LOGIN結婚して3年。野崎葵(のざき あおい)は、これまでに108回も自ら命を絶とうとしていた。 そして108回目の自殺未遂のあと、葵が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。目を開けても、頭の中は真っ白だった。 何も思い出せない。自分が誰なのかさえ、分からなかった。 ベッドの脇には、中年の男女が2人並んで座っている。葵が目を覚ましたことに気づくと、2人は揃って眉をひそめた。 「葵、いつまでこんなことを繰り返すつもりなの?」 女性――川澄貴子(かわすみ たかこ)は、心配するどころか、苛立ちを隠そうともしなかった。「そもそも、裕介くんが好きなのは莉奈でしょう。あの時、酔った勢いで部屋を間違えたりしなければ、あなたと結婚することだってなかったのよ。 裕介くんがあなたを愛してないことくらい、分かってるでしょう?家に帰りたがらないのだって当たり前よ。それなのに、あなたは何度も『死ぬ』なんて言って、あの人を引き止めようとする。もう何年も同じことを繰り返してるじゃない」 一度息をついてから、冷たい声で続ける。「あなたが死のうとした時、裕介くんが一度でも駆けつけてくれた?」 「……そうだな」隣にいた男性――川澄健一(かわすみ けんいち)も、深いため息をついた。「お前が俺たちの本当の娘じゃなかったら、とっくに見放してるよ」 そして、葵を見つめたまま、ぽつりと言う。「本当に……お前は莉奈には遠く及ばないな」 葵は、ただ呆然と2人を見つめていた。 記憶はすべて失われている。自分が何者なのかも分からない。だからこそ、目の前にいる「両親」が自分に投げかける言葉を手がかりにするしかなかった。 夫には別に愛する女性がいること。そして、自分は何度も死のうとして、それでも誰にも振り向いてもらえなかったこと。 葵は、そんな言葉の断片から、失われた自分の人生を少しずつ拾い集めていくしかなかった。 自分は川澄家の一人娘だった。幼い頃に迷子になり、そのまま知らない人に連れて行かれてしまった。ようやく家族のもとへ戻された時には、すでに家には川澄莉奈(かわすみ りな)という養女がいた。 本来なら、自分を何よりも大切にしてくれるはずだった両親。けれど、2人の目に映るのは養女の莉奈ばかりだった。自分のためにあったはずの居場所も、いつの間にか莉奈に奪われていた。 やがて葵は、野崎グループの社長である野崎裕介(のざき ゆうすけ)に恋をした。けれど、その男の心にいたのも、やはり莉奈だった。 そして、あの夜の宴会。酔った裕介が部屋を間違え、葵を抱いた。 一夜の過ちの責任を取るように、裕介は葵と結婚した。けれど、その後も彼女に向けられるのは、冷たさと嫌悪ばかりだった。 両親からも、夫からも愛されていない。どれほど苦しくても、どうすることもできない。だから葵は、何度も自ら命を絶とうとしては、誰かに振り向いてもらおうとした。
View Moreレストランの前で車を停めると、智彦はシートベルトを外し、助手席の葵を振り返った。「葵さん。今日の僕、かなり頑張ったと思いませんか?お礼をしてほしいくらいです」葵は手にしていた書類を閉じ、智彦を見つめる。「なぜですか?」「僕、婚約者役を完璧に演じましたし、あなたの元旦那まで無事に追い払ったんですから」「……やっぱり、私のこと調べたんですか?」葵はわざと怒ったような顔をする。智彦と仕事で何度か顔を合わせるうちに、2人の距離はいつの間にか縮まり、今では気兼ねなく冗談を言い合えるようになっていた。それでも、裕介のことまで知っていたのが気になった。「あなたのことは少し調べればすぐに分かったんです。難しいことではなかったですからね」智彦は肩をすくめる。「それより、今日の僕には功労賞くらいあってもいいんじゃないですか?」その調子にも、葵はもうすっかり慣れていた。「はぁ、分かりました。お礼、何がいいですか?」「食事に付き合ってください。新しくオープンした、このレストランで」そう言うなり智彦は車を降り、反対側へ回って葵のドアを開ける。