All Chapters of もう、あなたを待つ港じゃない: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話

【届け先:汐見ベイレジデンス17号棟1203号室】【備考:必ず本人が受け取ること。家族への引き渡し不可】私、高瀬凪紗(たかせ なぎさ)はその一文を、しばらく見つめていた。【必ず本人が受け取ること】そこまで念を押して届けたい相手がいるらしい。黒崎直哉(くろさき なおや)と結婚して6年。直哉は航海に出るたび、家の鍵を玄関の2段目の引き出しに入れていった。「凪紗、家のことは任せたからな」私は義父母の世話をし、各種手続きの書類を揃え、乗組員の家族への連絡も代わりにしてきた。私にはいつも、「任せた」の一言だけだった。けれど、別の誰かに送る荷物には、受け取り方まで細かく気を配っている。私はもう一度、見知らぬ住所を見た。テーブルの上でスマホが震えた。直哉からメッセージが届いていた。【今スエズ運河を抜けたところ。電波が悪い】私は一言だけ返した。【そう】こんなにそっけない返事が来るとは思わなかったのだろう。少しして、またメッセージが届いた。【今日は、飯食ったかって聞かないのか?】私は航海記録の台帳を閉じた。【食べた?】返事はすぐに来た。【食べた】画面を見ながら、私は小さく笑った。電波が悪いわりに、こういう返事だけはずいぶん早い。翌日の午前中、私は汐見ベイレジデンスへ向かった。汐見市でも指折りの高級オーシャンビュー・レジデンスで、港までは車で10分ほどだった。入口の警備員に、訪問先を尋ねられた。私はスマホに保存してあった荷物のリストを見せた。「17号棟1203号室です。荷物の確認に来ました」警備員は備考欄を見ると、すぐに態度を改めた。「少々お待ちください。1203号室の水原さんなら、ちょうどご在宅です」水原さん。その名前を、私は頭に刻んだ。エレベーターで上がっている途中、直哉からビデオ通話がかかってきた。出なかった。続けて3回かかってきた。4回目はメッセージだった。【どこにいる?】私は返した。【買い物】すぐに返事が来た。【あまり出歩くなよ。俺がいないと、お前じゃ対処できないことも多いんだから】エレベーターの扉が開いた。同時に、17号棟1203号室のドアも開いた。女はシルクの部屋着をまとい、首にはあの波をモ
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第2話

澪は、まさかそんな返しをされるとは思っていなかったらしい。ゆっくりとネックレスを外し、ローテーブルの上に置いた。「欲しいなら、持って帰れば?」私は手を伸ばさなかった。澪は続けた。「でも、物だけ持って帰って何になるんですか?直哉が海の上で会いたいと思ってるのは、結局私ですよ」そんな言葉は、もう私には刺さらなかった。自分だけが特別だと思い込んでいる女の、独りよがりな芝居にしか見えない。私は立ち上がった。「それ、しばらく預かってて。なくさないでね」澪が眉をひそめた。「どういう意味ですか?」「そのうち、確認する人が来るから」玄関まで来たところで、またスマホが鳴った。直哉からだった。電話に出るなり、いきなり問い詰められた。「凪紗、お前、汐見ベイレジデンスに何しに行った?」私は振り返り、澪を見た。澪はうつむき、すでにもう一台のスマホを操作していた。ずいぶん早い。「どうして知ってるの?」直哉は一瞬黙った。「澪から、知らない女が押しかけてきて絡まれたって連絡があった。お前だと思ったんだ」「そう?あなたがダイヤを贈る相手なら、妻の私も知っておいたほうがいいと思って」電話の向こうがしばらく静かになった。やがて、直哉は苛立ちを押し殺した声で言った。「あれは仕事関係の贈り物だ。変な勘繰りするな」「仕事関係?」「澪は東洋海運の港湾PRを手伝ってる。取引先みたいなものだ」思わず笑いが漏れた。