《母が事故に遭った日、医者の彼と別れた》全部章節:第 1 章 - 第 10 章

13 章節

第1話

メッセージを送った直後、直樹から電話がかかってきた。電話に出るなり、直樹はいきなり問いかけてきた。「理由は?」「……何の?」「別れたい理由だ。今度は何が不満なんだ?」手術室の扉の上で赤く灯るランプを見つめたまま、私は何も答えなかった。私たちは、付き合ってもう8年になる。昨日の午後、直樹は、母が作る笹団子が食べたいと言った。それを聞いた母は大喜びで笹団子をたくさん作り、一晩かけて浜城市まで届けに来てくれた。母が駅に着く頃、私は仕事で抜けられなかったため、直樹に迎えを頼んだ。直樹は、駅まで迎えに行くと約束してくれた。ところが、亜希の飼い犬を捜すのを手伝ううちに、母を迎えに行く約束をすっかり忘れてしまった。しかも、私には連絡の一本もなかった。その日は、市内全域で激しい雨が降っていた。母は駅で4時間待ったが、直樹は来なかった。仕方なくタクシーに乗った母は、その途中で追突事故に巻き込まれた。母は何か所も骨折し、重い気胸まで起こして救急搬送された。搬送先は、直樹が勤める病院だった。知らせを受けてから、私は直樹に8回電話をかけ、メッセージも送った。それでも返事はなく、30分ほどしてようやく届いたのが、このメッセージだった。【亜希が足首をひねった。今、手当てしてる。お母さんには待っててもらって】また、待てっていうの?笑うしかなかった。涙は出ないのに、胸の奥だけがずきずきと痛んだ。付き合って8年、直樹はいつも私より亜希を優先してきた。私たちの記念日には、直樹は亜希と花火を見に行き、私は予約していたレストランで一人、いつまでも彼を待っていた。私の誕生日には、亜希へのプレゼントを選びに出かけたきり戻らず、用意していたケーキにも結局、手をつけられなかった。風邪をひいたときも、熱を出したときも、生理痛でつらかったときも……直樹の恋人でありながら、診てもらうには、ほかの患者と同じように予約を取り、順番を待つしかなかった。いざ診察室に入っても、直樹は亜希から送られてきた動画への返信に夢中で、私の診察はそっちのけだった。あの日、瓦礫の中から助け出してくれた直樹への思いを断ち切れず、私は8年もの間、彼を待ち続けてきた。けれど今、母は手術室の中にいて、助かるかどうかも分からない。そん
閱讀更多

第2話

投稿には、エプロン姿で料理をする直樹の後ろ姿が添えられていた。手術に使う大事な手だと言って、普段から何よりも気を遣っていた。けれど写真の中では、その手でフライ返しを握り、別の女のために料理をしていた。コメント欄には、こんな書き込みがあった。【そこまでしてくれる彼なら、もう結婚しちゃえば?】亜希はそのコメントに、意味ありげな笑顔の絵文字を返し、「いいね」までつけていた。その晩、私は直樹に一度も連絡しなかった。いつもならすぐに届くはずの私からの連絡がなく、直樹は落ち着かない様子で何度もスマホを確認していた。翌日の午前中、母が目を覚ました。目を開けて真っ先に尋ねたのは、笹団子のことだった。「持ってきた笹団子は?傷んでない?直樹くんに食べてもらいたくて、たくさん作ってきたの」目頭が熱くなり、私はベッド脇の棚を指した。「ちゃんとあるよ。今夜、渡しておくね」母はほっとしたように息をつくと、申し訳なさそうに続けた。「私が悪かったのよ。暑かったから、笹団子が傷まないうちに着かなきゃと思って、つい焦っちゃって……直樹くんも、事故のことを聞いて驚いたでしょうね。直樹くんには、気にしなくていいって伝えてね。私が勝手に焦ってしまっただけなんだから、直樹くんのせいじゃないって」か細い声で直樹のことばかり気遣う母を見ているうちに、涙がこぼれた。母はまだ知らない。直樹は責任を感じるどころか、母が事故に遭ってからずっと亜希と一緒にいた。母をこれ以上動揺させたくなくて、着替えを取りに戻るとだけ伝え、笹団子も家へ持ち帰った。それを冷蔵庫にしまい、シャワーを浴びて着替えを済ませたころ、直樹が帰ってきた。家にいる私を見て、直樹は少し驚いた顔をした。「帰ってたのか。お母さんは大丈夫なのか?」以前の私なら、その言葉を聞いただけで目を潤ませ、どうして今ごろになって心配するのかと、彼に甘えるように不満をぶつけていただろう。けれど今は、そんな気力さえ残っていなかった。私は小さくうなずくだけで、何も言わずに寝室へ戻り、身の回りの物をまとめ始めた。それが気になったのか、直樹もあとを追ってきた。「昨日は……亜希のマンションが停電してさ。あいつ、昔から暗いのが苦手だから、放っておけなかったんだ……」あまりに都合の
閱讀更多

