妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました

妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました

last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-23
โดย:  常陸之介寛浩อัปเดตเมื่อครู่นี้
ภาษา: Japanese
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妹に婚約者も家も奪われ、居場所を失った令嬢クラリスは、亡き王妃が遺した基金と王宮の不正に関わる記録へたどり着く。調査を進める中、病床へ届かなかった布、消された補助官ハーゲンの名、問いを封じる「問無」、寡婦や孤児へ渡るはずだった銀貨の行方が次々と判明。王弟レオンハルトや仲間たちと共に、クラリスは腐敗した制度と権力者たちに立ち向かい、奪われた名前と声を取り戻しながら、王宮そのものを変えていく。

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บทที่ 1

第1話 妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言った日

 「お姉様の仕事くらい、私にもできますわ」

 その言葉は、王宮南棟にある白薔薇の控えの間に、ひどく甘やかな声で落とされた。

 夜会の開始まで、あと半刻。

 窓の外では、招待客の馬車が次々と正門をくぐっていた。王宮楽団の調律の音が遠くから聞こえ、廊下を行き交う侍従や女官たちの靴音は、いつもより半拍だけ速い。

 そんな中で、クラリス・フォン・エルディアは、銀灰色の睫毛を静かに伏せ、手元の書類から顔を上げた。

 机の上には、今夜使う資料が整然と並べられている。

 王妃主催慈善園遊会の招待客名簿。

 ノルヴァルト公国大使夫妻の席次表。

 神殿寄付金配分案。

 王太子ジュリアス殿下の挨拶文の修正案。

 そして、今夜の夜会で不用意に隣席にしてはならない貴族夫人たちの一覧。

 どれも、表から見ればただの紙である。

 けれど、そこに一つ線を引き間違えれば、侯爵家と伯爵家の十年来の確執が再燃する。菓子を一つ出し間違えれば、隣国大使に侮辱と受け取られる。王太子殿下の挨拶文に不用意な一語を残せば、神殿と軍部が同時に眉をひそめる。

 王宮とは、絹と薔薇と音楽で飾られた、硝子細工のような場所だ。

 美しく見えるのは、誰かが割れ目を毎朝、指先で押さえているからにすぎない。

 そして、ここ十年近く、その指先の役を担ってきたのがクラリスだった。

 彼女の前に立っているのは、妹のミレーヌ・フォン・エルディア。

 淡い金髪を花冠のように結い上げ、薄桃色のドレスをまとった、誰が見ても愛らしい令嬢だった。青い瞳は潤みやすく、笑えば周囲の大人たちはすぐに頬を緩める。

 その隣には、アルヴィア王国の王太子、ジュリアス・ヴァレンティアがいた。

 金髪碧眼。

 民衆の前に立てば、それだけで歓声が上がるほど、王子らしい王子である。

 だが、クラリスは知っている。

 彼が式典で柔らかな言葉を選べるのは、前夜にクラリスが三度、挨拶文を書き直しているからだ。

 彼が貴族夫人の前で失言せずに済んでいるのは、会う前に「その夫人の次男は昨年落馬で亡くなっているので、狩猟の話題は避けること」と書き添えている者がいるからだ。

 彼が国民から好かれる王太子でいられるのは、失敗しそうな場所に、あらかじめ柔らかな絨毯を敷いている者がいるからだ。

 それを、ジュリアス本人はあまり知らない。

 知らなくても済むようにしてきたのが、クラリスだったから。

「ミレーヌ」

 クラリスは、羽根ペンを置いた。

 音はほとんどしなかった。

「今、何と?」

 妹は少しだけ唇を尖らせた。

「ですから、お姉様のお仕事くらい、私にもできますと申し上げたのです。だって、お姉様はいつも難しい顔をして書類を見ているだけではありませんか」

 控えの間の空気が、ほんのわずかに変わった。

 部屋の隅に控えていた侍女イリスの眉が、薄く動く。

 だがクラリスは、妹だけを見ていた。

「書類を見ているだけ」

「ええ。だって、お姉様は社交の場でもあまり笑いませんし、殿方と楽しくお話しになることもありませんし。お茶会だって、いつも席順がどうとか、菓子がどうとか、そんなことばかり」

