All Chapters of 婚約者を捨てたら、本当の幸せが待っていた: Chapter 1 - Chapter 9

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第1話

1年前、御堂俊哉(みどう としや)の愛人・姫野愛梨(ひめの あいり)が、私の前に押しかけてきた。俊哉は部下に命じて、お腹の子が流れるまで彼女を痛めつけさせ、そのまま外へ放り出した。そして目の前で土下座をして、額を床に打ち付けて血まみれになりながら、3時間、許しを乞い続けた。これが、10年も愛してきた男なのか。あまりに無様なその姿に、結局、情に流された。けれどしばらくして、俊哉が郊外の別宅にあの女を囲っているのを見つけた。今度は、私が叩き出した。結婚式の3日前。俊哉に首を掴まれ、2階のベランダに押さえつけられた。彼は、怒鳴り散らした。「俺たちは一度、愛梨の子どもを死なせてるんだぞ。二度目なんて、耐えられるわけがないだろう!ただでさえか弱い子なんだ。お前だって同じ女だろう、どうして分かってやれないんだ!瑠璃(るり)、俺が選んだのはお前だ。俺の一生だって、お前にくれてやる。それでもまだ足りないのか!どうしてあの子を、許してやれないんだ!」次の瞬間、駆けつけてきた秘書が告げた。愛梨が見つかった、と。直後、2階から突き落とされた。腕の骨が折れた。息もできないほどの激痛の中、それでも俊哉を見上げた。彼は、ただの一度も振り返らなかった。どこまでもひどいその男の背中を見つめているうちに、10年分の想いが、静かに冷めていくのが分かった。電話をかけた。「奏多……あの人とは、もう結婚したくない。ここから、連れ出して」電話の向こうで、日向奏多(ひなた かなた)が息を呑む気配がした。「今、どこにいる!」「……俊哉との、家……」腕の激痛で冷や汗がにじむ。かすれた声で、それだけを絞り出した。「待ってろ、動くな。すぐ行くから!」遠ざかっていく奏多の声を最後に、意識がぷつりと途切れた。気がつくと、病院の真っ白な天井と――怒りに燃える奏多の整った顔が目に入った。目の下には、うっすらと隈が浮かんでいる。一晩中、眠っていないのだろう。「目が覚めたか。具合はどうだ」少し動いただけで、右腕に刺すような痛みが走った。「先生が言ってた。右手は粉砕骨折で、うまく治っても、もう絵は描けないだろうって」奏多は目を真っ赤にして、吐き捨てるように言った。「なあ、瑠璃お嬢様。言っちゃ悪いけど、あれだけ賢いくせに、どうしてあんな
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第2話

言うなり、腕を強く掴まれた。恐ろしいほどの力だった。「ちょうどよかった。愛梨は妊娠貧血なんだ。お前と同じ血液型なら、わざわざ血を探さなくて済む。この前、子どもが流れたのだって、お前のせいでもあるだろう。輸血してやれ」私のせい?あのとき、詫びのつもりであの女を半殺しにしたのは俊哉なのに。それがどうして、私のせいになるの?もみ合ううちに、弱りきった体がバランスを崩した。硬いタイルの床に叩きつけられ、よりによって、ギプスで固めた腕をまともに打ちつけた。「っ……!」あまりの激痛に、涙が勝手にあふれた。床にうずくまったまま、しばらく息もできない。「瑠璃、今度は何のつもりだ」涙を見て、俊哉は一瞬たじろいだ。けれどその顔に浮かんだのは、焦りよりも苛立ちだった。彼は冷ややかに笑った。「仮病で俺の気を引くつもりか?その手に、まだ俺が乗るとでも?」見かねた秘書が、小声で耳打ちした。「専務、入江さんの腕は……本当に、ひどい怪我のようです。あの日、お出かけの前に、勢い余って2階から……」俊哉の顔に、わずかな戸惑いと後ろめたさがよぎった。けれど次の瞬間には、もう責める口調に戻っていた。「浮気したのは俺が悪い。それは認める!だが愛梨は妊婦なんだぞ。ただでさえ弱ってるのに、お前がいちいち突っかかるから、こんなことになったんだろうが!」「俊哉」痛みをこらえて、苦く笑った。まっすぐに彼の目を見て、告げる。「私たちの結婚式は、中止よ」あたりが、しんと静まり返った。俊哉は、信じられないものを見るような顔をしていた。そのとき、病室の入り口から、か細い声がした。愛梨だった。お腹を支えながらゆっくりと現れて、床にへたり込んだこちらを見るなり、怯えたように口元を覆った。「やだ……瑠璃さん……2人とも、どうしたの……」俊哉と私を見比べてから、今さら気づいたように目を伏せ、おずおずと口を開く。「わ、私のせいで、喧嘩になっちゃったの……?ごめんなさい、瑠璃さん、ごめんなさい……私、赤ちゃんを失くしたのが辛くて、生きていく勇気もなくなって……それで俊哉くんは……」女優顔負けの演技だ。見ているだけで、吐き気がこみ上げてくる。子どもの話が出た途端、俊哉の目つきが変わった。すかさず愛梨を背中にかばい、肩を軽く叩いてなだめてから、怒
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第3話

