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第4話

Author: 涼木
私はそのマウンテンパーカーをじっと見つめた。

隼一は潔癖症で、自分の服を他人に貸すようなことは、これまで一度もなかった。

綾は私の視線を追うように自分の服へ目を落とし、裾を軽くつまんだ。

「奥さん、誤解しないでくださいね」

そう言って、少しも悪びれる様子なく説明を始めた。

「昨日は服が全部びしょ濡れになってしまったんです。でも泊まったビジネスホテルには乾燥機がなくて……

社長が、『今日会社に着ていく服がないだろう』って心配して、ご自身の上着を貸してくださったんです。

社長って本当に優しいですよね。全然偉ぶったところがなくて」

その口調は自然体で、瞳もどこまでも澄んでいた。

まるで、純粋に尊敬する上司へ感謝しているだけだと言わんばかりに。

私は彼女のもとへ歩み寄り、持っていた書類をデスクの上に置いた。

「そう」

私の視線は彼女を通り越し、そのままデスクの上へ落ちる。

パソコンのモニターの横には、白い陶器でできた猫型の加湿器が置かれていた。

ころんと丸い、愛らしいフォルム。

先月、買い物に出かけた時に一目惚れして、色違いで二つ買ったものだった。

一つは私のベッドサイドに。

もう一つは、隼一のオフィスに置いてもらった。

今、その加湿器は白いミストを静かに吐き出し、綾の顔へ向かってふんわりと流れている。

綾は私の視線に気づいた。

「ああ、これですか」

そう言うと、猫の耳を指先で優しく撫でる。

「オフィスがすごく乾燥するので、今朝、社長が『使わないから』ってくださったんです。

すごく可愛いですよね。奥さんもそう思いませんか?」

彼女はにこにこと微笑みながら私を見た。

その笑顔には、挑発めいた色は微塵もなかった。

私は何も答えなかった。

そのまま背を向け、社長室のドアを押し開けた。

室内は静まり返っていた。

隼一のデスクの上、本来あの加湿器が置かれていた場所には、今は何もなかった。

十分後。

会議を終えた隼一が部屋へ戻ってきた。

ソファに座る私を見つけると、一瞬だけ目を見開く。

「どうして来たんだ?家で休んでろって言っただろう」

そう言いながら近づき、いつもの癖で私の額へ手を伸ばしてくる。

私は顔を背け、その手を避けた。

彼の手は宙で止まり、やがて気まずそうに引っ込んだ。

「まだ怒ってるのか」

彼は小さくため息をつき、私の向かいの一人掛けソファへ腰を下ろした。

「昨日は本当に特殊な事情だったんだ。若い女の子を野宿させるなんて、見て見ぬふりはできないだろう」

私は静かに顔を上げた。

「あのマウンテンパーカー。他人が触るだけでも嫌だって、いつも言ってたじゃない」

隼一は眉を寄せる。

「雫、そんな理不尽なことで騒ぐのはやめてくれないか。彼女の服は乾いていなかったんだ。濡れたまま出社させるわけにはいかないだろう」

「加湿器も」

私は彼の言葉を遮った。

「あれも、ついでに彼女へあげたの?」

隼一の目に、ほんの一瞬だけわずかな動揺が走った。

だが、それもすぐに消え去り、いつもの揺るぎない態度へ戻る。

「あれは俺のデスクに置いてあっても使わないし、彼女の席はちょうどエアコンの風が当たる場所だから、乾燥がひどいんだ。

そんなに気に入ってるなら、同じものを十個でも買ってあげる。それでいいだろう?

雫、お前は昔、そんな心の狭い人間じゃなかったはずだ。こんな些細なことでいちいち目くじらを立てて、自分の品位まで下げて……それで何が楽しいんだ」

些細なこと。

品位を下げる。

私は彼の頭上に浮かぶ数字を見つめた。

【89日12時間05分】

とうとう百日を切ってしまった。

その瞬間、私はなぜだか急に笑いたくなった。

相手の心の中で、もう死刑を宣告されたような存在になってしまえば、私が息をしていることすら、きっと間違いになってしまうのだろう。

私は立ち上がり、バッグを手に取った。

「あなたの言う通りね。

もう、何を言っても意味がないわ」

---

会社を出ると、空はまたどんよりと曇っていた。

今年の湊川市は、例年になく雨季が長い。

茉梨は車のキーを私へ渡しながら、ちらりと私の顔を見た。

「あんた、顔色が紙みたいに真っ白だけど。隼一と喧嘩でもした?」

私は首を横に振る。

「してないわ」

喧嘩どころか、声を荒らげることすらしていない。

私たちはただ静かに、あの運命づけられたカウントダウンの終着点へ向かって歩いているだけなのだから。

午後四時。

空はもう夕方のように暗くなり、外はバケツをひっくり返したような土砂降りだった。

私は車を走らせ、実家へ向かう。

そこは母が私に遺してくれた、たった一つの形見のような家だった。

中には、母が生前大切にしていた古い品々が今もそのまま残されている。

管理会社から連絡があり、この辺りは土地が低いため、地下室が浸水してしまったというのだった。

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