登入1年前、御堂俊哉(みどう としや)の愛人・姫野愛梨(ひめの あいり)が、私の前に押しかけてきた。 俊哉は部下に命じて、お腹の子が流れるまで彼女を痛めつけさせ、そのまま外へ放り出した。そして目の前で土下座をして、額を床に打ち付けて血まみれになりながら、3時間、許しを乞い続けた。 これが、10年も愛してきた男なのか。あまりに無様なその姿に、結局、情に流された。 けれどしばらくして、俊哉が郊外の別宅にあの女を囲っているのを見つけた。今度は、私が叩き出した。 結婚式の3日前。俊哉に首を掴まれ、2階のベランダに押さえつけられた。彼は、怒鳴り散らした。 「俺たちは一度、愛梨の子どもを死なせてるんだぞ。二度目なんて、耐えられるわけがないだろう!ただでさえか弱い子なんだ。お前だって同じ女だろう、どうして分かってやれないんだ! 瑠璃(るり)、俺が選んだのはお前だ。俺の一生だって、お前にくれてやる。それでもまだ足りないのか!どうしてあの子を、許してやれないんだ!」 次の瞬間、駆けつけてきた秘書が告げた。愛梨が見つかった、と。 直後、2階から突き落とされた。 腕の骨が折れた。息もできないほどの激痛の中、それでも俊哉を見上げた。彼は、ただの一度も振り返らなかった。 どこまでもひどいその男の背中を見つめているうちに、10年分の想いが、静かに冷めていくのが分かった。 電話をかけた。 「奏多(かなた)……あの人とは、もう結婚したくない。ここから、連れ出して」
查看更多それから3ヶ月。私の傷は、すっかり治った。奏多との結婚式は、バリ島のプライベートビーチで挙げることにした。招いたのは、家族と、親友だけ。それだけで十分だった。奏多が自分でデザインしてくれたウェディングドレスを着て、裸足のまま、柔らかい砂の上を一歩ずつ彼のほうへ歩いていく。花のアーチの下で待つ奏多は、白いスーツ姿で、まぶしいくらいの笑顔を浮かべていた。海風がベールを揺らす。同じ風に、私の口元もほころんだ。この瞬間、私は世界でいちばん幸せな花嫁だった。「入江瑠璃さん。あなたは日向奏多さんを夫とし、生涯愛し続けることを誓いますか?」牧師がそう問いかけた、まさにそのときだった。「認めない!」すさんだ、しゃがれ声が響いた。全員が、一斉に声のほうを振り返る。よれよれのスーツに伸びっぱなしの無精髭で、酒の匂いをぷんぷんさせながら走ってきたのは、俊哉だった。すっかり痩せて、やつれきって、あの頃の自信に満ちた俊哉は、もうどこにもいなかった。いつも人を見下していたあの目は、真っ赤に充血して、後悔と苦しみだけを湛えていた。俊哉は私を食い入るように見つめたまま、一歩、また一歩と近づいてくる。「瑠璃……そいつと結婚するな……頼むから、戻ってきてくれ。悪かった。本当に、俺が悪かったんだ……」私の目の前まで来ると、俊哉はがくりと膝をついた。大勢が見ている前で、誰にも頭を下げたことのなかったこの男が、みっともなく許しを乞うている。「瑠璃、この3ヶ月、心当たりは全部探した。それでも、どこにもいなかった。毎日、後悔と苦しさで、おかしくなりそうだった。やっと分かったんだ。俺には瑠璃がいないとだめなんだ。愛してる。ずっと、愛してるんだ。もう一度だけチャンスをくれ。命でも御堂家の全部でも、何だってやる。だから戻ってきてくれ……」奏多が前に出て、私を背中にかばった。冷ややかな目で、俊哉を見た。「御堂。今さらそんなことを言って、遅いと思わないのか」けれど俊哉には、奏多の姿など見えていないようだった。ただ私だけを、取り憑かれたように見据えていた。涙と鼻水で、顔はぐちゃぐちゃだった。「瑠璃、見てくれ。これ、瑠璃のために用意したんだ」ポケットから取り出したのは、ベルベットの小箱。開けると、大粒のピンクダ
門前払いを食らっても、俊哉は諦めなかった。そのまま車に乗り込み、今度はあの邸宅へ向かった。扉を開けた瞬間、彼は立ち尽くした。家の中は、もぬけの殻だった。私のものは、何ひとつ残っていなかった。ウォークインクローゼットに並んでいたはずの服も、靴も、バッグも、跡形もなく消えている。壁を飾っていた大きなウェディングフォトも、剥き出しの釘だけを残して、なくなっていた。彼は家じゅうを探し回った。それでも、私がいた気配は、どこにも見つからなかった。まるで、私なんて最初からいなかったみたいに。俊哉は、冷たい床にへたり込んだ。心臓を鷲づかみにされたような痛みで、息もできなかった。そこでようやく、彼は思い知ったのだ。私は拗ねていたわけでも、駆け引きをしていたわけでもない。本当に、彼を捨てたのだと。私は彼の世界から、完全に消えていた。一方その頃、私は療養施設のサンルームで、のんびりとアフタヌーンティーを楽しんでいた。向かいの席では、奏多がタブレットで仕事をしていた。ガラス越しの日差しが2人を包んで、時間がゆっくりと流れていく。スマホには、友人から式場の実況が次々と届いていた。俊哉が式を放り出して逃げ、愛梨はその場で倒れた。両家はそろって恥をさらし、A市の社交界は、この話で大騒ぎだった。御堂グループの株価は、その日のうちに暴落した。流れてくるニュースを眺めても、不思議なくらい、何も感じなかった。もう、全部、関係のないことだ。奏多がタブレットを置いて、怪我をしていないほうの手を握ってきた。「気分いい?」私はうなずいた。「うん、すっきりした」「ならよかった」そう言って笑った奏多の目が、泣きたくなるほど優しかった。「もう二度と、瑠璃に嫌な思いはさせないよ」それから3ヶ月、私は療養施設で傷を治すことに専念した。奏多は会社の大事な予定をすべて後回しにして、ずっと私のそばにいてくれた。毎日、栄養を考えた食事を用意し、散歩にも付き合い、くだらない冗談で笑わせてくれた。手の怪我がひどくて、自分では何もできない。そんな私の世話を、奏多はかいがいしく焼いてくれた。髪を洗ってくれて、爪を切ってくれて、傷が痛くて眠れない夜には、私を抱きしめて子守唄まで歌ってくれた。そうやって手を