首元が、かっと赤く染まった。愛梨は大きくよろめき、そのまま後ろへ倒れ込んだ。カップが手から滑り落ち、派手な音を立てて砕け散った。「瑠璃さん!ど、どうして押したりするの?俊哉くん、お腹が……赤ちゃんが……!」涙ながらに、悲鳴のような声を上げる。「瑠璃!何をしてるんだ!」俊哉の目は、私を焼き尽くさんばかりの怒りに燃えていた。愛梨を助け起こすなり、こちらへ詰め寄ってきた。振り上げられた手が、頬に飛んできた。乾いた音が、廊下に響き渡った。頬がみるみる腫れ上がり、口の端に血がにじむ。耳の奥では、キーンという音が鳴り続けていた。「瑠璃!この最低な女が!愛梨は妊婦なんだぞ。親切にお茶を持ってきてくれたのに、突き飛ばすなんて――お前、いつからそんな女になったんだ!」弁解する隙さえ与えられないまま、彼の中では、犯人は私だと決まっていた。心臓に刃物を突き立てられたような痛みの中、顔を上げた。「俊哉。あの女が自分で倒れたのが、見えなかったの?」私の絶望しきった顔を見て、俊哉の喉仏が上下し、目に一瞬、ためらいがよぎった。けれど次の瞬間、愛梨がそっと彼の袖を引いた。「も、もういいの、俊哉くん……瑠璃さんも、きっとわざとじゃないだろうし……」その一言で、和らぎかけていた俊哉の表情が、また冷たく固まった。眉をひそめてこちらを見る目には、失望がありありと浮かんでいる。「瑠璃、愛梨が子どもを産んで、心の支えさえできれば、すぐにあの子を送り出す。さっさと愛梨に謝れ。子どもは産まれたら、お前の手で育てさせてやる。俺たちはまた、前みたいに幸せにやっていけるんだ」笑えてくる。これが、10年も愛した男の正体だ。胸を切り刻まれるような痛みに、声も出なかった。全身の激痛で体を丸めたまま、荒い呼吸を繰り返すしかない。そんな姿がかえって癇に障ったのか、俊哉は苛立たしげに、そばのテーブルを蹴りつけた。「瑠璃!何を被害者ぶってるんだ!俺が10年も愛した女が、ここまで最低だったとはな。こんな女だと知ってたら、出会わなければよかったよ!茶番はやめて、頭を冷やせ。まともじゃない女に、子どもの母親は任せられないんだ。結婚式は予定通りだ。当日は、迎えの車を行かせる。それまで俺は、愛梨のところで面倒を見る」そして俊哉は、愛梨を
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第4話

