Todos los capítulos de 天恵の神子と世界のゆくえ: Capítulo 11 - Capítulo 20

27 Capítulos

第四章:叶わぬ夢を一夜の月に②

 地平線の果てに居残った朱色と夜の淡い藍色が混ざり合って夏の夕空を染めた。昼から夜に移り変わりつつある街では、煌々と祭の灯りが輝いている。リコリスはヒースに買ってもらったワンピースに、ヒースもミュゲが生きていたころに特別なときの外出用として着ていた服に着替えると、中央通りに赴いていた。  中央通りには元来の飲食店の多さも手伝って、食べ物の出店が多く並んでいた。掻き入れどきと言わんばかりにこの通りに軒を連ねる店は、祭を訪れた人々から安価な食べ物で小銭をかき集めている。  骨付きの肉。ふかしたじゃがいもにチーズをかけたもの。串焼き肉に片手で持てるサイズのパイ。多彩な具が詰め込まれたクレープ。りんごなどの果物に飴を絡めた菓子。よく冷えたビールにワイン。 「わあ、何あれすごい……!」  リコリスが最初に食いついたのは実演販売の出店だった。何やら飲み物を売っている屋台らしく、青い液体の真上に店主が握り拳を持ってくると色が変わるというもののようだ。  一体どんな仕掛けになっているのかな、とリコリスは露台に置かれたカップを覗き込む。屋台を切り盛りする壮年の男は一礼すると、芝居がかった述べ口上を口にした。 「これはこれは可愛らしいお嬢さん。今からあなたに一夜限りの魔法をお見せしますよ」  男は背後の木桶からよく冷えた青い液体が入った水差しを取り出すと、二つのカップにそれらを注ぎ入れる。そして、男は水差しを桶に戻すと露台の下に隠されていた何かを両手で掴んだ。 「それではお嬢さん。今から右のカップの中身を紫に、左を緑に変えてご覧入れましょう」  男は右の拳に力を込める。すると、何かがぴちょんと液体の中に沈み、紫色が液体の中で解け始める。おお、とリコリスは目をキラキラさせながらそれを見ている。右のカップの液体の色が変わりきると、男は左手の指先をすっと緩めた。すると、今度はカップの中の液体が緑色へと変わっていく。すごーい、とリコリスは手を叩いて喜んだ。店主の男に目配せをされ、ヒースは財布を開く。 「いくらだ?」 「銀貨二枚でございます」  高いな、と思いながらヒースは男に代金を支払う。代金を受け取ってなお、男は何やら物欲しそうな顔をしていたので、仕方なしにヒースは彼の手に追加で銅貨を押し付けた。  またのお越しを、と中の液体が紫のカップを持ったリコリスと緑のカッ
last updateÚltima actualización : 2026-08-18
Leer más

第五章:夜半の呼び声は甘く切なく①

 収穫祭が終わって一ヶ月半が過ぎようとしていた。季節は巡り、突き刺さるような力強い夏の日差しは鳴りをひそめ、黄金色の穏やかなものへと変わりつつあった。昼間はさほどでもないが、朝晩は次第に冷え込むようになり、人々は上着を羽織るようになっていた。 「なあ、リコリス。そろそろ決まったか?」 「まだ。せっかくだからこだわりたいし」  リコリスとヒースが恋人となってからちょうど半年。午前中のミサを終え、午後は急ぎの仕事はなかったリコリスは、ヒースと共にマルシェへと来ていた。碧霄は高く淡く、鰯雲が群れを作っている。雁渡しが夏の暑さと湿り気を攫っていき、空気はからりと乾燥している。隣の店からは、今が旬だという魚を売り込む威勢のよい声が響いてくる。 「今日は私たちが恋人になってちょうど半年なんだから、ちゃんとお祝いしたいじゃない? そうなったら、やっぱりお肉もワインも野菜もとっておきのものを選びたいじゃない?」 「それだったら中央通りに食事に行くのでもよくないか?」 「いいの。やっぱり初めてのことだから、手作りでお祝いしたいの」 (それにせっかくのお祝いなら誰にも邪魔されたくないし)  近ごろ、ヒースと神子アプローズらしき人物が懇ろにしているらしいという噂が信徒たちの間で広がり始めていた。年若い神子が哀れな独身男を籠絡したのだとか、人肌恋しい独身男が金をちらつかせて世間知らずの神子の身体を買っているのだとか、真実と嘘が入り混じった憶測がミサ後の大聖堂を飛び交い始めていた。  女神祭が終わって少ししたころに、噂の真偽について問いただすためにリコリスは大司教から呼び出しをくらったが、「ご婦人方の噂によると、瓜二つの容姿の持ち主が街にいらっしゃるようなので、その方のことでしょう」飄々と受け流しておいた。公式にはリコリスという人間はこの世に存在しないため、あながち嘘ではないが本当とも言い難い。 (――それに)  リコリスが夜に教会の自室にいないことも、食堂に長らく顔を出していないこともろくに把握していない人々にとやかく言われたくない。どのみち、リコリスが最低限の仕事さえこなしていれば、特に関心のない人々なのだ。ならば、現状について干渉されないほうが都合がいい。 「なあ、リコリス。あの肉、美味そうじゃないか? 赤みに適度にサシが入っていて……リコリス?」  あ、う
last updateÚltima actualización : 2026-08-18
Leer más