「取引先に、わざわざダイヤを送って、受け取り方まで細かく指定するんだ?」直哉の声が冷たくなった。「凪紗、俺は船の上にいるんだ。こっちにまでお前の感情を持ち込まないでくれ」私はそのまま電話を切った。夜になると、直哉の母がやって来た。よほど慌てていたのか、玄関で靴を脱ぐのもそこそこに入ってきた。「澪さんのところへ行ったんだって?」私はキッチンで鍋を火にかけていた。「直哉から聞いたんですか?」直哉の母はバッグをソファに放り投げた。「直哉があんなに困ってるのに、誰から聞いたかなんてどうでもいいでしょう。凪紗さん、最近ちょっとわがままが過ぎるんじゃない?」「夫がほかの女にダイヤを贈ってるのに、私がわがままなんですか?」直哉の母の顔が険しくなった。「
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第3話

直哉が帰港したのは、5日後だった。私は港まで迎えに行かなかった。以前なら、直哉が帰ってくる3日前から準備を始めていた。シーツを新しいものに替え、冷蔵庫には彼の好きなものを詰め、車には酔い止めや胃薬を用意していた。けれど今回は、家で台帳を整理していた。玄関の鍵が開く音がしたとき、私はちょうどマルセイユ港のページをパソコンに取り込んでいるところだった。直哉は制服姿のまま、キャリーケースを引いて入ってきた。テーブルの上の台帳が目に入った瞬間、その顔が険しくなった。「凪紗、お前、俺のこと調べてるのか?」「調べられたら困る?」直哉は帽子をソファに放り投げた。「今、船を降りたばかりなんだぞ。帰って早々、喧嘩する気か?」「喧嘩してないけど」彼は近づいてくると、私の手元から台帳を取り上げた。「これ、どこから持ってきた?」「家族用の控え。もともと私が預かってるものよ」直哉は不機嫌そうに私を睨んだ。「これから船のものには勝手に触るな」私は笑った。「船の補給ルートを使って水原さんにダイヤを送ったときは、船のものに勝手に触るなって思わなかったの?」直哉は言葉に詰まった。しばらくして、言い方を変えた。「あのジュエリーは、お前が思ってるようなものじゃない」「じゃあ、どういうもの?」「澪には昔、世話になったんだ。この数年いろいろ大変だったし、ただプレゼントをしただけだ」「水原さんにはダイヤを贈って、私には何をくれたの?」直哉の顔に苛立ちが浮かんだ。「いちいち澪と比べる必要あるか?」私は何も言わなかった。直哉は荷物の中を探り、一つの袋をテーブルに置いた。「お前にも買ってきた」中に入っていたのは、マグネットだった。港の土産物店で売っているもので、裏には値札までついたままだった。2ユーロ。私はそれを袋に戻した。直哉の表情がさらに曇った。「また気に入らないのか?」「これで喜ぶと思った?」直哉は眉間を揉んだ。「凪紗、俺は海の上でずっと気を張ってるんだ。澪は海運のことも分かってるし、俺が仕事でどれだけ大変かも分かってる。お前は毎日、そんな細かいことばかり気にして、何になるんだ?」彼にとっては、波をモチーフにしたダイヤのジュエリー一式も、どうでもいい些
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第4話

翌日、東洋海運が直哉の帰港を祝うささやかな食事会を開いた。朝早く、直哉の母から電話がかかってきて、来るよう強く言われた。「あなたが来なかったら、周りが直哉をどう見ると思ってるの?」私は聞いた。「水原さんも来るんですか?」直哉の母は苛立った声を出した。「澪さんは仕事の関係者なんだから、来るに決まってるでしょう。そんなことでいちいち張り合わないの」私は会場へ行った。黒いロングドレスを着て、結婚指輪は外した。会は港近くのホテルで開かれていた。個室に入ると、澪は直哉の左隣に座っていた。白いワンピースを着て、首にはあの波をモチーフにしたダイヤのネックレス。イヤリングもつけていた。一式、すべて揃っていた。