第3話

以前なら、亜希のわざとらしい態度を見るだけで腹が立った。けれど今日は、相手にする気にもなれず、直樹が手にしているゴミ袋へ視線を落とした。「それ、何?」直樹は一瞬言葉に詰まり、とっさに袋を後ろへ隠した。「な、何でもない……ただのゴミだ」その言い方が引っかかり、もう一度聞こうとしたそのとき、亜希が横からゴミ袋を奪い取った。「真央さんが見たいなら、見せてあげればいいじゃない。別に隠すようなものでもないでしょ?」そう言って、亜希は見せつけるように中身を床へぶちまけた。確かに、亜希にとっては大したものではなかったのだろう。床に落ちたのは、引き裂かれた何枚もの写真だった。そこには、直樹と過ごした8年の中で、いちばん幸せだった頃の私たちが写っていた。その隣には、25歳の誕生日に直樹からもらったマグカップの破片が散らばっていた。気に入って、毎日のように使っていたものだ。ほかにも、私のクッションや花瓶まであった。どれも、私と直樹が一緒に過ごしてきた時間を形にしたようなものだった。それが今は、床に投げ出され、彼の言う「ゴミ」になっていた。その中には、母が作った笹団子まで混じっていた。見覚えのある保冷バッグと、床に散らばった笹団子を見た瞬間、目を疑った。「母が作った笹団子まで捨てたの?」直樹は顔色を変え、亜希を振り返った。「これ、お前が捨てたのか?」亜希は悪びれる様子もなく、うなずいた。「そうだけど?」そして、さも当然のように続けた。「真央さん、こんなものを冷蔵庫に入れるなんて、衛生的にもよくないと思いますよ。直樹は医者だし、衛生面には人一倍気を遣ってるんです。もう少し、直樹のことも考えてあげたらどうですか?」目の奥がじわりと熱くなり、私は直樹を見た。「直樹も、そう思ってるの?」直樹は口を開きかけたが、結局、何も言わなかった。その沈黙に、思わず笑いがこぼれた。けれど、同時に涙も頬を伝った。私はその場にしゃがみ込み、床に散らばった笹団子を一つずつ拾い上げた。汚れを拭って保冷バッグに戻していく間も、手の震えは止まらなかった。それでも、声だけは自分でも驚くほど落ち着いていた。「直樹、私たち、付き合ってもう8年になるよね。直樹が笹団子を食べたいって言ったから、母はわざわ
閱讀更多

