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あなたを忘れてよかった

あなたを忘れてよかった

By:  タロ芋ポッピングボバCompleted
Language: Japanese
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結婚して3年。野崎葵(のざき あおい)は、これまでに108回も自ら命を絶とうとしていた。 そして108回目の自殺未遂のあと、葵が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。目を開けても、頭の中は真っ白だった。 何も思い出せない。自分が誰なのかさえ、分からなかった。 ベッドの脇には、中年の男女が2人並んで座っている。葵が目を覚ましたことに気づくと、2人は揃って眉をひそめた。 「葵、いつまでこんなことを繰り返すつもりなの?」 女性――川澄貴子(かわすみ たかこ)は、心配するどころか、苛立ちを隠そうともしなかった。「そもそも、裕介くんが好きなのは莉奈でしょう。あの時、酔った勢いで部屋を間違えたりしなければ、あなたと結婚することだってなかったのよ。 裕介くんがあなたを愛してないことくらい、分かってるでしょう?家に帰りたがらないのだって当たり前よ。それなのに、あなたは何度も『死ぬ』なんて言って、あの人を引き止めようとする。もう何年も同じことを繰り返してるじゃない」 一度息をついてから、冷たい声で続ける。「あなたが死のうとした時、裕介くんが一度でも駆けつけてくれた?」 「……そうだな」隣にいた男性――川澄健一(かわすみ けんいち)も、深いため息をついた。「お前が俺たちの本当の娘じゃなかったら、とっくに見放してるよ」 そして、葵を見つめたまま、ぽつりと言う。「本当に……お前は莉奈には遠く及ばないな」 葵は、ただ呆然と2人を見つめていた。 記憶はすべて失われている。自分が何者なのかも分からない。だからこそ、目の前にいる「両親」が自分に投げかける言葉を手がかりにするしかなかった。 夫には別に愛する女性がいること。そして、自分は何度も死のうとして、それでも誰にも振り向いてもらえなかったこと。 葵は、そんな言葉の断片から、失われた自分の人生を少しずつ拾い集めていくしかなかった。 自分は川澄家の一人娘だった。幼い頃に迷子になり、そのまま知らない人に連れて行かれてしまった。ようやく家族のもとへ戻された時には、すでに家には川澄莉奈(かわすみ りな)という養女がいた。 本来なら、自分を何よりも大切にしてくれるはずだった両親。けれど、2人の目に映るのは養女の莉奈ばかりだった。自分のためにあったはずの居場所も、いつの間にか莉奈に奪われていた。 やがて葵は、野崎グループの社長である野崎裕介(のざき ゆうすけ)に恋をした。けれど、その男の心にいたのも、やはり莉奈だった。 そして、あの夜の宴会。酔った裕介が部屋を間違え、葵を抱いた。 一夜の過ちの責任を取るように、裕介は葵と結婚した。けれど、その後も彼女に向けられるのは、冷たさと嫌悪ばかりだった。 両親からも、夫からも愛されていない。どれほど苦しくても、どうすることもできない。だから葵は、何度も自ら命を絶とうとしては、誰かに振り向いてもらおうとした。

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第1話