そして、手を差し出した。思ったより簡単なリクエストで、葵は思わず笑ってしまう。「分かりました。付き合います」2人はそのまま、レストランの中へ入った。……食事も半ばに差しかかった頃、智彦が突然箸を置いた。いつになく真剣な表情で、葵を見つめる。「実は今日、僕の誕生日なんです」「そうなんですか?」葵は目を丸くした。「早く教えてくれれば、プレゼントを用意したのに」「いいんです」智彦はすぐに遮った。「でも……せっかくの誕生日だから、一つだけお願いを聞いてくれませんか?」その真剣な顔を見て、葵はなぜか断れなかった。「……いいですよ」智彦は小さく息を吸う。そして、まっすぐ葵を見つめた。「葵さんのことが好きです」その声は穏やかだった。けれど、そこには迷いがなかった。「初めて空港で会ったときから、あなたのことが気になっていました。そのあと何度も会って、話して……知れば知るほど、この気持ちは間違いないって思うようになりました」一度言葉を切り、智彦は静かに微笑んだ。「だから、僕と付き合ってくれませんか?誰に遠慮することもなく、堂々とあなたの隣に立ちたいんです」葵は言葉を失った。まっすぐ
飛行機に乗り込むと、裕介は急に強い眠気に襲われた。だが、眠りは浅く、落ち着かない。ときおり、うわ言のような声が漏れる。「ごめん……俺が悪かった。だから戻ってきてくれ……もう一度、俺と結婚してくれ」「葵……どこにいるんだ……」低く掠れた声は、寝言なのか、それとも誰かに訴えかけているのか分からない。隣に座る秘書は、下手に声をかけて機嫌を損ねるのも怖く、ただ黙って気配を消していた。それから30分ほど経った頃、裕介ははっと目を覚ました。頭の奥が鈍く痛む。ひどく長い夢を見ていたような気がするのに、どこまでが夢で、どこからが現実なのか、うまく思い出せない。夢の中では、まだ仕事の最中だった。そこへ葵から電話がかかってきた。――「今夜、何時に帰ってくる」と尋ね、夕食に、裕介の好きなトマト煮込みを作ると言っていた。スマホの画面には、確かに葵からの着信が表示されていた。裕介は仕事を切り上げ、急いで家へ戻った。家に着いたのは、夜の7時。キッチンでは、葵が慣れた手つきで料理をしていた。裕介はその背中に近づき、抱きしめようと手を伸ばす。けれど――腕の中は空っぽだった。振り返っても、そこに葵の姿はない。そこで、裕介は目が覚めた。目尻はいつの間にか濡れていた。周囲を見回して、ようやく自分が飛行機の中にいることに気づく。胸の奥に、濃い後悔が押し寄せてくる。もし、もう一度やり直せるのなら、自分は、絶対に葵をあんなふうに扱わなかった。何があっても彼女の手を離さず、今度こそ一生そばにいる。けれど、時間を巻き戻すことなどできない。過去をやり直す機会は、もう二度と与えられないのだ。……飛行機が着陸すると、裕介はすぐに葵の家へ向かった。目的地の近くまで来たところで、ふと視界の端に男の姿が映った。車にもたれ、誰かを待っているらしい。裕介は彼を一瞥しただけで視線を逸らした。だが、男のほうは隠すことなく、裕介をじっと見ている。裕介が眉をひそめた、そのときだった。家の扉が開き、見覚えのある女性が姿を現した。葵だった。シンプルな白いワンピースに身を包み、薄く化粧を施した顔は、以前よりずっと明るく見える。「葵!」裕介は、すぐ彼女のもとへ駆け寄った。葵の足が止まる。目の前に立つ裕介は、以前より明らかに
