All Chapters of 結婚5周年記念日、専業主夫の僕は離婚を決めた: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

僕・浅倉蓮(あさくら れん)は3年という長い時間をかけて、浅倉凛(あさくら りん)という高嶺の花を振り向かせた。彼女を妻に迎えるため、築き上げてきたキャリアをすべて手放し、自ら望んで専業主夫になった。「子どもを産むのは痛そうで怖い」そんな彼女の一言だけで、僕は翌日には病院へ行き、パイプカット手術まで受けた。僕たちがこの先もずっと寄り添い、白髪になるまで幸せに暮らしていくのだと、周囲の誰もが疑わなかった。でも、結婚5周年の記念日、僕は離婚することを決めた。離婚の手続きを任せる相手は、親友であり弁護士でもある桐生拓海(きりゅう たくみ)。彼が僕に何度も確認してくる。「本気か?凛と結婚するために、あの有名なファッション誌のオファーまであっさり断ったお前が、今さら離婚したいなんて」胸を締めつける痛みを押し殺しながら、僕は静かに答えた。「離婚協議書を作ってほしいんだ。それも、できるだけ早く……」「どうしてだよ?!」拓海は理解できないみたい。僕はダイニングテーブルの上に置かれた黒百合の花束へ視線を向け、長い沈黙の末、静かに口を開く。「たったひとつの花束……それが理由なんだ」今日、花束を受け取った時は本当に嬉しかった。ようやく凛も僕のことを考えてくれるようになって、結婚記念日のサプライズを用意してくれたんだ――そう思ったから。けれど、花束に添えられたメッセージカードを開いた瞬間、僕の笑みはそのまま凍りついた。【先生、わざわざ遠方から駆けつけて、叔母のために手術をしてくださり、本当にありがとうございました。家族一同、心から感謝しています。この花は、先生のために僕が選びました。『僕たち』にぴったりだと思ったので、気に入っていただけたら嬉しいです――悠】手が震え、花束がそのまま床に落ちる。3年前、父が重い病気で倒れた。医者からは一刻を争うと言われた。だが、地元の病院では医療技術が十分ではなく、かといって父の容体では長距離の転院にも耐えられない。だから僕は、凛に故郷まで来て父の手術をしてほしいと頼み込んだ。あの時、彼女は何と言ったか?「病院の規則で、他院への出張手術は禁止されているの。仕事は仕事。個人的な事情でルールを破るわけにはいかないから」その結果、父は転院先へ向かう救急車の中で息を引き取った。
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第2話

電話を切るとすぐに、レストランのマネージャーの声が聞こえてきた。「浅倉様、ご予約のお席へご案内いたしますね。どうぞこちらへ」「浅倉様」という名前に、僕ははっと声のした方へと視線を向けた。凛だ。彼女の隣には、悠の姿もある。肩を並べて歩く二人。白シャツの袖をまくり上げている凛のその表情には、疲れが滲んでいる。彼女の隣を歩く悠が何か面白いことでも言ったのか、凛が笑った。その光景を見た瞬間、僕は胸の奥に鉛のような重たい何かが詰まった気がした。以前、凛が仕事から帰ってくると、僕は決まって彼女をつかまえて、その日にあった出来事を夢中で話していた。しかし、彼女はいつも興味なさそうで、相槌一つ打つことすら稀だった。それでも僕は、仕事で疲れているんだから、仕方ない。返事をする気力も残っていないだけなんだ、と自分に言い聞かせていた。けれど今は分かる。彼女は疲れていても、ちゃんと笑えるのだ。ただ、僕にはそうしないというだけで……「浅倉さん?」どうやら悠が僕に気づいたようで、わざとらしい笑顔で歩み寄ってきた。「なんでこんなところに一人でいるんですか?」僕は何も答えない。それでも、彼が勝手に喋り始めた。「今日、大きな事故があって、怪我人がたくさん搬送されてきたんです。昼からずっと忙しくて、今さっきやっと最後のオペが終わって、もう空腹で倒れそうだったんです。