All Chapters of 妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました: Chapter 11 - Chapter 18

18 Chapters

第11話 封筒一枚で、妹は三度叱られる

封筒など、名前を書くだけだと思っていた。 昨日までのミレーヌ・フォン・エルディアなら、きっとそう言った。 白く上質な紙。 王宮の紋章。 美しい筆跡で書かれた宛名。 蝋で封じれば、それで招待状は完成する。 それくらい、自分にもできる。 そう思っていた。 けれど、王宮儀礼局の長机に座らされて一刻もしないうちに、ミレーヌは自分が何も分かっていなかったことを思い知らされた。「ミレーヌ様」 マルタ女官長の声は、低くも高くもない。 叱るために声を荒げる人ではなかった。 だから余計に怖い。「はい」「こちらの宛名を、もう一度お読みください」 ミレーヌは、目の前の封筒を見た。 自分では丁寧に書いたつもりだった。 ローゼン侯爵夫人宛ての招待状。 筆跡も乱れていない。 インクのにじみもない。 封筒の中央に、きちんと名前を書いた。「ローゼン侯爵夫人、でございます」「敬称が足りません」「え?」「ローゼン侯爵夫人は、王妃主催茶会の筆頭招待客です。この場合、家名と爵位だけでは不十分です。夫君の宮廷職、夫人本人の慈善委員会名誉職も踏まえた敬称が必要です」 ミレーヌは、目を瞬かせた。「でも、長すぎませんか?」「長くても必要です」「封筒に入りませんわ」「入るように書くのが仕事です」 隣で、若い女官が肩を震わせた。 笑ったわけではない。 たぶん、笑いそうになったのを堪えたのだ。 ミレーヌは頬が熱くなるのを感じた。 今まで、周りはそんなふうに自分を見なかった
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第12話 社交界の古狸たちが動き出す

王宮で一番よく切れる刃物は、剣ではない。 茶会の席で交わされる、笑顔の一言である。「まあ、クラリス顧問。改めまして、ご就任おめでとうございます」 ローゼン侯爵夫人は、そう言って優雅に微笑んだ。 王妃執務院の応接室には、春の花が飾られている。窓から差し込む光は柔らかく、卓上の茶器も磨き上げられていた。 穏やかな午後。 表向きは、祝辞の訪問。 けれど、クラリスは相手の目を見た瞬間に理解した。 これは祝辞ではない。 牽制だ。「ありがとうございます、ローゼン侯爵夫人」 クラリスは、静かに礼を返した。 向かいに座るローゼン侯爵夫人は、濃紫のドレスをまとっていた。年齢を重ねたからこそ似合う、深く品のある色。 首元の真珠は一連だけ。 扇も派手ではない。 だが、すべてが高価で、すべてが計算されている。 この人は、身につけるものでも言葉を話す。 長年、社交界の中心にいた女性だ。 簡単に崩れる相手ではない。「それにしても、若い方が正式なお役目をいただくなんて、本当に頼もしいことですわ」「身に余るお役目と存じております」「ご謙遜を。王宮を三日で止めた令嬢、と今や社交界でも評判ですもの」 イリスが背後で紅茶を注ぐ手を止めかけた。 クラリスは動かない。 王宮を三日で止めた。 その言い方は巧妙だった。 クラリスがいなくなったために王宮が止まった、という事実を、クラリスが止めたように響かせている。「わたくしは、止めておりません」 クラリスは穏やかに言った。「止まらないようにしていた手を離しただけでございます」
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第13話 王弟殿下、花ではなく書類箱を贈る

王宮臨時顧問室の机は、戦場に似ていた。 ただし、剣も槍もない。 あるのは書類である。 ノルヴァルト公国への謝罪文の修正稿。 神殿慈善事業の配分確認表。 ハイム商会の納入記録。 王妃執務院の未処理案件一覧。 下級令嬢の見習い業務調査票。 ローゼン侯爵夫人の午後茶会への返答案。 ついでに、王太子ジュリアス殿下の政務再教育用資料の確認依頼。 どれも一枚では終わらない。 紙は重なると、山になる。 山になると、人は登りたくなる。 少なくとも、クラリス・フォン・エルディアはそうだった。「お嬢様」 イリスの声が、机の向こうから聞こえた。「はい」「その書類は、先ほど“明日でよい”に分類されたはずでございます」「確認だけ」「お嬢様の確認だけ、は信用できません」「本当に少しだけよ」「その少しだけで、昨年は王妃主催茶会の席次表を一晩で三案作られました」 クラリスは羽根ペンを持ったまま、少し黙った。「よく覚えているわね」「忘れたいことほど覚えております」 イリスは淡々と言い、机の上の書類を一枚抜き取った。 クラリスの指先が、つい追いかける。 その瞬間、イリスがじっと見る。「お嬢様」「……取らないわ」「よろしいです」 王宮に正式な役職を得た。 報酬もある。 職務範囲もある。 休暇もある。 けれど、長年染みついた癖は一朝一夕には消えない。 クラリスは今も、机の上に残った書類を見ると、
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第14話 財務卿は、数字の迷路で笑う

