Se connecter私・江口美月の夫――桐谷彰吾は、インフルエンサーの森本絵奈と専属契約を結んだ。 彼女はセレブ妻のキャラクターを売りにして、夫婦間の親密さを匂わせる投稿をSNSにアップしているが、彼女が住んでいるあの高級マンションは、彰吾が私のために買ってくれたものだ。 そのことを問いただしても、「ただの演出だろ。いちいち目くじらを立てるな」と、彰吾は面倒くさそうに吐き捨てるだけだ。 胸に湧き上がる疑念を、無理やり押し殺した。 息子の桐谷陽斗がひどい風邪をこじらせて、私は何日も徹夜で看病を続けた。そんなある日、疲労のあまり倒れ込んだとき、陽斗と彰吾のひそひそ話が聞こえてきた。 「パパ、今回は僕が仮病を使ってあげたから、パパと絵奈ちゃん、一緒にいられたんだよ。ママ、すっかり騙されてるね。 今度はパパの番だよ。ママに内緒で、僕も絵奈ちゃんと一緒に住みたい!」
Voir plus朝の光が差し込む頃、まどかの朝食を用意し、担任の先生に代わって教室へ届ける。教室の入り口に差しかかると、まどかがすぐに私を見つけて、子猫のようにすり寄りながら足元に抱きついてくる。「江口先生、今日の朝ご飯はなあに?」幼い声で尋ねる姿に、思わず心が温かくなる。笑顔で答えようとしたその瞬間、小さな影が突然飛び出してきて、まどかを激しく突き飛ばした。床に尻もちをついた彼女を見て、慌てて叱りつけようとした言葉が喉に詰まる。「ママ、別の子ができたから、陽斗のことがいらなくなっちゃったの!?」突き飛ばしたのは、陽斗だ。彼は声を上げて泣き叫んで、大粒の涙をぽろぽろとこぼしている。私は表情を険しくした。「そんな乱暴なことをするように教えた覚えはないわ。今、自分が何を言うべきか分かる?」陽斗はしゃくり上げながらも、渋々といった様子で不満げに口を開いた。「……ごめんなさい。突き飛ばしちゃって、僕が悪かったよ」まどかはスカートの汚れを払うと、ふんと鼻を鳴らして、呆れたように呟く。「男のくせにメソメソして、かっこ悪い」そして、私を振り返って尋ねる。「どうして先生のことをママって呼ぶの?江口先生の子どもなの?」陽斗がじっと私を見つめる中、小さくため息をついて、柔らかな笑みを浮かべて答える。「そうなの。でもね、私たちはもう離れて暮らしているから、この子も、そのうち新しいお母さんと暮らすことになるかもしれないわ」子どもにとっては残酷な言葉だと分かっていても、あえて突き放すように告げた。この子はもう、すべてを理解できる年齢なのだから。かつて、何度も「絵奈をママにしたい」と騒いでいた彼にとって、今の状況は受け入れざるを得ない現実のはずだ。まどかは再び私の足に抱きついて、熱心に話し出す。「じゃあ、江口先生がまどかのママになって!まどか、ママがいないの……」この子の母親が早くに亡くなっていることを知っていた私は、愛おしさを込めてその頭を撫でる。「『ママ』ってね、簡単に決めていい言葉じゃないの。そこには一番真っ直ぐで無償の愛が必要だし、その愛はお互いのものでなくちゃいけないのよ」まどかは顔を上げて、分かったような分からないような顔で頷いた。「うん!じゃあ、まどか、江口先生のことをいっぱーい大好きになる!誰よりも大好きになったら、ママっ
前回の電話でもう、彰吾が私を頼ってくることはないと思っていた。けれど今朝、幼稚園に出勤すると、思いがけず、見慣れた姿が目に飛び込んできた。校門の前に立っていたのは、真新しい幼稚園の制服に身を包んだ陽斗だ。彼は不安げな表情で、隣にいる彰吾を見上げている。「ママ、僕のこともういらないの?」そう呟いた直後、遠くに私の姿を見つけると、小さな顔をくしゃくしゃにして、ポロポロと涙をこぼし始める。「ママ!」駆け寄ろうとしたものの、私から1メートルほど離れたところでピタリと足を止める。まるで私に嫌われるのを怖がるように、おずおずと顔色をうかがう。陽斗には目もくれず、彰吾の前まで歩み寄る。「どういうつもり?」眉をひそめて問い詰める。彰吾の笑顔にはどこかご機嫌取りのような色が混じっていて、言葉を選ぶように慎重に口を開く。「陽斗がお前に会いたいって……だから、ここの幼稚園に転園させたんだ」「もう離婚したんだから、これ以上、かかわらないで」容赦なく言い放つと、彰吾の顔からさっと血の気が引いた。「美月、陽斗には母親が必要なんだ。俺だって……お前がいなきゃダメなんだ……」彰吾は目元を赤くして、何度も言葉を詰まらせる。「絵奈のことは、俺が悪かった。あいつはもうクビにしたし、SNSのアカウントでもきちんと声明文を出した。だから、許してくれないか?美月がいない間、俺も陽斗もずっと寂しかった。もう一度やり直そう。これからちゃんと家族としてやっていくから、な?」いつもの見下すような態度も、苛立ちも、今はすっかり影を潜めている。充血した目を細めて、無理に笑みを作りながら、震える声で必死に哀願してくる。「ママ、ごめんなさい……僕、いい子にするから。変なもの食べないし、勝手にどこか行ったりしないから……」陽斗も息が詰まりそうなほど泣きじゃくりながら、私の服の裾を死に物狂いで掴んで離さない。目の前にいる彰吾の顔には濃い隈ができて、顔色は青白い。いつもなら一糸乱れぬはずのシャツにはシワが寄って、ネクタイもだらしなく曲がっている。そのとき、ふと気づく。彼がこんなに惨めな姿を晒すのは、ずいぶん久しぶりのことだ。そしておそらく、こうなって初めて、自分には私が必要なのだと思い知ったのだろう。結婚する前は、彼もよく料理をしてくれた。お金がなかった頃、近