そうしたら、先生が突然このレストランのことを思い出して、ここには旦那さんの好きなタラのソテーがあるからって、僕を連れてきてくれました。あなたの分もテイクアウトするって言ってたんですから」言い終えると、彼は凛に視線を向け可愛らしく笑う。「先生って本当に旦那さんのことが大好きですよね。いつもあなたのことばっかり考えてるんですから。本当、羨ましいです。僕にもそんな素敵な妻が欲しいですよ」僕のことが大好き?本当に僕のことが好きなら、今日が二人の結婚記念日だということを忘れるだろうか?本当に僕のことを想ってくれているのなら、夜中に男とこんなにも雰囲気のいいレストランに食事に来たりするのだろうか?本当に彼女の心に僕がいるのなら、なぜ僕の父の命を見捨てたんだ?他の男の親戚のためなら、いくら遠くともすぐに駆けつけて行ったというのに……僕は悠を
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第3話

その夜、僕は眠らずに黙々と荷造りをしていた。何かしていないと、胸の奥に開いた虚ろな痛みに押しつぶされそうだったから。夜が明ける頃、僕は押し入れの奥から埃を被っていたカメラ機材を引っ張り出した。電源を入れると、液晶画面に明かりが灯る。その瞬間、鼻の奥がツンと熱くなった。よかった。まだ壊れていない。今からでも遅くないんだ。カメラを抱えてリビングに戻ると、携帯が鳴った。不動産屋からだった。「浅倉様、先週奥様とご覧になった物件ですが、大家さんとの話がまとまりましたので、来週末にでも契約は可能ですよ」僕は手を止めた。すっかり忘れていた。少し前、凛が昇進して彼女の給料が上がった。すると、今のマンションは狭いから、もっと広いところに引っ越そうと彼女が言い出したのだった。提案したのは彼女だ。しかし内見も物件探しも、不動産屋への連絡や間取りの検討、ローン計算……最初から最後まで、すべて僕一人でこなしてきた。彼女が一緒に内見へ来てくれたのは一度きり。その日、僕は嬉しくて、寝室になる場所を見ては、どんなインテリアがいいかなどと夢中で尋ねた。だが彼女は携帯を見つめたまま、興味なさそうな様子でこう答えた。「いいんじゃない。あなたに任せるよ」その時、僕にははっきりと見えていた。彼女のラインの画面に光る、悠のアイコンが……結局、何部屋か見ただけで、彼女は悠に呼び出されて帰ってしまった。そのことを思い出し、僕は淡々とした口調で答えた。「あの家、やっぱり結構ですので」「えっ?どうしたんですか?奥様もかなりお気に召していたようですが……」手の中のカメラを見つめながら、僕は冷たく笑った。「離婚するんです」電話の向こうが静まり返った。僕はそのまま電話を切る。荷造りを終えた頃には、もう昼近くになっていた。離婚協議書と離婚届を鞄に押し込み、車で病院へ向かう。5年間の結婚生活。それも、この薄っぺらい紙一枚で片付いてしまうらしい。あまりにも軽すぎて、なんだか笑えてきた。昼休憩の時間なので、凛はおそらく彼女の事務室にいるだろう。僕はそのまま事務室のドアをノックした。しかし、中から出てきたのは悠だった。彼が驚いた表情を浮かべる。「浅倉さん?」僕は部屋の中を覗き込み、凛がどこにいるのか確認しよ
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第4話