光を背に、奏多がゆっくりとこちらへ歩いてくる。「日向……?でたらめを言うな。誰が、お前の婚約者だと?」奏多は俊哉には見向きもせず、まっすぐ目の前まで来た。スーツの上着を脱ぐと、怪我をした腕に触れないよう、そっと羽織らせてくれた。彼の温もりが、まだ残っていた。それから、かばうように背中へ引き寄せられた。その仕草には、絶対的な独占欲がにじんでいた。ようやく我に返った俊哉が、青筋を立てて奏多を指さした。「ふざけるな!それは俺の女だ!」奏多が笑った。その目には、氷みたいな冷たさが宿っていた。「今は、俺のものだ」言い終わるが早いか、拳が俊哉の横っ面へまともに叩き込まれた。鈍い音とともに俊哉はよろめき、口の端に血がにじんだ。愛梨は悲鳴を上げて、壁際に縮こまった。俊哉は頬を押さえ、信じられないという顔で叫んだ。「よくも、この俺を殴ったな!」「ああ、殴った。それがどうした」奏多は手首を軽く回した。目は据わったままだ。完全に頭に血が上った俊哉は、口元の血を拭って吠えた。「これは、うちのことだ!妻をどうしつけようと、お前には関係ないだろう!」「妻、だと?」汚らわしい言葉でも聞かされたかのように、奏多の目の嫌悪がいっそう濃くなった。もう一発、拳が俊哉の腹にめり込む。「瑠璃がどれだけ苦しんできたか、見えてなかったのかよ!2階から突き落として、腕が折れても、知らんぷり。愛人のために輸血させて、倒れる寸前まで血を抜かれても、見て見ぬふり。跪かせて、頬を張って、そのうえ愛人の世話まで押しつけるつもりだったんだろ。お前、最低だな!」言葉を叩きつけながら、奏多は容赦なく拳を振り下ろした。一発も外れることはなかった。やがて俊哉は反撃する力も失い、床に這いつくばって、荒い息を吐くだけになった。そこでようやく、奏多は手を止めた。ゴミでも見るような目で、足元の男を見下ろす。それから振り返り、視線が私の顔で止まった。頬に残る手形を目にした瞬間――燃え盛っていた怒りが、泣きそうな痛ましさに変わった。涙が、またしても堰を切ったようにあふれた。奏多は深く息を吸い、目の奥の赤みを押し殺すと、ゆっくりと振り向いた。視線の先は、がたがたと震える愛梨。「御堂は、どっちの手で俺の大事な人を殴った?」
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第5話

奏多の家に泊まった翌朝、スマホの音で目を覚ました。何十件もの着信履歴。全部、俊哉からだった。ラインにも、メッセージがずらりと並んでいた。【瑠璃、いつの間に他の男とデキてたんだ?最近やけにしおらしいふりをしてると思ったら、他の男を誘惑するためだったのかよ!今すぐ戻ってこい。痛い目見たくなければな】無表情のまま画面をスクロールした。指先が、少し冷たくなっていた。その中に、愛梨からのメッセージがあった。写真が1枚、添えられていた。眠っている俊哉の胸に寄りかかる愛梨。肌には、いくつものキスマークが残っていた。カメラを見つめるその目には、得意げな挑発の色が浮かんでいた。写真の下には、こんな文字が並んでいた。【あなたたち、もうずっとレスなんでしょ?彼ったら、私を欲しがってばかりなんだから】その写真をじっと見つめ、鼻で笑った。胸の奥にちくりとした痛みが走ったけれど、それ以上に、心が軽くなっていくのを感じた。どのメッセージにも、返信はしなかった。ただ黙って、俊哉と愛梨の連絡先を順にブロックして削除した。それから顔を上げて、奏多を見た。「一緒に行ってほしい場所があるの」連れて行ってもらったのは、かつて俊哉と暮らすはずだった邸宅だった。玄関の前に立つと、一瞬、頭がぼうっとした。目を手で覆われたまま、一歩ずつここまで連れてこられたことを思い出す。あのとき俊哉は、はしゃいだ声で言ったのだ。「ここが、これからの俺たちの家だ!」俊哉は、何もかも楽しそうに決めていた。どこを寝室にするか、どこを子ども部屋にするか。子どもは2人欲しい、男の子と女の子を1人ずつ、と。庭には私の好きなハナミズキを植えると言っていた。春になれば、玄関先がハナミズキの花でいっぱいになる、と。庭に植えられた数本の苗木に目をやり、自嘲気味に口の端を上げた。「まずはこの木から、片付けてもらおうかな」奏多はうなずくと、すぐに業者を手配して木を伐採させた。ハナミズキが花を咲かせることは、もうない。私もまた、あの未来にたどり着くことはないのだろう。扉を開けて、目の前の光景を見渡した。俊哉と少しずつ作り上げてきた部屋。本当なら、これから2人の人生を包んでいくはずだった場所。壁には、2人で選んだウェディングフォトがまだ飾られ
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第6話

