All Chapters of 別れのカウントダウン: Chapter 1 - Chapter 10

12 Chapters

第1話

私・唐沢雫(からざわ しずく)には、人の心が離れていくまでのカウントダウンが見える。父の頭上にあるカウントダウンがゼロになった日、彼は離婚協議書を投げ捨て、私と母を捨てた。親友の頭上のカウントダウンがゼロになった日、彼女はついに決心して、あのクズ彼氏を振った。私は、夫である成宮隼一(なりみや しゅんいち)の頭上にカウントダウンが見えることをずっと恐れていた。だが幸いなことに、結婚して七年、彼の頭上には何一つ浮かんでいなかった。私は、こんないい男と結婚できた自分の幸運を何度も噛み締めていた。先月、彼が私の職場まで迎えに来てくれるまでは。ふと顔を上げた瞬間、真っ赤な文字が目に突き刺さった。【702日14時間22分】二年にすら満たない。心臓を鷲掴みにされたようだった。私は狂ったようにその答えを探し始めた。私が何か間違ったことをしたのだろうか。それとも、彼が……心変わりしたのだろうか。あの大雨の日、会社の入っているオフィスビルロビーで、彼の部下であるインターン生の小西綾(こにし あや)に出くわすまでは。彼女は全身ずぶ濡れだったが、とても無邪気な笑顔を浮かべていた。隼一はハンカチを一枚差し出したが、その顔には何の感情の揺れも見えなかった。だがまさにその一秒、カウントダウンが猛烈な勢いで変動したのだ。【327日4時間47分】一瞬にして三百日以上も減ってしまった。耳を劈くような激しい雨音が響き渡る。私は悟った。原因はここにあったのだと。「成宮社長、奥さん、本当にすみません。こんな大雨で、どうしてもタクシーが捕まらなくて……」車のドアが開く。風が雨を巻き込みながら車内へ吹き込み、本革シートを濡らした。小西綾(こにし あや)は傘を閉じ、全身を雨でぐっしょりと濡らしたまま、後部座席へ滑り込む。白いシフォンブラウスは肌にぴたりと張りつき、濡れた髪からは水滴がぽたぽたと滴り落ちていた。見るからに痛々しい姿だった。それでも、彼女の顔には明るい笑みが浮かんでいる。隼一は、ハンドルに手を添えたまま振り向かなかった。ただ、横の収納ボックスからハンカチを数枚取り出し、私の肩越しに後部座席へ差し出した。「拭きなよ。風邪ひかないように」その声は穏やかで、いつもの彼らしい気遣いに満ちてい
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第2話

私は隼一の頭上に浮かぶ数字を見つめた。【260日5時間08分】また二十九日も減っている。車内は静まり返り、聞こえてくるのは、激しく窓を叩く雨音と、タイヤが水たまりを踏みしめる音だけだった。前方の交差点は赤信号。左へ曲がれば、半月も前から予約していたフレンチレストラン。まっすぐ進めば、綾が部屋を借りている湊川市下町のアパートへ向かう道だ。隼一は、直進のウインカーを点けた。私はダッシュボードで点滅する緑色の矢印を、ただ黙って見つめる。「レストランには行かないの?」私の声は小さく、雨音に半分かき消されてしまった。隼一はブレーキを踏み、ちらりと私を見る。その目には、申し訳なさそうな色が浮かんでいた。「雨がひどすぎるんだ。下町は道も悪いし、彼女を一人で降ろすのは危ない」そこで一度言葉を切ると、静かに続けた。「先に彼女を送り届けよう。レストランは少しくらい遅れても大丈夫だから」私は彼を見つめ返した。「予約の席は八時までしか取っておいてもらえないのよ。もう七時半よ」隼一はわずかに眉を寄せた。「雫、綾は俺の部下なんだ。途中で放っておくわけにはいかない。ただの食事だろう?今日行けなくても、明日また連れていってあげるから」彼はいつもそうだった。まるで自分が絶対に正しいと言わんばかりの態度。自分の行動は善意から生まれたもので、何一つ私心はないと信じ切っている。だから、その善意に異を唱える人間は、みんな理不尽でわがままな存在に見えてしまうのだ。後部座席から、綾がひょいと顔を覗かせた。「社長、よかったら手前の地下鉄駅で降ろしてください。社長と奥さんの記念日を邪魔したくありませんから」口調は、いかにも遠慮がちなものだった。けれど、この辺りに地下鉄の駅など一つもない。案の定、隼一はさらに眉間に皺を寄せた。「馬鹿なことを言うな。こんな土砂降りの中、どこから地下鉄に乗るつもりなんだ」その時、信号が青に変わる。隼一はブレーキから足を離し、アクセルを踏み込んだ。車はそのまま交差点を直進していく。あのフレンチレストランから、どんどん遠ざかっていった。数字は【201日2時間30分】へと変わった。「ありがとうございます、社長」---綾を送り届けた頃には、時計の
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第3話

