All Chapters of 物置の妹、雪国の基地で一番になる: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

引っ越しの日、母が家族のグループチャットに間取り図を送ってきた。新居の間取りは3LDK。ご丁寧にも、それぞれの寝室には名前まで書き込まれていた。主寝室は両親、隣は兄の部屋。そして、一番日当たりのいい南向きの部屋は【怜子の部屋】と書いてあった。石川怜子(いしかわ れいこ)の父は、川に落ちた私の兄、江藤幸樹(えとう こうき)を助け、代わりに命を落とした恩人だ。身寄りをなくした怜子を、我が家では実の娘同然に10年間育ててきた。スマホの画面を拡大したり縮小したりして、何度も見直す。けれど、どこにも私の名前はなかった。母に尋ねると、一瞬言葉に詰まったあと、ようやく思い出したような顔をした。「あんた、いつか地方の大学院に行きたいって言ってたじゃない。受かったらどうせ家を出ていくんだから、部屋を空けておくの、もったいないでしょ。でも怜子は違うのよ。あの子のお父さんは、うちのために命を落としたんだから。もう帰る場所なんてどこにもないの。この広い部屋は、あの子のために取っておいてあげなきゃ」兄はすでに、怜子のために彼女の好みに合わせたピンクの小花柄のカーテンを選んでいた。私と3年付き合っている恋人の内海綾人(うつみ あやと)も、組み立てたばかりの本棚を怜子の部屋へ運び込みながら、「フィギュアを飾る棚、もう一段増やそうか」と優しい声で彼女に相談していた。私はリビングに積まれた段ボール箱に腰をかけ、みんなが忙しそうに動き回る様子をぼんやりと眺めていた。――忘れられていたわけじゃない。みんな、心のどこかで当然のように思っているだけだ。あの恩を返すためなら、私が自分のものをすべて差し出すのは当たり前だと。恋人でさえも、彼女への「償い」の一部として、当たり前のようにあちら側へ組み込まれてしまっているのだ。この間取り図に私の居場所がないというのなら、いっそ全部くれてやればいい。私はスマホに表示された書類を確認し、電子署名の欄をタップした。赴任先は、遠く離れた研究施設。機密保持のため、5年間の任期を終えるまで、原則として帰省も認められない。今度こそ、本当に出て行ってやる。もう二度と、この家には戻らない。契約書に署名した瞬間も、私、江藤寧々(えとう ねね)の指先はまだ微かに震えていた。けれど、リビングにいる誰ひとりとして、そ
Read more

第2話

新居に越して4日目、私は物置でさえ自分の居場所にはなり得ないのだと思い知らされた。朝食の席で、母が何気なく父に漏らした一言だった。私が家を出たら、物置の壁を壊して怜子のクローゼットを広げるつもりなのだと。「女の子は荷物が多いのよ。クローゼットひとつじゃ足りないでしょ」父はおにぎりを頬張りながらうなずいた。「そうだな。今度業者を呼んで、寸法を測ってもらおう」怜子は箸を手にしたまま、小さな声で言った。「おばさん、本当にいいんです。服、そんなに多くないですし……」兄が笑いながら彼女の頭を撫でた。「今は少なくても、これから俺がたくさん買ってやるからな」向かいに座った私は、黙って味噌汁をすすっていた。私が大学院に進みたいのか、本当に出ていきたいのか、誰一人として尋ねてはくれなかった。みんな、ただ私に消えてほしいだけなのだ。私が家を去り、物置が解体された後は、ここに私がいた痕跡すらきれいに消し去りたいのだ。午後、綾人が家へとやって来た。その手には、大小二つの紙袋が提げられていた。大きいほうに入っていたのは、プロ仕様のマーカーペン128色セット。革製のペンケースに収められていた。剥がし忘れた値札がちらりと見えた。1万円以上もする代物だ。彼はそれを両手で怜子に差し出した。「幸樹から聞いたよ、絵を描くのが好きなんだって?これ、色数が多いから使ってみてよ」怜子は目を輝かせ、ペンケースを抱きしめ、嬉しそうに笑った。小さいほうの袋は、私へと差し出された。開けてみると、スーパーの特売で買われたキャラメルだった。黄色い値引きシールが貼られたままで、価格は130円。「ついでに買ってきたんだ。甘いもの、好きだろ?」私は甘いものが好きじゃない。それは今まで何度となく、彼に伝えてきたはずだった。私が好きなのは、辛いものだ。冬になると無性に食べたくなる、唐辛子をたっぷり入れた熱々の汁麺。鼻先にうっすらと汗が滲むくらい辛いのがいい。けれど彼が覚えている「私の好み」は、いつだって怜子の好みにすり替わっていた。「綾人、私、甘いものは苦手だって言ったよね」彼は頭をポリポリとかきながら、悪びれもせずに笑った。「じゃあ怜子にあげればいいだろ。もったいないし」私はキャラメルをローテーブルに置いたまま、物置に戻った。ドアを閉める
Read more