第4話

けれど今の直樹は、まともに謝ろうとさえしなかった。私は静かに息を吐いて、メッセージを返した。【本当に謝る気があるなら、病院に来て、母に直接謝って】しばらくして、直樹から返事が届いた。【わかった。今夜8時に、お母さんの見舞いに行く】……夜8時になっても、直樹は病室に現れなかった。その代わり、亜希のSNSには新しい投稿が上がっていた。【ずっと楽しみにしてた二人きりの旅行。誰かさんには悪いけど、やっぱり私のほうが大事みたい】投稿には、南の島行きの航空券が2枚写っていた。私はその投稿に「いいね」を押してから、直樹にメッセージを送った。【今夜はもう来ないの?】返事が来たのは、10分後だった。【今日は行けない。見舞いはまた今度にする。もうすぐ亜希の誕生日で、南の島に行きたいって言うから、これから一緒に行ってくる】【じゃあ、母は?】【お母さんなら、もう少しくらい待ってくれるだろ】その返事を見て、もう何を言っても無駄だと思った。直樹が旅行から戻る1週間後には、私も母を連れて地元へ帰っている。【わかった】それだけ返して、スマホの電源を切った。私の様子に気づいた母が、心配そうに尋ねた。「どうしたの?」何か言おうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。そんな私を見て、母が続けた。「直樹くんと喧嘩でもしたの?」私はうなずきかけたが、すぐに首を横に振った。喧嘩なんかじゃない。もう本当に、直樹とは別れると決めていた。「お母さん、私が直樹と別れたら……嫌?」母は少し驚いた顔をした。「どうして?」「直樹が、お母さんを大切にしてくれないから」母は優しく笑って、首を横に振った。「私はそんなこと、気にしないわよ」「お母さんが作った笹団子も、ゴミみたいに捨てたの」母の表情が一瞬曇ったが、それでも何でもないことのように言った。「笹団子くらい、また作ればいいのよ。今度また、直樹くんに作ってあげるから」「直樹は私のことも、ずっと傷つけてきたの。いつも私を後回しにして、待たせてばかりで……」母は一瞬、表情をこわばらせた。「いつからなの?」「ずっと前から」私は小さな声で答えた。母の前で直樹のことを悪く言ったのは、これが初めてだった。また我慢する
閱讀更多

第5話

直樹は、送ったメッセージを見つめたまま、しばらく動かなかった。いつもなら、私はすぐに返事をしていた。それなのに、いくら待っても既読すらつかなかった。これまでどれだけ待たせても、私が本当に離れていったことは一度もなかった。直樹はもう一度、メッセージを送った。【真央、どういうことだ?】それでも、既読はつかなかった。直樹はたまらず電話をかけたが、私が出ることはなかった。空港の到着ロビーで何度もスマホを確認していると、スーツケースを引いた亜希がそばへ来て、直樹の腕に抱きついた。「直樹、どうしたの?」直樹は亜希の腕を振りほどき、その後も何度か電話をかけた。だが、一度もつながらなかった。そこでようやく、LINEをブロックされ、電話も着信拒否されているのだと察した。亜希は不満そうに唇をとがらせ、甘えるような声で言った。「真央さん、まだ怒ってるだけじゃない?直樹が謝りに来るのを待ってるんだよ、きっと。そんなに慌てなくても大丈夫。あれだけ直樹のことが好きなんだから、本気で別れるわけないよ」その言葉に、直樹の表情が少しだけ緩んだ。付き合って8年、喧嘩をしても最後に折れるのはいつも私だった。直樹にきついことを言われても、結局は私のほうから謝っていた。帰りが遅ければ起きて待ち、体調を崩せば食べやすいものを作った。手術を終えて帰ってきた夜には、疲れた肩を揉んだ。食べ物の好みも、胃が弱いことも、全部覚えていた。自分のことはいつも後回しで、直樹のことばかり考えていた。だから直樹も、私が離れていくなんて考えたこともなかったのだろう。どれだけ傷つけても、最後にはまた私のほうから戻ってくると。直樹はスマホをポケットにしまうと、苛立った声で言った。「病院に戻る」すると亜希が、すぐに彼を引き止めた。「でも、着いたばかりだよ。ごはん、一緒に食べるって約束したじゃない。それに、真央さんなら病院で待ってるよ。返事をしないのも、直樹に心配してほしいだけ。今すぐ会いに行ったら、真央さんの思う通りになっちゃうよ」直樹は眉をひそめた。「でも、真央のお母さんはまだ入院してるんだぞ」亜希はうつむき、泣きそうな顔をした。「……もしかして、私のせいだと思ってる?私が誕生日に旅行したいって言ったせい
閱讀更多