「そろそろ帰るわ。莉奈にお弁当を作らないといけないから」そう言って、貴子と健一は立ち上がった。「あんたはここで、少し頭を冷やしなさい」2人が病室を出て、扉が閉まった瞬間、葵の胸を鋭い痛みが突き抜けた。何も覚えていないはずなのに、世界中から見捨てられたような絶望だけが、あまりにも生々しく胸に残っている。どうして――どうして世の中には、実の娘よりも養女を大切にする親がいるのだろう。それに、裕介という男……部屋を間違えたのは彼だ。人違いをしたのも彼だった。それなのに、責任を取るために結婚してくれたのなら、どうしてもう少し優しくしてくれなかったのだろう。なぜ彼女を冷たく突き放し、追い詰めなければならないのだろう。考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。聞かされたばかりの、見知らぬ過去。それだけで、心臓を鈍い刃物で切りつけられているように痛むのに、記憶を持っていた今までの自分――来る日も来る日も、父にも母にも愛されず、夫にも顧みられない日々を送っていた自分は、いったいどれほど絶望していたのだろう。葵はゆっくりと上体を起こし、一人で退院の手続きを済ませた。けれど、病院を出たところで、足が止まった。どこへ行けばいいのか分からない。両親の家も、自分と裕介の家もどこにあるのかは分からない。そのことより悲しいのは――どちらの家にも、自分の居場所がないことだ。病院の入口で、突然ざわめきが起こった。葵が顔を上げると、細身で背の高い男が、華奢な女性を抱きかかえたまま、大股でこちらへ歩いてくるのが見えた。男は仕立ての良い黒いスーツを身にまとい、張りのある肩のラインがひときわ目を引く。整った顔立ちもさることながら、一歩一歩に人を圧倒するような存在感があった。その腕の中には、か細い女性が大切そうに抱かれていた。青白い頬を男の胸元に寄せ、女性はぐったりと身を預けている。男は何度も彼女の顔を覗き込み、その様子を確かめるように腕の力を微かに強めていた。その仕草には、彼女を誰にも渡したくないという強い独占欲さえ滲んでいる。歩幅もいつの間にか小さくなっていた。少しでも揺らして、彼女に負担をかけることがないように。「そこをどいてくれ」彼の声は決して大きくなかった。それでも、その一言だけで周囲の人々は彼を避けるように道を開けた。「ね
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第2話
弁護士からすぐ返信が届いた。【承知しました。早急に取り掛かります】葵はスマホをしまい、車の窓を流れていく景色に目を向けた。記憶を失ったのは、きっと神様がくれたチャンスなのだ。すべてを捨てて、ここから新しい人生を始めるためのチャンス。「家に戻らなくていいわ」ふと思い立ち、運転手に告げる。「役所へ行って」運転手は戸惑ったように一瞬固まり、ルームミラー越しに葵を見た。それでもすぐに気を取り直し、丁寧に答える。「承知しました、奥様」役所で、葵は海外移住について問い合わせし、必要な手続きを進めた。職員からは、すべての手続きが完了するまで半月ほどかかると説明した。申請書類をすべて提出し、車に乗り込もうとしたところで、葵はふと足を止めた。少し迷った末、運転手に声をかける。「運転手さん。今日のこと、裕介には言わないでください」運転手は一瞬黙り、ハンドルを握る手にわずかに力を込めた。「奥様……旦那様からは以前より、私どもが奥様のことを話題にしないよう、言われております」「……そうですか」葵は小さく苦笑した。――そこまで嫌われていたんだ。自分の名前さえ、聞きたくないと思われるほどに。……家へ戻ると、葵は玄関に立ったまま、ゆっくりと辺りを見回した。どこか懐かしいのに、知らない空気を感じてしまう。懐かしいと感じたのは、家具も、壁紙も、飾られた小物も、どれも自分の好みにぴたりと合っているからだ。きっとここを整えた頃の自分は、裕介との幸せな暮らしを心から夢見ていたのだろう。けれど、今のこの家には、人の気配がほとんどなかった。ソファに置かれた刺繍入りのクッションにそっと指を滑らせてから、葵は壁に掛けられた1枚の写真に目を向ける。結婚式の写真だった。そこには、裕介を見つめる自分が写っている。瞳には隠しきれないほどの愛情が滲んでいた。対する裕介の端正な顔には、冷たさしかない。葵は小さく首を振り、その場を離れて2階へ上がった。寝室に入ると、何気なく引き出しを開ける。すると、奥から革張りの日記帳が滑り落ちた。拾い上げて開く。最初のページには、酔ったまま書いたような、頼りない文字が並んでいた。【今日、裕介と結婚した。なのに、彼は何も言わず書斎へ行ってしまった。でも大丈夫。私は待てる】ページをめくる。そこに綴られ