 ミレーヌは、ジュリアスの腕にそっと指を添えた。

 それは、姉に見せつけるというより、周囲に自分の立場を知らせる仕草だった。

「私なら、もっと明るくできますわ。殿下にも、皆様にも、笑顔でいていただけるように」

 ジュリアスは、それを咎めなかった。

 むしろ、どこか満足そうに頷いた。

「クラリス。ミレーヌの言うことにも一理ある」

 クラリスは、ゆっくりと王太子へ視線を移した。

「一理、でございますか」

「ああ。君は優秀だ。そこは認める。だが、優秀すぎる。王太子妃に必要なのは、ただ物事を間違えずに進める力だけではない」

 ジュリアスは、舞台上の役者のように言葉を選んでいる。

 けれど、その台詞に下書きはない。

 だから継ぎ目が甘い。

「民を安心させる明るさ。貴族たちの心を和ませる柔らかさ。そういうものが必要だ。君は……そうだな、いつも冷たい」

「冷たい」

「完璧ではある。だが、完璧なだけでは人はついてこない」

 クラリスは黙って聞いていた。

 不思議なほど、胸は乱れなかった。

 この言葉を、どこかで予想していたのかもしれない。

 いつか来る。

 そう思っていたわけではない。

 けれど、王宮で長く生きていると、物事には兆しがあることを知るようになる。

 ミレーヌが最近、王太子の近くに呼ばれる回数が増えていたこと。

 ジュリアスが、クラリスの差し出した修正案を露骨に鬱陶しがるようになったこと。

 母が「ミレーヌもそろそろ王宮に慣れさせたほうがいいわね」と言ったこと。

 父がその話題を聞いた時、否定しなかったこと。

 すべては、今日のための細い糸だった。

 クラリスは、その糸が結ばれる音を聞いている。

「それで、殿下はわたくしに何をお望みなのでしょうか」

 ジュリアスは少し顎を上げた。

「君との婚約を、白紙に戻したい」

 イリスが小さく息を吸った。

 ミレーヌは困ったような顔を作る。

 よくできた表情だった。

 姉を傷つけたいわけではない。

 でも、自分の幸せは譲れない。

 そう見えるように、涙を浮かべる寸前で止めている。

「ごめんなさい、お姉様」

 ミレーヌは、細い声で言った。

「私、殿下のお支えになりたいのです。お姉様みたいに完璧ではないかもしれませんけれど、私には私の良さがありますでしょう?」

 クラリスは、妹の顔を見つめた。

 幼い頃、ミレーヌはよくクラリスの部屋に来た。

 姉が勉強している横で、菓子を食べ、花の刺繍糸を床に広げ、分からないことがあるとすぐに聞いた。

「お姉様、これは何?」

「お姉様、どうすればいいの?」

「お姉様なら、すぐ分かるでしょう?」

 クラリスはそのたびに手を止めた。

 妹が困る前に答えた。

 妹が叱られる前に片付けた。

 妹が泣く前に慰めた。

 それが姉の務めだと思っていた。

 今、目の前の妹は、同じ顔で言っている。

 お姉様の仕事くらい、私にもできますわ。

「そう」

 クラリスは頷いた。

 短い返事だった。

 ジュリアスは、その静けさを都合よく受け取ったらしい。

「分かってくれるか」

「殿下のご意思は承りました」

「ならば、今夜の夜会まではこれまでどおり務めてほしい。混乱は避けたいからな」

 その言葉で、イリスの目が完全に冷えた。

 だが、クラリスは声を荒らげなかった。

 ただ、机の上の書類へ視線を落とした。

 混乱は避けたい。

 なるほど。

 婚約は白紙にする。

 王太子妃の座は妹に譲らせる。

 だが、今夜の段取りはこれまでどおり整えてほしい。

 じつに王宮らしい願いだった。

「ミレーヌ」

 クラリスは、妹を呼んだ。

「はい、お姉様」

「今夜の夜会で、ノルヴァルト公国大使夫人には何色の花を贈る予定かしら」

 ミレーヌは目を瞬かせた。

「花、ですか?」

「ええ」

「ええと……白薔薇、ではいけませんの? この控えの間にも飾ってありますし、清らかで素敵ですわ」