「少し冷ましてから食べて。まだ熱いから」隼一はベッドの縁に腰掛け、そっと私の手を握った。「まだ怒ってる?」そう言って笑いながら、私の指先を軽くつまむ。「本当に、あの子がかわいそうだと思っただけなんだ。誓って言うよ。俺の心には、お前しかいない」私は彼を見つめた。本当に、私だけなのだろうか。視線を彼の頭上へ向ける。【198日10時間20分】数字は増えていなかった。彼の罪悪感も、ご機嫌取りも、たった一秒ですら数字を戻すことはできなかった。私は静かに目を閉じ、彼の手から自分の手をそっと引き抜く。「怒ってないわ」その時だった。静まり返った寝室に、スマホの着信音が鋭く鳴り響いた。隼一は一瞬だけ戸惑ったような表情を見せると、サイドテーブルに置いてあったスマホを手に取る。画面には見知らぬ番号が表示されていた。隼一はそのまま応答ボタンを押し、スピーカー通話に切り替える。「……もしもし」電話の向こうから、今にも泣き出しそうな女の子の声が聞こえてきた。「社長……私、綾です……」「どうした?」隼一の声は、一瞬で張り詰めたものに変わる。「あの……お風呂に入った時、タオルを忘れたことに気づいて、バスタオルだけ巻いて部屋を出たんです。そしたら風でドアが閉まっちゃって……鍵もスマホも全部部屋の中で……今、近くのコンビニで電話を借りてかけています……ごめんなさい、社長。他に誰を頼ればいいのか分からなくて……」隼一は勢いよく立ち上がった。「どのコンビニだ?そこを動くな!今すぐ行く」その声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。電話を切ると、彼は振り返り、ハンガーに掛けてあった上着を手に取る。「雫、綾がちょっとトラブルに巻き込まれたみたいなんだ。少し行ってくる」服を着替えながら、そう告げた。私はベッドのヘッドボードにもたれたまま、彼を見つめる。「外はまだ土砂降りよ」――それにしても、おかしな話だ。アパートの廊下に洗濯物なんて干せるはずがないのに。風でドアが閉まったって……それなら尚更、バスタオル一枚で外に出ようなんて思わないだろうに。……それなのに、彼は少しも疑わなかった。ただ、あの声を聞いた瞬間、何もかもがどうでもよくなってしまったのだろう。男とは、そういうものな
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第4話