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第3話
「明日は莉奈の誕生日よ。夜7時、ロイヤルホテルで」電話の向こうから、母の淡々とした声が聞こえた。「遅れないでね」「私、行かな――」「それじゃ」言い終わるより先に、電話はあっさり切れた。断る暇すら与えてもらえなかった。そして誕生日パーティー当日。葵は、手持ちの中でいちばんシンプルな黒のドレスを選んだ。会場に足を踏み入れた途端、真っ先に目に入ったのは、招待客に囲まれた莉奈と、何日も姿を見せなかった裕介だった。「莉奈さんって、本当に恵まれてるわよね」近くにいた女性客が、声を潜めて話している。「ご両親にも目に入れても痛くないほど可愛がられてるし、野崎社長まであんなに大切にしてるんだもの」「本当よ。今回のパーティーも、野崎社長が自ら手配したって聞いたわ。ほら、あのシャンパン。わざわざ海外から取り寄せたものらしくて、1瓶で何十万円もするんですって。お花だって、今朝海外から届いたばかりのものだそうよ。会場も、莉奈さんが好きな画家の絵をイメージして作り込んでいて、総額は億単位だとか」あちこちから聞こえてくる噂話に、葵は黙ってグラスに口をつけた。その視線の先にいるのは、裕介だった。今日の彼は黒のスーツに身を包み、シャツの襟元を無造作に開けている。覗く鎖骨と気だるげな佇まいが、どこか余裕のある色気を漂わせていた。そんな男が今は、莉奈の前にしゃがみ込み、ドレスの裾を丁寧に整えている。普段はあまり表情のないその顔に、柔らかな笑みまで浮かべていた。「それでは、川澄ご夫妻から娘の莉奈さんへ、お祝いの言葉をいただきましょう!」司会者の声が響く。健一と貴子が莉奈の両脇に並び、3人でステージへ上がった。健一は軽く咳払いをすると、会場を見渡した。「今日は皆さんに、ひとつ大切な報告があります」一呼吸置いて、健一ははっきりと言った。「川澄グループが保有する株式の60パーセントを、すべて莉奈に譲ることにしました」その瞬間、会場が大きくざわめいた。葵は手にしたグラスを握る指に、思わず力を込める。そのとき、裕介もステージへ上がった。ポケットから取り出したのは、ベルベットのジュエリーボックス。蓋を開けると、中にはダイヤのアンティーク指輪が収められている。「あれって、まさか野崎家の家宝なの?」会場から驚きの声が上がった。「あの指輪は、先
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第4話
葵は口紅を塗り直し、化粧室を出ようとしたところで、廊下の角を曲がった先に人影を見つけ、足を止めた。少し離れた場所で、裕介が莉奈を壁際に追い詰め、深く口づけている。裕介の長い指が莉奈の髪に差し込まれ、もう片方の手は腰を強く抱き寄せていた。莉奈は顔を上向かせ、その白い首筋が緩やかな曲線を描いている。どれほどそうしていたのか。ようやく裕介が唇を離すと、親指で莉奈の赤くなった唇をそっとなぞった。「これで満足か?」莉奈はその胸元に寄り添い、甘えるような声を出す。「裕介……私、やっぱり欲張りすぎるかな。もう家宝の指輪まで貰ったのに、それでもキスしてほしいなんて……お姉ちゃんが見たら、また傷ついちゃうよ。でも……私だって寂しくて、辛いの。あの出来事さえなければ、私たちは一緒になっていたはずなのに……」裕介の瞳に揺らぎはなかった。ただ莉奈をさらに強く抱き寄せる。「葵がどう思おうと、俺たちには関係ない。そもそも、俺はあいつが好きじゃない。これから先も、好きになることはない。俺が好きなのは、君だけだ。