 クラリスは頷いた。

「そう」

 ノルヴァルト公国で白薔薇は、和解を拒む時に贈る花だ。

 少なくとも、先月届いた大使夫人の手紙にはそう書かれていた。

 だが、クラリスはそれ以上言わなかった。

「では、慈善園遊会の寄付金配分について、神殿には何日までに内示を出す予定?」

「内示?」

「正式決定の前に、孤児院と施療院へ冬支度の見込みを伝えるものよ」

「それは……財務の方がなさるのでは?」

「財務卿は数字を出すだけです。どの施設にどの順で伝えるかは、王妃執務院で調整していました」

「でしたら、王妃様が」

「王妃陛下は、昨日からお熱があるわ」

 ミレーヌの笑顔が、ほんの少しだけ曇った。

 ジュリアスが眉を寄せる。

「クラリス、意地悪な質問はやめろ」

「意地悪?」

「ミレーヌはこれから学ぶのだ。初めから君と同じようにできるわけがない」

 クラリスは、王太子を見た。

「けれど、わたくしの仕事くらいできるとおっしゃいました」

「言葉の綾だ」

「王宮では、言葉の綾が国境を揺らします」

 ジュリアスの顔に不快の色が浮かんだ。

 彼はその表情をすぐに隠したが、隠しきれない。

「そういうところだ、クラリス」

 彼は低く言った。

「君はいつも、人を責めるような言い方をする。ミレーヌは君のように知識を振りかざしたりしない」

 クラリスの指先が、紙の端に触れた。

 知識を振りかざす。

 そう受け取られていたのか。

 彼の挨拶文から隣国を刺激する語を削ったことも。

 彼が喪中の夫人に狩猟の話をしないよう、直前に耳打ちしたことも。

 軍部と神殿が同じ日に予算を求めないよう、順番を整えてきたことも。

 それらは、彼にとって振りかざされた知識だったのか。

 クラリスは、静かに息を吐いた。

「承知いたしました」

 そして、書類を整理し始めた。

 まず、王宮の正式文書を右に置く。

 招待客名簿の清書。

 正式な席次表。

 財務卿から提出された寄付金配分の原案。

 王太子殿下の挨拶文の最終稿。

 次に、私的に作成した補足資料を左に置く。

 各貴族夫人の近況。

 近年の婚姻関係による派閥変化。

 ノルヴァルト公国大使夫妻の宗教的禁忌。

 今月、同席させてはならない家門の組み合わせ。

 王太子殿下が不用意に触れがちな話題一覧。

 神殿と軍部の予算衝突を避けるための発言順。

 ミレーヌが今夜着てはいけない色の覚書。

 イリスが無言で鞄を開いた。

 さすがに、ジュリアスが気づいた。

「何をしている」

「片付けております」

「それは見れば分かる。なぜ片付ける」

「婚約は白紙になりました。わたくしは、王太子妃候補ではございません」

「だからといって、今すぐ放り出すことはないだろう」

「放り出す?」

 クラリスは、補足資料を丁寧に揃えた。

「こちらの正式文書は残してまいります。王宮のものですから」

「ならば、そちらも置いていけ」

 ジュリアスが指さしたのは、左側の山だった。

 クラリスは、首を横に振った。

「これは、わたくしが私の時間で作ったものです」

「王宮のために作ったのだろう」

「ええ。ですが、正式に命じられたものではございません。役職もございません。報酬もいただいておりません。未来の王太子妃として必要だと思い、自分で調べ、自分でまとめ、自分で管理していた資料です」

「詭弁だ」

「では、殿下。これらを作る役職名をお教えくださいませ」

 ジュリアスが黙った。

 そんな役職はない。

 王太子妃候補。

 それが、クラリスに与えられていた唯一の名だった。

 けれど、その名で支払われたものはなかった。

 朝から晩まで王宮に詰め、王妃執務院の滞りを直し、貴族夫人の機嫌を取り、神殿への寄付金が遅れないよう財務卿に書簡を送り、王太子の挨拶文を直し、妹のドレスの色まで気にかける。