新しく始めた幼稚園での仕事はとても楽で、時々子どもたちにお手製のスイーツを振る舞うこともある。そうこうしているうちに、子どもたちはすっかり新任のこのきれいな先生に懐いてくれた。園長先生から直々に、ある特別な事情を持つ女の子のために、個別の食事を用意してほしいと頼まれたりもした。見ると、園長の椅子の後ろからふわふわの頭が覗いている。制服を着て、おさげ髪にした女の子が、大きな目をぱちぱちと瞬かせている。「江口先生が作ったクッキー、もっと食べてもいい?」初対面のとき、彼女はおずおずとそう口にした。女の子の名前はまどか。陽斗と同じく胃腸が弱いうえに好き嫌いが激しい。以前は家からお弁当を持参していたらしいが、たまたま私の作ったお菓子を口にして以来、すっかり私に懐いてしまったのだ。その期待に満ちた眼差しで見つめられると、つい心が揺らいでしまう。それ以来、彼女は何かとこっそり抜け出しては私にべったりとくっつくようになった。幼稚園で働き始めて一週間、子どもたちの賑やかな声に包まれながら過ごす毎日は、まるでぽかぽかとした陽だまりの中にいるようだ。過去の記憶などすっかり忘れかけていたある夜、突然、彰吾から電話がかかってきた。電話越しの彰吾は珍しく取り乱して、声を震わせながら焦りと困惑を隠せずにいる。「美月、陽斗がひどい胃痛で、一晩中吐いてるんだ。戻ってきてくれないか。お前の作った雑炊が食べたいって……」前半の言葉を聞いた瞬間、条件反射のように飛び起きて、母親としての本能が不安を掻き立てる。電話の向こうから、陽斗のうわ言がはっきりと聞こえてくる。何度も「ママ」と呼ぶその声が、鎖のように私の心を締めつける。「ママ、行かないで……」彰吾がスマホを陽斗の枕元に置いたのだろう、病院特有の騒がしい背景音までが耳に流れ込んでくる。彼の声は疲労に満ちて、どこか弱り切ったような哀願の色が滲んでいる。「美月、陽斗はまだ小さいんだ。本当に見捨てるつもりか?」私は、見捨てることができるのか?思考が停止する。しかし、真っ暗な部屋と、スマホの画面に表示された【2:37】という時刻を見つめているうちに、ふと目が覚める。「私たち、もう離婚したのよ。陽斗が病気なら医者に診てもらいなさい。雑炊の作り方は後で送るから。自分で作れないなら家政婦さんに
翌日、役所へ離婚届を提出しに行った。職員は内容を確認し、ほどなくして受理されたことを告げる。役所を出て、数歩歩いたところで、外で待っていた彰吾の姿が目に飛び込んでくる。彼の姿を見ると、ふっと笑った。「もしかして、後悔でもした?」彼は図星を突かれたように声を荒げる。「まさか!そっちこそ後悔して泣きついてくるなよ!」口では強がっているくせに、目は決して私と合わそうとしない。もう彼と関わるつもりはない。背を向けてその場を離れようとしたが、彼はついてくる。やがて彰吾は、うつろな声で問いかけてきた。「本当に終わりなのか?陽斗もいらないっていうのか?」彼の顔から怒りや嫌悪感が少しずつ消えていく。子供のような無防備な表情が露わになる。その瞳には、深い戸惑いと途方に暮れた色が浮かんでいる。彼は今になってようやく気付いたのだ。私が冗談を言っているわけでも、ただ意地を張っているわけでもないということに。私は思わず笑う。心底から、せいせいした気分だ。「ええ。あんたたち、二人とももういらないわ」未練などはない。彼に一瞥もくれずにその場を立ち去る。タクシーに乗り込んで、ふと遠くを振り返ると、彼はまるで固まった石像のように、まだ役所の入り口に立っている。新しい家に戻ると、採用通知が届いていた。新しい仕事は、幼稚園の栄養士だ。私の希望にぴったり合っていて、園長からは来週から出勤するようにと連絡があった。ぼんやりと、陽斗を産む前に働いていた頃の日々を思い出す。あの頃は朝から晩まで仕事漬けで、オフィスでは誰よりも必死に働いていた。当然昇進も早く、それなりの給料ももらっていた。周りからは頑張りすぎだと心配されたが、私はその忙しさを楽しんでいた。それは彰吾の起業を支えるためだけでなく、私自身の人生の価値を感じさせてくれたからだ。だけどその後、彰吾に「もう働かなくていい」と言われて、専業主婦になった。毎日陽斗に付きっきりで、一日のうちで一番頭を悩ませるのは「今日のご飯は何にするか」ということだけ。もともと陽斗は薄味のものしか食べられない。来る日も来る日も同じようなメニューでは、外の刺激的な味を知ってしまえば、当然飽きが来る。でも今にして思えば、飽きられたのは料理じゃない。退屈で、つまらなくて、都合よく動くだけの私自身だったのかもしれない。朝か
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