莉奈」そう言って、裕介は再び莉奈に唇を重ねた。その光景を、葵は物陰から見つめていた。心臓を、見えない手で力いっぱい握り潰されたようだった。息をするのも苦しい。葵はそっと胸元を押さえる。――これはきっと、昔の自分が彼を愛していた、その名残なのだ。この痛みも、残っている熱も消えてしまえば、すべては終わりだ。裕介と莉奈は、3分間近くキスをしてからようやく離れ、そのまま廊下の奥へと姿を消した。2人が完全に見えなくなってから、葵はようやく物陰から出た。深く息を吸い込み、乱れたドレスの裾を整える。預けていたバッグを受け取って帰ろう。そう思って宴会場へ戻った時、莉奈の声が聞こえた。「お姉ちゃん!」莉奈が駆け寄ってきて、葵の手首を掴む。「裕介が贈ってくれた指輪、どうして盗ったの?欲しいって言ってくれればあげたのに!」「……盗った?」葵は一瞬、何を言われているのか分からなかった。「何の話?」「まだシラを切るつもりなの?」莉奈の目が赤く潤んでいる。「私、さっき化粧室に行っただけなのに、戻ったら指輪がなくなってたの。スタッフの人も、お姉ちゃんが私のバッグの近くにいたって……」その声を聞きつけ、健一と貴子も駆け寄ってくる。事情
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第5話
その言葉が落ちた瞬間、会場は水を打ったように静まり返った。誰もが目を見開き、自分の耳を疑っている。あれほど裕介を愛し、彼のためなら命さえ投げ出しかねなかった葵が――「もう好きじゃない」と言ったのだ。一斉に注がれる視線の中、葵の前に立つ裕介だけは冷淡な表情を崩さなかった。瞳にも、わずかな揺らぎすらない。「その手の駆け引き、今までで何回目だ?」低い声には、隠そうともしない嘲りが滲んでいた。「何をしたって無駄だと、何度も言っただろ」裕介はわずかに身を屈めると、薄い唇を開いた。一語一語、葵の残された尊厳を踏みにじるように。「俺は君が好きじゃない。何を言われても、好きになることはない」その言葉を合図に、ようやく我に返った周囲から、ざわめきが押し寄せてくる。「やっぱりね。葵さんが、急に野崎社長への気持ちを捨てられるわけないもの」「そうよ。今まで、少しでも野崎社長に振り向いてもらおうとして、108回も自殺したって話じゃない」「まったく……哀れというか、なんというか」葵は指を強く握りしめた。爪が掌に食い込んでも、痛みなど感じなかった。違う。駆け引きなんかじゃない。本当に、もう好きじゃないのだ。そう言い返そうと口を開きかけた、そのとき――「皆さん、お騒がせして申し訳ありません」健一の厳しい声が響いた。「娘の教育が行き届いていなかったばかりに、盗みなどという恥ずべき真似をして、川澄家の名を汚してしまったようです」そう言うと、健一は冷たく手を振った。「こいつをホテルの冷凍倉庫へ連れていけ。一晩頭を冷やさせろ」葵の瞳が大きく見開かれる。「違う!だから、私は盗んでなんか――」必死に訴える声は、誰の耳にも届かなかった。2人の警備員が駆け寄り、葵の腕を乱暴につかむ。彼らを振りほどこうともがいた瞬間、後頭部に激しい衝撃が走った。「……っ!」警棒で殴られ、葵の身体が大きくよろめき、視界が一気に暗くなった。意識が途切れる寸前、葵の目に映ったのは裕介の姿だった。彼はただそこに立ち、冷たい目で葵を見下ろしている。眉ひとつ動かすことなく。しばらくして――葵は、凍えるような寒さの中で目を覚ました。睫毛には霜が張りつき、吐く息は白く煙っている。手足はすでに感覚がなくなるほど冷えきり、身体の中を流れる血まで
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第6話
