれど、その一言は容赦なく胸に突き刺さる。ふと、どうしようもない疲労感に襲われる。この結婚生活は、もうどこから修復すればいいのか分
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第6話

電話が切れて、頭の中が真っ白になる。車のキーをひったくるようにして家を飛び出したものの、思考は完全に混乱している。彰吾は詳しい状況を説明しないまま、スマホのバッテリーが切れたらしく、一方的に通話が途絶えてしまった。何度も陽斗のキッズ携帯にメッセージを送ったが、何の反応もない。当てもなくマンションの周辺をあちこち探し回ったが、手がかりはまったくない。今はただ、彰吾から早く連絡が来るのを祈るしかない。陽斗のクラスメイトの親や担任の先生にも連絡を入れた。車を走らせて、陽斗とよく行く公園や通りをくまなく探し回ったが、それでも見つからない。彰吾の電話はいくらかけても繋がらない。絶望に打ちひしがれて、ハンドルを握る手は震え、額から流れ落ちた汗がぽたぽたと膝に落ちる。だがそのとき、不意にある考えが頭をよぎった。まるで何かに導かれるように、絵奈のSNSを開く。数時間前、彼女は都心の繁華街でショッピングをしている写真を投稿していた。冷や汗を流しながら車を走らせて、あるレストランの大きな窓際に座る絵奈と陽斗の姿を見つけた瞬間、一度は安堵で胸をなでおろしたものの、直後にどす黒く複雑な感情が押し寄せてくる。なぜなら、彼女の隣には、満面の笑みを浮かべて座っている彰吾の姿がはっきりと見えたからだ。ふらつく足取りでレストランの入り口に向かって、店員を捕まえると、引きつる笑顔で尋ねる。「すみません、あの窓際の席のお客さん……いつ頃いらっしゃいましたか?」店員はいぶかしげに私を見たが、それでも答えてくれた。「そうですね、もう3、4時間はいらっしゃるかと」最後の望みが、無残にも断ち切られた。呼吸が乱れて、息を吸うたびに鋭い痛みが走る。彰吾が私にあの電話をかけてきたのは、まさに4時間前のことだ。沸き上がる感情を必死に押し殺して、私は彼らの隣のテーブルに腰を下ろした。薄い装飾用のパーティション越しに、彰吾の声が恐ろしいほどはっきりと聞こえてくる。「陽斗、ご飯も食べたし、話をよく聞いて。今回は陽斗が悪い。黙って絵奈についていくなんて。パパがどれだけ心配したか分かるか?」絵奈の甘ったるい声が響く。「私も悪かったの。陽斗くんが車の後部座席に潜り込んでたのに気づかなくて。でも、すぐに彰吾さんに連絡したじゃない。きっと陽斗くん、この2日間誰も構って
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第7話

陽斗のことを思うと、結局その場で修羅場にすることはできなかった。歯を食いしばって、ふらつく体を支えながら車に戻ると、絵奈の動画によく登場するあのマンションへと車を走らせる。彼女は自分の家だと言い張っているが、実際は陽斗が生まれた時に彰吾が買った物件だ。市内で有数の進学校に近く、あの時彼は陽斗を抱き上げて、笑ってこう言っていた。「陽斗が高校生になったら、ここに引っ越そう。俺たち家族三人、誰一人欠けちゃダメなんだ」陽斗はケラケラと笑っていた。眩しい日差しのせいだったのか、私は本当に、私たち家族三人の幸せがこの先もずっと続いていくのだと信じていた。しかし今、電子錠は開かない。その事実が、容赦なく現実を突きつけてくる。震える手でスペアキーを取り出して、ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、所狭しと飾られた見慣れない、そしてやけに目に刺さるインテリアだ。かつて、彰吾と私には小さな夢があった。内装はシンプルにしておいて、家具は陽斗がもう少し大きくなってから、彼自身に選ばせようと計画していたのだ。だが今はどうだろう。壁紙も床もピンク色に張り替えられ、ソファにはキャラクターのぬいぐるみが山のように積まれ、壁には一面に写真が飾られている。一枚一枚見ていくと、そのほとんどが絵奈の写真だが、彰吾とのツーショットも少なくない。さらには、彼女が陽斗を抱いて、彰吾が彼女の肩を抱いている写真まである。どこからどう見ても、幸せそうな家族三人だ。突然、たまらなく滑稽に思えてきた。とっくに粉々に壊れきった家を一人で守って、誰にも認められない専業主婦として、一人芝居を演じ続けてきた自分が。人の暮らしの気配に満ちていて、私のあの冷え切った家よりもよっぽど温もりがある。後ずさりして立ち去ろうとしたそのとき、玄関の電子音が鳴った。次の瞬間、陽斗の驚く声に、我に返る。「ママ!なんでここにいるの?」三人は一様に慌てて後ろめたそうな顔をしているが、さすがは彰吾だ。修羅場には慣れているのだろう。ましてや相手は、今まで自分の言葉を絶対だと思って従ってきたこの私だ。彼はすぐさま二歩前に出ると、私の腕を掴んで問い詰める。「俺がこんだけ陽斗を探し回ってたのに、お前はこんな所で何やってる!」まるで他人のように冷たいその目を見つめる。そこには愛など微塵もなく
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第8話