私に気づいた直哉の母が、すぐに手招きした。「凪紗さん、早くいらっしゃい。あなたはそっちに座って。入口に近いほうがお料理も運びやすいでしょう」直哉は何も言わなかった。澪が顔を上げ、薄く笑った。「凪紗さん、誤解しないでくださいね。このジュエリー、今日は撮影で使うことになってるんです。直哉が、しばらく私が預かってていいって」すると、テーブルを囲んでいた何人かが面白がるように声を上げた。「黒崎船長、センスいいな。この波のデザイン、水原さんにすごく似合ってる」「やっぱり船長のことは、海が分かる人じゃないと分からないよな」「奥さんも妬かないでくださいよ。水原さんは身内みたいなものでしょう」直哉はグラスを持ち上げた。「おい、そのくらいにしろ。変なこと言うな」そう言いながら、口元には笑みが残っていた。私は入口近くの席に座った。スタッフが私の前に冷たい魚介の前菜を置いた。私は胃が弱く、冷たい魚介は食べられない。昔の直哉は、それを知っていた。今、その直哉は澪の皿に温かい料理を取り分けていた。澪がグラスを手に、私のところまで歩いてきた。「凪紗さん、乾杯しましょう。前に直哉から、家でご両親のお世話をしていて大変だってよく聞いてました。私、すごいなって思ってたんです」私は彼女のネックレスを見た。「ほかには、何て言ってたの?」澪の目に笑みが浮かんだ。「凪紗さんは何でもちゃんとしてるけど、直哉の心の中にある海だけは分からないって、いつも言ってました」一瞬、場が静まり返った。すぐに誰
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第5話

直哉の顔からさっと血の気が引き、すぐにその紙を奪おうと手を伸ばした。私は身をかわし、ゆっくりと書類を広げた。私の署名を真似た文字は、不自然に歪んでいた。その脇には、私の書斎にしか置いていない家族確認印まで押されていた。直哉が勝手に引き出しを開け、持ち出して使ったのだ。直哉の母が慌てて駆け寄り、私の腕をつかんだ。「早く直哉に返しなさい!船の手続きなんてあなたには分からないんだから、人前で恥をかかせないで!」澪も穏やかな声で口を挟んだ。「凪紗さん、直哉はもうすぐ統括船長に昇格するんですよ。お互い少しずつ譲ればいいじゃないですか。彼の将来まで潰すことないでしょう?」テーブルを囲む全員の視線が、私に集まっていた。面白半分に見ている人もいれば、なだめようとする人もいた。けれど、私の側に立つ人は一人もいなかった。直哉は眉間にしわを寄せ、威圧するような口調で言った。「凪紗、こんな些細なことでいつまでも騒ぐな。俺と別れたら、お前には何も残らないんだぞ」私は書類を折ってバッグにしまい、直哉を見た。「あなたと別れたら、私には何も残らない?」少し間を置いた。「直哉、あなたは一度だって、私のことをちゃんと知ろうとしなかったよね。父は、オーシャン・ブルー号の当初からの出資者だった。父が亡くなったあと、この船の収益に関する権利も、船員家族向け制度を監督・監査する権限も、すべて私が引き継いだの。補給の一件一件も、家族向け補助金の支給も、私はすべて調べられる。誰かが私の名義を勝手に使って高額品を受け取ったり、生活支援の補助金を不正に申請したりすれば、私から東洋海運に正式な調査を求めることができる。その場合、船長の昇格審査を止めることも、必要なら運航を止めて調査することもできる」言い終わった瞬間、個室は水を打ったように静まり返った。ついさっきまで直哉を持ち上げ、澪にはあの波のダイヤが似合うとはやし立てていた人たちも、誰一人口を開かなかった。澪は反射的に首元のネックレスを押さえた。顔は真っ青だった。私の腕をつかんでいた直哉の母の手も、力が抜けるように離れた。その場に立ち尽くしたまま、何も言えない。直哉の声が震えた。「お前……どうして今まで、何も言わなかったんだ?」「6年間、航海から戻ってきても、