第3話

新居に越して10日目。その日は、私と綾人が付き合って3年の記念日だった。2日前、私はあらかじめ彼に予定を確認しておいた。彼の返信は早かった。【土曜の午後だろ、覚えてるよ】土曜の朝、私は段ボール箱をひっくり返し、唯一毛玉のないカーディガンを探し出した。白いスニーカーの汚れをウェットティッシュで何度も拭き取り、物置にある小さな丸鏡に向かって30分かけて薄化粧をした。約束のレストランでは窓際の席を選び、飲み物を2杯注文した。アメリカーノを1杯、そして彼の好きなアイスラテを1杯。傍らの水のグラスは氷がすっかり溶け、店員が水を注ぎ足してくれても、またすぐに生ぬるくなった。そうして2時間半が過ぎた。電話は繋がらず、メッセージへの返信もない。夕方6時、ようやく彼からメッセージが届いた。【本当にごめん。怜子が急にお父さんがよく行ってた川辺に行きたいって言い出して、すごく落ち込んでたんだ。一人にしたら危ないと思って、付き添ってた。今度必ず埋め合わせするから、許してくれよな】写真が1枚添えられていた。川辺の手すりのそば、怜子がうつむき、綾人が彼女の背後に立って肩に手を置いている。夕日に長く伸びたふたりの影が、ひとつに重なり合っていた。事情を知らない者がこの写真を見れば、誰もが恋人同士だと勘違いするだろう。私はその写真を3分間見つめた。それから、生ぬるくなったアメリカーノを一気に飲み干した。舌の奥まで苦く痺れた。ふたり分の会計をひとりで済ませ、店を後にした。翌朝早く、綾人がやって来た。手には真っ赤なバラの花束。花屋の香りが漂ってきそうなほど、丁寧な包装が施されていた。心臓が大きく跳ねた。けれど彼は玄関から真っ直ぐ廊下を進み、怜子の部屋のドアを開けた。「怜子、昨日は大変だったね。これ、プレゼント。これからは毎日笑って過ごさないとだめだよ」ドアの奥から、さんざん泣いたあとの、かすれた怜子の声が聞こえてきた。「綾人さん、ありがとう……」私は壁に手をついた。爪が、じわりと手のひらに食い込む。「綾人」振り向いた彼は、廊下に立つ私を見て一瞬固まり、それから気まずそうな表情を浮かべた。「昨日、私たちの3年目の記念日だったよね」彼は額を叩いて、わざとらしいほど悔しそうな顔をした。「あ、そうだ、なん
Read more

