Semua Bab あなたを忘れてよかった: Bab 11 - Bab 20

25 Bab

第11話

医師は、莉奈の体調に問題がなく、一晩様子を見れば退院できると言っていた。それでも健一たちは心配だからと、もう数日入院させて様子を見るよう何度も頼み、裕介もそれに同意した。こうして5日間、裕介は莉奈に付きっきりだった。高価な輸入の滋養食品から、限定発売で入手困難なお花まで、莉奈が何気なく口にしたものは、どんなものでもすぐに用意した。時には、自ら買いに出向くことさえあった。病室には、綺麗に包装された贈り物が所狭しと並んでいる。莉奈はスマホを手に、贈り物で埋め尽くされた背景を写しながら、甘えるように尋ねた。「裕介、この角度どう?可愛く撮れてる?やっぱりちょっと変かな?」裕介は上の空で頷きながらも、莉奈が投稿したばかりのSNSを何気なく見ていた。9枚の写真には、裕介が贈ったアクセサリーなどが並び、添えられた言葉は【愛されているこそ、何も怖くない】だった。その「いいね」の一覧に、葵の名前があった。けれど、すぐに取り消されている。裕介の指先が、わずかに震えた。画面を閉じようとして、誤って葵とのトーク画面を開いてしまう。最後に残っているのは、あの一言だった。【離婚しよう】葵は、いったい何を考えているのだろう。莉奈が退院する日、彼女は店で限定品のバッグを見つけた。裕介はいつものように、「プレゼントしてあげる」と言った。2人で店を訪れ、莉奈がグレーのバッグを選ぶ。裕介がカードを取り出そうとしたそのとき、ふと、葵もこのブランドが好きだったことを思い出した。「……同じものを、もう1つ」なぜそんなことを口にしたのか、自分でも分からなかった。店員は特に不思議がる様子もなく、すぐに同じバッグをもう1つ用意し、さりげなく車の後部座席へ積み込んだ。そのため、莉奈は帰り道も、そのバッグの存在に気づくことはなかった。裕介が莉奈を送り届け、バッグを手に自宅へ戻ると、家の中は不気味なほど静まり返っていたことに気づく。葵の姿もない。裕介は手にした紙袋を無意識に強く握りしめた。何かを思い出したように、そのまま寝室へ駆け込む。クローゼットを開け、隅々まで確認した。葵の服は、いつの間にか一着残らず消えていた。パスポートなどの書類も見当たらない。――気まぐれで出ていったわけじゃない。ずっと前から、ここを離れるつもりだったのだ。
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第12話

葵が向かったのは、北方にある小さな国、H国だった。目的地行きの直行便は、天候の影響で大幅に遅れ、翌日の未明になってようやく離陸した。葵は窓際の席に座り、遠ざかっていく街の明かりを眺めていた。見慣れた景色が少しずつ小さくなり、やがて完全に見えなくなる。眼下に広がっていたのは、どこまでも連なる山々と雲だけだった。飛行機が高度を上げていくにつれ、葵はようやく実感した。――本当に、故郷を離れたのだ。物心ついてから初めて、自分の意思で異国の地へ向かっている。これまでの葵なら、決して思い描かなかった人生だった。まして、そこへ踏み出す勇気など持ち合わせていなかった。もし、記憶を失っていなかったら――きっと今も、自分で作り上げた檻の中に閉じ込められたままだったのだろう。けれど、すべてが変わった今だからこそ分かる。手放すことは、思っていたほど苦しいものではなかったと。愛していると思っていた人たちが、自分を愛していないと知ったあと、葵が姿を消すことを選んだ。裕介にも、両親にも。もう、誰にも期待しない。期待するから、失望する。だったら、最初から何も望まなければいい。不思議なことに、そう決めてしまえば苦しさも後悔もなかった。胸に残ったのは、ただ肩の荷が下りたような安堵と、まだ小さく、それでも確かに膨らんでいく新しい人生への期待だった。そう思えるようになっただけで、胸の奥に巣くっていた陰りはずいぶん薄れていた。葵はスマホを取り出し、以前から保存していた観光スポットの写真を眺める。せっかく来たのだから、まずは街を巡ってみよう。そんなことを考えているうちに、飛行機はいつの間にか着陸していた。やがて機内のドアが開く。葵は深く息を吸い込み、スーツケースを引いて荷物受取所へ向かった。長時間のフライトで疲れていたせいか、足元がふらついた。その拍子に、スーツケースが隣にいた男性の脚へぶつかってしまう。「すみません!」慌てて顔を上げた葵は、相手の顔を見た瞬間、息を呑んだ。背が高くすらりとした体つき。彫りの深い端正な顔立ちに、穏やかな笑みを浮かべている。身のこなしには気品があり、どこか余裕を感じさせた。――思わず目を奪われるほど、かっこいい人だった。「大丈夫ですよ」男性はそう言って、紳士的に腰を屈め、倒れかけた
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第13話