僕は、指の関節が白くなるほど診断書を強く握りしめた。――どうして、パイプカットなんてしたんだろう。そんなの、もちろん凛のためだった。仕事に人生を懸けていた彼女は、「妊娠で人生を犠牲にしたくない」と、かたくなに子供を持たない選択をしていた。僕は彼女を大切に思っていたから、子供は欲しかったけれどそれを受け入れた。だから結婚してからも、ずっと避妊用具を使い続けていた。でもつい先日、凛があるネット記事を目にした。それはある子供を持たない夫婦についての記事で、夫は中年になってから子どもが欲しくなって後悔したが、その頃には妻はもう出産できる体ではなくなっていた。結局、夫は外で愛人をつくり、その女性との間に子どもをもうけたという。その記事を読んだ凛は、不安そうにしていた。だから僕は凛を安心させるために、周囲の反対を押し切って、翌日には病院へ行ってパイプカットの手術を受けた。結婚5周年記念日にそのことを伝えて、もう二度と心配しなくていいと安心させるつもりだったのに。でもまさか、その機会さえ彼女に奪われるなんて……だが幸いなことに、看護師の話によれば、パイプカットの手術からそんなに時間が経過していないため、再建手術をすれば生殖機能は回復するらしい。再建手術を受けるか迷っていたその時、病室のドアが勢いよく開いた。昼間に悠に預けた書類ケースを手に、顔を強張らせた凛が入ってきた。次の瞬間、その書類ケースが僕に投げつけられる。彼女は眉間にしわを寄せながら僕に言った。「サインはしておいたから。家の購入なんてプライベートなこと、二度と病院に持ってこないで。滝沢さんに見られたら、どう思われるか」僕は思わず笑い出しそうになった。凛はそれが、住宅の契約書だと思い込んでいるらしい。どうやら中身も見ず、サインをしたようだ。それならそれでちょうどいい。無駄な言い争いをしなくて済んだ。離婚協議書と離婚届を鞄に入れると、僕はずっと重くのしかかっていた何かが胸から離れるのを感じた。僕が無言でいると、凛の表情が少し緩んだ。「とにかくあなたは休んで。私は仕事に戻るから」彼女の顔を見ていたら、こう聞かずにはいられなかった。「ねえ、凛。僕がどうして病院にいるのか、気にならないの?」彼女は少し呆気に取られた後、淡々と
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第5話

手術は明日の午前中に決まった。僕はまず家に一度戻った。夕焼けの中で、ベランダの花が綺麗に咲いている。クチナシ、バラ、サボテン、アジサイ。どれもこの数年、僕が一鉢ずつ大切に育ててきたものだ。凛はいつも忙しく、僕の相手をしてくれなかったから、僕は花に想いを寄せていた。僕がいなくなれば、誰も世話をしてくれない。でも、この花たちが枯れてしまうのは残念だ。写真を撮って地元の掲示板に投稿する。【引越しのため、花を無料でお譲りします。早い者勝ちでどうぞ】近所の人たちが協力してくれて、30分も経たないうちにテラスの鉢は半分以上なくなった。それから最後のアジサイを渡し、空っぽになったテラスで僕は立ち尽くす。手放すことは、案外難しくないものだった。部屋の中に戻り、ウォークインクローゼットに向かった。ガラスケースには、腕時計がたくさんかかっている。ほとんどが凛からの贈り物。凛がプレゼントを贈ってくれるたびに、僕は心から嬉しかった。しかし今見ると、プレゼントを渡すときの彼女のどこか面倒くさそうな表情や、同じモデルを二度も贈ってきたことを思い出した……なんて滑稽なのだろう。僕が愛していたのは、凛本人じゃない。自分の都合のいいように思い描き、美化し続けていた「理想の凛」だった。その幻想が砕け散った今になってようやく気づく。こんなにも心を捧げる価値なんて、最初からなかったのだ。時計の写真を撮り、フリマアプリにアップロードする。一晩で7、8本売れた。溢れんばかりに入っていたケースが、あっという間に寂しくなっていく。僕の心と同じように。夜の10時、玄関から鍵を開ける音がした。凛が帰ってきた。額の皮が剥け、顔には青あざ。右腕には厚い包帯まで巻かれている。そして彼女を支えていたのは、悠だった。彼は泣いた後なのか、目を赤くしている。「今日患者さんの家族が騒ぎを起こして……先生は僕をかばって怪我をしたんです。ちゃんと看病してあげてください」僕は彼をちらりと見て、静かに言った。「そんなに心配なら、あなたが残って看病でもしますか?」悠は顔を赤らめ、口ごもった。「そういう意味では……僕と先生はただの同僚ですから」凛の表情が曇る。「蓮、そんな言い方はやめて」僕は少し困惑した。「僕、何か言った?」