 財務院から届いた資料は、馬車で来た。 比喩ではない。 本当に、馬車一台分だった。 王宮西棟の裏口に横づけされた財務院の馬車から、木箱が一つ、二つ、三つと降ろされる。箱には丁寧に封がされ、財務院の印まで押されていた。 王宮臨時顧問室の前に運ばれてきたそれを見て、オスカーは眼鏡を押し上げたまま黙った。 イリスは、無表情のまま言った。「これは、書類ではなく攻城兵器でございますね」 クラリスは、木箱を見つめる。 昨日、バルツァー財務卿に依頼したのは、慈善関連支出資料を年度別、品目別、商会別に分類して提出することだった。 その返答が、これである。 箱は六つ。 多すぎる。 明らかに多すぎる。「分類されているのでしょうか」 若い補佐官が不安そうに尋ねた。 オスカーが一箱目の封を確認する。「分類は……されていますね」 彼は蓋を開け、しばらく中を見た。 そして、深いため息をついた。「ただし、分類の意味が違います」「どういうこと?」 クラリスが尋ねると、オスカーは一枚目の束を持ち上げた。「年度別ではあります。ですが、慈善関連だけではなく、同年度の王宮備品全般が混ざっています」 二箱目。「品目別です。布地の資料はあります。ただし、王宮用カーテン、式典用旗布、騎士団の儀礼外套、劇場幕まで一緒です」 三箱目。「商会別です。ハイム商会の資料もあります。ただし、ハイム商会と同じ通りに店を構える無関係の商会まで入っています」 イリスが冷たく言う。「分類したふりでございますね」「は
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第15話 王太子、初めて自分の原稿を直される側になる

王太子ジュリアス・ヴァレンティアは、演説が得意だと思っていた。 少なくとも、そう信じていた。 広場に立てば民は顔を上げる。 式典で言葉を述べれば拍手が起きる。 貴族の前で微笑めば、夫人たちは満足げに頷く。 王太子らしい声。 王太子らしい姿。 王太子らしい言葉。 それらは、自分のものだと思っていた。 だから、王宮西棟の小会議室に呼ばれた時も、ジュリアスは不機嫌だった。 政務再教育。 その言葉自体が、彼の誇りを傷つける。 しかも同席者は、弟のレオンハルトと王宮書記官オスカー。 クラリスはいない。 それが救いなのか、屈辱なのか、ジュリアス自身にも分からなかった。「兄上。座ってください」 レオンハルトは、いつもどおり落ち着いていた。 黒い上着に、余計な飾りのない装い。 王弟というより、政務官のような顔をしている。 ジュリアスは椅子に腰を下ろした。「それで、今日は何をさせるつもりだ」「過去の演説原稿を見ます」「演説?」「はい」 オスカーが机の上に二束の書類を置いた。 左の束には、青い紐。 右の束には、赤い紐。「こちらが殿下の当初原稿。こちらが、実際に読まれた最終稿です」 ジュリアスは眉をひそめた。「それを見て何になる」「違いを確認していただきます」「くだらない。演説は、すでに成功した」 オスカーは、ほんの一瞬だけ口を閉じた。 言葉を選んでいる顔だった。「成功した理由を、確認するためです」 その言い方が気に
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第16話 無償奉仕を終わらせる一覧表