第6話

部屋には新しいカーテンがかかり、カーペットもソファカバーも替えられていた。私と直樹がここで8年も暮らしていたとは思えないほど、何も残っていなかった。ほどなくして、管理会社の担当者がやってきた。直樹の姿を見ると、すぐに声をかけた。「上坂さんですね?高瀬さんから、上坂さんがお戻りになったら、こちらをお渡しするよう頼まれています」担当者は管理室から、二つの段ボール箱を運んできた。中に入っていたのは、シャツ数枚と医学書が数冊、それに電気シェーバーなど、直樹の持ち物だった。直樹からもらったプレゼントも、すべて箱に詰めておいた。直樹との思い出になるものは、何ひとつ持っていかなかった。亜希に割られたあのマグカップも、テープで貼り合わせて箱のいちばん上に置いておいた。テープで貼り合わせても、ひびは消えなかった。私と直樹の関係も、もう元には戻らなかった。すると担当者が、今度は茶封筒を差し出した。「こちらも高瀬さんからです。上坂さんに直接渡してほしいと頼まれています」直樹は封筒を受け取ると、すぐに封を開けた。中に入っていたのは、一枚の紙だけだった。それはラブレターでも、直樹を責める言葉を並べた手紙でもなかった。書かれていたのは、私が直樹に待たされ続けた8年間の記録だった。【直樹に待たされた8年間】1年目。私の誕生日、直樹は亜希と映画を観に行き、私はレストランで3時間40分待った。2年目。私が39.6度の熱を出した日、直樹は亜希に風邪薬を届けに行き、私は一人で救急外来へ行って、診てもらうまで2時間15分待った。3年目。交際記念日、直樹は亜希と花火を見に行き、私はレストランが閉まるまで待った。4年目。ひどい生理痛で倒れ、直樹を頼って病院へ行った日。直樹は亜希から届いた37通ものメッセージに一つずつ返信し、私は診察室の前で1時間待った。5年目。私の昇進祝いの日、亜希が失恋したと聞いた直樹は、約束をすっぽかした。私はそのまま一晩中、彼を待ち続けた。6年目。母が検査のため浜城市へ来た日。付き添うと約束していた直樹は、亜希の部屋の水漏れを見に行き、母は診療時間が終わるまで待った。7年目。結婚したいとメッセージを送った日。直樹は「忙しい」とだけ返し、そのあと亜希と同窓会へ出かけた。8年目。母が交通事故に遭
閱讀更多

第7話

看護師は電子カルテを確認してから答えた。「今朝、高瀬さんの付き添いで、地元の病院へ転院されました」直樹の顔色が変わった。「搬送されたときの状態は?」看護師は驚いたように顔を上げた。「ご存じなかったんですか?」直樹は何も答えなかった。「運ばれてきたときは、かなり危ない状態でした。何か所も骨を折り、肋骨の骨折で重い気胸も起こしていました。血圧も一時、かなり下がっていたんです。緊急処置の説明を受けたときも、高瀬さんは一人でした。手が震えて、同意書にサインするのがやっとの状態で、それでも『お母さんは助かるんですか』って、何度も先生に聞いていて……見ているこちらまで、つらくなるくらいでした」直樹は言葉を失った。母が生死の境をさまよっていたあの夜、直樹は亜希の部屋で料理をしていた。停電して、暗いところが苦手な亜希を一人にはできないと言い、母にはもう少し待ってもらえばいいとまで言った。けれど、その数時間、母はただ待っていたわけではない。命の危険にさらされていたのだ。看護師は不思議そうに直樹を見た。「上坂先生は、高瀬さんとどういうご関係なんですか?」直樹はしばらく黙ったあと、低い声で答えた。「……彼女は、俺の恋人です」看護師は一瞬言葉を失い、隣にいる亜希と直樹を見比べた。「恋人って……高瀬さんが?てっきり、田辺さんのほうだと思っていました」亜希の顔がこわばった。「どういう意味ですか?」「だって、上坂先生は田辺さんのことを、いつも気にかけていましたよね」看護師は淡々と続けた。「足首をひねったときは抱きかかえて検査室まで連れていき、胃が痛いと言えば、手術のあとでもお粥を届けていました。病院に来たときも、どんなに忙しくても必ず顔を出していましたよね」そこで看護師は直樹へ目を向けた。「でも、高瀬さんには、ずいぶん違う態度でしたよね。生理痛で顔色が真っ白になっていても、診察室の前で1時間以上待たせたあげく、外来で診てもらうように言った。高熱を出して病院から電話をかけてきたときも、一人で診てもらえと言ったそうですね。看護師が恋人なのかと聞いても、先生は何も答えませんでした。だからみんな、高瀬さんの片思いなんだと思っていたんです」看護師の目から驚きが消え、代わりに軽
閱讀更多