「とはいえ、いきなりマネージャーって……私、本当に務まるのかな?」葵はスマホを握る指にわずかに力を込めた。引いていたスーツケースのキャスターが空港のタイルに引っかかり、カタカタと音を立てる。電話の向こうで、萌子が朗らかに笑った。「絶対務まるよ!葵、大学のとき一緒に起業コンテストで優勝したの、忘れた?葵が作った事業計画書なんて、先生が何度も褒めてたじゃん」そこで一度言葉を切ると、萌子の声がふっと真剣になる。「私、ずっと葵のことを買ってたんだよ。ただ、あの頃……葵の目には野崎さんしか映ってなかったから」その言葉が、胸の奥にそっと刺さった。葵は空港の柱に背を預け、慌ただしく行き交う人々をぼんやり眺める。記憶の奥から、かつての自分が少しずつ浮かび上がってきた。大学時代、葵は学内でも知られた優等生だった。卒業後には、いくつもの上場企業から声がかかっていた。自分で事業を立ち上げ、誰にも頼らず、自分の力で成功する。それが、かつて葵が思い描いていた夢だった。けれど、裕介を好きになった途端、葵は迷うことなく、そのすべてを手放した。裕介を支える理想の妻になる。それだけを願っていた。愛しているからこそ、自分の夢を諦めることも惜しくなかった。――けれど、すべては最初から間違いだったのだ。裕介の心には、別の女性がいた。どれほど尽くしても、どれほど努力しても、彼にとっては取るに足りないものだった。「葵は長いこと、自分を結婚生活の中に閉じ込めすぎたんだよ」萌子の声には、隠しきれない心配が滲んでいた。「この前、パーティーで葵を見たとき、私、思ったの。葵はこんなふうになっちゃいけないって」葵は唇を噛み、掌に爪を食い込ませる。自分が見ないふりをしていた小さな違和感も、傍から見れば、とっくに明らかだったのだ。やがて、葵は掠れた声で尋ねた。「……じゃあ、萌子はずっと前から、私を会社に誘おうとしてたの?」「もちろん!」萌子が声を弾ませる。「葵の専門知識も、仕事のセンスも、マネジメントの才能も、会社に入れば絶対に活かせる。けど、野崎さんのことしか見えてなかった葵を見て、無理に引っ張り出すのも違うかなって、ずっと黙ってたの」そして、嬉しそうに笑った。「でも、もう違うでしょ?やっと自由になったんだから。だから今度は、絶対に断らない
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第14話