 それらはすべて、未来のため。

 いつか王太子妃になるのだから。

 そう言われれば、断れなかった。

 だが、その未来は今、王太子自身の口で消された。

「クラリス」

 ジュリアスの声には、苛立ちが混じっていた。

「最後くらい、潔く振る舞え」

「潔く?」

「ミレーヌのためにも、引き継ぎをしていけ。姉だろう」

 その瞬間、イリスが口を開きかけた。

 クラリスは片手で制した。

 侍女の怒りを借りる必要はない。

 これは、クラリス自身が終わらせるべきことだった。

「ミレーヌ」

 妹は肩を震わせた。

「はい……」

「引き継ぎは必要かしら」

 ミレーヌは、ジュリアスとクラリスを交互に見た。

 今、ここで必要だと言えば、先ほどの言葉が崩れる。

 自分にもできると言った。

 姉の仕事くらいと言った。

 王太子の隣で、笑顔で言った。

 だから、彼女は引けなかった。

「……必要、ありませんわ」

 声は少し細かった。

 それでも、言った。

「私、自分でできます。殿下もいてくださいますもの」

 ジュリアスは安堵したように頷いた。

「そうだ。ミレーヌには私がついている」

 クラリスは、初めてほんの少しだけ口元を緩めた。

 笑みというには淡すぎるものだった。

「承知いたしました」

 補足資料をすべて鞄へ収める。

 羽根ペンを置く。

 インク壺の蓋を閉める。

 自分の紋章入りの封蝋をしまう。

 そして、最後に王太子の挨拶文を机の上に残した。

 それはすでに修正済みだった。

 今夜だけは、まだ王宮に傷をつけずに済む。

 そこまでしてしまう自分に、クラリスは内心で少しだけ呆れた。

 手放すと決めても、最後の紙一枚を整えてしまう。

 十年で染みついた癖は、そう簡単には抜けないらしい。

 イリスが外套を差し出した。

「お嬢様」

「ありがとう」

 クラリスは外套を羽織り、机から一歩下がった。

 ミレーヌは不安を隠すように、花のように笑う。

「お姉様、怒っていらっしゃるの?」

「いいえ」

「本当に?」

「ええ」

 怒っているのか。

 クラリスは自分の胸に問うた。

 怒りは、あるのかもしれない。

 けれど、それより先に、ひどく静かな疲れがあった。

 寝不足の朝に、ようやく重い鞄を床へ置いた時のような、頼りない解放感。

 自分でも驚くほど、涙は出なかった。

「ミレーヌ」

「はい」

「王宮は、笑顔だけでは回りません」

 妹の表情が強張る。

 クラリスは続けた。

「けれど、あなたができると言ったのなら、きっとなさるのでしょう」

「もちろんですわ」

「では」

 クラリスは、王太子と妹へ深く一礼した。

 王妃教育で叩き込まれた、完璧な礼だった。

「明日から、お願いいたします」

 それが、クラリス・フォン・エルディアが王太子妃候補として残した最後の言葉になった。

 扉の外へ出ると、廊下は夜会前の慌ただしさで満ちていた。

 銀の盆を持った侍女。

 花を運ぶ庭師。

 控え室へ案内される伯爵夫人。

 廊下の端で小声で打ち合わせをする文官。

 誰も、今この瞬間に王宮の土台から一本の柱が抜けたことを知らない。

 知らないまま、いつもどおりに夜会は始まろうとしている。

 イリスはしばらく黙って歩いていたが、人気のない回廊に入ると、低い声で言った。

「お嬢様」

「何?」

「今夜のうちに、王宮の厨房へ白薔薇の件だけでも伝えますか」

 クラリスは足を止めた。

 窓の外に、夜の庭が見える。

 白薔薇が揺れていた。

 ノルヴァルト公国では、白薔薇は和解拒絶の花。

 今夜、大使夫人に贈られれば問題になる。

 ただ、正式な贈花の確認は明朝。

 今夜はまだ間に合う。

 クラリスは少しだけ目を閉じた。

 十年。

 十年、こうしてきた。

 誰かが傷つく前に止める。

 誰かが失敗する前に直す。

 誰かが責められる前に謝罪の道筋を作る。

 その結果、誰も失敗しなかった。

 誰も傷つかなかった。

 誰も責められなかった。

 そして、誰もクラリスの仕事を知らなかった。

「いいえ」

 クラリスは言った。

 声は、自分でも驚くほど穏やかだった。

「もう、わたくしの仕事ではないわ」

 イリスは、深く息を吐いた。

 怒りとも安堵ともつかない吐息だった。

「ようやく、そのお言葉を聞けました」

「そんなに待っていたの?」

「はい。五年ほど」

「長いわね」

「お嬢様ほどではございません」

 クラリスは、少しだけ笑った。

 本当に少しだけ。

 王宮の回廊で笑う時、彼女はいつも周囲の目を計算していた。

 今の笑みには、計算がなかった。

 それがかえって、ひどく頼りなく感じられた。

 正門へ向かう途中、王宮書記官のオスカー・ベルンとすれ違った。

 彼は書類の束を抱え、片手で眼鏡を押し上げながら走っていたが、クラリスに気づくと慌てて足を止めた。

「クラリス様? 夜会前にどちらへ」

 言いかけて、彼はクラリスの外套と、イリスの持つ鞄に目を留めた。

 王宮に慣れた者は、荷物の意味を読み取る。

 それが一時的な移動なのか、完全な撤収なのかを。

 オスカーの顔色が変わった。

「まさか」

 クラリスは、いつもどおり丁寧に礼をした。

「オスカー様。これまで大変お世話になりました」

「お世話に……いや、クラリス様、今夜の進行表は」

「机の上に正式なものを残してあります」

「正式なもの、ということは」

 オスカーの声がかすれた。

「補足は?」

「ございません」

「大使夫妻の禁忌一覧は」

「ございません」

「明朝の朝会の議題順は」

「作成しておりません」

 オスカーは、数秒ほど無言になった。

 そして、ひどく真面目な顔で言った。

「胃薬を倍にしてまいります」