裕介は震える手でスマホを握りしめた。やがて、勢いよく顔を上げる。「じゃあ……誕生日パーティーのとき、葵が盗みを働いたって濡れ衣を着せたのも、君だったのか?それだけじゃない。あのときのアレルギーも、火傷も……全部君が仕組んだのか?莉奈……どうしてそんなにひどいことを……」莉奈の顔が真っ青になった。思わず後ずさり、その拍子に背後の花瓶へ身体がぶつかる。ガシャン――!花瓶が床に落ち、派手な音を立てて砕け散った。「私はただ、裕介のことが好きで……」莉奈は泣きながら首を振る。「お姉ちゃんはいつも余裕ぶって、何も気にしてないような顔をして……だから、裕介に本当の彼女を分かってほしくて……」その言葉を聞いた瞬間、裕介の堪忍袋の緒が切れた。パシンッ!乾いた音が響く。裕介の手が、莉奈の頬を強く打った。莉奈はその場に崩れ落ち、頬を押さえながら呆然と裕介を見上げる。「裕介……私を殴ったの?お姉ちゃんのために?」信じられないという顔だった。「お姉ちゃんのことが好きじゃないって言ってたのに!裕介、あなたこそ最低の人間よ!」その叫びを聞いて、裕介の胸に込み上げたのは怒りよりも、深い失望だった。「……これまで、俺はずっと君を大事にしてきた。川澄家だって、君を実の娘と同じように育ててきた。君は何も奪わなくても、十分幸せに生きられたはずだ」裕介は莉奈を見下ろした。「莉奈。俺は、君を信じていた。それが間違いだった」その言葉を聞いた途端、さっきまで怯えていた莉奈の表情から、ふっと恐怖が消えた。彼女はゆっくりと顔を上げる。「裕介……まさか、今でもお姉ちゃんがいなくなったのは私のせいだと思ってるの?」その声には、もう涙の気配すらなかった。「お姉ちゃんは昔から、私よりいい暮らしをしてきた。だから、ずっと嫌いだったの。どうして私が欲しいものを、あの人は当たり前のように持ってるの?それが理解できなかった。だから私は、彼女が大切にしてるものを全部奪った。親も、あなたも」莉奈は薄く笑った。「でもね、やっぱり女のことは女が一番よく分かるの。お姉ちゃんがあなたから離れたのは、あなた自身のせいよ。あなたが彼女を何度も傷つけたから、もう完全に愛想を尽かしたの。裕介、小さい頃から何でも手に入れてきたあなたでさえ、愛する人を失うと、や
空港へ向かう途中だった。そのとき、突然、莉奈から電話がかかってきた。裕介は画面に表示された名前を見つめ、苛立ちを隠せないまま通話を繋ぐ。「……どうした?」「裕介、私、お姉ちゃんがどこにいるか分かったの!でも……先に家に来てくれる?電話じゃうまく説明できないから」裕介はスマホを握る手に力を込めた。「分かった、20分後に着く」川澄家の邸宅は、夜の闇の中で不自然なほど明るく照らされていた。裕介が玄関前の階段を上ると、莉奈が駆け寄り、そのまま胸に飛び込んできた。甘い香水の匂いが鼻をかすめ、裕介は思わず眉をひそめた。「葵の居場所が分かったって?」さりげなく身体を離す。「うん、ちゃんと話すから、まずは落ち着いて。実はね……友達に頼んで調べてもらったの。お姉ちゃん、今H国にいるみたい。それに……男の人とかなり親しそうにしてるって」その言葉に、裕介の心臓が大きく跳ねた。探偵が突き止めた行き先と一致している。だが――莉奈の言った「男」というのは誰だ?友人なのか。それとも、葵の新しい恋人なのか。次々と疑問が浮かび、頭の中を駆け巡る。裕介は莉奈の手首を掴んだ。思わず力が入り、莉奈が痛みに顔を歪める。「具体的な場所は?知ってるのか?」「痛っ……!裕介、何するの?痛いよ!」莉奈の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。「お姉ちゃんのことはもちろん、裕介のことだって心配で……」「葵の居場所を教えろ!」怒声が響き、吹き抜けのクリスタルシャンデリアがかすかに揺れた。莉奈は怯えたように裕介を見上げる。「……どうしてそんなに必死になってお姉ちゃんを探すの?」「それを聞いてどうするんだ!やっぱり、何も知らないんだな?」裕介の声は、凍りつくように冷たかった。「どうして……そんなに怒るの?」莉奈は涙を拭いながら、震える声で問いかける。「もう私のこと、好きじゃないの?」そして、しゃくり上げながら一歩、また一歩と裕介に近づいた。「ねえ、裕介。お姉ちゃんのこと、全然好きじゃないって言ってたでしょ?やっぱりあれは嘘だったの?」裕介は答えなかった。その沈黙を感じた瞬間、莉奈の表情が崩れる。「何か言ってよ!」莉奈は取り乱したように裕介の胸を何度も押した。「やっぱりお姉ちゃんが好きになったの?」そのときだった。莉奈の手からスマホ