タクシーが屋敷の前で停まると、葵は門に施された豪華な装飾を見上げ、思わず目を見張った。てっきり普通の住宅だと思っていたのに、そこにあったのは、広い敷地を持つ一軒家だった。周囲は静かで落ち着いた雰囲気に包まれ、家には大きなバルコニーまである。葵はスーツケースを引いて中へ入った。室内には柔らかな陽射しが差し込み、隅々まできれいに整えられている。誰かが定期的に掃除しているのだろう。埃ひとつ見当たらなかった。葵は簡単に寝室を整えると、スーツケースから着替えを数着取り出し、クローゼットへ掛けていく。ひと通り片づけを終え、柔らかなベッドに身体を預けたところで、スマホの画面が光った。萌子から、明日は一緒にお昼を食べてから会社へ行こう、とメッセージが届いている。葵はすぐに「オッケー」と返し、スマホを枕元に置いた。ベッド脇の本棚には、たくさんの本が並んでいる。その中から何気なく一冊を手に取り、ページをめくっているうちに、いつしか葵は眠りに落ちていた。再び陽射しが枕元へ差し込んだ頃、葵は目を覚ました。見慣れない部屋の内装に、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなる。けれど、数分が経つ頃には、ここがもう自分の新しい家なのだと、少しずつ実感できるようになっていた。ベッド脇の時計は6時半を示している。家にいた頃より、2時間も早く起きた。鏡に映った顔にはまだ薄くクマが残っていたが、以前よりずっと表情が明るい。葵は朝の支度を済ませると、朝食を作ることにした。こちらのパンはどうも口に合わなかったため、前もって買っておいたうどんを取り出す。温泉卵を落とした、あっさりしたうどんを一杯作り、ひとりでゆっくり朝食を済ませた。昼前、鏡に向かって口紅を塗っていると、スマホに萌子からメッセージが届いた。【家の前に着いたよ。お昼に行こう!】葵は口紅をしまうと、バッグを手に取り、萌子の待つ階下へ向かった。……しゃぶしゃぶの店に足を踏み入れた瞬間、葵は思わず足を止めた。出汁の効いたスープがぐつぐつと煮え、お肉と野菜がお皿にきれいに並べられている。異国の街で見慣れたパンやコーヒーが提供される店とは、まるで別世界だった。店内の内装を見ていると、一瞬、自分が国内に戻ってきたのではないかと錯覚するほどだった。「こっちの食事、口
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第15話

裕介は離婚届を握りしめたまま、白くなった指先で葵の迷いのない署名を何度もなぞっていた。それでも、どうしても信じられない。ガレージの照明から、ノイズが聞こえてくる。裕介は突然振り返ると、そばにいたボディーガードの襟元を掴んだ。「葵はほかに何か言ってなかったか?伝言とかないのか?」「社長……」ボディーガードは襟を締め上げられ、よろめきながら答えた。「その時、奥様の手首からまだ血が滲んでいまして……別れ際、『プレゼントを渡してほしい』としか何も言っていませんでした。それから……」ボディーガードは懐からもう1つの封筒を取り出した。「こちらは、両親に渡してほしいと」裕介は奪うように封筒を受け取り、中身を取り出した。黄ばんだ便箋には、葵の整った文字が並んでいる。【川澄健一さん、川澄貴子さんへこのたびは、あなたたちとの親子関係を解消したく、弁護士に依頼し、絶縁状を作っていただきました。それから、私の通帳も同封します。よく考えてみれば、最初から私は家に帰るべきではなかったのかもしれません。だから、この書類をもって、私たちの親子関係を終わりにします。通帳には、これまで育ててもらった恩を返せるだけのお金を入れてあります。これから先、私はもう川澄家の娘ではありません】裕介の手が、わずかに震えた。胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。葵は、本当に自分のもとを離れた。「これを川澄家に届けてくれ」「承知しました」ボディーガードが去ってから、30分ほど経った頃だった。健一たちから電話がかかってきた。裕介は一度深く息を吸い、通話を取った。「裕介くん!葵から連絡がなかった?あの子、絶縁状を残していったのよ。私たちと縁を切るつもりだって……!」貴子の切羽詰まった声が、耳元で響く。裕介は爪が掌に食い込むほど手を握りしめた。「いや、連絡なんてまったく来てないですよ」自嘲するような笑みが漏れる。「お義母さんこそ、娘ひとり引き止められないのに、俺に聞いてどうするんです?」「何よ、その言い方……!」貴子の声が震えた。「あんたと莉奈のせいで、こんなことになったんじゃ――」「そんなわけがありません!」裕介は苛立ちをぶつけるように遮った。「お義母さんたちだって同じでしょう。家の財産まで莉奈に渡したくせに、俺に文句を言う資格なんてあ
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第16話