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第6話

その夜、私はゲストルームへ移った。直哉がドアのところに立っていた。「凪紗、別々に寝るのはやめよう」私はベッドを整えながら言った。「あなたが海に出てる10か月間、もともとずっと一人で寝てるけど」直哉は何も言えなくなった。しばらくして、声を和らげた。「ダイヤは澪に返させる」「もういらない」「じゃあ、新しいのを買う」「必要ない」直哉は部屋に入り、私が持っていた掛け布団カバーを取ろうとした。私は避けた。その顔に苛立ちが浮かんだ。「じゃあ、どうすればいいんだよ。俺はもう譲ってるだろ」「離婚したい」直哉はじっと私を見た。「お前に監査する権限があるとしても、俺たちは6年も夫婦だったんだぞ。そこまで徹底的にやり合う必要があるのか?」私は枕を整えた。「同じこと、二度も言わせないで」直哉は鼻で笑った。まだ私が意地を張っているだけだと思っているらしい。「現実はそんな簡単じゃない。お前が一時の感情で意地になったところで、何か変えられると思ってるのか?」私はもう返事をしなかった。私の意思が変わらないと分かると、直哉もそれ以上は言わず、一人で船へ戻っていった。あの会食のあとも奈緒はずっと気にしていたらしく、2日後、私を飲みに誘った。けれど、その日は奈緒自身は酒を飲まなかった。代わりに、一つのUSBメモリを私の前へ押し出した。「凪紗さん、ずっと迷ってたんですけど……やっぱり渡しておこうと思って」「何が入ってるの?」「マルセイユ港での補給品の受け渡し記録です。あの委任書、夫も一度目を通してて。何かおかしいと思ったみたいで、スキャンを残してたんです」奈緒はグラスを握った。「今日、黒崎船長が夫を呼び出したんです。船には余計なことを喋る人間はいらないって」胸の奥が重くなった。「巻き込んじゃったね」奈緒は首を振った。「凪紗さんのせいじゃないです。船の人たちはみんな、黒崎船長が水原さんに船の映像を見られるようにしてたの、知ってます。ただ、誰も言えなかっただけで」「船の映像?」奈緒は周りを確認してから、声を落とした。「水原さんが受け取ってたのは荷物だけじゃないんです。オーシャン・ブルー号が入港する前になると、黒崎船長が補給場所や停泊位置、入港予定時刻を先に教えてたんで
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第7話

「船に関する監査権限を全部お前が持ってるのは分かった。今回の調査申請、取り下げられないか?」「6年間、父が遺したものには一度も興味を持たなかったのに、問題が起きた途端、私の権限が怖くなったんだね。もう遅いよ」直哉は通知をテーブルに置いた。その顔には、初めて本当の焦りが浮かんでいた。「凪紗、このまま調べさせるのは駄目だ」「昇格に響くのが怖い?」「違う」直哉は少し間を置いた。「船全体に影響が出る」私はじっと彼を見た。「やっと、自分以外にも船のみんながいるって思い出したんだ」直哉は近づいてきて、私の肩をつかんだ。「一度だけ、俺の言うことを聞いてくれ。澪のことは俺が片づける。渡したものも全部取り戻す。だから申請を取り下げてくれ」「取り下げたら、また私の印鑑を勝手に使うの?」直哉の顔が灰色になった。「俺が悪かった」彼が自分の非を認めたのは、これが初めてだった。けれど、私を傷つけたからではない。私の手に、彼を慌てさせるだけの権限があると分かったからだった。澪から会いたいと連絡が来た。場所はまた、汐見ベイレジデンスの一階にあるカフェだった。ダイヤのジュエリーは身につけていなかったが、手首にはあの波をモチーフにしたブレスレットがあった。「凪紗さん、なかなかやりますね」私は席に座った。「あなたも、ずいぶん大胆だね」澪は笑った。「直哉から全部聞いたんですか?」「何を?」澪は椅子の背にもたれた。「直哉、もうすぐ統括船長に昇格するんですよ。