彰吾のことは誰よりもよく分かっている。彼は間違いなくこう思っているはずだ。私のような気の弱い女が離婚を口にするだけでも精一杯で、本気で離婚を押し通す度胸などあるはずがない、と。だから彼は、陽斗と一緒に家に帰ってこなかった。ただ陽斗からは、私が荷物をまとめて、遠く離れた街へ降り立ったとき、一通のメッセージが届いていた。【ママの作った海鮮雑炊が食べたい】陽斗は海鮮の生臭さが苦手で、鼻が利くため少しでも匂いがあると口にしない。けれど、私が煮込んだ海鮮雑炊だけは別で、いつも大きな器でペロリと平らげていた。こんなメッセージを送ってくるのは、私の方から折れるきっかけを作ろうとしているのだ。その辺りは彰吾にそっくりだ。絶対に自分の非を認めようとせず、機嫌を損ねても、少し経てば私の袖を引っ張って食べたいものをリクエストしてくる。以前の私なら、きっとすぐにほだされて、「ママが悪かったわ」と彼を抱きしめていただろう。心が痛まないはずがない。早産で生まれて、体も弱かった陽斗を、それこそ「目に入れても痛くない」ほど大切に、腫れ物に触るように育ててきたのだから。彰吾が家に帰ってこない夜が続くたび、「パパは何してるの?」と見上げてくる彼に、笑顔でこう言い聞かせてきた。「パパはね、陽斗にもっといい暮らしをさせてあげるために、一生懸命お仕事でお金を稼いでくれてるのよ」しかしその結果、パパは彼の中で絶対的なヒーローになった。食べ物や遊びを制限してくるママ。ハンバーガーやタピオカの美味しさを知ってしまった彼は、父親そっくりに眉をひそめて言うようになった。「ママ、うるさいな。他にやることないの?」今、彼の望み通りになった。もう彼の口出しはしない。スマホの電源を切って、大家さんに笑顔でお礼を言って、新しい自分の部屋を見渡す。家のテーブルには離婚協議書を置いてきた。新しい生活の拠点を整えてから、じっくりと離婚問題に決着をつけるつもりだ。案の定、彰吾は私が本気だとは信じておらず、こんなメッセージを送ってくる。【気が済んだら自分から帰ってこい。いつまで意地を張るつもりだ】彼にしてみれば、結婚して7年、子供もここまで大きくなったのだから、少し騒いだところで結局は元の生活に戻るしかないと高を括っている。自分と絵奈はただのビジネス関係で、大した問
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第9話