次に目を覚ましたとき、葵は自宅のベッドに横たわっていた。扉の向こうから、やけに大きな笑い声とアニメの台詞が聞こえてくる。音量が異様に大きく、壁まで震えているようだった。葵は重い身体を起こし、扉を開ける。すると、リビングのラグに莉奈があぐらをかいて座り、両腕に抱えたお菓子を頬張りながら、テレビを見て大笑いしていた。「あ、お姉ちゃん起きた?」莉奈が振り返る。まだ笑いの残る顔で、わざとらしく首を傾げた。「ごめんね。アニメの音、うるさかった?」そう言いながら、ポテトチップスをわざと大きな音を立てて噛み砕く。「ここ数日、ちょっと胸が苦しくてね。こっちのほうは空気がいいから、裕介がしばらくここで療養したらって。少しの間、泊まらせてもらうね。お姉ちゃん、嫌じゃないよね?」葵は無意識にソファへ目を向けた。そこには裕介が座っている。細長い指で決算資料をめくり、金縁眼鏡の奥の目は冷静に書類へ向けられている。これだけテレビの音が響いているというのに、眉ひとつ動かさない。その瞬間、葵は日記に綴られていた言葉を思い出した。【今日も彼が怒った。隣でリンゴを食べていただけなのに、咀嚼する音が仕事の邪魔だから、出ていけって言われた。覚えておこう。これからは彼が書斎にいるとき、物音を立てないようにしなくちゃ】それなのに、今は――莉奈がポテトチップスの袋をくしゃくしゃと鳴らし、テレビでは大げさな戦闘音が響き渡っている。それでも裕介は、顔すら上げない。愛しているか、いないか。その違いは、こんなにもはっきりしているのだ。葵が何か言おうとした、そのとき。「もし、あの事故がなかったら」裕介が突然、淡々と口を開いた。視線は書類から離れない。「ここは莉奈の家だった」そして、冷ややかに続ける。「あいつは君の居場所を奪ったのに、わざわざ許可なんて取る必要はない」「そうね。私の許可を取る必要なんてないわ」葵は静かに答えた。「好きなだけいればいいんじゃない?」ページをめくろうとしていた裕介の指が、ほんのわずかに止まる。そして初めて顔を上げ、葵を見た。金縁眼鏡の奥で、目がわずかに細められる。――葵らしくない。これまでなら、取り乱して泣きわめくか、目を赤くしながら必死に涙を堪えるはずだった。こんなふうに、何事もなかったような顔で受け流すなんて、初
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第7話
看護師は何か言いたげな様子を見せたものの、結局は何も言わずに病室を出ていった。病室が静かになって間もなく、枕元のスマホが鳴った。画面を覗くと、表示されているのは裕介の祖父、野崎茂雄(のざき しげお)の名前だった。葵は思わず目を見開く。日記によれば、彼が野崎家で唯一自分のことを気にかけてくれた人物だった。電話に出ると、受話器の向こうから、年老いてはいるものの、力強い声が聞こえてきた。「葵、久しぶり。最近のことは全部聞いたよ、大変だったよな。でも心配するな、葵は裕介と結婚してるんだ、ちゃんと大切にしてもらわないと。じいちゃんが話をつけてやるよ」記憶を失ってからというもの、周りの善意と愛を感じたのは初めてだった。鼻の奥がつんと痛み、涙がこぼれそうになる。「大丈夫です、おじいちゃん。私は平気だから」「はぁ、葵は昔から、物分かりのいい子だった」茂雄は深いため息をついた。「本当は裕福な家のお嬢様なのに、幼い頃に連れ去られて、さんざん苦労したんだろう。それなのに実の両親はお前を気にかけるどころか、養女のほうばかり可愛がって……裕介もそうだ。お前があいつのためにあれほど尽くしてきたのに……気難しくて扱いにくいあいつのために、葵は一からマッサージを覚えただろう。あいつが欲しがっていた数量限定のティーセットだって、何十店舗も探し回ってようやく見つけた。裕介が胃出血して入院したときは、三日三晩ほとんど眠らずに付き添った。裕介の母親が亡くなったときだって、葬儀を一から取り仕切ったのはお前だった。それなのに、あいつときたら……お前の気持ちを少しも見ようとしない。いつか必ず後悔するぞ」葵は白い天井をぼんやり見つめた。どれも自分には覚えのないことなのに、話を聞いているだけで胸の奥がずきずきと痛んだ。「じいちゃんはこれから検査があるから、そろそろ切るね」最後に、茂雄は優しく言った。「何かあったら、遠慮せずにじいちゃんを頼りなさい。いつでも味方になってやるよ」通話が切れてから、ほどなくして病室の扉が勢いよく開いた。そこには裕介が立っていた。相変わらず隙のないスーツ姿に、冷え切った眼差し。「さっきまでアレルギーを起こしてたのに、今度はじいさんに泣きついて庇ってもらうのか?」低く冷たい声が病室に響く。「自殺したり、じいさんを頼ったり、俺に看