私はそのマウンテンパーカーをじっと見つめた。隼一は潔癖症で、自分の服を他人に貸すようなことは、これまで一度もなかった。綾は私の視線を追うように自分の服へ目を落とし、裾を軽くつまんだ。「奥さん、誤解しないでくださいね」そう言って、少しも悪びれる様子なく説明を始めた。「昨日は服が全部びしょ濡れになってしまったんです。でも泊まったビジネスホテルには乾燥機がなくて……社長が、『今日会社に着ていく服がないだろう』って心配して、ご自身の上着を貸してくださったんです。社長って本当に優しいですよね。全然偉ぶったところがなくて」その口調は自然体で、瞳もどこまでも澄んでいた。まるで、純粋に尊敬する上司へ感謝しているだけだと言わんばかりに。私は彼女のもとへ歩み寄り、持っていた書類をデスクの上に置いた。「そう」私の視線は彼女を通り越し、そのままデスクの上へ落ちる。パソコンのモニターの横には、白い陶器でできた猫型の加湿器が置かれていた。ころんと丸い、愛らしいフォルム。先月、買い物に出かけた時に一目惚れして、色違いで二つ買ったものだった。一つは私のベッドサイドに。もう一つは、隼一のオフィスに置いてもらった。今、その加湿器は白いミストを静かに吐き出し、綾の顔へ向かってふんわりと流れている。綾は私の視線に気づいた。「ああ、これですか」そう言うと、猫の耳を指先で優しく撫でる。「オフィスがすごく乾燥するので、今朝、社長が『使わないから』ってくださったんです。すごく可愛いですよね。奥さんもそう思いませんか?」彼女はにこにこと微笑みながら私を見た。その笑顔には、挑発めいた色は微塵もなかった。私は何も答えなかった。そのまま背を向け、社長室のドアを押し開けた。室内は静まり返っていた。隼一のデスクの上、本来あの加湿器が置かれていた場所には、今は何もなかった。十分後。会議を終えた隼一が部屋へ戻ってきた。ソファに座る私を見つけると、一瞬だけ目を見開く。「どうして来たんだ?家で休んでろって言っただろう」そう言いながら近づき、いつもの癖で私の額へ手を伸ばしてくる。私は顔を背け、その手を避けた。彼の手は宙で止まり、やがて気まずそうに引っ込んだ。「まだ怒ってるのか」彼は小さ
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第5話

私が駆けつけた時には、地下室はすでにふくらはぎの辺りまで浸水していた。私はたった一人、氷のように冷たい濁水の中に二時間も浸かりながら、古いアルバムや日記帳が詰まった箱を、一つ、また一つと二階へ運び続けた。ようやく外へ出た頃には、全身が泥水まみれで、寒さのあまり歯の根が合わず、震えが止まらなかった。帰り道、側道へ入った途端、突然エンジンが止まった。水位が高すぎて、マフラーに水が入ってしまったのだ。辺りに街灯は一本もなく、豪雨が車の屋根を激しく叩きつける轟音だけが、暗闇に響いていた。私はスマホを取り出した。バッテリー残量は15%。隼一に電話をかける。それは、この七年間、困った時に無意識に取ってきた私の癖だった。長いコール音の末、ようやく電話が繋がった。「もしもし、雫」隼一の向こう側はひどく騒がしかった。誰かが言い争う声や、泣き叫ぶ声が入り混じって聞こえてくる。「隼一、私の車、南環状線でエンストしちゃったの」ハンドルを握る手は、冷え切ってすっかり強張っていた。「雨がひどくて、ここじゃタクシーも捕まりそうにないの。迎えに来てもらえない?」電話の向こうに、一瞬だけ沈黙が落ちた。その直後――綾の取り乱した泣き声が響いた。「もう生きていけません!こんな大金、私に払えるわけないじゃないですか!いっそ死なせてください!」隼一の声は、たちまち張り詰めたものへと変わる。「降りろ!窓際に立ってどうするつもりだ!」そして彼は、慌ただしく私に言った。「雫、綾が担当していたプロジェクトで重大なミスをして、会社に大きな損害が出たんだ。今、完全に取り乱していて、屋上から飛び降りるって騒いでる。俺はここを離れられない」一度言葉を切り、続ける。「自分でレッカーを呼ぶか、タクシーで帰ってきてくれないか。費用はあとで俺が払うから。悪い、一旦切る」そのまま電話は切れた。私は真っ暗になったスマホの画面を見つめた。ふと、車内の空気が、外の濁流よりも冷たく感じられた。私はもう一度かけ直すことはしなかった。レッカー車も呼ばなかった。静かにドアを開け、土砂降りの中へ足を踏み出す。雨は一瞬で全身をずぶ濡れにした。私はたった一人、足首まで浸かる水たまりを踏みしめながら、一歩、また一歩と、明
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第6話