 イリスが淡々と返す。

「三倍をおすすめいたします」

「そうします」

 クラリスは思わず目を瞬かせた。

 オスカーは小さく頭を下げる。

「クラリス様。事情は存じませんが……いえ、何となく察しましたが」

 彼は廊下の奥、白薔薇の控えの間の方をちらりと見た。

「どうか、ご自分をお責めになりませんように」

 クラリスは返事に少し迷った。

 おかしな人だと思った。

 責めるべき相手が誰かを、オスカーはもう知っている。

 けれど、クラリスが自分を責めることまで知っている。

「ありがとうございます」

 それだけを言うと、彼はまた走っていった。

 ただし、先ほどより足取りが重い。

 イリスが呟く。

「王宮で数少ない、目のある方ですね」

「そうね」

「では、あの方のためにも、少しだけ戻りますか」

「イリス」

「冗談でございます」

「あなたの冗談は、時々顔が怖いわ」

「本気を混ぜておりますので」

 クラリスは返事をしなかった。

 王宮の正門を出ると、夜の風が頬を撫でた。

 馬車が用意されている。

 エルディア公爵家の紋章が入った馬車だ。

 その扉の前で、クラリスは一度だけ振り返った。

 王宮は灯りに包まれていた。

 高い窓から音楽が漏れ、薔薇の香りが夜気に混じり、招待客たちの笑い声が遠く響く。

 美しい場所だ。

 そう思った。

 そして、恐ろしく脆い場所だとも思った。

 この灯りが消えないように。

 この音楽が止まらないように。

 誰かの笑顔が凍らないように。

 クラリスはずっと、裏側で手を動かしてきた。

 けれど明日からは違う。

 妹が言った。

 私にもできますわ、と。

 王太子が選んだ。

 ミレーヌの明るさこそ必要だ、と。

 ならば、明日からは彼らの王宮だ。

 クラリスは、馬車に乗り込んだ。

 イリスが向かいに座る。

 扉が閉まる直前、王宮の方から小さなざわめきが聞こえた。

 夜会が始まったのだろう。

 それとも、何か一つ、早くも予定と違うことが起きたのだろうか。

 クラリスは確認しなかった。

 馬車が静かに動き出す。

 石畳を車輪が鳴らす音が、王宮から少しずつ遠ざかっていく。

「お嬢様」

 イリスが言った。

「明日の朝会、止まりますね」

 クラリスは、膝の上で重ねた手を見つめた。

 その手は、まだ何かを書類に書き込もうとしているように、かすかに緊張している。

 彼女はゆっくりと指をほどいた。

「止まらないようにしてきたのよ」

 窓の外で、王宮の灯りが遠くなる。

「十年も」

 その夜、アルヴィア王宮の灯りはいつもどおり輝いていた。

 誰もまだ知らない。

 翌朝、その輝きの下で、最初の会議が始まらなくなることを。

 そして、王宮という巨大な仕組みが、たった一人の令嬢の無償の手によって支えられていたのだと、誰もがようやく思い知ることを。

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さくら さくら
さくら さくら
8話の後、39話になってます。
2026-08-24 02:37:42
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第1話 妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言った日
 「お姉様の仕事くらい、私にもできますわ」 その言葉は、王宮南棟にある白薔薇の控えの間に、ひどく甘やかな声で落とされた。 夜会の開始まで、あと半刻。 窓の外では、招待客の馬車が次々と正門をくぐっていた。王宮楽団の調律の音が遠くから聞こえ、廊下を行き交う侍従や女官たちの靴音は、いつもより半拍だけ速い。 そんな中で、クラリス・フォン・エルディアは、銀灰色の睫毛を静かに伏せ、手元の書類から顔を上げた。 机の上には、今夜使う資料が整然と並べられている。 王妃主催慈善園遊会の招待客名簿。 ノルヴァルト公国大使夫妻の席次表。 神殿寄付金配分案。 王太子ジュリアス殿下の挨拶文の修正案。 そして、今夜の夜会で不用意に隣席にしてはならない貴族夫人たちの一覧。 どれも、表から見ればただの紙である。 けれど、そこに一つ線を引き間違えれば、侯爵家と伯爵家の十年来の確執が再燃する。菓子を一つ出し間違えれば、隣国大使に侮辱と受け取られる。王太子殿下の挨拶文に不用意な一語を残せば、神殿と軍部が同時に眉をひそめる。 王宮とは、絹と薔薇と音楽で飾られた、硝子細工のような場所だ。 美しく見えるのは、誰かが割れ目を毎朝、指先で押さえているからにすぎない。 そして、ここ十年近く、その指先の役を担ってきたのがクラリスだった。 彼女の前に立っているのは、妹のミレーヌ・フォン・エルディア。 淡い金髪を花冠のように結い上げ、薄桃色のドレスをまとった、誰が見ても愛らしい令嬢だった。青い瞳は潤みやすく、笑えば周囲の大人たちはすぐに頬を緩める。 その隣には、アルヴィア王国の王太子、ジュリアス・ヴァレンティアがいた。 金髪碧眼。 民衆の前に立てば、それだけで歓声が上がるほど、王子らしい王子である。 だが、クラリスは知っている。 彼が式典で柔らかな言葉を選べるのは、前夜にクラリスが三度、挨拶文を書き直しているからだ。 彼が貴族夫人の前で失言せずに済んでいるのは、会う前に「その夫人の次男は昨年落馬で亡くなっているので、狩猟の話題は避けること」と書き添えている者がいるからだ。 彼が国民から好かれる王太子でいられるのは、失敗しそうな場所に、あらかじめ柔らかな絨毯を敷いている者がいるからだ。 それを、ジュリアス本人はあまり知らない。 知らなくても済むようにしてきたのが、クラリス
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-09