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第8話
退院の日、病室には誰もいなかった。葵には分かっていた。裕介はまた莉奈のところへ行ったのだと。結婚して3年になるというのに、裕介が自分のそばにいた日は片手で数えられるほどだった。もう慣れていた。葵は彼に連絡することなく、ただ海外移住の手続きが終わる日を待っていた。その間も、莉奈のSNSには次々と写真が投稿されていた。雪山でのスキー、異国の街での散策、南の島に沈む夕日――どの写真にも裕介が写り込み、その眼差しは目を背けたくなるほど優しかった。最新の投稿は、雪山の麓で撮られた一枚だった。裕介の長い指が莉奈のマフラーを整え、きゅっと結び直している。その胸元に寄り添う莉奈は、満面の笑みを浮かべていた。添えられていた言葉は、【彼は、世界を見せてくれるって】という一言だった。葵は何の感情もなくスクロールをした。まるで、見知らぬ誰かの近況を眺めているように。3日後。ようやく役所から電話があり、手続きがすべて完了したと告げられた。葵は離婚届に名前を記入し、パスポートを手に取ると、法律事務所に向かって離婚協議書と絶縁状を受け取った。これで準備は整った。ようやく、ここから離れられる。葵は離婚届と離婚協議書、それから絶縁状を丁寧に折りたたみ、封筒に入れると、バッグの一番奥にある内ポケットへしまった。ファスナーを閉じたその時、スマホの画面が突然明るくなった。莉奈からのメッセージだった。【お姉ちゃん、少し話さない?】【何を?】【裕介の奥さんになってもう3年だよね?そろそろ別れてくれない?】葵は口元に薄い笑みを浮かべた。そして、短く打ち込む。【言われなくてもそうするつもりよ】送信すると、スマホをそのままバッグに放り込み、荷物をまとめるために家へ向かった。玄関の扉を開けた時、いつもなら自動で灯るはずの照明がつかない。葵は眉を寄せ、暗闇の中で壁に手を伸ばした。スイッチを探した、その瞬間――後頭部に、激しい衝撃が走った。視界がぐらりと揺れる。意識が遠のいていく中、葵の耳に届いたのは、莉奈と、もう一人の男が話す声だった。……次に目を覚ましたとき、刺すような冷たい風が葵の頬を吹きつけていた。「……っ!」葵が勢いよく目を開ける。自分がどこにいるのか分からず、視線を巡らせた瞬間――息を呑んだ。自
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第9話
救急車の赤色灯が、夜の闇を切り裂くように明滅していた。裕介は莉奈の手を固く握りしめている。力が入りすぎて、指の関節は白くなっていた。莉奈は担架の上で小さく身を縮め、青ざめた顔には不安の色が濃く滲んでいる。その傍らでは健一と貴子も落ち着かない様子で付き添い、少しでも莉奈に異変がないか、絶えず気を配っていた。「まだ着かないのか?病院まであとどのくらいだ?」裕介は次々と目の前に現れる赤信号を苛立たしげに睨みながら、焦りを隠せず救急隊員に尋ねた。そのとき、莉奈が突然、2、3度咳き込んだ。「大丈夫だ。もうすぐ着くからな」裕介はすぐさま声をかけ、莉奈の身体をそっと抱き寄せては、背中をゆっくりと撫でた。莉奈は赤く潤んだ目で、そばにいる3人を見渡した。「裕介……お父さん、お母さん……もう二度とみんなに会えないんじゃないかって……怖かった……本当に怖かった……」その言葉に、貴子は胸が締めつけられるような思いになり、震える莉奈の背中を優しくさすった。