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第6話

悠の顔を見て、僕は体が強張った。「看護師を代えてほしいです」そう言って僕が起き上がろうとすると、医師に押し戻された。「何を言ってるんですか?滝沢看護師長は当科で一番優秀なんですから。彼を指名する患者さんはたくさんいるのに、今回は彼自ら来てくれたんです。ご自身の運の良さに感謝しないと」僕は反論したかったが、麻酔科医がもうすでにそばに来ていた。「力を抜いてください。目を覚ます頃には終わっていますよ」冷たい液体が血管に流れ込んできて、意識が遠のく。最後に見た光景は、手術灯の下で冷ややかな目を僕に向けている悠だった。どれほど時間が経ったのだろうか、僕は痛みで目を覚ました。下腹部が鈍い刃物で何度も抉られているように痛み、呼吸をするたびに傷口が引きつる。目を開けると病室はひっそりとしていて、悠が看護記録を書いていた。「少し……痛いのですが……」悠が近づいてきて僕を一瞥すると、静かな声で言った。「正常な反応です。術後は誰でもそうなりますから、少し休んでいれば良くなりますよ」そう言うと、彼はまた記録を続ける。しかし痛みは強くなる一方で、呼吸さえままならない。モニターも鋭いアラーム音を鳴らし始めた。僕は何とか腕を伸ばす。「助けて……」顔を上げた悠が、眉をひそめた。「大丈夫ですから。術後は体が弱っているだけなので、しばらく様子を見ましょう」そして、悠は背を向けて出て行ってしまった。意識がどんどん混濁していく。朦朧とする意識の中、誰かが駆け込んできた。「蓮!」拓海だった。しかし僕は話すこともできなかったため、ただ彼の手を強く掴んだ。シーツを一目見た拓海が、声を張り上げる。「先生!早く誰かきてくれ!出血してる!」病室が途端に慌ただしくなった。「血圧が低下しています!」「止血を急いで!」「輸血の準備を!」耳につく足音と器具のぶつかる音。そして僕は完全に意識を失った。次に目を開けた時、外はもう夕暮れ時だった。病室には僕しかいない。すると、ドアの外から怒号が聞こえてきた。「これでも問題なかったっていうのか?」拓海の声だ。彼がここまで怒る姿を僕は見たことがない。「手術後にこれだけ出血しているんだぞ!もし俺がきていなかったら、命に関わっていたかもしれない。ここの病院
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第7話

僕は落ち着いて電話に出た。受話器の向こうから、凛の不愉快そうな声が聞こえる。「蓮、どこに行ってるの?」「僕がどこに行けるっていうの?」僕は淡々と言い返した。「今日、ガス会社が点検に来たらしいんだけど」凛の声は相変わらず淡々としている。「家には誰もいないからって、私に連絡があった。あなた、どうして家にいないの?」なるほど。彼女が僕の変化に気づいてくれたのかと、一瞬だけ期待した。そんな無意味な期待を抱いた自分に対して、僕は苦笑いを浮かべる。「どうして家にいなきゃいけないの?」僕は凛に聞き返した。「僕は出かけちゃいけない?自分の生活を送っちゃ駄目?旅行に行っちゃ駄目なの?」凛の口調が一段と重くなった。「蓮、最近どうしたの?ご飯も作らない、家にもいない、何かにつけて不機嫌そうにして!今は勝手に一人で旅行?本当、何考えてるわけ?」窓の外の夕焼けを見ながら、僕は静かに呟いた。「僕は至って普通だよ。ただ、やっと目が覚めただけ」電話の向こうが、しんと静まり返った。しばらくして、凛が鼻で笑う。「そう。じゃあ、好きにすれば?あなたが家に帰らないなら、私も帰らないから。最後にどっちが泣きついてくるか、知らないけどね?」そこで電話が切れた。拓海は怒りで携帯を投げ飛ばしそうになった。「あの女、どうかしてるぞ!外科部長なんだから、普通蓮が入院してることくらいすぐわかるだろ?なのに少しも心配してないのかよ!」