彼は勢いよく振り返ると、寝室へ視線を向けた。ドアは半開きのままだった。彼は大股で駆け込み、クローゼットの扉を乱暴に開け放つ。中は三分の一ほど空になっていた。雫のパジャマ、普段よく着ていた通勤服が数着、そしてあのグレーの機内持ち込み用スーツケースもなくなっていた。だが、ドレッサーの上には高価なスキンケア用品がそのまま並び、ジュエリーボックスの中には、彼が贈ったダイヤの指輪やネックレスも一つ残らず収まっていた。隼一はその場に立ち尽くし、肩で荒い息をついていた。やがてスマホを取り出し、雫の番号へ発信する。「おかけになった電話番号は、現在通話中です」もう一度かける。それでも返ってくるのは、無機質な電子音だけだった。そこでようやく彼は、自分が着信拒否されていることを悟った。---午前三時。茉梨のアパートでは、インターホンが壊れたように鳴り続けていた。私はソファに座り、温かいお茶を両手で包みながら、ぼんやりと湯気を眺めていた。茉梨はドアスコープを覗くと、鼻で笑った。「あんたのクズ旦那が来たわよ」私は動かず、お茶を一口飲む。「開けないで」茉梨は頷くと、そのまま寝室へ戻っていった。ドアの外では、ノックの音が次第に激しさを増し、それに混じって隼一の押し殺したような叫び声が響いてきた。「雫!中にいるのは分かってるんだ!ドアを開けてくれ、少し話をしよう!昨日、迎えに行けなかったくらいで離婚なんて、お前はいったいどこまで身勝手なんだ!」ドアの向こうで、彼はあくまでも自分が正しいと言わんばかりに叫び続けていた。彼にとって私は、ただ一時の感情で家を飛び出しただけなのだ。これまで何度もそうだったように、自分が少し頭を下げて機嫌を取れば、また許してくれる――そう信じ切っている。一枚の扉を隔てて。私は、次第に焦りを帯びていく彼の息遣いに、静かに耳を澄ませていた。「あのマウンテンパーカーはもう捨てた!加湿器も綾に捨てさせた!これで満足だろう!もう意地を張るのはやめて、一緒に家へ帰ろう」彼は、私がそんな物に執着しているのだと思い込んでいた。私は立ち上がり、ドアの前まで歩み寄る。薄い扉越しに、静かに口を開いた。「隼一」外の物音がぴたりと止まる。彼はすぐにドアへ身を
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第7話

しかし、もう遅かった。「離して」私は冷え切った目で彼を見つめた。隼一の指先が、わずかに強張る。彼はこれまで一度も、私からこんな眼差しを向けられたことはなかったのだ。「雫……」その時、不意に澄んだ声が横から聞こえてきた。「社長?」私はゆっくりと顔を向けた。綾がコーヒーカップを二つ手に持ち、少し離れた場所で驚いたように立ち尽くしていた。彼女は隼一を見て、それから私へと視線を移す。「奥さん、どうしたんですか?」小走りで駆け寄ってきた彼女の表情には、後ろめたさなど微塵もない。ただ心配そうに見えるだけだった。「昨日の私のことで、社長に腹を立てているんですか?悪いのは全部私です。社長は本当にいい人なんです。どうか社長を責めないでください」そう言って、彼女はコーヒーを隼一の手へ押しつけた。「社長、昨夜は一睡もしていないんでしょう?まずはコーヒーを飲んで、少しでも目を覚ましてください」隼一は手元のコーヒーに目を落とし、それから再び私を見た。そして無意識のうちに、私の手首から手を離した。「綾、どうしてここにいるんだ?」綾はあっけらかんと笑う。「取引先へ資料を届けに行く途中だったんです。外に社長の車が停まっているのが見えたので、ついでにコーヒーを二つ買ってきました」ついで。また、ついで。私は隼一を見つめた。「優秀なアシスタントが、わざわざコーヒーを届けてくれたのよ。せっかくだから飲めば?」そう言い残し、私は踵を返してセキュリティゲートへ向かった。隼一はその場に立ち尽くしたまま、手にしたコーヒーカップを見下ろす。その熱が、突然耐え難いほどに感じられたのだ。「失せろ!」彼は勢いよく腕を振り払い、コーヒーを床へ叩きつけた。濃い褐色の液体が辺り一面に飛び散り、綾の真っ白なスニーカーまで汚していく。綾は驚いて一歩後ずさりし、信じられないという目で彼を見た。「しゃ……社長?」隼一は彼女を一瞥することもなく、目を真っ赤にして駆け寄り、再び私の前に立ちはだかった。「雫!一体どうすれば気が済むんだ!彼女が死ぬのを見殺しにしろって言うのか!」私は怒りに歪んだ彼の顔を、静かに見つめ返した。「隼一」私は一語一語、噛みしめるように言った。「そんなことをし
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第8話