第4話

私を完全に打ちのめした最後の一撃は、兄のスマホだった。その日の午後、兄が風呂に入りに行っている間、ソファの上に彼のスマホが置き忘れられていた。画面がふいに明るくなった。グループメッセージの通知が表示されたのだ。グループ名は【怜子ファミリー】メンバーは五人。父、母、兄、綾人、そして怜子。実の両親も、実の兄も、三年付き合った恋人も、私ではなく、別の姓を持つ怜子と「ファミリー」というグループを作っていた。そこに私だけが、いなかった。気づけば、指がそのグループを開いていた。やり取りの履歴はかなり長く続いていた。引っ越しのまさに当日に作られたグループのようだった。母が怜子の部屋の写真を投稿し、こう添えている。【うちの怜子にも、やっと自分だけのお城ができたわね】兄は花火の絵文字を連投していた。【これから大事な妹をいじめる奴がいたら、俺が絶対に許さないからな】さらに上へスクロールすると、母が笑いを含んだ声で音声メッセージを送っていた。【綾人くんったら、寧々より怜子のことを気にかけてくれてるくらいじゃない。あの子は昔から苦労してきたから、これからもそばにいて支えてくれるなら、私も安心だわ】綾人の返信。【おばさん、安心してください。僕、ずっと怜子のこと支えていきますから】兄も返信した。【お前、さすが分かってるな!】そして、チャット一覧に戻ると、怜子と綾人との3人グループチャットが最上部にピン留めされているのが見えた。怜子:【綾人さん、お姉ちゃん、機嫌悪くならないかな……】綾人:【大丈夫、このグループのこと、あいつ知らないから】怜子:【よかった。お姉ちゃんを悲しませたくないもん】そのあとに、飛び跳ねる嬉しそうな絵文字が続いていた。私を悲しませたくない。そう言いながら、私が知らないと確認できた途端に安心し、あろうことか喜んでいたのだ。私はスマホをソファに戻した。指先が冷たくなっていた。まるで、自分とは無関係な判決文を最後まで読み終えたような気分だった。裁判はとうの昔に終わっており、被告人である私だけが、一番最後にその判決を知らされたのだ。風呂上がりの兄が、顔色を変えて言った。「お前、俺のスマホ見たのか?」「『怜子ファミリー』」私の声は震えていた。「どうして私が入ってないの」リビングが一瞬で
Read more

第5話

田中が訪ねてきたとき、その手には黄ばんだクラフト紙の封筒が握られていた。彼はソファに腰を下ろし、部屋にいる面々をぐるりと見回した――目を真っ赤に泣き腫らした母、焦りの色を浮かべた父、廊下に裸足で立ち尽くす兄、そして部屋の隅で声を押し殺して縮こまっている怜子。「この話、10年間ずっと胸の内にしまっていたんです」田中は封筒をローテーブルに置き、節くれ立った指でその端を押さえた。「石川が亡くなった日、私も川辺にいたんですよ」母が、はっと顔を上げた。田中はゆっくりと語り始めた。一言一言、まるで何度も喉の奥へ飲み込んだ言葉を、ようやく絞り出しているかのような、重い口ぶりだった。「あの日、子どもが川に落ちたとき、最初に飛び込んだのは石川じゃないです。川辺で釣りをしていた若い男だったんです。名字は……もう覚えてないです。子どもがその若い男に岸まで押し上げられたとき、石川はようやく川辺に駆けつけたところだったんです」リビングは、エアコンの送風音すら耳につくほどに静まり返った。「石川は、泳げなかったんです」その事実が、まるで目に見えない釘のように、その場の全員を釘付けにした。「石川は、子どもが助け上げられたのを見ました。だけど、あの若い男はまだ水の中でもがいていました。石川は焦って、岸辺の木の枝につかまり、身を乗り出して手を伸ばそうとしたんです。そのとき足を滑らせて、自分が落ちてしまったんです。あの若い男は、あとで自力で岸に上がった。石川は……そのまま……」田中は封筒から一枚の紙を取り出した。事故当時、所轄の警察署が作成した事情聴取記録のコピーだった。そこには、子どもを助けた人物の名前がはっきりと記されていた。だが、それは石川俊之ではなかった。「石川はいい人でした。人を助けようとしたのは本当です。でも、彼が助けたのはあなた方のお子さんじゃない。誰かが危ないのを見て、無我夢中で助けようとしただけなんです。私はあなた方とはそれほど親しくなかったし、当時も余計なことは言いませんでした。そのあと怜子ちゃんを引き取られたと聞いて、怜子ちゃんに新しい家族ができてよかったと思って、それ以上は口にしませんでした。でも最近、石川の遺品を整理していて、こういうものが出てきて……真実は、誰かが知っておくべきだと思ったんです」母の身体が震えていた。
Read more