気持ちを落ち着けてから、実家に電話をかけた。出たのは、母だった。「瑠璃?どうしてずっと連絡くれなかったの?結婚式の準備はどう?」深く息を吸い込み、声が震えないように気をつけた。「お母さん、あの人とは結婚しないことにしたの」数秒の沈黙のあと、母の慌てた声が返ってきた。「どうしたの?俊哉に何かひどいことでもされたの?」こらえきれなくなって、声を詰まらせながら言った。「うん……だから、もうあの人とは一緒になりたくないの」「大丈夫だ、泣くな。あいつが瑠璃を泣かせたなら、嫁になんてやらなくていい!父さんが、あいつをとっちめてやる!」電話越しに、父の声が響いた。一瞬、また目頭が熱くなった。「いい、いいから!自分で何とかできるから!」昔から変わらない。両親は何があっても私の味方で、わがままだって全部許してくれた。「ごめんね、お父さん、お母さん。心配かけて」小さな声でそう言いながら、鼻をすすった。言い終わらないうちに、母が慌てて遮った。「馬鹿ね、親に謝ることなんてないのよ。元気ならそれでいいの。結婚なんて、やめるならやめればいい。入江家の娘に、縁談なんていくらでもあるんだから!」電話を切ると、胸の中がじんわりと温かくなった。どんなに辛い思いをしても、実家はいつだって私の帰る場所だった。そのとき、スマホがまた震えた。知らない番号から、写真付きのメッセージが届いていた。開いてみると、また愛梨からだった。送られてきたのは、愛梨が私の色打掛を着ている写真だった。私があつらえた、世界に一着しかないものだった。名のある刺繍職人が丹精込めて縫い上げた一着で、仕立てに半年もかかった。私が何よりも大切にしていたものだった。それが今、別の女の体を包んでいる。写真の中の愛梨は、得意げな笑みをカメラに向けていた。まるで、自分の勝利を見せつけるかのように。【瑠璃さん、この色打掛、本当に素敵。譲ってくれてありがとう】そのメッセージを見つめても、心は少しも波立たなかった。むしろ、笑えてくるくらいだった。愛梨は、自分が奪ったのは色打掛と、男と、御堂家の花嫁の座だと思っているのだろう。でも、知らないのだ。奪ったのは、私がもう要らなくなったゴミだということを。ゆっくりと文字を打って、返信した。【
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第7話

結婚式当日。御堂家が、A市随一の最高級ホテルを貸し切っていた。式場は、おとぎ話のように華やかで、贅を尽くした飾りつけに彩られていた。会場は招待客で埋め尽くされ、入り口は詰めかけたマスコミで身動きも取れないほどだった。今日、御堂グループの御曹司・俊哉と、入江家の一人娘が結ばれる――それは、誰もが知っていることだった。名家同士の政略結婚とあって、この式はとっくに、街じゅうの話題になっていた。ところが、受付が終わっても花嫁は現れず、式の時間になっても、ついに姿を見せなかった。俊哉はオーダーメイドのスーツに身を包み、バージンロードの先に立っていた。苛立ちを、隠しきれずにいた。彼は確信していた。私が、必ず来ると。10年も愛し、彼のためなら何だってしてきた私が、あんなに憧れていたこの結婚式を、本当に諦めるはずがない。どうせ拗ねているだけだ。少し構ってやれば、機嫌も直る――俊哉はそう決めつけていた。謝罪のメッセージまで送った。ここまで折れてやったのだから、来ないわけがない。時間だけが過ぎていき、招待客たちがざわつき始めた。「どうしたの?花嫁さん、まだ来ないの?」「まさか、土壇場で逃げたんじゃ……?」「そういえばこの前、御堂さんと入江さん、だいぶ揉めてたらしいわよ……」俊哉の表情が、目に見えて険しくなっていった。そのとき、ウェディングマーチが鳴り響き、全員の視線が入り口へ集まった。真っ白なウェディングドレスを着た女が、中年の男の腕に手をかけ、ゆっくりと入ってくる。だが、その顔がはっきり見えた瞬間、会場がどよめいた。花嫁は、私ではなかった。愛梨だったのだ。俊哉が、息を呑んだ。顔から、血の気が引いていく。ゆっくりと歩み寄ってくる愛梨を、信じられないという顔で見つめた。愛梨は俊哉の前まで来ると、幸せそうにはにかんで、その腕に手を絡めようとした。俊哉は勢いよくその手を振り払い、鋭い声で問いただした。「瑠璃はどこだ!」振り払われた愛梨はよろめき、引きつった笑顔のまま、動揺を見られまいとするように目を逸らした。「俊哉くん、言ったじゃない……花嫁は、私に変えたって……」愛梨は、泣きそうな声で小さく訴えた。俊哉はそこでようやく思い出した。数日前、病院で、怒りにまかせて、確かにそう口走
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第8話