裕介はスマホを助手席に伏せて置き、ひどく険しい顔をしていた。5分前、私立探偵からの電話を切ったばかりだった。空港の防犯カメラには葵の姿が映っていたものの、その後の足取りは完全に途絶えているという。悪天候の影響で欠航便も相次いでおり、葵がどこへ向かったのか、今のところ特定できないらしい。腕時計の針が7時を指したところで、莉奈から着信が入った。裕介は画面を数秒ほど見つめたあと、ようやく通話ボタンを押す。「裕介、今何してるの?」莉奈の甘ったるい声が耳に届く。「新しくできたフレンチのお店を見つけたの。今夜、一緒に行かない?」裕介はハンドルを切り、ガレージから車を出した。「住所を送って。迎えに行く」ルームミラーに映った自分の顔を見て、裕介はわずかに眉を寄せた。目の下には濃いクマが浮かんでいる。葵がいなくなったと気づいてからというもの、何日もまともに眠れていなかった。莉奈を乗せたあと、彼女はいつものように、自分の好きな料理について楽しそうに話していた。けれど裕介は、いつもと違って「そうか」とか「うん」と短く返すばかりだった。レストランに到着してからも、探偵から新しい連絡が来ていないか、何度もスマホを確認している。「お客様、こちらは当店の新作でございます。輸入したこだわりの生クリームを使っております。よかったらぜひお試しください」店員が笑顔で勧めてくると、裕介は淡々とうなずいた。「じゃあ、それで」莉奈の瞳がぱっと輝いた。指先で無意識にテーブルの縁をなぞる。ふと、胸の内に期待が膨らんだ。もしかしたら、ケーキを切った瞬間、何か特別なものが出てくるかもしれない。――たとえば、婚約指輪とか。やがてケーキが運ばれてくる。莉奈は嬉しそうにナイフを手に取り、ゆっくりとケーキに刃を入れた。けれど――切り分けた断面を見た瞬間、その笑顔が凍りついた。中には、何も入っていなかった。「裕介、何か忘れてない?」莉奈はケーキの生クリームを指先でつつきながら、甘えるように不満を漏らした。裕介はスマホに届いたメッセージを確認しながら、気のない返事をする。「何が?」莉奈の表情から、すっと笑みが消えた。それ以上は何も言わず、気まずい沈黙のまま夕食は終わった。帰りの車内でも、莉奈は拗ねたように口を閉ざし、窓の外の夜
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第17話

交差点を通り過ぎたところで、莉奈は突然シートベルトを外した。「裕介!今日はいったいどうしたの?ずっと上の空だったじゃない!」運転席の裕介は、ハンドルを握る手に思わず力を込めた。記憶の中の莉奈は、いつだって穏やかで、柔らかな声で話す女性だった。それなのに今の彼女には、どこか普段と違うものを感じる。裕介が振り向くと、莉奈と目が合った。「……莉奈?」思わず、戸惑いの声が漏れる。莉奈は自分の失態に気づいたのか、慌てて表情を取り繕った。「ごめんなさい。さっきのことでちょっと怖くなって、取り乱しちゃった」そう言って俯く。長い睫毛が、頬に淡い影を落とした。「裕介を責めるつもりはなかったの、気にしないで」裕介は俯いた彼女の横顔をじっと見つめた。――なぜだろう。ふと、莉奈がひどく遠い存在のように感じられた。だが、スマホに届いた探偵からの新しいメッセージが、彼の意識を引き戻す。裕介は前を向き、再び車を走らせた。「悪い。俺こと、安全運転を心掛けるべきだった。家まで送るから、今日はゆっくり休んで」莉奈は頷き、指先が白くなるほどスカートの裾を強く握りしめた。やがて車が川澄家の前で停まると、莉奈は何とか笑顔を作った。「おやすみ、裕介。運転、気をつけてね」車を降り、ドアが閉まった瞬間――その笑顔は、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せた。玄関の扉を開けると、リビングには息が詰まるような重苦しい空気が漂っていた。健一と貴子はソファに並んで座り、テーブルの上には何枚かの紙が乱雑に置かれている。それは、葵が残していった絶縁状だった。貴子が赤く腫れた目を上げる。「莉奈……お姉ちゃんが行方不明なの。電話も繋がらないし、どこを探しても見つからなくて……もう何日も帰ってきてないのよ」莉奈の心臓が、一瞬だけ大きく跳ねた。けれど、爪を手のひらに食い込ませ、口元に浮かびかけた笑みを必死に隠す。「どうして……?何か危ない目に遭ったんじゃない?」貴子の手を握る彼女は声を震わせ、姉を心配している妹を演じた。健一と貴子は力なく首を横に振った。裕介ですら見つけられないのだ。彼らにできることなど、もはや何もなかった。部屋に戻ると、莉奈はすぐに鍵をかけ、裕介へ電話をかけた。呼び出し音が一度鳴っただけで、すぐに繋がる。「裕介…
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第18話