第6話

母は狂乱したように娘の行方を探し始めた。大学に電話をかけると、担当者は、すでに卒業しており、現在は大学に在籍していないと答えた。指導教官に電話をかけると、「寧々さんは新しい職場に行きました。詳しくはお伝えできません」の一点張り。大学の関係者や役所の相談窓口にまで連絡し、しまいには交番へ行方不明届を出しに行こうとした。父がそれを止めた。「あの子は自分で機密保持契約書に署名して行ったんだ。拉致されたわけじゃない。警察はどうにもできないよ」母は信じようとせず、父を引きずるようにして本当に交番まで行った。対応した警察官は、母を落ち着かせるように説明した。「娘さんは成人されていますし、ご本人の意思で新しい職場へ移られたことも確認できています。事件や事故に巻き込まれた形跡もありませんので、現時点で警察が捜索することはできません」「でも、家族には何も言わずにいなくなったんですよ……」「お気持ちは分かります。ただ、成人した方がどこで働き、誰と連絡を取るかは、ご本人が決めることです。ご家族であっても、こちらから居場所や勤務先をお伝えすることはできません」交番を出た母は、数歩進んだところで足から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。父はそれを支えたまま、一言も発しなかった。家に帰ると、母は物置のドアを開け、戸口に立ったまま長い間その中を見つめていた。2畳にも満たない空間。窓はない。頭上には裸電球がひとつ、電球の内側が黒ずんでいた。コンクリートの床は湿り、壁際には水染みの輪が広がっていた。不意に、カビの臭いに気づいた。どうして今まで気づかなかったのだろう。それは、これまで一度も、この部屋に足を踏み入れたことがなかったからだ。兄はそれから数日間、会社を無断欠勤した。「怜子ファミリー」というグループを、何度も何度も遡って読み返した。読むたびに、どのメッセージも、鋭い刃物のように深く胸に突き刺さった。母の音声メッセージ。「綾人くんったら、寧々より怜子のことを気にかけてくれてるくらいじゃない」自分自身が打った文字。「これから大事な妹をいじめる奴がいたら、俺が絶対に許さないからな」自分の本当の妹は、寧々だ。怜子じゃない。なのに「妹をいじめる奴」と言っていたそのとき、本当の妹は物置のヨガマットの上で、空腹を抱えたま
Read more

第7話

寧々が研究施設に到着した日は、目を開けているのもつらいほどの猛吹雪だった。出迎えたのは研究室の先輩で、吉川蒼(よしかわ そう)という男だった。風に吹かれてずれた黒縁眼鏡をかけている。「江藤寧々さん、ですよね?君の指導教官、毎日君の話ばっかりしてますよ。今まで指導した中で一番のデータモデリングの才能だって」「大げさですよ」彼女はリュックを背負って車から飛び降りた。雪の粒が顔に当たって痛かった。「こっちは環境がそんなによくないので、覚悟しておいてくださいね――」「大丈夫です」彼女は遠くに見える低い灰色の建物群と、絶えず吹きすさぶ風が作る地平線を眺めた。物置よりずっと広い。窓もある。空もある。それで十分だった。スマホは受付で一括預かりとなった。電源を切る前、最後に画面を一目見た。家族からの不在着信と未読メッセージが、ひとつも来なかった。どれにも触れないまま電源を切った。その瞬間、胸が痛んでいるのか、それとも解放感に包まれているのか、自分でもよく分からなかった。たぶん、どちらもだった。研究施設での毎日は、決まった予定を淡々とこなすだけの、変わり映えのしない日々だった。朝7時起床、7時30分に食堂で朝食。8時に実験室に入り、パソコンとデータに向き合ってモデルを走らせる。気づけば一日中座りっぱなしで、十数時間が経過していることも珍しくなかった。夕食を食べ損ねることもあり、そんなときは冷たいおにぎりを二口かじってしのいだ。彼女の専門は高精度気象データモデリング。研究施設で行われる中核試験の環境パラメータ予測を担っていた。地味に聞こえるが、そのデータの一つひとつに、数百人の安全と数十億円規模の予算がかかっている。指導教官は大げさに言っていたわけではなかった。研究室23人のうち、核となるアルゴリズムを独力で完成させられるのは、本当に彼女だけだった。1年目、彼女は研究施設が長年使い続けてきた旧モデルを再構築し、予測精度を72パーセントから94パーセントまで引き上げた。年度末の報告会で、チーフエンジニアは全員の前でこう言った。「このモデルのおかげで、少なくとも1年分の試験サイクルを短縮できた」拍手が湧いたとき、寧々は隅の席で、不意に目頭が熱くなるのを覚えた。達成感からじゃない。誰かが自分の肩を叩き、「君は
Read more