第五章:夜半の呼び声は甘く切なく②

 ランプが消えたベッドルーム。シーツが擦れる音がやけに大きく聞こえる。  窓の外ではこの季節を生きる虫たちが刹那の生命を響かせていた。しかし、その窓も今はオリーブ色のカーテンが覆い隠し、現実と泡沫を切り離していた。 「――最後に聞く。本当に、いいんだな?」  ヒースはベッドへと腰掛けるリコリスに改まった面持ちでそう問うた。声に緊張がぴんと張る。  もう何度も言ったじゃん、と少し面倒くさそうな空気を滲ませながら、リコリスは答える。何度も確認されなくても、リコリスの気持ちは決まっている。 「もう、何回念押しするの? ――私はヒースがいい。ヒースだからいい」  先程の夕飯の際、ヒースが今からでもリコリスの誕生日を祝わせてほしいと言ったとき、彼女はこう望んだ。 ――あのね、私、ヒースに今夜抱かれたい  出会った当初から、リコリスは自分を〝女〟にして欲しいと言っていた。キスさえ知らなかったくせに何を言っているんだか、と彼は一蹴しかけたが、その目は真剣だった。 ――私にはもう機会はない。だからお願い、私の我儘を聞いて。  縋るようなリコリスの言葉にヒースは躊躇いながらも最終的には同意した。もう機会はないという彼女の言葉があまりに切実すぎて、そうせずにはいられなかった。 「わかった。もう引き返せないからな」  それでも痛かったり嫌だったらすぐに言え、とヒースは言い添える。そして、彼はリコリスの肩を押すと、優しくベッドに華奢な身を横たわらせた。 「触っても、いいか?」  鳶色の視線と赤色の視線が交錯する。もう、とリコリスは頬を小さく膨らませた。 「いちいち聞かないでよ。聞かなくたって答えはわかってるくせに」  リコリスは耳が熱くなるのを感じた。いじわる、とリコリスは恨みがましさと恥じらいの入り混じった声で呟いた。 「――ヒース、来て」  ああ、と掠れた声で応じると、ヒースはリコリスの上に覆い被さった。白いブラウスの上からヒースはほのかな膨らみへと触れる。途端にヒースの脳裏にかっと熱が走り、彼は自分の唇を彼女のそれに重ねた。 「ん、っあっ……」  リコリスの唇の端から堪えきれなかったとでもいうように声が漏れた。ヒースは自分の唇で挟むようにして彼女のそれを啄んだ。んっ、んっ、とリコリスから不慣れなキスが返ってくる。それに応じるようにヒースは片付
last updateÚltima actualización : 2026-08-18
Leer más