大きな窓の外では、いつの間にか夕暮れが深まっていた。茜色の光が智彦の横顔を柔らかく照らし、空港で初めて会ったときの、どこかよそよそしい印象とはまるで違って見える。「どうぞ、お座りください」智彦は近づき、葵のために椅子を引いた。長い指が、椅子の背に軽く添えられる。「まさか、こんな形でもう一度お会いするとは思いませんでした」「ええ。本当に、偶然ですね」葵は書類をそっとテーブルに置いた。腰を下ろすと、智彦がメニューをこちらへ滑らせる。「まずは食事にしましょう。川澄さん、苦手なものはありますか?」智彦の長い指が料理の写真をなぞった。「ここの白身魚のポワレはなかなか評判がいいんです。海鮮アレルギーとかは大丈夫ですか?」その気遣いに、葵はわずかに目を見開いた。以前、裕介と食事をする機会があっても、彼が注文するのは決まって莉奈の好物ばかりだった。葵が何を食べられないのか、何にアレルギーがあるのか。そんなことを気にかけてもらった記憶は、一度もない。「ピーナッツは少しアレルギーがあります。でも、それ以外は特に」ふと蘇った記憶を振り払い、葵は書類に視線を落とした。「それより、市瀬さん。契約についてですが――」「まずは食事を」智彦はメニューを閉じ、店員を呼んだ。「仕事の話は、お腹を満たしてからにしましょう」食事が始まってからも、智彦は会話の流れを絶妙に操っていた。最近の業界の動向から街並みや観光スポットの話まで、話題は自然に移っていく。それでいて、契約の話には一切触れない。葵も、最初は仕事の話を切り出すつもりだった。けれど、口に運んだ柔らかな魚の美味しさに、思わず頬が緩む。これほど美味しいものを前にすると、早く仕事の話を進めようと急かす気にもなれなかった。最後のデザートが運ばれてきて、ようやく智彦が契約書を手に取る。ゆっくりとページをめくりながら内容に目を通し、ときおり手帳にペンを走らせていく。葵は黙って、その様子を見守った。窓の外は、いつの間にかすっかり暗くなっていた。「川澄さんのご提案には、誠意を感じました」智彦は契約書を葵のほうへ戻した。「ただ、アフターサービスに関する条項については、もう少し社内で確認させてください」そう言って腕時計に目を落とす。文字盤が店内の照明を受け、冷たい光を返し
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第19話