第8話

寧々のいない日々は、鈍い刃物のように、1日、また1日と家族たちの時間を切り刻んでいった。最初の1か月、母は血眼になってあちこちに電話をかけ、娘を探し回った。3か月目、母は受話器を取るのをやめた。あの研究施設へ連絡を取る手段が、この世のどこにもないと思い知ったからだ。6か月目、母は夜に眠れなくなった。医師の診断は、強い不安による重度の不眠症。処方されたのは強い安定剤だった。毎晩それを1錠飲み、ベッドに横たわり、天井を見つめ続ける。夜更けに不意に起き上がり、ふらふらと歩いていっては、物置の前に長い時間立ち尽くすこともあった。その扉は、常に開け放たれていた。誰が閉めようとしても、母は決して許さなかった。まるで扉さえ開いていれば、娘がいつでも戻ってこられると信じているかのように。父は、短期間で一気に老け込んだ。髪はすっかり白くなり、背中もすっかり丸くなった。もともと口数の少ない人だったが、ある日の食事中、ふいに箸を止めてこうつぶやいた。「寧々の、小さい頃から今までの写真を見返したんだ。怜子が来た年から……集合写真に、寧々の姿がどこにも写っていなかったんだよ。寧々はずっとそこにいたはずなのに。ただの一度も、カメラがあの子に向けられていなかったんだ」母は何も答えることができず、その茶碗の中に、ぽたりと大粒の涙が落ちた。兄は仕事を辞め、思いつく限りのつてを頼って妹の行方を追った。政府関係者や研究機関、機密部門に勤める知人たちに頭を下げて回ったが、返ってくるのはいつも同じ言葉だった。「機密業務に従事する職員の情報は、一切開示できません」彼は大学の同窓会ネットワークから、寧々の学部時代の友人の連絡先を探し出し、1人ひとりに彼女の行方を尋ねた。ある女性から、返信が届いた。【江藤寧々さんのお兄様ですか?彼女が大学に入学して、寮へ引っ越した日のことをご存じですか?段ボール箱が5つ。エレベーターのない建物の6階。私たち女友達数人で、何往復もして運んであげたんです。彼氏さんはおろか、ご家族は誰ひとりとして来なかった。彼女、踊り場でひとしきり声を殺して泣いたあと、涙を拭って、また荷物を運び続けていました。ご家族は?お兄様であるあなたは、あの日、一体どこで何をされていたんですか】兄は、その問いに、言葉を返すことができな
Read more

