「そろそろ帰るわ。莉奈にお弁当を作らないといけないから」そう言って、貴子と健一は立ち上がった。「あんたはここで、少し頭を冷やしなさい」2人が病室を出て、扉が閉まった瞬間、葵の胸を鋭い痛みが突き抜けた。何も覚えていないはずなのに、世界中から見捨てられたような絶望だけが、あまりにも生々しく胸に残っている。どうして――どうして世の中には、実の娘よりも養女を大切にする親がいるのだろう。それに、裕介という男……部屋を間違えたのは彼だ。人違いをしたのも彼だった。それなのに、責任を取るために結婚してくれたのなら、どうしてもう少し優しくしてくれなかったのだろう。なぜ彼女を冷たく突き放し、追い詰めなければならないのだろう。考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。聞かされたばかりの、見知らぬ過去。それだけで、心臓を鈍い刃物で切りつけられているように痛むのに、記憶を持っていた今までの自分――来る日も来る日も、父にも母にも愛されず、夫にも顧みられない日々を送っていた自分は、いったいどれほど絶望していたのだろう。葵はゆっくりと上体を起こし、一人で退院の手続きを済ませた。けれど、病院を出たところで、足が止まった。どこへ行けばいいのか分からない。両親の家も、自分と裕介の家もどこにあるのかは分からない。そのことより悲しいのは――どちらの家にも、自分の居場所がないことだ。病院の入口で、突然ざわめきが起こった。葵が顔を上げると、細身で背の高い男が、華奢な女性を抱きかかえたまま、大股でこちらへ歩いてくるのが見えた。男は仕立ての良い黒いスーツを身にまとい、張りのある肩のラインがひときわ目を引く。整った顔立ちもさることながら、一歩一歩に人を圧倒するような存在感があった。その腕の中には、か細い女性が大切そうに抱かれていた。青白い頬を男の胸元に寄せ、女性はぐったりと身を預けている。男は何度も彼女の顔を覗き込み、その様子を確かめるように腕の力を微かに強めていた。その仕草には、彼女を誰にも渡したくないという強い独占欲さえ滲んでいる。歩幅もいつの間にか小さくなっていた。少しでも揺らして、彼女に負担をかけることがないように。「そこをどいてくれ」彼の声は決して大きくなかった。それでも、その一言だけで周囲の人々は彼を避けるように道を開けた。「ね
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