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第2話 王宮の朝会が始まりません
  アルヴィア王宮の朝は、鐘の音から始まる。 一の鐘で侍従が廊下を開け、二の鐘で女官たちが各室の燭台を消し、三の鐘で政務院の文官が東棟へ集まる。 そして四の鐘が鳴る頃、王族と重臣たちは朝会の間へ入る。 その流れは、十年近く乱れたことがなかった。 少なくとも、表向きは。「……進行表がない?」 朝会の間の端で、王宮書記官オスカー・ベルンは、眼鏡の奥の目を細めた。 目の前には、文官補佐の青年がいる。 顔色が悪い。「はい。いつもの机にも、控えの棚にも、書記官室にもございません」「昨日の夜、クラリス様が残された正式文書は?」「ございます。こちらに」 差し出された書類を受け取り、オスカーは一枚目に視線を走らせた。 招集者一覧。 出席予定者。 議題候補。 それだけだった。「……候補」 オスカーは、思わず呟いた。「候補、か」 文官補佐が不安そうに尋ねる。「あの、何か問題が?」「問題しかありません」 正式文書としては、これで正しい。 誰が来るか。 何を話すか。 どの案件が本日扱われる可能性があるか。 それは書いてある。 だが、朝会に必要なのは、それだけではない。 どの議題を先に出すか。 誰の発言を先に拾うか。 どの案件は国王の前で決め、どの案件は後日協議に回すか。 誰と誰を同時に発言させてはいけないか。 どの言葉を使うと財務卿が反発し、どの表現なら軍部が引くか。 そういう、正式文書に残らないものが必要だった。 クラリス・フォン・エルディアは、それを毎朝作っていた。 しかも、誰にも命じられずに。 オスカーは書類を閉じた。「胃薬を」「はい?」「いえ、何でもありません。財務卿は?」「すでにお着きです」「軍務局長は?」「お着きです」「大神殿の代理司祭は」「……お着きです」 終わった。 オスカーは心の中で、静かにそう思った。 今日の議題には、慈善事業の寄付金配分、北方街道の補修費、軍部の冬季備蓄、ノルヴァルト公国使節団への返礼品、王妃主催園遊会の人員配置が入っている。 財務卿は出費を嫌う。 軍務局長は冬支度を急いでいる。 神殿は孤児院への寄付を待っている。 ノルヴァルト公国は礼を欠けばすぐに冷える。 王妃執務院は人手が足りない。 本来なら、最初に軽い外交案件を置いて空気を整え、次に神殿
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第3話 隣国大使は甘い菓子がお嫌いです
 王宮の茶会は、戦場である。 ただし、剣は抜かれない。 血も流れない。 代わりに、微笑みが交わされる。 扇の角度、椅子の位置、菓子皿の並び、紅茶を注ぐ順番、相手のドレスの色を褒めるか褒めないか。 それら一つ一つが、時に剣より深く人を傷つける。 クラリス・フォン・エルディアは、それを知っていた。 だから茶会の前には、必ず三種類の表を作っていた。 一つ目は、招待客の席次表。 二つ目は、食べ物や花、色に関する禁忌一覧。 三つ目は、絶対に隣席にしてはならない人物の組み合わせ。 その三つがあれば、茶会はまず大きく崩れない。 逆に言えば、その三つがなければ、王宮の茶会など花と砂糖で飾った罠の庭に等しい。「まあ、綺麗なお部屋ですこと」 ミレーヌ・フォン・エルディアは、王宮西棟の陽光の間に入るなり、明るい声を上げた。 高い窓から午後の光が差し込み、白い卓布の上で銀器が輝いている。壁際には淡い桃色の薔薇が飾られ、菓子台には焼き菓子、砂糖菓子、果実のコンポートが宝石のように並んでいた。 見た目だけなら、完璧な茶会である。 ミレーヌは少しだけ胸を撫で下ろした。 朝会は大変だった。 難しい言葉が多く、誰も彼もが険しい顔をして、何を決めたいのか分かりづらかった。 けれど、茶会なら違う。 笑顔で挨拶をする。 美しい花を褒める。 菓子を勧める。 楽しい話をする。 それなら、自分にもできる。 姉のように、難しい顔で書類を見つめなくてもいい。「ミレーヌ様」 背後から声がした。 振り返ると、女官長マルタ・リードが立っている。
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第4話 私は初めて、何もしない朝を迎えました
朝になっても、誰もクラリスを起こしに来なかった。  それが、まずおかしかった。  クラリス・フォン・エルディアは、寝台の上で目を開けたまま、天蓋の刺繍をしばらく見つめていた。  白い絹地に、銀糸で月桂樹の葉が縫い取られている。幼い頃から見慣れた、自分の部屋の天蓋だった。  エルディア公爵家の別邸。  王宮ではない。  王太子の控え室でも、王妃執務院の仮眠室でも、慈善園遊会の準備部屋でもない。  だから当然、朝の報告は来ない。  王太子殿下の挨拶文を直してください、という書記官も来ない。  財務卿がまた寄付金配分を渋っています、という文官も来ない。  ローゼン侯爵夫人が本日の席次に不満を持っています、という女官も来ない。  大使夫人へ贈る花の色を確認してください、という侍従も来ない。  それなのに、クラリスは起き上がろうとしていた。  寝台から足を下ろし、反射的に卓上へ視線を向ける。  そこには、何も置かれていなかった。  書類もない。  封蝋もない。  緊急印の押された王宮封筒もない。  ただ、昨夜イリスが置いてくれた水差しと、まだ半分ほど水の残ったグラスがあるだけだった。 「……何もないのね」  呟いた声は、自分でも少し間が抜けて聞こえた。  その時、扉が控えめに叩かれた。 「お嬢様。お目覚めでございますか」 「ええ」  入ってきたのは、侍女のイリスだった。  淡い灰色の侍女服に身を包み、いつものように表情は薄い。けれど、手にしている盆の上には書類ではなく、温かい茶と焼きたての小さなパンが乗っていた。  クラリスはそれを見て、少しだけ目を瞬かせる。 「朝食?」 「はい」 「ここで?」 「はい」 「先に執務室へ行かなくても?」 「行かなくて結構でございます」  イリスは盆を置き、カーテンを開けた。  朝の光が、部屋の中へ柔らかく広がる。  王宮の朝日はいつも、硝子窓を通して硬く差し込んでいた。誰かの足音と鐘の音と、急ぎの用件が一緒に流れ込んでくる光だった。  けれど今朝の光は違う。  庭の葉を透かし、白い壁にゆっくりと揺れている。  まるで、急ぐ必要などないと言っているようだった。 「本日のご予定をお伝えいたします」  イリスが言った。  クラリスは反射的に姿勢を正した。 「お願い
