LOGIN聖月暦五九九八年の三月、五年前に妻・ミュゲを亡くしたヒースは聖グラース教会で神子・アプローズとして祭り上げられている少女・リコリスと出会う。リコリスはヒースと出会ってすぐに自分の初めての"男"になって欲しい、家族を知りたいと迫るが――?
View More聖月暦六〇一五年九月十四日。その日はからりと晴れた気持ちのいい日だった。夏の残滓が青空から降り注ぎ、少し動くと肌がしっとりと汗で濡れる。少女は水で墓石を清めると、布で拭きあげていく。汚れた雑巾をバケツの中に突っ込むと彼女はふうと息を吐いた。 マルシェの花屋で買ってきた花を少女は墓前に備えた。蜘蛛の足のように伸びた雄蕊。細くそり返った花びら。そして何より特徴的な鮮やかな赤。それは見る人が見ればある人物を彷彿とするものだった。 「悪いな、カルミア。全部やらせてしまって」 「別にいいよ。父さんは腰が悪いんだから、墓掃除はきついでしょ」 カルミアは年々母親――リコリスに似てきたとヒースは思う。鳶色の双眸はヒース譲りだが、それ以外の面差しだったりちょっとした物言いなんかが彼女にそっくりだ。 気がつけばリコリスが逝ってから十五年が経った。あのころは一歳だったカルミアも今や立派な成人だ。リコリスがいなくなってからしばらくの間はまだ赤ん坊のカルミアをどう育てたものかと悩んだものだが、リコリスに恥ずかしくない程度にはきちんと育ててやれたと思う。リコリスと過ごした日々があったからこそ、ミュゲのときとは違って、自分は今度は前を向いて生きてこられた。 今日はリコリスの命日であり誕生日でもある。彼女が神子でもなんでもない普通の人間で、この十五年を過ごしていれば、ちょうど三十四歳になっていたはずだ。もし生きていたら、彼女はどんな女性になっていただろう。 墓前に供えた花――彼女の名を冠するその花はカルミアが選んだものだ。供えるにはあまり向かない花だが、リコリスの目を思い出すからとカルミアが持って行きたがった。 カルミアは終滅の夜の儀式のことをあまりよく覚えていない。覚えているのは辺り一面が青い光で輝いていたということと、何となく怖かったということだ。 「今年も来たよ。――母さん」 カルミアは墓前で膝を折ってかがみ込むと、燭台に蝋燭を立てる。青いチュニックワンピースのポケットへ手を突っ込むと、先日の誕生日にもらったキーケースが指先に触れた。彼女はそのままポケットの中を探り、マッチを取り出すと、擦って蝋燭に火をつける。マッチを振って火を消すと、カルミアはぞんざいにマッチの燃え滓を水の入ったバケツに投げ込んだ。水面がじゅっという音を立てる。 カ
「――我が右手は冥き闇を切り裂き、世界を光へ導かん。左手は新たな千年の未来を紡がんとする――」 リコリスはこの日のために一言一句違わずに頭に叩き込んだ文句を滔々と誦じていく。見上げた空に浮かぶ満月は血の赤に侵されている。 (早くしないと世界が終わる……) あの月が完全に赤に染まってしまえば、世界は何者も抗えない闇に覆われるとされている。闇は生きとし生けるもののすべての生命を刈り取り、世界は空も大地も海もない無に還るのだという。そう聖典に記されている。 「神子アプローズ。世界に闇が降りるまで後三十分もない。急いでくれ」 リコリスの背後に控えていた仕立てのいい法衣に身を包んだ老年の男――教皇はしわがれた淡々とした声で彼女をせき立てた。予定の段階では余裕があったはずの儀式のスケジュールがこんなに押しているのは誰のせいだと言いたくなったが、「わかっております、聖下」リコリスは目と首元に天恵の青い光を宿したまま、恭しく頭を下げた。刺繍の施された白いベールがさらりと揺れる。 そのとき、教会前の広場がざわざわとさざめき立ったのをリコリスの聴覚が捉えた。まさか、とありえない予感が彼女の背筋を駆け抜ける。ヒースとは今朝、しっかりとお別れを済ませてきたはずなのに。心臓が早鐘を打つのを無視して、リコリスは祝詞の続きへと戻る。普通の儀式ならいざ知らず、今日だけは一秒でもその瞬間が遅れれば世界が終わる。 「――この目は次の未来を見通し、この唇は続く世界を寿ぐだろう。そして――」 「――リコリス!」 塔の下から自分を呼ぶ声がする。リコリスは鐘楼から身を乗り出して、下を覗き込む。天恵の青い光に照らされて、男と赤ん坊が僧兵たちに取り押さえられようとしていた。 (ヒース……カルミアまで……!) リコリスの視界がじわりと滲む。もう会えないと思っていた二人がこうして無茶をして会いにきてくれた。嬉しいやら腹立たしいやらで感情がぐちゃぐちゃになる。 「――ヒースの馬鹿! こんなところまで何しに来たの!?」 「ただ、ただ一目会いたかったんだよ、悪いか! 愛する妻を独りで死なせて、儀式が終わるのをのうのうと待っていられるほど俺は神経が太くないんだよ!」 「本当に、馬鹿っ……!」 リコリスの頬を涙が伝う。涙と一緒に燐光が彼女の眼窩から溢れ出す。 「私の覚悟