第9話

5年の歳月が流れた。研究施設のプロジェクトは、予定を1年半も前倒しして完了審査を終えた。寧々は研究施設の正門の前に立っていた。手には、あの日に来たときと同じリュックサックが提げられている。5年前には着替えと身分証だけが入っていたそのリュックに、今は愛用のノートパソコンと、3枚の表彰状が加わっていた。蒼が車を寄せ、窓を少し下ろす。「本当にいいのか?契約の更新はしないんだな」「決めました。そろそろ一度戻って、色々と片付けなければいけないこともあるので」「じゃあ、空港まで送るよ」車は国道を2時間かけて走り続けた。視界の左右には、見渡す限りの雪原と、はるか遠くの山並みが連なっている。蒼は道すがら、会話が途切れそうになるたびに何かと話題を見つけては、話し続けた。食堂のおばさんが、君がいなくなって寂しがってるとか。実験室のサボテンを留守を預かる職員に枯らされないよう、ちゃんと見張っておけとか。君が抜けたあと、コアアルゴリズムの管理は誰がやるんだとか。その話が、やがて不意に途切れた。しばらくの沈黙のあと、彼はどこかくぐもった声で尋ねた。「寧々、これから……どうするつもりなんだ?」「まずは戻って、片付けるべきことを片付けます。そのあとは、やはり学術の世界に残りたいと思っています。いくつか研究所からお声がけをいただいていて、まだ検討中の段階ですが」「それじゃ……ここには、もう戻ってこないのか?」彼女は隣へ視線を向ける。ハンドルを握りしめる彼の指の関節が、白くこわばっているのが見えた。雪まじりの風が、車窓の隙間から細い音を立てて吹き込んでくる。「戻りますよ」彼女は静かに言った。「ここはもう、私の第二の故郷ですから」蒼は、それ以上何も言わなかった。けれど、横顔に浮かんだ笑みが、わずかに深くなったのが見えた。飛行機が着陸した日は、深い秋の空気が満ちていた。街路にはイチョウの落ち葉が敷き詰められ、風には金木犀の甘い香りが漂っている。5年ぶりに戻った街の景色は、それほど大きくは変わっていなかった。彼女は実家へと直行することはせず、まず大学へ向かって指導教官に挨拶をした。それからビジネスホテルに部屋を取った。その日の夕方、とある麺屋へと足を踏み入れる。辛味噌ラーメンを1杯頼み、唐辛子を通常の倍の量で入
Read more

第10話

母がその知らせを受けたのは、怜子からの電話だった。電話の向こうの母の声は、記憶にあるそれとは別人のように、ひどくかすれて枯れていた。「寧々……今すぐ迎えに行くから。お願い、どこにいるのか教えて……」「お母さん、迎えは必要ないよ」寧々はホテルの窓辺に寄りかかり、ガラスの向こうに広がる街の夜景を見つめていた。「明日、そっちに会いに行くから」電話を切ったあと、彼女は窓辺で一晩中、静かに座り続けた。悲しいわけでも、緊張しているわけでもない。ただ、どんな表情であの扉をくぐればいいのか、それだけを考えていた。翌朝、彼女は青いコートを羽織った。研究施設のそばにあった、唯一の小さな商店で買い求めたものだ。青。それは彼女が昔から、一番好きだった色。実家の玄関までたどり着くと、扉はすでに開け放たれていた。母が、玄関のたたきに立っていた。10キロ以上も痩せ細り、髪はほとんど真っ白になっていた。腰にエプロンを結んだままで、その両手にはうっすらと小麦粉がついていた。背後のキッチンから、唐辛子とネギ油の香ばしい匂いが漂ってくる。辛味噌ラーメンの香りだった。寧々が敷居をまたいだ瞬間、母の膝から完全に力が抜けた。その場に崩れ落ち、膝が冷たいタイルにぶつかって、鈍い音が響く。「寧々、お母さんが悪かった……」父が、リビングからゆっくりと歩み寄ってくる。その髪がすっかり白くなっているのが見えた。5年前にはまだ黒い髪が残っていたこめかみが、今はまるで霜が降りたように真っ白だった。震える唇で何かを言おうとするが、かすれた息の音しか漏れ出てこない。最後にようやく絞り出されたのは、短い一言だった。「帰ってきてくれて、よかった」兄が部屋から飛び出してきたとき、敷居につまずきそうになるほど急いで駆け寄ってきた。記憶の中の姿よりはるかに痩せていて、目は落ちくぼみ、頬骨が痛々しく浮き出ている。「寧々……」兄は彼女を、名前で呼んだ。「お前」でも、「いい加減にしろ」でもなく。「お兄ちゃん」兄は奥歯を噛みしめ、顔を天井へ向けて、溢れそうな涙をこらえた。「悪かった。あの日、お前に出ていけって言ったのは俺だ。俺には、お前の兄貴でいる資格なんて、何一つなかった」寧々は黙ったまま、三人を見つめた。床に膝をつく母。すっかり白髪の増えた父
Read more
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status