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-11
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第5話 王弟殿下は、私の仕事を知っていた
「君が王宮で何をしていたか、知っているからだ」 レオンハルト・ヴァレンティアは、そう言った。 応接室の空気が、ほんの少し変わった。 風が入ったわけではない。 茶器が鳴ったわけでもない。 ただ、クラリスの胸の奥で、長く閉じていた扉が不意に叩かれたような気がした。 知っている。 その言葉は、軽く使えるものではない。 王宮には、クラリスを褒める者ならいた。 優秀だ。 頼りになる。 さすが未来の王太子妃だ。 君に任せておけば安心だ。 けれど、そのほとんどは、彼女が何をしているのかを知らないまま発せられていた。 結果だけを見て、便利だと言っていたにすぎない。 失敗しなかった。 揉めなかった。 予定どおり終わった。 だから、クラリスは優秀。 それは評価のようで、評価ではなかった。 なぜ失敗しなかったのか。 誰が揉める前に止めたのか。 予定どおりに終わるため、いくつの予定外を潰したのか。 そこまで見ていた者は、ほとんどいない。「殿下は」 クラリスは、慎重に言葉を選んだ。「わたくしの何をご存じなのでしょうか」 レオンハルトは、茶にはまだ手をつけていない。 王族らしい優雅な姿勢で座っているが、その目だけは政務室の机に向かう時のように真剣だった。「では、具体的に話そう」 彼は、提案書の端に指を置いた。「三年前、ノルヴァルト公国の先代大使が初めて王宮晩餐会に出席した時、厨房は鹿肉を主菜にする予定だった」 クラリスの指先が、わずかに動いた。「その時、君は直前で主菜を鴨に変えさせた。理由は、先代大使の長男が狩猟事故で亡くなって
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-12
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第6話 戻ってこいと言われましても
「それは、少しではありません」 クラリスの声は、静かだった。 怒鳴ったわけではない。 責め立てたわけでもない。 ただ、事実を机の上へ置いた。 それだけで、ミレーヌは言葉を失った。 応接室に沈黙が落ちる。 窓の外では、庭の噴水が涼しげな音を立てていた。 けれど室内の空気は、まるで冬の朝のように張りつめている。 ジュリアス・ヴァレンティアは、不機嫌そうに眉を寄せた。「クラリス。今は言葉遊びをしている場合ではない」「言葉遊びではございません」 クラリスは、まっすぐ王太子を見た。「ミレーヌが“少し”とおっしゃったものは、すべて王宮の実務でございます」「だから、それを教えろと言っている」「殿下」 クラリスは一呼吸置いた。「わたくしは、すでに王太子妃候補ではございません」 ジュリアスの顔が強張る。 昨日、自分が告げたことだ。 けれど彼は、その意味をまだ理解していない。 婚約を白紙に戻す。 王太子妃候補ではなくなる。 王宮の役目から外れる。 それは、都合の悪い責任だけを残せる言葉ではない。「王太子妃候補ではなくとも、君はエルディア公爵家の令嬢だ。王家に仕える義務がある」「エルディア公爵家は王家に忠誠を誓っております。ですが、令嬢個人の無償労働まで含まれるとは存じませんでした」「無償労働だと?」 ジュリアスの声が低くなる。「君は、そのように考えていたのか。王太子妃になるための務めを」「王太子妃になる未来が消えましたので」 クラリスは微笑んだ。
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第7話 無償で働く令嬢は、もうおりません
国王からの召喚状は、重かった。 紙の厚みではない。 封蝋に押された王家の紋章でもない。 その文面が、あまりにも整っていたからだ。 クラリス・フォン・エルディア殿。 王宮執務に関する協議のため、明日午前、王宮西棟小会議室へ出席を求める。 同席者は、国王アレクシス・ヴァレンティア、王弟レオンハルト・ヴァレンティア、王宮書記官オスカー・ベルン、王妃執務院女官長マルタ・リード。 王太子ジュリアス・ヴァレンティアは、協議の公平性を保つため同席させない。 最後の一文を読んだ時、クラリスは思わず指を止めた。 王太子殿下を同席させない。 つまり、国王は分かっている。 ジュリアスがいれば、これは協議ではなく、命令と感情のぶつかり合いになると。「陛下は、ずいぶん早くご判断なさいましたね」 クラリスがそう言うと、向かいに座っていたレオンハルトは小さく肩をすくめた。「王宮が三日で止まったからな。父上も、さすがに悠長にはしていられない」「殿下は、厳しい言い方をなさいますね」「兄上に似て甘い言葉を選ぶよりはましだろう」 その言い方があまりに淡々としていたので、クラリスは少しだけ笑いそうになった。 笑わなかった。 今笑えば、緊張が解けてしまいそうだったから。 イリスは、国王の召喚状を横から見ていた。「お嬢様」「何?」「明日の服装は、戦装束でよろしいですね」「交渉に行くだけよ」「交渉は戦でございます」 レオンハルトが、そこで初めて小さく笑った。「良い侍女だ」「恐れ入ります、王弟殿下」 イリスは何事もなかったよ