「胃が弱いんだから、冷たいものは飲まないで」そんなささやかな気遣いで、彼は私の記憶を呼び戻そうとしているようだった。私はホットミルクには手を伸ばさなかった。「話って?」隼一は冷え切った私の目を見つめていた。テーブルの下では、両手を固く握り締めている。「綾を……解雇した」彼は大きく息を吸い込み、まるで人生を左右するような決断を下したかのように言った。「彼女が会社に出した損害も、全額を賠償させることはしなかった。ただ、会社を辞めてもらっただけだ」彼は私を見つめる。その瞳には、「これで十分だろう」とでも言いたげな、どこか恩着せがましい期待が滲んでいた。「これでもう、俺たちの間に邪魔するものは何もない。一緒に家へ帰ろう。な?」私は黙って彼を見つめた。綾を解雇したことで、彼の頭上の数字は【412日】まで一気に跳ね上がっていた。その光景が、あまりにも滑稽で、現実味がなかった。「隼一」私は静かに口を開いた。「綾さえいなくなれば、私たちが昔に戻れると、本気で思っているの?」隼一は呆然とした。「違うのか?お前は綾のことで怒っていたんじゃないのか」私は静かに首を横へ振った。「彼女のせいじゃない。あなたのせいよ」私は目の前のホットミルクを手に取り、カップ越しに伝わるぬくもりを指先で感じた。「あなたはいつも彼女を可哀想だと思っていた。一人で営業に回るのは大変だろうって車のドアを開けてあげて、上着を貸してあげて、夜中に部屋を締め出されたと聞けば、真っ先に駆けつけて助けに行った。そうやって彼女に優しくするたび、自分が私の夫だということを、一度でも思い出したことがあった?」隼一は慌てたように私の言葉を遮った。「ただの同情だ!俺は彼女なんて、これっぽっちも愛してない!」「分かってるわ」私はまっすぐ彼を見つめた。「あなたが彼女を愛していないことくらい。あなたが愛していたのは、自分より弱い立場の人間を助けて感謝される、その優越感だった。善意を積み重ねて、自分は完璧な人間なんだと思い込みたかっただけ。その裏で、私を心の狭い、嫉妬深い女にしてしまったのよ」隼一の顔から、みるみる血の気が引いていく。大勢の前で平手打ちでも食らったように、唇がかすかに震えていた。「俺は
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第9話