第六章:新雪の上に生命は芽吹く①

 リコリスが体調を崩したのはもうすぐ新年が訪れるといったころだった。だるくてめまいがする、というのが彼女の訴えだった。 「うーん、疲れが出たのかな。最近は新年の儀の準備でばたばたしてたから」 「大丈夫か? 施療院に行かなくて」  ヒースは毛布の中で丸くなっているリコリスの顔を見やった。心なしか、顔色が良くない気がする。いつもはくるくると変わる表情もどこか冴えない。 「いいよ。お金もったいないし。新年の儀が終わるまではどうにか頑張って、その後ゆっくりするよ」  リコリスはヒースの横で寝返りを打つと、ベッドから起きあがろうとする。しかし、その途端に何か酸っぱいものが食堂を迫り上がってきて、リコリスは両手で口を押さえる。 「ヒース……ごめん、たらい取ってきて。今すぐに」 「おう、わかった。大丈夫か?」  ヒースは毛布を跳ね除けて起き上がると、リコリスに気遣わしげな声をかける。こくりとリコリスがかすかに頷くのを見ると、ヒースはキッチンにたらいを取りに向かった。 「ほら、持ってきたぞ」  ヒースがたらいを手渡すと、リコリスは苦しそうに潤んだ目で彼を見た。喉が締まる感じがするにもかかわらず、次から次へと唾液が湧き上がってきて止まらない。 「ヒース……ありが、と……ちょっと、後ろ、向いてて……」  リコリスはぐえっぐえっ、と胃液をたらいへと吐き出した。しかし、リコリスの吐き気は止まることはなく、彼女はたらいに顔を突っ込んで胃液を吐き続けた。  ヒースは後ろを向いているように言われていたが、彼女のあまりの苦しそうな様につい振り返り、その背中をさすってやった。もう、と呟くとリコリスは込み上げてきた嘔吐感でえずいた。 「本当に大丈夫か? やっぱり一度施療院で見てもらった方が……」  触れているリコリスの背中が何だか少し熱いような気がして、ヒースはリコリスの額に右手で触れる。左手を自分の額に触れさせると、やっぱり、とヒースは独りごちる。 「リコリス、お前、たぶん熱あるぞ。今日は施療院に行く。これは決定事項だ」 「だけど、私……今日も新年の儀の細かいすり合わせとか色々あって……」  あのな、とヒースはため息をつく。ヒースにとってそんなものより大切なのはリコリスの体調だ。こんなに具合が悪そうにしているのを放っておくことなどできなかった。過去の経験がヒース
last updateÚltima actualización : 2026-08-18
Leer más

第六章:新雪の上に生命は芽吹く②

「ねえ、ヒース。マルシェ寄ってこう」  施療院を出て開口一番にそう言い出したのはリコリスだった。だめだと言わんばかりにヒースは渋面を作る。地面では昨夜のうちに降った雪が薄い層を作り、溶けかけた氷の粒が日光を浴びてきらきらと輝いている。 「リコリス、お前あんまり具合が良くないだろう? それに雪で滑って転んで何かあったらどうするんだ」 「心配性だなあ。大丈夫だよ、ちょっとだけだから。最近忙しかったし、気分が塞ぐことも多かったから、気分転換したくて」  だめかなあとリコリスは完璧に角度を計算した上目遣いでヒースを見る。日に日にあざとさを増していく彼女を苦々しく思いながらも、ヒースは仕方なしに首を縦に振る。これが惚れた弱みというやつか。 「本当にちょっとだけだからな。食品の買い物だけしたらすぐ帰るぞ」  やった、とリコリスは表情を明るくする。このくらいでこの笑顔が見れるものなら安いものかと思いながら、ヒースは踵を返した。「リコリス、何なら食べられそうだ?」  体調のよくないリコリスに合わせてゆっくりとマルシェを回りながら、ヒースはリコリスに聞いた。そうだなあ、とリコリスは思案げな顔をする。 「ヒースが用意してくれたものならなんでも! って言いたいところだけど、食欲ないからそれはなしで。なんだろう、今朝レモン水は飲めたから、なんかさっぱりしたものなら食べられるのかもだけど……」 「さっぱりしたものってフルーツとかか?」  それはあり、とリコリスは口の端を釣り上げる。それじゃあ八百屋に向かうか、と二人は店と店の間の路地に入り、最短経路で八百屋へと向かった。年の瀬が近いこともあって、マルシェ中の店がこぞって競い合うように、何が安いだの何が美味いだのと怒鳴るような調子で客が呼び込んでいるのが聞こえる。常よりもごった返すマルシェの中を縫って歩きながら、ヒースはリコリスが他の買い物客にぶつかられないように庇ってやる。 「よう、旦那。今日は何をお求めだい?」  八百屋に着くなり、顔見知りの店主が威勢よく話しかけてきた。露台の上には今が旬の野菜や果物が所狭しと並べられている。その中でつやつやときらめきを放つ赤い宝石のような果実がリコリスの目を奪った。あっ、と思わずリコリスは声を弾ませる。 「イチゴだ!」  甘酸っぱい良い香りがヒースの鼻腔を刺激する。彼はそう
last updateÚltima actualización : 2026-08-18
Leer más