拓海はそう言うと、目を赤くした。「蓮、泣きたければ泣けばいい。我慢するなよ」僕は長い沈黙のあと、小さく首を横に振った。「もう泣けないよ」男はやたらめったら涙を流すものじゃない。それに、価値のない人のために泣くなんて、僕のプライドが許さない。3日後、回復した僕は退院手続きを済ませ、荷物を取りに自宅へと戻った。ドアを開けた僕は、思わず足を止めた。なんと、凛が家にいたのだ。二人の視線がぶつかり、空気が数秒間、凍りつく。凛が先に口を開いた。「帰ってきたのね。今までどこで遊んでいたの?」返事をせず、僕はそのまま寝室に入り、引き出しを開け身分証を確認する。背後から凛の声が聞こえた。「大自然の中をドライブしたいって、ずっと言ってたよね?ちょうど家も決まったし、そろそろ車も
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第8話

夕暮れ時、凛は花束を抱えて花屋から出てきた。花束の中には、車のキーが隠してある。自分から折れるなんて、蓮を甘やかしすぎだろうか。でも、彼が喜ぶ顔を想像すると、自然と口元が緩む。家のドアを開けて、小さく彼の名前を呼んだ。「蓮」しかし、返事はない。あまりにも静かすぎる。部屋の中は空っぽで、人の気配がまったくないのだ。凛は眉をひそめて携帯を取り出し、蓮に電話をかけた。「おかけになった電話は現在……」胸の奥がずしりと沈む。ベランダへと続くドアを開けた。何もない。蓮が5年もの間、大切に育てていた花たちが一つも残っていなかった。空の植木棚がいくつも並び、ひどく冷たく感じられた。立ち尽くす凛の胸に、言いようのない不安が広がる。急いでウォークインクローゼットへと向かった。ドアを開けた瞬間、息をのんだ。蓮にプレゼントしたものが、すべて消えていたのだ。時計も、ネクタイも、服も、何ひとつない。青ざめた顔で、再び電話をかける。繋がらない。何度も、何度も繰り返す。それでもやはり繋がらない。間違いなく、着信拒否されている。不安がどんどんと大きくなり、息ができなくなるほど苦しい。「蓮……」その名前を小さく呼んで、足早に寝室へと向かった。しかし、そこからも蓮の痕跡は跡形もなく消え失せていた。まるで最初から、この生活に彼が存在しなかったかのように。ふと視界の端に、ベッドサイドに整然と並べられた書類が目に入った。胸の鼓動が速くなるのを感じながら、近づいていく。そこにあったのは【離婚届受理証明書】という大きな文字。息が止まる。震える手でその紙を手に取った。そこには、確かに公印が押されていた。すぐにその時のことを思い出した。あの日の病院で、悠に蓮が家の契約書を持ってきたと言われて渡された書類。中身も見ずに、自分はそのままサインした。それが、まさか離婚届だったなんて。離婚?蓮は自分と離婚するというのか?!頭の中が真っ白になる。その時、書類の下からもう一枚の紙が滑り落ちた。拾い上げて、視線を落とす。次の瞬間、体に電撃が走ったかのような衝撃を受けた。それは、パイプカットの手術同意書。凛の手が激しく震えだす。彼が自分のためにそん
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第9話

蓮が出て行った翌日、凛は病院に行かなかった。家のカーテンは固く閉められ、部屋の中は夜のように暗い。彼女は次々にアルコールを胃に流し込む。喉は焼けるように痛いのに、胸の中の怒りは冷めるどころかさらに燃え上がった。蓮があれほどきっぱりと離婚を決め、パイプカットの手術まで受けるなんて。なぜ一言の相談もなかった?自分は彼にとって何なのだ?この5年間の結婚生活は、何だったのだろう?その時、ドアが開く音がした。保温弁当箱を持って入ってきた悠だったが、荒れ果てた凛の様子を見て、その目に涙を浮かべる。「先生……」胸を痛めた悠は、凛に駆け寄った。「どうしてこんな……」しかし、ソファに深く座り込んだ凛は、悠を見ることさえしなかった。