第8話

直樹はそこで、亜希をまっすぐ見た。「あの日、俺が真央のお母さんを迎えに行かなかった理由、覚えてるよな?」亜希は一瞬、返事に詰まった。「……ココがいなくなったからでしょ?」「本当にいなくなったのか?」亜希は目をそらした。「もちろん……」直樹はスマホを取り出し、亜希があの日に投稿した写真を開いた。午前10時に投稿された写真には、こんな言葉が添えられていた。【今日のココ、朝からずっとべったり。全然離れてくれない】写真の隅には、いなくなったはずの犬が、カーペットの上でくつろいでいた。直樹は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。亜希が嘘をついていたことに、ようやく気づいた。けれど、それで亜希だけを責めることはできなかった。駅へ迎えに行かなかったのも、私からの電話を切ったのも、母には待ってもらえばいいと言ったのも、すべて直樹自身が選んだことだった。直樹は視線を落とし、低い声で言った。「亜希。あの日、俺に嘘をついたんだな」亜希は慌てて否定した。「違うの。私はただ、直樹にそばにいてほしくて……まさか、あんな事故が起きるなんて思わなかったの」直樹はしばらく黙ったあと、短く言った。「もういい」その場を離れようとした直樹の腕を、亜希が慌ててつかんだ。「どこ行くの?」「真央を捜しに行く」「今さら行ってどうするの?真央さんはもう、直樹と別れるって決めたんだよ!」直樹は足を止めた。亜希は涙声で続けた。「もう終わったんでしょ?会いに行ったって、どうにもならないよ!」直樹はしばらく黙っていたが、やがて振り返らずに答えた。「それでも、会って謝る。俺が真央にしたことは、一度謝ったくらいで済むことじゃない」……私は母を連れて、地元へ戻った。地元の病院は浜城市の病院ほど大きくなく、廊下も前の病院ほど冷たくは感じなかった。毎朝、窓から差し込む日差しが、母の布団を明るく照らした。私は母の顔を拭き、食事を手伝い、リハビリにも付き添った。そんな私に、母はいつも言った。「真央、毎日ずっとここにいなくてもいいのよ。たまには自分のこともしてきなさい」私はりんごの皮をむきながら笑った。「私が好きでやってるんだから、気にしないで」直樹と別れてから、私は自分で
閱讀更多