第七章:永遠を君に捧ぐ①

 カーテンから差し込んでくる朝日にまどろみの中を泳いでいたリコリスの意識は引き戻された。外では春告鳥が花の便りを交わし合う声がする。「うぅん……」小さく唸りながらリコリスは寝返りを打って横向きにしていた身体を仰向けに戻した。いつの間にか見慣れたナラの木の天井。寝乱れたシーツ。横で眠る無精髭の生えたヒースの横顔。カーテンの向こう側で揺れる黄色いフリージアの花。リコリスとヒースが正式に恋人となってちょうど一年ほど。リコリスの悪阻の時期も終わり、安定期へと入っていた。 (ヒースまだ寝てるし、朝食の用意をしちゃおう)  リコリスはそっとベッドを抜け出した。ざっと小さく衣擦れの音が鳴る。リコリスは腹を締め付けないワンピース型の寝巻きを脱ぐと、リンテルに吊るした修道服を身に纏った。修道服の腹部のまろやかな膨らみを撫でながら、リコリスはヒースのことを思う。 (……何で何も言わないんだろう、この人は)  昨夜の営みの最中にも、リコリスは彼の背中に満遍なく散る紫色の痣を見た。ベッドサイドテーブルの引き出しに湿布が入っていることも彼女は知っている。 (……全部は私の我儘だ。だから、咎は私だけが背負えばいい)  そう考えたところで、ふっと苦笑が口をついて出た。自分たちは恐らく似たもの同士だ。 (お互いにお互いが大切だから……それはわかっているけれど)  わかっているからこそ、互いが互いのことを守ろうとしてしまう。自分たちの悪いところだ。  悪阻がましになり始めた時期から、リコリスは神子としての仕事に本格的に復帰した。長く不在にしていたことに関して教皇じきじきに説教を食らったが、こうなるまで私がどこで何をしているかなんて知らなかったくせにとリコリスは心の中で舌を出しておいた。  再び公の場に顔を出すようになったリコリスを見た信徒たちは、彼女を悪罵した。 ――神子が穢された! お前の身勝手のせいで天恵は失われた! ――純潔を失った神子に終滅の夜を祓う力なんてない! お前のせいで世界は滅ぶんだ!  リコリスに向かって生卵を投げつける者さえいた。リコリスは卵白でぬるぬるになりながらも、淡々と女神の教えを説いた。 ――女神は清貧を是とします。食べ物をこのような形で粗末にする者はやがて、女神に見放されるでしょう。  リコリス以前の神子で子を孕んだという
last updateÚltima actualización : 2026-08-18
Leer más

第七章:永遠を君に捧ぐ②

(だんだんやることが露骨になってきたな)  リコリスの足を引っかけるつもりだったのか、赤いビロードの絨毯の継ぎ目が捲れている。彼女は行儀悪く足で絨毯を戻した。腹がだんだんと大きくなってきてから、屈むのも一苦労なのだ。 (――それに、さっきの昼食のスープ)  今日は午後までかかる仕事があったため、珍しくリコリスは昼に食堂に顔を出していた。昼食のスープをもらうために列に並んでいると、リコリスのものにだけ、配膳担当のシスターがさらさらと謎の粉を入れた。席についてから、何を盛られたのかと臭いを確認したら、やたらと土っぽい匂いがした。この季節だと、入れられたのは年中いつでも手に入る多年草――堕胎剤として使われるホオズキの根か。  子を孕んだリコリスを許せずに事あるごとに彼女を流産させようとしてくる教会内の過激派の一派がいる。その勢力は下位のシスターたちの中にまで及んでいる。人間の負の感情とは恐ろしい。  廊下をすれ違いざまにリコリスは一人の司祭に強くぶつかられた。肩にどんと衝撃が来て、リコリスは危うく後ろにつんのめりかけた。壁に手を突っ張って、彼女はどうにか転倒を免れる。  失礼、とぶつかってきた司祭はリコリスの顔を見ようともせずに、小さく呟くと大股で去っていった。あれ絶対微塵も悪いと思っていないよなあと思いながらリコリスはその背を見送った。あれは過激派に属する司祭だ。最近はこんなことばかりで気が滅入る。しかし、母である自分がこんなことばかり気にしてきていると、おそらくお腹の子にあまりよくない。こんな顔をしていたら、ヒースにだって気を遣わせてしまうだろう。  ヒースは心配くらいさせろと寄り添ってくれるだろう。教会での話を聞けばリコリスの代わりに憤ってもくれるだろう。あの人はそういう優しい人だ。でも、リコリスだってタダで折れてやる気はない。負けてやる気なんてさらさらない。ヒースには本当に辛くなったときに寄りかかることにしよう。さて、とリコリスは気持ちを切り替えるように軽く両頬を叩く。軽い衝撃とともにいくらか思考に清涼さが戻ったように思った。 (今日はこの後葬儀が一件あるんだっけ。それが終わったら帰れるしあと少し頑張ろう)  こんな嫌なことがあった日にはヒースには夕飯を少々奮発してもらおう。たとえば丸鶏のハーブ焼きとか。作るのは自分だが、それを考えただけで少し
last updateÚltima actualización : 2026-08-19
Leer más