「……もう、裕介くんに葵と離婚してもらえたら?あんたたちこそ夫婦になるべきなのよ。私たちも賛成するわ」そこまで言って、貴子は小さく息をついた。「葵も、もういい加減に目を覚ます頃でしょうし……」だが、その言葉を聞いた途端、莉奈は激しく首を横に振った。「だめよ……お姉ちゃんが傷ついちゃう……私、裕介のことは好き。でも、お姉ちゃんを悲しませたいわけじゃないの……」弱っている身でなお、誰かを気遣おうとする莉奈の姿に、裕介の喉が詰まった。胸の奥に、鈍い痛みが広がっていく。「お義父さん、お義母さん。俺、明日葵と話してみます」そう言って、裕介は莉奈の手を強く握り直した。「莉奈にこれ以上、我慢させるわけにはいかない」健一は深いため息をついたものの、結局何も言い返さなかった。莉奈がつい先ほど、生死の境をさまよったばかりなのだ。そんな彼女の願いなら、叶えてやってもいい――そう思った。30分後、救急車が救急棟の前に止まるや否や、待ちきれなかった裕介は莉奈を抱き上げ、そのまま病院の中へ駆け込んだ。莉奈を救急室へ運び込み、検査が始まるのを見届けてから、ようやく長椅子に腰を下ろす。何かを思い出したようにスマホを取り出すと、ロックを解除した。そして、葵の連絡先を見つける。裕介は迷うように画面を見つめたあ
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第10話
「裕介、本当に……本当に離婚するの?」莉奈は顔を上げた。青白い唇がかすかに震えている。その瞳には、隠しきれない喜びが滲んでいた。次の瞬間、彼女は裕介の胸に飛び込んだ。「私……もう一生、裕介と結ばれることができないって思ってた」裕介は一瞬、身体を強張らせたものの、すぐに細い肩を抱き寄せた。自分だって、莉奈のことが好きだ。ずっと彼女と結婚したいと思っていた。それなのに、胸の奥にふと鈍い痛みが走った。裕介は無意識に眉間を揉んだ。きっと一晩中ろくに眠っていないせいだ。だから、いつもより感情が過敏になっているのだろう。「今はゆっくり休め。体調が戻ったら、結婚しよう」背中を優しく撫でながら、声まで自然と柔らかくなる。そこへ医師が入ってくると、貴子がすぐに尋ねた。「娘は大丈夫なんですか?」「ご安心ください。お体には目立った外傷はありません。強いショックを受けただけで、安静にしていれば大丈夫でしょう」医師は聴診器を外しながら続けた。「念のため今夜一晩は入院して経過を見ましょう。明日、問題がなければ退院できます」それを聞いた健一も、肩からようやく力を抜いた。すると莉奈が裕介の袖をそっと引っ張った。「裕介、お腹空いちゃった……この近くにあるおにぎり専門店のおにぎりが食べたい」「分かった。少し待ってろ。今買ってくる」裕介は迷うことなく答え、立ち上がった。ちょうどそのとき、入口から1人の男が慌ただしく駆け込んできた。手にはまだ血が付いている。裕介は、彼が崖で葵を助けたボディーガードだと気づき、呼び止めた。「葵は?一緒じゃないのか?」男はわずかに目を見開いた。これまでの裕介は、葵がどこにいるかなど一度たりとも気にしたことがなかったからだ。「社長、奥様は私たちと一緒に病院へは来ていません」男は声を落とした。「ただ……先ほどもお伝えしましたが、奥様からのプレゼントはまだ車に置いてあります。社長への誕生日プレゼントだそうです。今、ご覧になりますか?」裕介の足が止まった。そういえば、葵がプレゼントを用意したと言っていた。だが、葵がプレゼントを贈ってくること自体は、何も珍しいことではない。この数年間、彼女は毎年のように自分へプレゼントをしてきた。そして裕介は――そのどれにも、ろくに関心を向けたことがなかった。昨夜の電話
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