今こんなことをしたら、彼の将来も、自分の生活も駄目にするだけじゃないですか」「私の生活なら、もう十分めちゃくちゃにされてるよ」澪の顔が曇った。「本気で離婚するつもりなんですか?」「うん」澪は私をじっと見た。「じゃあ、何が欲しいんです?お金?家?それとも、直哉に土下座でもさせたい?」私は水を一口飲んだ。「本当のことが知りたいだけ」澪は鼻で笑った。「本当のことなら簡単ですよ。直哉はもう凪紗さんを愛してない。でも、妻にしておくなら凪紗さんが都合いいんです。大人しくて、言うことを聞いて、ご両親の面倒も見てくれる。直哉に面倒をかけないから」「ずいぶん嬉しそうだね」「そりゃ嬉しいですよ。私は一人で帰りを待たなくていい
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第8話

「向こうから会いたいって言ってきたの」「澪、泣いて息もできないくらいだったぞ。お前に録音で脅されたって言ってた」私はスマホを開き、カフェでの録音を再生した。澪の、「直哉はもう凪紗さんを愛してない」という声が流れた瞬間、直哉の顔が険しくなった。さらに、「私は何もしなくても、直哉に大事にしてもらえるんです」というところまで来ると、直哉が低い声で言った。「止めろ」私は再生を止めた。直哉はソファに腰を下ろし、しばらく何も言わなかった。私はそのまま荷物をまとめ続けた。やがて、直哉が聞いた。「どこに行くんだ?」「ここを出る」「ここは俺たちの家だろ」「もうすぐ違う家になるよ」直哉は立ち上がった。「凪紗、澪のことは俺が何とかするって言っただろ。まだ何が不満なんだ?」私はキャリーケースのファスナーを閉めた。「あなたには、水原さんをどうにかできないよ」「できる」「できない。手放せないから」直哉の顔から血の気が引いた。そのとき、スマホが鳴った。澪からだった。直哉は画面を見つめたまま、出なかった。いったん切れた。すぐに、また鳴った。それでも直哉は出なかった。私はキャリーケースを引き、玄関へ向かった。直哉が焦ったように声を上げた。「ほら、出てないだろ」私は玄関で足を止めた。「もう遅いよ」私は港近くのホテルに移った。東洋海運の調査が始まって3日目。担当者から連絡があり、本社へ来るよう言われた。会議室のテーブルには、マルセイユ港の現地代理店から届いた回答書、補給伝票、受け取り時の映像が並べられていた。映像には、マスクをつけた澪が荷物を受け取る姿が映っていた。署名したのは、自分の名前ではなかった。私の名前だった。そばにいた担当者から家族確認印を渡されたとき、澪は笑いながらこう言っていた。「黒崎船長から聞いてます。奥さんも了承してるって」担当者が別の資料を開いた。「高瀬さん、もう一点、確認していただきたいものがあります」船員家族向けの慰問品リストだった。東洋海運では毎年、遠洋航海に出る船員の家族へ、世帯ごとに慰問品を支給していた。私の分は、3年続けて受取済みになっていた。直哉が澪に渡していたのは、プレゼントだけではなかった。私にしかないはずの
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第9話

直哉は何度か唇を動かした。「俺は、こんな申請をしろなんて言ってない」担当者が言った。「ですが、申請に使われたのは黒崎船長ご本人のアカウントです。認証コードも、ご本人の携帯電話に送信されています」直哉は黙り込んだ。私は彼を見た。「じゃあ私、この数年ずっと汐見ベイレジデンスに住んでたことになってたんだ?」「澪が、あの頃住むところがないって言うから……少しの間だけ助けてやろうと思ったんだ」私は笑った。「私の名前を使って?」直哉はうつむいた。「何回か補助金を使うだけだと思ってた。まさか調べられるなんて……」担当者の表情が険しくなった。「黒崎船長、発言にはお気をつけください。船員家族向けの補助金は専用予算から支給されるものです。