第八章:花言葉に希望を託して①

 女神祭が過ぎ、リコリスは臨月に突入していた。夏も盛りを迎え、髪や衣服が汗でべったりと素肌に張り付く。時折り吹き抜けていくからりとした風が僅かな涼を齎してくれる。  窓の外では積乱雲がもくもくと層を連ねている。力強い夏の日差しをカーテン越しに浴びながら、リコリスはすっかり大きくなった腹を撫でる。腹が重く、最近は歩くのも一苦労だ。  ここ何日か、頻繁に腹が張るようになった。何だか腰もずーんと重くだるい感じがする。  悪阻のころに感じていた眠気や不安感を最近感じる気がする。施療院の医師が言っていた予定日も近い。これらの症状はきっと腹の子が生まれ出るための準備によるものなのだろう。  女神祭が終わってから、この半月で家の中が随分と狭くなった。いよいよ出産間近ということもあって、ヒースが子供のための様々なものを用意してくれたからだ。  ダイニングに増えた子供用の椅子。本棚の横に設られた子供用のベッド。これらはヒースが木材を買ってきて、手ずから作成したものだ。ほんの少しのがたつきはあるが、それが逆にまだ見ぬ我が子への愛が感じられた。リンテルに吊るされた色とりどりのロンパース。様々な刺繍がされたステイ。生まれてみないと男の子なのか女の子なのかもわからないというのに、ヒースは仕事の合間にマルシェに通っては子供用の服を買い揃えてきた。 (ヒースなら安心だ。この子の未来を安心して託すことができる)  生まれる前からこれほど子煩悩な父親がそういるだろうか。彼のような父親がいれば、生まれてくる我が子の未来に不安はない。きっとリコリスがいなくなってからも、よい家庭を築いてくれるだろう。  ずっと、リコリスは鼻水を啜った。突然溢れてきた涙に、彼女は掌で顔を覆った。  あとどれだけヒースといられるんだろう。どれだけ彼と言葉を交わし、笑い合えるのだろう。  生まれてくる子供と一緒にいられるのは一年と少し。その短い時間でどれだけのことをしてやれるのだろう。どれだけ愛を注いでやれるのだろう。出産が近い――十ヶ月と十日の年月が過ぎ去ったということだ。自分に残された時間の短さを改めて実感し、リコリスはわあわあと子供のように泣きじゃくった。 腹が痛いといってリコリスが用足しに立ってしばらくが経った。ただの腹下しにしてはやけに時間が長い。体調を悪くして倒れていないといいが、とヒースは
last updateÚltima actualización : 2026-08-19
Leer más