王宮の仕事には、名前のあるものと、名前のないものがある。 名前のあるものは、記録に残る。 朝会。 決裁。 外交文書。 予算配分。 任命式。 晩餐会。 誰が担当したか、誰が承認したか、どの部署の責任か。 そういうものが紙に残る。 だが、名前のない仕事は違う。 茶会の前に、夫人同士の仲を確認すること。 招待状を出す前に、相手の喪中や病を調べること。 王族の挨拶文から、誰かを傷つける一語を取り除くこと。 厨房が誤った菓子を用意していないか、直前に見に行くこと。 若い令嬢が泣きながら書いた封筒の宛名を、夜のうちに直すこと。 誰かが失敗する前に、誰かが黙って手を入れること。 それらは、問題が起きなければ存在しなかったことになる。 何も起きなかった、という結果だけが残り、何も起こさないために動いた者の名は残らない。 クラリスは、そのことをよく知っていた。「一覧にすると、思った以上にありますね」 オスカーが、卓上の紙を見て言った。 王宮臨時顧問室の丸卓には、大きな紙が何枚も広げられている。 表題は、クラリスが自分で書いた。 王宮内非公式業務一覧案 その横に、イリスが置いた小さな札がある。 緊急。 明日でよい。 誰かに任せる。 断る。 そして今日は、もう一つ札が増えていた。 名前をつける それを見たオスカーが、少しだけ笑った。「この札、いいですね」「イリスが作ったのです」「なるほど」 イリスは茶を注ぎながら言う。
last updateLast Updated : 2026-08-23
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第17話 ローゼン侯爵夫人の午後茶会

ローゼン侯爵夫人の午後茶会は、招待状の時点で完璧だった。 紙の質。 封蝋の色。 季節の挨拶。 出席者の顔ぶれ。 そして、文面の余白。 どれを取っても、隙がない。 クラリスはその招待状を最初に見た時、思わず感心したほどだった。 王宮ではない。 侯爵家の私的な茶会。 だが、それは私的であるからこそ厄介だった。 王宮主催なら、記録が残る。 席次の責任者も明確になる。 発言も、ある程度は公的な場のものとして扱える。 しかし私的茶会は違う。 そこでは、夫人たちの笑顔が法であり、噂が記録になる。 誰が招かれたか。 誰が隣に座ったか。 誰がどの言葉に笑い、どの話題で黙ったか。 それらが翌日には王都中のサロンへ広がる。 ローゼン侯爵夫人は、その場を誰よりも使い慣れている。「お嬢様」 馬車の中で、イリスが静かに声をかけた。「はい」「本日のお茶会は、罠でございます」「分かっているわ」「分かっておいでで、その表情ですか」「どんな表情?」「少しだけ、楽しそうでございます」 クラリスは目を瞬かせた。「楽しそう?」「はい」「まさか」「ご自覚がないのですね」 イリスは膝の上で手袋を整えながら言った。「お嬢様は、危険な書類や面倒な相手を前にすると、少し目が明るくなります」「レオンハルト殿下にも似たようなことを言われたわ」「殿下は正しいです」「二人とも、私を何だと思っているの」
last updateLast Updated : 2026-08-24
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第18話 王妃主催茶会、今度は止まりません

王妃主催茶会の朝、王宮西棟はいつもより静かだった。 不思議な静けさである。 人が少ないわけではない。むしろ逆だ。廊下には女官が行き交い、侍従は銀器の確認に走り、厨房からは菓子の焼ける香りが漂ってくる。 けれど、怒鳴り声がなかった。 誰かが焦って名を呼ぶ声もない。 廊下を駆ける足音も少ない。 直前になって「クラリス様を呼んでください」と泣きつく者もいない。 それは、クラリスにとって、かえって落ち着かない朝だった。「お嬢様」 イリスが、王宮臨時顧問室の扉を開けながら言った。「はい」「本日、妙に静かですね」「あなたもそう思う?」「はい。嵐の前か、改革の成果か、判別がつきません」「できれば後者であってほしいわ」「私もそう願っております」 顧問室に入ると、机の上にはすでに必要な書類だけが置かれていた。 王妃主催茶会・招待客最終確認表。 席次表。 食事・菓子・香・花材禁忌一覧。 控え室配置図。 当日対応者一覧。 そして、儀礼補佐官試験運用表。 クラリスは、最後の紙に視線を止めた。 儀礼補佐官。 まだ正式制度ではない。 けれど今回の茶会では、試験的にその役割を置くことになった。 オスカーは記録確認。 マルタ女官長は女官配置。 厨房連絡は王妃執務院の若い女官。 招待状と封筒確認の補助は、ミレーヌ。 菓子と食事の禁忌最終確認は、クラリスとミレーヌの二重確認。 全体統括はクラリス。 王族側の後ろ盾として、レオンハルト。 以前なら、これらの多くがクラリス一人の頭の中に入っていた。 今日は紙に書かれている。
last updateLast Updated : 2026-08-25
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