あなた個人のお金ではありません」そこでようやく、直哉は自分がまずいことを口にしたと気づいたらしい。私を見て、声を落とした。「凪紗、本当にお前を傷つけるつもりはなかったんだ」「じゃあ、私のことを考えたことはあった?」直哉は答えなかった。答えられないのだろう。答えは、あまりにも惨めだった。そのとき、会議室のドアが再び開いた。スタッフに付き添われ、澪が入ってきた。直哉の姿を見るなり、その目が赤くなった。「直哉、私、あの補助金を使っちゃいけないなんて知らなかった。申請していいって言ったから、私……」直哉の顔が険しくなった。「俺がいつ、申請していいなんて言った?」澪は焦った。「凪紗さんはそんなこと気にしないって言ったじゃない!家では何でも直哉の言うことを聞くって!」澪は振り返り、私を指さした。「これで満足ですか?直哉を潰して、私に全部返させたいだけでしょう?」「物は返してもらう。お金もね」澪の顔が引きつった。担当者はその場で告げた。「水原さん、不適切に受け取った物品および費用については、すべて返還を求めます。また、当社との業務提携も当面停止します」澪の手からバッグが落ちた。直哉には、一時的な乗船停止が命じられた。オーシャン・ブルー号を船長不在のままにはできないため、東洋海運は一等航海士に船長代行を任せることにした。その話が船員家族のグループチャットに広まると、たちまち騒ぎになった。何があったのかと尋ねる人もいれば
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第10話

「分かった」30日くらいなら、待ってもよかった。それから直哉は、毎日のように私のところへ何かを届けてきた。温かい食事や花、薬箱、港で買った土産。私はすべて、そのまま送り返した。7日目。ホテルを出ると、入口で直哉が待っていた。「凪紗、今までの俺は最低だった」私はそのまま横を通り過ぎた。直哉が追ってきた。「前は、俺が無事に港へ戻ることを誰より願ってくれてただろ?今、俺はちゃんと陸にいる。それでも、もう俺のことを見てくれないのか?」私は足を止めた。「無事でいてほしいと思うことと、もう一度あなたと暮らしたいと思うことは別だよ」直哉の顔から血の気が引いた。「本当に、もう俺のこと愛してないのか?」私は答えなかった。愛情は少しずつ減っていって、いつなくなったのかさえ、もう分からなかった。澪のほうも、黙ってはいなかった。自分のSNSに長文を投稿した。自分は港湾PRの業務提携先にすぎないのに、船長の妻から悪意ある嫌がらせを受けているという内容だった。添えられていた写真では、アクセサリーが写っている部分だけきれいに切り取られ、赤く腫れた目元だけが映っていた。コメント欄には、私を責める言葉が並んだ。【奥さんだからって、何しても許されるわけじゃないでしょ】【仕事相手なのに不倫相手みたいに扱われるなんて気の毒】【遠洋航海の船長なんてただでさえ大変なんだから、家族が足を引っ張るのはどうなの】私は、澪が荷物を受け取っている映像から切り出した画像を東洋海運へ送った。その日のうちに、東洋海運は事実関係についての文書を公表した。実名は出されていなかった。それでも、内容は十分すぎるほど明確だった。船員家族ではない人物が船長の配偶者名義で補助金や物品を受け取っていたこと。該当する業務提携を停止し、支給済みの費用について返還を求めること。澪の長文投稿は、ほどなく削除された。そのあと、私のところにダイレクトメッセージが届いた。【凪紗さん、私をそこまで追い詰めたいんですか?】私は返した。【まず、私のものを返して】それきり、返信はなかった。直哉と30日待つと決めてから20日目。職場を出ると、入口で直哉の母が待ち構えていた。手には保温バッグを提げ、私を見るなり目を潤ませた。
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