第八章:花言葉に希望を託して②

 家の外が暗くなってどれくらいが経っただろう。地平線に残っていた余光がつつ闇に呑まれて久しい。銀鉤(ぎんこう)の夜を照らすものはキッチンの竈の炎とランプの火以外にない。  内臓を引き絞られるような痛みの波が絶え間なくやってくる。一度は引いても、一分とおかずに新しい痛みが襲ってくる。 「っつ……うっ……ヒース、……いま、何時……?」  リコリスのそばについてずっと彼女の背を撫でていたヒースは、部屋の壁にかけられた時計を振りあおぐ。ヒース自身も時間の感覚が麻痺していたが、気づけば午前三時を回っていた。ヒースがそれを教えてやると、リコリスは痛みに喘ぎながら、ヒースを気遣う言葉をかける。 「……痛っ……ヒース……っ……、寝てて、いいよ……うっ、つっ……つかれた、でしょ……あっ、うっ、痛い痛い痛い痛いっ……」 「そんなことできるわけないだろ、この馬鹿が。産まれるまで一緒にいて見届けてやる」 「……っつ……あり、がと………はあ、はあ……」  リコリスは肩を上下させながら、背に触れるヒースの手を手繰り寄せると握りしめた。なんとなくそれだけで安心できる気がした。ヒースの手はいつだって、温かさをくれる。自分は独りじゃないと実感させてくれる。ヒースはリコリスが抱えるようにしていたタオルを拾い上げると、彼女の顔の汗を拭ってやった。痛みのあまりか、彼女の顔は熟れたりんごのように紅潮している。 「先生、これからあとどのくらいですか?」  ヒースが医師に問うと、彼は腰掛けていた椅子から立ち上がる。医師はリコリスのチュニックのスカートの中を覗き込み、子宮口の開き具合を確認した。子宮口はもう彼の指が四本入るほどに開き、陣痛の頻度からしてもあともうじきだろうと思われた。 「おそらくあと一、二時間ほどでしょう。今のうちに水分補給を」  ヒースはダイニングからグラスと水差しを持ってくる。水差しからグラスに水を注ぐと、彼はそれをリコリスの口元に持っていく。リコリスは懸命にそれを口に含もうとするが、上手く飲めずに唇から溢れ出した水がシーツを濡らした。ヒースはグラスの水を一口自分の口に含ませた。そして彼女の唇に自分のそれを触れさせると、そっと口を開いた。ほのかにヒースの体温を含んだ水が少しずつリコリスの口内に流れ込み、彼女はそれをゆっくりと飲み下した。 「うっ、つっ」  リコリスが
last updateÚltima actualización : 2026-08-19
Leer más

第九章:暖かな日々と終わりの足音①

 カルミアがやたらと口元を気にするようになったのはヒースの誕生日間際のことだった。暦の上では春を迎えたものの、まだ雪風巻(ゆきしまき)が窓を叩く季節のことだった。  このごろ、カルミアは涎が増えたり、物を齧ったりすることが増えていた。リコリスのことをママと呼びたいのか、「まー!」未だ呂律の回らない声で彼女のことを呼ぶことも増えた。パパと呼んでもらえる兆しは今のところないため、ヒースはいたく落ち込んでいたが。  カルミアが生まれて、この半年、ひどく大変だった。カルミアは何かあるとすぐにぐずる子だった。理由はミルクだったり、おしめだったり、上手く寝られなかったりだとかさまざまだったが、カルミアは一時間とおかず、リコリスのことを泣いて呼び立てた。  カルミアが生まれ、バタバタとした中でリコリスの十八の誕生日が過ぎていった後から、新年の儀の準備が舞い込んできた。産後のぼろぼろな時期だったが、二年連続神子が新年の儀を欠席するわけにはいかなかった。最早公然の秘密と言っては大袈裟ではないが、ヒースとカルミアのことについて追及しない代わりに自分の務めは果たせという教会からの重圧がかけられていた。リコリスが教会に顔を出したところで冷ややかな視線を浴びせられるだけなのだが。唾棄したい、どころか実際に唾を浴びせられたことすらある。 (今日の会議もほとんど中身なんてなくって、嫌味ばかりだったな)  リコリスは小鍋で柔らかい粥を作りながら溜息をつく。だけど、これもあと数ヶ月の辛抱だ。 (数ヶ月――私がヒースとカルミアと一緒にいられるのはそれだけの間)  リコリスは唇を噛んだ。寝室から聞こえるカルミアの寝息。すぐそばのダイニングテーブルでヒースが革を縫っているシュッシュッという規則的な音。ぐつぐつと煮える鍋の音。家の外で鳴る教会の鐘。テーブルでゆらゆらと揺れるランプの灯り。こんな何気ない風景をあと何回見ることができるのだろう。リコリスのヘラを握る手にぐっと力がこもる。 「どうした、リコリス。何か焦げ臭くないか?」  嗅覚に異常を感じたヒースは作業の手を止め、立ち上がるとリコリスの手元を覗いた。リコリスがカルミアのために作っていた粥は黒く焦げ付いてしまっていた。 「あ……」 「大丈夫か? 疲れてるんじゃないか?」  優しいヒースの言葉に大丈夫とリコリスは首を振った。こん
last updateÚltima actualización : 2026-08-19
Leer más
ANTERIOR
123
ESCANEA EL CÓDIGO PARA LEER EN LA APP
DMCA.com Protection Status