扉を開けると、陽斗が目を丸くして私を見つめている。少し濡れたまつ毛を震わせながら、唇を尖らせているが、何も言わない。気づかないふりをして彼の横を通り過ぎる。あと1秒でも長く見つめていたら、決心が揺らいでしまいそうだ。「ママ!」本当に私が何の反応も示さないと分かると、焦ったように声を上げる。しかし彰吾は彼に向かって怒鳴りつける。「お前の母親はもうお前を構う気なんてないんだよ!さっさと部屋に戻れ」陽斗はしゃくりあげながら、素直に自分の部屋へ戻っていく。それでも、その視線はずっと私を追いかけている。胸の奥に湧き上がる心配をぐっと押し殺して、口を開く。「サインして。明日、役所へ提出するから」彰吾は顔を上げて、私を射抜くように睨みつける。私の強がりを見抜こうとしているかのようだが、残念だ。今の私の瞳は、かつてないほど揺るぎないのだから。彼は嘲るような笑みを浮かべる。「お前がここまで冷たい女だったとはな。離婚だって?いいだろう、望み通りにしてやる。陽斗は俺が引き取る。後悔するなよ!」憎々しげに歯を食いしばりながらも、彼はあくまで平然を装って離婚届に署名した。1秒たりともここに長居する気は起きず、署名された離婚届に目を落としながら、淡々と言い放つ。「お忙しい社長さんも、離婚届にサインする暇があったのね。ああ、そうか。離婚だもの、絵奈もあんたの足は引っ張らないわよね」彼の瞳から屈辱と怒りが噴き出しそうになるが、それでも歯の隙間から絞り出すように言葉を吐き捨てる。「絶対に後悔させてやる!」立ち上がってこの家を出ようとした瞬間、隣の部屋から陽斗が飛び出してきた。「ママ!ママ、行かないで!」目を真っ赤に腫らして、私のスカートの裾を必死に握りしめる。「離婚したら、僕、ママがいなくなっちゃうの?」足がすくむ。かすれる声で答える。「そうよ。でも、陽斗には絵奈がいるじゃない」彼はビクッと硬直したかと思うと、次の瞬間、堰を切ったように泣き叫ぶ。「嫌だ!ママがいい!絵奈ちゃんがいてもママがいなくなるなら、そんなのイヤだ!やっぱりママがいい!」ほらね。子供というのは誰よりも愛に敏感だ。本当は誰が自分を一番大切にしてくれているか、ちゃんと分かっているのだ。だけど同時に、子供は欲張りなのだ。一時的な新鮮さに惹かれながらも、すでに手
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第10話

翌日、役所へ離婚届を提出しに行った。職員は内容を確認し、ほどなくして受理されたことを告げる。役所を出て、数歩歩いたところで、外で待っていた彰吾の姿が目に飛び込んでくる。彼の姿を見ると、ふっと笑った。「もしかして、後悔でもした?」彼は図星を突かれたように声を荒げる。「まさか!そっちこそ後悔して泣きついてくるなよ!」口では強がっているくせに、目は決して私と合わそうとしない。もう彼と関わるつもりはない。背を向けてその場を離れようとしたが、彼はついてくる。やがて彰吾は、うつろな声で問いかけてきた。「本当に終わりなのか?陽斗もいらないっていうのか?」彼の顔から怒りや嫌悪感が少しずつ消えていく。子供のような無防備な表情が露わになる。その瞳には、深い戸惑いと途方に暮れた色が浮かんでいる。彼は今になってようやく気付いたのだ。私が冗談を言っているわけでも、ただ意地を張っているわけでもないということに。私は思わず笑う。心底から、せいせいした気分だ。「ええ。あんたたち、二人とももういらないわ」未練などはない。彼に一瞥もくれずにその場を立ち去る。タクシーに乗り込んで、ふと遠くを振り返ると、彼はまるで固まった石像のように、まだ役所の入り口に立っている。新しい家に戻ると、採用通知が届いていた。新しい仕事は、幼稚園の栄養士だ。私の希望にぴったり合っていて、園長からは来週から出勤するようにと連絡があった。ぼんやりと、陽斗を産む前に働いていた頃の日々を思い出す。あの頃は朝から晩まで仕事漬けで、オフィスでは誰よりも必死に働いていた。当然昇進も早く、それなりの給料ももらっていた。周りからは頑張りすぎだと心配されたが、私はその忙しさを楽しんでいた。それは彰吾の起業を支えるためだけでなく、私自身の人生の価値を感じさせてくれたからだ。だけどその後、彰吾に「もう働かなくていい」と言われて、専業主婦になった。毎日陽斗に付きっきりで、一日のうちで一番頭を悩ませるのは「今日のご飯は何にするか」ということだけ。もともと陽斗は薄味のものしか食べられない。来る日も来る日も同じようなメニューでは、外の刺激的な味を知ってしまえば、当然飽きが来る。でも今にして思えば、飽きられたのは料理じゃない。退屈で、つまらなくて、都合よく動くだけの私自身だったのかもしれない。朝か
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