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-14
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第8話 奪われたのは婚約者ではなく、私を縛っていた鎖でした
任命式の朝、王宮の空はよく晴れていた。 雲一つない青空。 王宮の尖塔は朝日に照らされ、白い壁はいつもより眩しく見える。 以前のクラリスなら、その天気を見て最初に考えたのは、庭園を使う式典の動線だった。 日差しが強いなら、大使夫人の席を少し内側へ移すべきか。 風があるなら、書類を押さえる文鎮を増やすべきか。 招待客の馬車が詰まらないよう、北門を開けるべきか。 けれど今朝、彼女が最初に思ったのは違った。 晴れてよかった。 ただ、それだけだった。「お嬢様」 背後でイリスが声をかける。「本日は、いえ、本日からは“クラリス顧問”とお呼びした方がよろしいでしょうか」「やめて」「では、王宮臨時顧問閣下」「イリス」「失礼いたしました。少し浮かれております」 顔はまったく浮かれていない。 だが、付き合いの長いクラリスには分かる。 イリスは、かなり機嫌がいい。 濃紺のドレスに、銀糸で控えめな刺繍が施されている。派手さはないが、王宮の大理石の床を歩いても沈まないだけの格がある。 髪はきっちり結い上げ、首元には小さな菫色の石。 婚約を失った令嬢の装いではない。 王宮と交渉し、条件を勝ち取った者の装いだった。「お嬢様。お顔色は?」「悪くないと思うわ」「では、そのように見えるよう、少しだけ頬紅を」「必要?」「必要です。昨日まで王宮が胃痛と混乱で崩れかけていたことを思えば、お嬢様だけでも健康そうに見えていただかねば」「私だけでも?」「はい。書記官室はおそらく全滅しております」
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-15
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第39話 至急扱い不要と書いた男
 エドモン・ライルは、雨に濡れた小鳥のような男だった。 いや、実際には雨など降っていない。 その日の王都はよく晴れていて、王宮の白い石壁には朝の光がまぶしいほど反射していた。 けれど、王弟府の騎士に連れられて王宮臨時顧問室へ入ってきたエドモンは、どこか濡れているように見えた。 髪はきちんと撫でつけている。 服装も乱れていない。 地方出納所の文官らしく、控えめで地味な灰色の上着を着ている。 だが、目が落ち着かない。 椅子を勧められても、すぐには座らなかった。 王弟殿下レオンハルト。 王宮臨時顧問クラリス・フォン・エルディア。 書記官オスカー。 王妃執務院のマルタ女官長。 そして壁際に控えるイリス。 その顔ぶれを見ただけで、自分がただの事務確認に呼ばれたのではないと分かったのだろう。「エドモン・ライル殿」 クラリスは静かに名を呼んだ。「はい」 返事は細かった。「本日は、三年前から二年前にかけて王妃執務院へ届いた慈善物資未着報告の処理について確認します」「……はい」「あなたには、記憶している範囲で正確に答えていただきます。分からないことを分かると言わないでください。推測は推測として述べてください」 エドモンは何度も頷いた。「承知しました」 机の上には、五件の未着報告控えが並んでいた。 南施療院。 西孤児院。 北施療所。 東孤児院。 母子保護院。 いずれにも同じ流れがある。 財務院確認済。 商会調整へ回付。 至急扱い不要。 そして、いくつかの備考欄に、エドモンの筆跡と思われる書き込
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-15
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第9話 王宮臨時顧問、初出勤いたします
王宮西棟の一室に、新しい札が置かれていた。 白木に金の縁取り。 文字は黒。 余計な装飾はない。 そこには、こう刻まれている。 王宮臨時顧問 クラリス・フォン・エルディア クラリスは、その札の前でしばらく立ち止まった。 王宮の机に、自分の名が置かれている。 そんなことは初めてではない。 王太子妃候補として使っていた控えの机にも、彼女の名を示す小さな札はあった。 だが、あれは名札に近かった。 誰の席かを示すだけのもの。 今、目の前にある札は違う。 これは、役職を示している。 この机に座る者が、何の権限を持ち、何を担い、どこまで責任を負うのか。 それを王宮が認めた証だった。「お嬢様」 背後でイリスが声をかける。「はい」「触ってみますか」「子どもではないわ」「では、私が触っても?」「なぜあなたが?」「記念に」 クラリスは振り返った。 イリスはいつもどおり無表情だが、目だけが少し楽しそうだった。「浮かれているの?」「はい」「正直ね」「お嬢様が、ようやく王宮の備品から人間になられましたので」「その表現、昨日も似たようなことを言っていたわ」「何度でも申し上げます。大事なことですので」 クラリスは、小さく息を吐いた。 叱る気にはならなかった。 イリスはこの札を、自分以上に喜んでいるのかもしれない。 この十年、隣で見ていたのだ。 クラリスが正式な席もなく、権限もなく、ただ責任だけを背負って
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-08-16
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