結婚式当日。御堂家が、A市随一の最高級ホテルを貸し切っていた。式場は、おとぎ話のように華やかで、贅を尽くした飾りつけに彩られていた。会場は招待客で埋め尽くされ、入り口は詰めかけたマスコミで身動きも取れないほどだった。今日、御堂グループの御曹司・俊哉と、入江家の一人娘が結ばれる――それは、誰もが知っていることだった。名家同士の政略結婚とあって、この式はとっくに、街じゅうの話題になっていた。ところが、受付が終わっても花嫁は現れず、式の時間になっても、ついに姿を見せなかった。俊哉はオーダーメイドのスーツに身を包み、バージンロードの先に立っていた。苛立ちを、隠しきれずにいた。彼は確信していた。私が、必ず来ると。10年も愛し、彼のためなら何だってしてきた私が、あんなに憧れていたこの結婚式を、本当に諦めるはずがない。どうせ拗ねているだけだ。少し構ってやれば、機嫌も直る――俊哉はそう決めつけていた。謝罪のメッセージまで送った。ここまで折れてやったのだから、来ないわけがない。時間だけが過ぎていき、招待客たちがざわつき始めた。「どうしたの?花嫁さん、まだ来ないの?」「まさか、土壇場で逃げたんじゃ……?」「そういえばこの前、御堂さんと入江さん、だいぶ揉めてたらしいわよ……」俊哉の表情が、目に見えて険しくなっていった。そのとき、ウェディングマーチが鳴り響き、全員の視線が入り口へ集まった。真っ白なウェディングドレスを着た女が、中年の男の腕に手をかけ、ゆっくりと入ってくる。だが、その顔がはっきり見えた瞬間、会場がどよめいた。花嫁は、私ではなかった。愛梨だったのだ。俊哉が、息を呑んだ。顔から、血の気が引いていく。ゆっくりと歩み寄ってくる愛梨を、信じられないという顔で見つめた。愛梨は俊哉の前まで来ると、幸せそうにはにかんで、その腕に手を絡めようとした。俊哉は勢いよくその手を振り払い、鋭い声で問いただした。「瑠璃はどこだ!」振り払われた愛梨はよろめき、引きつった笑顔のまま、動揺を見られまいとするように目を逸らした。「俊哉くん、言ったじゃない……花嫁は、私に変えたって……」愛梨は、泣きそうな声で小さく訴えた。俊哉はそこでようやく思い出した。数日前、病院で、怒りにまかせて、確かにそう口走
気持ちを落ち着けてから、実家に電話をかけた。出たのは、母だった。「瑠璃?どうしてずっと連絡くれなかったの?結婚式の準備はどう?」深く息を吸い込み、声が震えないように気をつけた。「お母さん、あの人とは結婚しないことにしたの」数秒の沈黙のあと、母の慌てた声が返ってきた。「どうしたの?俊哉に何かひどいことでもされたの?」こらえきれなくなって、声を詰まらせながら言った。「うん……だから、もうあの人とは一緒になりたくないの」「大丈夫だ、泣くな。あいつが瑠璃を泣かせたなら、嫁になんてやらなくていい!父さんが、あいつをとっちめてやる!」電話越しに、父の声が響いた。一瞬、また目頭が熱くなった。「いい、いいから!自分で何とかできるから!」昔から変わらない。両親は何があっても私の味方で、わがままだって全部許してくれた。「ごめんね、お父さん、お母さん。心配かけて」小さな声でそう言いながら、鼻をすすった。言い終わらないうちに、母が慌てて遮った。「馬鹿ね、親に謝ることなんてないのよ。元気ならそれでいいの。結婚なんて、やめるならやめればいい。入江家の娘に、縁談なんていくらでもあるんだから!」電話を切ると、胸の中がじんわりと温かくなった。どんなに辛い思いをしても、実家はいつだって私の帰る場所だった。そのとき、スマホがまた震えた。知らない番号から、写真付きのメッセージが届いていた。開いてみると、また愛梨からだった。送られてきたのは、愛梨が私の色打掛を着ている写真だった。私があつらえた、世界に一着しかないものだった。名のある刺繍職人が丹精込めて縫い上げた一着で、仕立てに半年もかかった。私が何よりも大切にしていたものだった。それが今、別の女の体を包んでいる。写真の中の愛梨は、得意げな笑みをカメラに向けていた。まるで、自分の勝利を見せつけるかのように。【瑠璃さん、この色打掛、本当に素敵。譲ってくれてありがとう】そのメッセージを見つめても、心は少しも波立たなかった。むしろ、笑えてくるくらいだった。愛梨は、自分が奪ったのは色打掛と、男と、御堂家の花嫁の座だと思っているのだろう。でも、知らないのだ。奪ったのは、私がもう要らなくなったゴミだということを。ゆっくりと文字を打って、返信した。【
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