「葵、油断しちゃダメだよ。あの人、気難しいことで有名なんだから。普通の業務提携なんて、ほとんど断ってるんだからね!」葵はスマホを握ったまま、ふと動きを止めた。街灯の淡い光が、その横顔を照らしている。「でも、私の提案には興味を持ってくれたみたい。もう少し考えるって言ってた」「本当?それなら、かなり見込みあるじゃない!」電話の向こうで、萌子が弾んだ声を上げる。「興味がなかったら、その場で断って帰してるって。考えるってことは、少なくとも前向きに検討してくれてるってことでしょ?だったら、ここからが勝負だよ。すぐにフォローして、絶対に気を抜かないでね!」「分かった」電話を切ると、葵はタクシーを拾った。後部座席に乗り込むと、車内の冷房が、まとわりついていた蒸し暑さを少しずつ吹き飛ばしてくれた。翌日。葵が鏡の前で口紅を塗っていると、不意にスマホが鳴った。画面に表示されたのは、智彦の名前。一瞬だけ迷ったあと、通話ボタンを押す。「いつもお世話になっております。川澄です」「川澄さん」電話の向こうで、智彦が小さく笑った。かすかに車の走行音も聞こえる。「今日、お時間ありますか?」「今日ですか?」「ええ。とある住所を送ったので、よかったら見てみてください。川澄さんなら、興味があると思って」葵が契約の話を尋ねようとしたその瞬間、スマホにメッセージが届いた。表示された住所を開いて、葵は思わず目を見開く。市内中心部にある展示会場だった。そこに記されていたのは――「現代建築アート展」。この展示会は、葵も以前から気になっていたものだった。けれどチケットはとっくに完売している。萌子にも頼んで何人かに当たってもらったが、それでも手に入らなかったほどだ。葵は画面を見つめたまま、ふっと息を吐いた。断る理由を、どうしても思いつかなかった。……30分後、葵は展示館の入口に到着した。少し離れたところで智彦が車に寄りかかり、彼女を待っていた。今日の彼はスーツではなく、ラフな服装だ。初めて会ったときよりも、どこか気の抜けた、自然な雰囲気が漂っている。「川澄さん、大学時代に建築を副専攻していたそうですね?」智彦はガラス扉を開けた。展示室の柔らかな照明が、彼の横顔を照らしている。「実は、今回の展覧会のキュレーターが僕の友人なんです」
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第20話

夕暮れの光が展示館のガラスドームを通して床に降り注いでいた。智彦は、展示作品を真剣に見つめる葵の横顔を眺め、ふいに口を開く。「そういえば、契約の件ですが……締結しましょう」葵の動きが止まった。次の瞬間、彼女は素早くバッグを開く。中のファイルには、真新しいままの契約書がきちんと収められていた。「弊社を選んでくださって、本当にありがとうございます」智彦は契約書とペンを受け取った。「葵さんはいつでも契約書を持ち歩いているんですね。その仕事ぶりはなかなか見上げたものです。うちに転職する気はありませんか?上原さんよりいい給料を出しますよ」その言い方が少し大袈裟で、葵は思わず笑った。「いつでも動けるように準備しているだけです。買いかぶりすぎですよ」「それなら、なおさら気になりますね」智彦はふいにペンを置き、まっすぐ葵の目を見つめた。「川澄さんほどの人が、どうして突然国内を離れたんです?」その問いかけに、空気が一瞬で張り詰めた。葵は契約書の条項に目を落とした。脳裏に、裕介が淡々と告げた「離婚してくれ」という言葉がよみがえる。葵は静かに目を伏せた。「国内にいると、どうしても気が滅入ることが多くて。だから、思い切って外に出てみようと思ったんです」「それって、逃げることにはなりませんか?」智彦の声には、少しからかうような響きがあった。けれど、葵の曇った表情に気づくと、その声音はやわらかくなる。「人生って、あの展示作品にある鉄骨みたいなものだと思うんです。いろんなものを組み合わせながら、少しずつ形を作っていく。人も、つらい人や出来事から離れてはじめて、新しい人生に出会えるんです」葵ははっと顔を上げた。その言葉には、確かに一理あると思った。最近、思い出すことが増えるにつれて、つらい記憶もまた増えていく。裕介を愛していた頃、何度も眠れない夜を過ごした。そのたびに、自分だけが辛い気持ちに縛られていた。あの頃の自分には、背を向けて立ち去ることもひとつの選択なのだと教えてくれる人はいなかった。「……そうですね」葵は、少し掠れた声で答えた。智彦が契約書に署名するのを見届けると、葵もようやく肩の力を抜いた。その夜。萌子の声が、スマホの向こうから飛び出してきそうなほど響いた。「葵、すごすぎる!あの手強い市瀬智彦の
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