私は手をつけなかった。作ってきた弁当は、すべて下のアパートのゴミ箱へ捨てた。私が手間のかかった弁当箱ごと容赦なく捨てるのを見て、茉梨は思わず呆れたように口笛を吹いた。「へえ。今さらヨリを戻そうとして、悲劇のヒーロー気取りか。あいつ、すっかりその役に酔ってるじゃない」私は軽く手を払った。「手遅れの愛情なんて、犬も食わないわ」彼のことだから、数日もすれば諦めるだろうと思っていた。幼い頃から甘やかされて育ち、骨の髄までプライドの高い人なのだから。けれど、彼は諦めなかった。それどころか、私の退勤時間になると、黙って私の車の後ろをついてくるようになった。一定の距離を保ちながら。邪魔をするわけでもなければ、離れていくわけでもない。まるで、執念深い亡霊のように。財産分与の手続きに入って二十日目。湊川市には、また雨が降っていた。仕事を終え、一階のロビーへ出た瞬間、入口の外に見覚えのある人影が立っているのが目に入った。綾だった。傘も差さず、全身びしょ濡れで、まるで捨てられた子犬のような姿だった。私に気づくと、彼女は慌てて駆け寄ってきた。「奥さん」真っ赤に腫れた目で、泣き声をこらえるように言う。「成宮社長に、私をこの業界から締め出さないようにお願いしてもらえませんか」私は眉をひそめた。「締め出す?」綾は涙を拭いながら頷いた。「会社を辞めさせられてから、もう十社以上面接を受けたのに、一社も採用してくれないんです。後になって知りました。成宮社長が業界中で、私には人間性に問題があるって言い回っていたんです。奥さん、私が悪かったです。社長の上着なんて着るべきじゃなかったし、あの加湿器も受け取るべきじゃありませんでした。だから、どうか許してください。私には、どうしても仕事が必要なんです」彼女は手を伸ばし、私の袖を掴もうとした。私は一歩身を引いて、その手をかわした。「頼む相手を間違えているわ」私は淡々と言った。「一つ。私はもう、あの人の妻じゃない。二つ。あなたを業界から締め出したのは隼一であって、私じゃないわ。頼むなら、彼のところへ行って」綾は一瞬、呆然とした。次の瞬間、その目つきが一変した。さっきまでの無垢で素直そうな表情は跡形もなく消え、代わりに恨
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第10話

彼は傘を私の方へ傾け、体の半分以上を雨に晒していた。「雫、怒らないでくれ。俺が彼女を呼んだわけじゃないんだ。二度と彼女をお前の前に現れさせないから」彼は私を見つめた。その瞳には、恐る恐る顔色をうかがうような期待が込められていた。「今夜……一緒に食事でもどうかな」私は彼を見つめた。雨水に濡れた彼の肩を見つめた。「隼一」私は言った。「さっき彼女を突き飛ばしたあなたの姿、本当に見苦しかったわ」隼一の体がビクッとこわばった。傘の柄を握る指先が、瞬時に白くなるほど力が込められた。「雫……お前を守るためにやったんだ」「私を守るため?」私はふっと鼻で笑い、彼の傘の影から一歩退いた。「私を守るためなんかじゃない。自分の愚かさを誤魔化しているだけよ。あなたが彼女をつけ上がらせて、非現実的な幻想を抱かせたのよ。それなのに今度は私に忠誠を誓うためだと言って、彼女を泥沼に突き落とすなんて。隼一、あなたが彼女にした残酷な振る舞いは、私にした残酷な振る舞いと本質的には同じよあなたはいつだって、自分の気持ちしか考えていないのよ」私はもう二度と彼を見ることはなく、背を向けて雨のカーテンの中へと歩き出した。本来なら彼に渡すつもりだったスペアの傘は、そばのゴミ箱に投げ捨てた。隼一はようやく気付いたようだった。ちょっとした恩着せがましい優しさや、食事や花を届ける程度では、完全に心が離れてしまった人間を繋ぎ止めることなど到底不可能なのだと。彼は、より極端な手段に出始めた。その日の夜、茉梨がゴミを捨てに下へ降りて行った。しばらくして、彼女は血相を変えて駆け上がってきた。「雫!ちょっと下に行って見てきなよ!隼一のやつ、イカれてるわ。下で雨に打たれながら立ってるのよ」私は本を読んでいたが、その言葉を聞いてページをめくる指を止めた。外は土砂降りの大雨で、雷鳴まで轟いていた。「放っておいて」私は淡々と言い放ち、再び本へと視線を戻した。茉梨は焦って地団駄を踏んだ。「そうはいかないわよ!あいつ、顔が真っ青で、今にも倒れそうだったのよ!もし私のアパートの下で死なれでもしたら、この部屋に住み続けられなくなるじゃない」私はため息をついた。本を閉じ、立ち上がった。「行きましょう、見てく
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