Mag-log in私・唐沢雫(からざわ しずく)には、人の心が離れていくまでのカウントダウンが見える。 父の頭上にあるカウントダウンがゼロになった日、彼は離婚協議書を投げ捨て、私と母を捨てた。 親友の頭上のカウントダウンがゼロになった日、彼女はついに決心して、あのクズ彼氏を振った。 私は、夫である成宮隼一(なりみや しゅんいち)の頭上にカウントダウンが見えることをずっと恐れていた。 だが幸いなことに、結婚して七年、彼の頭上には何一つ浮かんでいなかった。 私は、こんないい男と結婚できた自分の幸運を何度も噛み締めていた。 先月、彼が私の職場まで迎えに来てくれるまでは。 ふと顔を上げた瞬間、真っ赤な文字が目に突き刺さった。 【702日14時間22分】 二年にすら満たない。 心臓を鷲掴みにされたようだった。私は狂ったようにその答えを探し始めた。 私が何か間違ったことをしたのだろうか。それとも、彼が……心変わりしたのだろうか。 あの大雨の日、会社の入っているオフィスビルロビーで、彼の部下であるインターン生の小西綾(こにし あや)に出くわすまでは。 彼女は全身ずぶ濡れだったが、とても無邪気な笑顔を浮かべていた。 隼一はハンカチを一枚差し出したが、その顔には何の感情の揺れも見えなかった。 だがまさにその一秒、カウントダウンが猛烈な勢いで変動したのだ。 【327日4時間47分】 一瞬にして三百日以上も減ってしまった。 耳を劈くような激しい雨音が響き渡る。 私は悟った。原因はここにあったのだと。
view more心の中には、復讐を果たしたような快感すら微塵も湧かなかった。ただ、深い疲労感があるだけだ。「隼一、もうやめて」私は少しずつ、手首を掴む彼の指を引き剥がした。「自分自身の、最後のプライドくらいは守りなさいよ」私はきびすを返し、病室のドアへと向かった。「もし明日来なかったら」私は足を止め、振り返ることなく告げた。「一生、二度と私に会うことはないわ」翌朝、空はついに晴れ渡った。湊川市の長い雨季は、まるでこの日に終止符を打ったかのようだった。雲の切れ間から陽光が差し込み、湊川市役所の正面玄関の階段を照らしている。午前八時五十分。私は階段の下に立ち、一台の黒い車が道端に停まるのを見つめていた。隼一が車から降りてくる。彼はひどくやつれ、すっかり人相が変わってしまっていた。頬骨がかすかに浮き出ており、本来なら体にぴったりと合っていたはずのスーツが、今はひどくぶかぶかに見える。彼は運転手をつけておらず、自分でハンドルを握ってきたのだ。私を見ると、彼は足を止めた。数メートルの距離を隔てて、私たちは静かに見つめ合った。彼の頭上には、まだあの数字がある。【3650日】私はふっと微笑んだ。この数字は、もう私にとって何の意味も持たない。「行きましょう」私は先に背を向け、ロビーへと歩き出した。隼一が私の後ろについてくる。その足取りは、まるで一歩も踏み出せないかのように重かった。ロビーに人は少なかった。離婚手続きの窓口には、列すらできていない。職員が私たちの戸籍謄本と離婚届を受け取り、淡々とした事務的な口調で尋ねた。「お二人とも、よく考えましたか?もうやり直す余地はないということでよろしいですね」私は頷いた。「はい、よく考えました」隼一は私の隣に立っていた。カウンターに置かれた彼の手は、きつく握り締められている。昨日の点滴の針を乱暴に引き抜いたせいで、彼の手の甲にはまだ青あざが残っていた。職員が、離婚届受理証明書を差し出した。「こちらをお受け取りください。これからのそれぞれの人生が健やかでありますように」私は自分の分を受け取った。離婚届受理証明書――その文字が、照明の下でかすかに光っているように見えた。隼一は震える手で、彼の分を手
「これもやっぱり、あなた自身の自己満足でしかないのよ」私は瞬時に青ざめた彼の顔を見つめた。「帰って。あなたが何をしようと、私はもう二度と振り返らないから」言い終えると、私は背を向けてエントランスへと歩き出した。バタン、と大きな音が響いた。マンションの入り口のドアを、私は固く閉めた。外の風雨を遮り、同時に隼一の絶望に満ちた視線をも遮断した。その晩、隼一は一晩中、下で立ち尽くしていた。翌朝、彼は救急車で運ばれていった。---隼一の高熱は急性肺炎へと悪化していた。彼は総合病院で丸一日、意識不明のままだった。彼の親友である鴻上響(こうがみ ひびき)から、私に電話がかかってきた。開口一番、ひどい剣幕で怒鳴りつけられた。「雫さん、あんたには血も涙もないのか!あいつはあんたのために命まで投げ出そうとしたんだぞ。それなのに、病院へ顔を出すことすらしないっていうのか!高熱にうなされながら、ずっとあんたの名前を呼んでるんだ。あいつを死に追いやらないと気が済まないのか!」私はスマホを少し耳から離し、彼が怒鳴り終えるのを待った。「鴻上さん」私は淡々と口を開いた。「彼はもう大人よ。雨に打たれることを選んだのは彼自身だわ。もし彼が死んだとしても、それは自業自得よ。私には関係のないこと」電話の向こうで、息を呑む気配がした。「あんた、本当に残酷だな」「ええ、私はこういう残酷な人間なの」私はそのまま電話を切った。実際のところ、私は一度だけ総合病院へと足を運んだ。心が揺らいだからではない。ここで私が徹底的に引導を渡さなければ、彼はまたこういうくだらない苦肉の策を続けるだろうと分かっていたからだ。病室の中。隼一は手に点滴の針を刺され、顔面を蒼白にしてベッドに横たわっていた。傍らに座っていた響は、私が入ってきたのを見ると鼻で冷たく笑い、立ち上がって外へ出て行った。ドアが閉まる音を聞いて。隼一はゆっくりと目を開けた。私だと気づいた瞬間、死んだようにくすんでいた彼の瞳に、凄まじい歓喜の光が弾けた。「雫……」彼は身をよじり、無理にでも起き上がろうとした。私は歩み寄り、彼の肩を押さえた。「動かないで」私の手が彼の服に触れた。彼の体はとても冷たかった。隼一は