第9話

母が検査に行くときは、翔也が車椅子を押してくれた。私が食事を買いに出て戻りが遅くなったときも、母のそばについていてくれた。けれど、それを恩に着せることも、必要以上に踏み込んでくることもなかった。「これくらい、なんでもないよ」いつも、そう言うだけだった。母はそんな翔也をすっかり気に入り、ある日、私にこっそり言った。「翔也くんって、まっすぐな目をしてるわね」私は思わず笑った。「まだ知り合ったばかりでしょう?」「お母さんは、人を見る目があるのよ」そのときは、母の言葉を軽く聞き流していた。その日の午後、母の経過を診てもらうため、翔也に車椅子を押してもらって外来へ向かうと、入口の近くに直樹が立っていた。以前よりずいぶん痩せ、目の下には濃い隈ができていた。無精ひげを生やし、しわだらけのシャツを着たその姿は、いつも身なりを整えていた頃の直樹とは別人のようだった。私を見つけた直樹は、目を赤くして私の名前を呼んだ。「真央」私は足を止めた。けれど、心は少しも動かなかった。まるで、長いこと会っていなかった昔の知り合いを見ているようだった。直樹は足早にこちらへ近づいてきたが、翔也が母の車椅子を押しているのを見ると、表情を険しくした。「そいつは誰だ?」私は答えなかった。翔也は車椅子のハンドルから手を離し、一歩下がった。母も直樹に気づくと、笑顔が消えた。けれど直樹は、そんな母の様子にも気づかず、私だけを見て声を低くした。「真央、こいつがいるから俺をブロックしたのか?」あまりにも見当違いで、思わず笑ってしまった。「直樹、まだ私が離れたのは、ほかに好きな人ができたからだと思ってるの?」直樹は何も言えずに立ち尽くした。私はまっすぐ彼を見た。「翔也は関係ない。私が別れたのは、あなたのせいよ。8年間、何度も私を待たせて、母が命の危険にさらされていたときでさえ、あなたは亜希のそばにいることを選んだ。そんな人とは、もう一緒にいられない。それだけ」直樹の顔から血の気が引いた。さっきまでの怒りも消え、すがるような声で言った。「真央、本当に悪かった。今さら何を言っても遅いかもしれない。でも、やっと自分がどれだけひどいことをしてきたのかわかったんだ。犬がいなくなったって話も、嘘だったっ
閱讀更多

第10話

「328回目はもうないよ」それでも直樹がこちらへ近づこうとすると、翔也はすぐに警備員を呼んだ。駆けつけた警備員に止められても、直樹は私から目を離さなかった。「真央、俺は諦めないから」私は母の車椅子を押し、そのまま背を向けた。「好きにすれば。私はもう、待たないから」……それから数日、直樹は毎日のように病院へ来た。花や果物など、母への見舞いの品を持ってきた。しまいには、婚約指輪まで持ってきた。看護師が病室の前まで持ってきて、困ったように尋ねた。「こちら、どうしますか?」「受け取れません。すみませんが、全部返してください」廊下の端で待っていた直樹は、その返事を聞くとうつむいた。それでも、直樹からは何通もメッセージが届いた。【真央、あの記録を全部読み返した。俺がどれだけ真央を待たせてきたのか、やっとわかった。真央を待たせた日のことも、一つずつ書き出した。もう忘れない。これからは、絶対に待たせない。もう一度やり直してくれないか。今度こそ、真央と結婚したい】私は【もう遅い】とだけ返した。その後、直樹は病院の入口で待つようになった。母と散歩に出れば、少し離れて後ろをついてきた。食事を買いに売店へ行けば、売店の前で待っていた。母の診察中も廊下の椅子に座り、私が出てくるまでそこにいた。今度は直樹が、昔の私のように待ち続けていた。けれど、もう遅かった。ある日、母が眠ったあと、薬を買いに下の階へ降りると、直樹が笹団子の箱を抱えて待っていた。「真央。笹団子、作ってみたんだ。お母さんのには全然かなわないけど……あのときのことを、少しでも償いたくて」直樹が箱を開けると、笹団子はどれも不格好で、中には笹の葉の結び目がほどけかけているものもあった。前の私なら、これを見ただけで、やっと気づいてくれたんだと思っただろう。けれど今は、何をしてももう遅いとしか思えなかった。「直樹、母があの笹団子を作るのに、どれだけ時間をかけたか知ってる?」直樹は黙り込んだ。私はそのまま続けた。「母は前の日から笹の葉の下ごしらえをして、小豆を炊いて餡を作ってた。朝早くから、よもぎを練り込んだ生地で餡を包んで、一つずつ笹の葉でくるんで蒸したの。蒸し上がった団子を冷まして、保冷剤と一緒に箱に詰めて
閱讀更多
上一章
12
掃碼在 APP 閱讀
DMCA.com Protection Status