門前払いを食らっても、俊哉は諦めなかった。そのまま車に乗り込み、今度はあの邸宅へ向かった。扉を開けた瞬間、彼は立ち尽くした。家の中は、もぬけの殻だった。私のものは、何ひとつ残っていなかった。ウォークインクローゼットに並んでいたはずの服も、靴も、バッグも、跡形もなく消えている。壁を飾っていた大きなウェディングフォトも、剥き出しの釘だけを残して、なくなっていた。彼は家じゅうを探し回った。それでも、私がいた気配は、どこにも見つからなかった。まるで、私なんて最初からいなかったみたいに。俊哉は、冷たい床にへたり込んだ。心臓を鷲づかみにされたような痛みで、息もできなかった。そこでようやく、彼は思い知ったのだ。私は拗ねていたわけでも、駆け引きをしていたわけでもない。本当に、彼を捨てたのだと。私は彼の世界から、完全に消えていた。一方その頃、私は療養施設のサンルームで、のんびりとアフタヌーンティーを楽しんでいた。向かいの席では、奏多がタブレットで仕事をしていた。ガラス越しの日差しが2人を包んで、時間がゆっくりと流れていく。スマホには、友人から式場の実況が次々と届いていた。俊哉が式を放り出して逃げ、愛梨はその場で倒れた。両家はそろって恥をさらし、A市の社交界は、この話で大騒ぎだった。御堂グループの株価は、その日のうちに暴落した。流れてくるニュースを眺めても、不思議なくらい、何も感じなかった。もう、全部、関係のないことだ。奏多がタブレットを置いて、怪我をしていないほうの手を握ってきた。「気分いい?」私はうなずいた。「うん、すっきりした」「ならよかった」そう言って笑った奏多の目が、泣きたくなるほど優しかった。「もう二度と、瑠璃に嫌な思いはさせないよ」それから3ヶ月、私は療養施設で傷を治すことに専念した。奏多は会社の大事な予定をすべて後回しにして、ずっと私のそばにいてくれた。毎日、栄養を考えた食事を用意し、散歩にも付き合い、くだらない冗談で笑わせてくれた。手の怪我がひどくて、自分では何もできない。そんな私の世話を、奏多はかいがいしく焼いてくれた。髪を洗ってくれて、爪を切ってくれて、傷が痛くて眠れない夜には、私を抱きしめて子守唄まで歌ってくれた。そうやって手を
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第9話

それから3ヶ月。私の傷は、すっかり治った。奏多との結婚式は、バリ島のプライベートビーチで挙げることにした。招いたのは、家族と、親友だけ。それだけで十分だった。奏多が自分でデザインしてくれたウェディングドレスを着て、裸足のまま、柔らかい砂の上を一歩ずつ彼のほうへ歩いていく。花のアーチの下で待つ奏多は、白いスーツ姿で、まぶしいくらいの笑顔を浮かべていた。海風がベールを揺らす。同じ風に、私の口元もほころんだ。この瞬間、私は世界でいちばん幸せな花嫁だった。「入江瑠璃さん。あなたは日向奏多さんを夫とし、生涯愛し続けることを誓いますか?」牧師がそう問いかけた、まさにそのときだった。「認めない!」すさんだ、しゃがれ声が響いた。全員が、一斉に声のほうを振り返る。よれよれのスーツに伸びっぱなしの無精髭で、酒の匂いをぷんぷんさせながら走ってきたのは、俊哉だった。すっかり痩せて、やつれきって、あの頃の自信に満ちた俊哉は、もうどこにもいなかった。いつも人を見下していたあの目は、真っ赤に充血して、後悔と苦しみだけを湛えていた。俊哉は私を食い入るように見つめたまま、一歩、また一歩と近づいてくる。「瑠璃……そいつと結婚するな……頼むから、戻ってきてくれ。悪かった。本当に、俺が悪かったんだ……」私の目の前まで来ると、俊哉はがくりと膝をついた。大勢が見ている前で、誰にも頭を下げたことのなかったこの男が、みっともなく許しを乞うている。「瑠璃、この3ヶ月、心当たりは全部探した。それでも、どこにもいなかった。毎日、後悔と苦しさで、おかしくなりそうだった。やっと分かったんだ。俺には瑠璃がいないとだめなんだ。愛してる。ずっと、愛してるんだ。もう一度だけチャンスをくれ。命でも御堂家の全部でも、何だってやる。だから戻ってきてくれ……」奏多が前に出て、私を背中にかばった。冷ややかな目で、俊哉を見た。「御堂。今さらそんなことを言って、遅いと思わないのか」けれど俊哉には、奏多の姿など見えていないようだった。ただ私だけを、取り憑かれたように見据えていた。涙と鼻水で、顔はぐちゃぐちゃだった。「瑠璃、見てくれ。これ、瑠璃のために用意したんだ」ポケットから取り出したのは、ベルベットの小箱。開けると、大粒のピンクダ
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