彼は傘を私の方へ傾け、体の半分以上を雨に晒していた。「雫、怒らないでくれ。俺が彼女を呼んだわけじゃないんだ。二度と彼女をお前の前に現れさせないから」彼は私を見つめた。その瞳には、恐る恐る顔色をうかがうような期待が込められていた。「今夜……一緒に食事でもどうかな」私は彼を見つめた。雨水に濡れた彼の肩を見つめた。「隼一」私は言った。「さっき彼女を突き飛ばしたあなたの姿、本当に見苦しかったわ」隼一の体がビクッとこわばった。傘の柄を握る指先が、瞬時に白くなるほど力が込められた。「雫……お前を守るためにやったんだ」「私を守るため?」私はふっと鼻で笑い、彼の傘の影から一歩退いた。「私を守るためなんかじゃない。自分の愚かさを誤魔化しているだけよ。あなたが彼女をつけ上がらせて、非現実的な幻想を抱かせたのよ。それなのに今度は私に忠誠を誓うためだと言って、彼女を泥沼に突き落とすなんて。隼一、あなたが彼女にした残酷な振る舞いは、私にした残酷な振る舞いと本質的には同じよあなたはいつだって、自分の気持ちしか考えていないのよ」私はもう二度と彼を見ることはなく、背を向けて雨のカーテンの中へと歩き出した。本来なら彼に渡すつもりだったスペアの傘は、そばのゴミ箱に投げ捨てた。隼一はようやく気付いたようだった。ちょっとした恩着せがましい優しさや、食事や花を届ける程度では、完全に心が離れてしまった人間を繋ぎ止めることなど到底不可能なのだと。彼は、より極端な手段に出始めた。その日の夜、茉梨がゴミを捨てに下へ降りて行った。しばらくして、彼女は血相を変えて駆け上がってきた。「雫!ちょっと下に行って見てきなよ!隼一のやつ、イカれてるわ。下で雨に打たれながら立ってるのよ」私は本を読んでいたが、その言葉を聞いてページをめくる指を止めた。外は土砂降りの大雨で、雷鳴まで轟いていた。「放っておいて」私は淡々と言い放ち、再び本へと視線を戻した。茉梨は焦って地団駄を踏んだ。「そうはいかないわよ!あいつ、顔が真っ青で、今にも倒れそうだったのよ!もし私のアパートの下で死なれでもしたら、この部屋に住み続けられなくなるじゃない」私はため息をついた。本を閉じ、立ち上がった。「行きましょう、見てく
私は手をつけなかった。作ってきた弁当は、すべて下のアパートのゴミ箱へ捨てた。私が手間のかかった弁当箱ごと容赦なく捨てるのを見て、茉梨は思わず呆れたように口笛を吹いた。「へえ。今さらヨリを戻そうとして、悲劇のヒーロー気取りか。あいつ、すっかりその役に酔ってるじゃない」私は軽く手を払った。「手遅れの愛情なんて、犬も食わないわ」彼のことだから、数日もすれば諦めるだろうと思っていた。幼い頃から甘やかされて育ち、骨の髄までプライドの高い人なのだから。けれど、彼は諦めなかった。それどころか、私の退勤時間になると、黙って私の車の後ろをついてくるようになった。一定の距離を保ちながら。邪魔をするわけでもなければ、離れていくわけでもない。まるで、執念深い亡霊のように。財産分与の手続きに入って二十日目。湊川市には、また雨が降っていた。仕事を終え、一階のロビーへ出た瞬間、入口の外に見覚えのある人影が立っているのが目に入った。綾だった。傘も差さず、全身びしょ濡れで、まるで捨てられた子犬のような姿だった。私に気づくと、彼女は慌てて駆け寄ってきた。「奥さん」真っ赤に腫れた目で、泣き声をこらえるように言う。「成宮社長に、私をこの業界から締め出さないようにお願いしてもらえませんか」私は眉をひそめた。「締め出す?」綾は涙を拭いながら頷いた。「会社を辞めさせられてから、もう十社以上面接を受けたのに、一社も採用してくれないんです。後になって知りました。成宮社長が業界中で、私には人間性に問題があるって言い回っていたんです。奥さん、私が悪かったです。社長の上着なんて着るべきじゃなかったし、あの加湿器も受け取るべきじゃありませんでした。だから、どうか許してください。私には、どうしても仕事が必要なんです」彼女は手を伸ばし、私の袖を掴もうとした。私は一歩身を引いて、その手をかわした。「頼む相手を間違えているわ」私は淡々と言った。「一つ。私はもう、あの人の妻じゃない。二つ。あなたを業界から締め出したのは隼一であって、私じゃないわ。頼むなら、彼のところへ行って」綾は一瞬、呆然とした。次の瞬間、その目つきが一変した。さっきまでの無垢で素直そうな表情は跡形もなく消え、代わりに恨