悠は凛の前にしゃがみ込み、保温弁当箱を開けた。「温かいものを作ってきました。少し食べてください」それでも凛は黙ったまま。だが悠の心には、密かな期待が膨らんでいた。蓮はいなくなった。いま凛のそばにいられるのは、自分だけなのだ。悠は凛の隣に座り、柔らかな声で語りかける。「先生、こんなふうに出ていくなんて、旦那さんはさすがにひどすぎますよ。先生はこの何年も、あの人のためにあれだけ尽くしてきたのに。それに、女性がここまでの地位を築くのに、どれほど苦労したかなんて、旦那さんは何一つ分かってないんですよ」しかし、凛は目を伏せているため、その表情は読み取れない。悠は大胆に言葉を続けた。「僕だったら、絶対に先生をこんな目に遭わせたりしません」すると、ようやく凛が顔を上げた。悠の期待が確信に変わり、彼の心臓を激しく高鳴らせる。彼は勇気を振り絞って切り出した。「先生、大学の頃からあなたのことがずっと好きでした。これまでずっと、ずっと好きだったんです。旦那さんがいなくても、僕がいます。これからは僕が、一生そばにいて支えますから」そう言って、悠は凛を抱きしめた。さらに、自分のシャツのボタンを外し、その胸筋を露わにしながら、力強く迫る。「先生……僕を見てください」凛はゆっくりとその視線を悠に向けた。しかし、その瞳に感情はなく、ぞっとするような冷たさが宿っていた。「あの日、蓮が病院であなたに預けた書類。中身を見たんでしょ?」悠の心臓がどきりと跳ね、その笑顔が引
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第10話

胸ぐらを掴まれている悠は、今にも泣きそうな顔で言葉を絞り出した。「先生、信じてください……僕は本当に、旦那さんを傷つけてなんていません……」その瞬間、凛の手が離れた。しかし、彼女の目には深い失望が浮かんでいる。「出て行って」悠は身を震わせた。「先生……」「出ていけって言ってるの!家の鍵の暗証番号はもう変える。次勝手に家に入ってきたら、警察に通報するからね」悠の顔からは血の気が引き、彼は傷ついた様子で立ち尽くしていた。しかし、凛はすでに背を向けており、悠を一瞥することは一度もなかった……翌日。悠がうつろな足取りで出勤すると、裁判所から書類が届いていると連絡があった。頭の中が真っ白になった彼は、小声で聞き返す。「内容証明書?」職員が淡々と答えた。「医療ミスに関する訴訟で、原告は浅倉蓮さんだそうです」悠はその場に立ち尽くした。だが、それはほんの始まりに過ぎなかった。それから30分もしないうちに、ネット上に長い記事が投稿された。確かな証拠を添えて、悠がこれまでに行ってきた不正が理路整然と事細かに書かれていたのだ。既婚の女性医師が率いるチームの研究資源を利用して論文を発表し、実際にはほとんど貢献していないにもかかわらず、筆頭著者の座を得ていたこと。異例の昇進を重ね、若くして外科の看護師長に就任していたこと。さらには私怨から患者への対応を怠り、術後の大量出血に対する処置が遅れ、危うく死なせかけたことまで――コメント欄は大炎上した。【いわゆるヒモ出世ってやつ?女が男に色仕掛けは聞いたことあるけど、まさか男もこういうやり方するなんて……】【道理で昇進が早いわけだよ。裏に人がいたんだからな】【徹底的に調べて、ちゃんと納得のいく説明をして!】たった数時間で、ネットの批判は手がつけられない状況となった。その日のうちに院内では緊急会議が開かれた。悠を即座に停職処分とし、内部調査を開始するという決断が即座に下される。誰もが持ち上げていた看護師長は、一日足らずで、罵られる存在へと転落した。彼は凛の事務室に飛び込み、縋りついた。「先生!お願いします、助けてください!この仕事をどうしても失いたくないんです!院長に言ってくださいよ……クビにしないでって……」しかし、凛は顔も上げずに淡々
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