ベッドルームでカルミアを遊ばせながら、ヒースは暮れていく空を眺めていた。リコリスは今どうしているのだろう。きちんと見送ると決めていたが、あれで本当に良かったのだろうか。「うあああああん」 カルミアが泣く声が聞こえる。ヒースは愛娘へと視線を落とした。どこかに身体をぶつけた様子はない。おしめも確認したが汚れているようではない。恐らく腹が減ったのだろう。「飯か。ちょっと待ってろ」 たとえ世界が滅亡の危機に瀕していても腹は減る。カルミアはリコリスがこの家を出てから断続的にぐずり続けていたので、ヒースよりもよほど腹が減っているだろう。 リコリスには怒られそうだが、今はとても離乳食を作れる気分ではない。ヒースはキッチンへと向かうと、マッチを擦って竈に火を入れる。目分量で牛の乳を注ぐと、小鍋を火にかけた。 鍋の内側で白い液体が小さな泡を立て始める。こんなものか、とあたりをつけるとヒースは哺乳瓶に白い液体を移し替えた。「ちょっと熱いか」 乳児に与える乳の温度は人肌くらいが望ましい。リコリスがいつも口を酸っぱくしてヒースに言っていたことだ。そんななんてことのない記憶がヒースの心をざわめかせる。呆れたようなあの声音が脳裏に蘇る。ヒースは手の中で哺乳瓶をころころと転がし、熱を冷ましていく。しばらくして、哺乳瓶が程よい温度になると、ヒースは哺乳瓶の中身を一滴手の甲に垂らした。この分なら問題はなさそうだ。「カルミア、お待たせ」 ヒースは掴まり立ちでダイニングテーブルから彼の作業を覗いていたカルミアに声をかけると、抱き上げてベビーチェアに座らせる。ヒースもダイニングチェアに腰を下ろすと、カルミアに哺乳瓶を持たせてやった。愛娘はニップルに吸い付き、ミルクを飲み始めた。 ヒースはその様子を横目にダイニングテーブルの籠に盛られた黒パンに手を伸ばす。自分も何か食べないとという義務感に駆られて、ちぎった黒パンを口の中に放り込むが、それは硬いばかりで何の味もしなかった。(あいつ――リコリスのほうがずっと大人だ。あいつの前ではああやって大人ぶってみせたけど、やっぱり俺はあいつが死ぬなんて嫌だ) リコリスがいなくなって、すぐに彼女のいない生活に切り替えられるほど器用じゃない。だからこそ、ミュゲを亡くしたときも五年も引きずったのだ。リコリスがいなければいまだにミュゲのことを引きずっ
大きな木桶の中でリコリスはふう、とため息をついた。今ごろカルミアは泣き喚いていないだろうか。そんなことを考えながら、彼女は青い薔薇の花びらが浮いた水面を見つめた。 「アプローズ様、お背中を」 十二人の枢機卿団の面々による衆人環視の中、シスターたちによってリコリスは立たされると、泡のついた布で背中を磨かれていく。その手は腕へ、尻へ、そして体の前面へと伸びていく。胸、腹、脚とシスターたちはリコリスの身体を磨いていく。 「アプローズ様、御髪を失礼します」 シスターたちは淡々と水の張られた盤を持ってきて、思いっきりリコリスの頭にぶっ掛けた。髪が水分でべったりと顔と首筋に張り付き、リコリスの体についた泡が洗い流されて起伏の少ない細い裸体が露わになった。 「ふうん、この貧相な身体があの男を籠絡したのね」 「あの男の趣味が特殊だっただけかもしれないわよ。前の奥さんも体格には恵まれていなかったらしいから」 シスターたちがひそひそと囁き交わす。自分のことはともかく、ヒースのことを悪く言われる筋合いはない。ぎろり、とリコリスはシスターたちを視線で黙らせる。 「アプローズ様、お座りください。御髪を清めますので」 慇懃無礼な物言いに逆らうことなく、リコリスは木桶の中に身を沈める。青い花びらが肌に纏わりついて鬱陶しい。栗毛のシスター――ティリアは粉状のものを泡立てると、リコリスの頭へと指を這わせる。そして、彼女はがしがしとリコリスの頭皮に爪を立てた。 髪がめちゃくちゃに引っ張られる。ぶちぶちと音を立てて髪が何本も千切れたが、ティリアは意に介したふうもない。 「こんなのが神子だなんて。女神は世界を見放したんだわ」 「首の痣も本当に本物なんだか。あの男につけてもらったものなんじゃないかしら。穢らわしい、淫らだわ」 「あなたたち。神聖な儀式の最中で恥ずかしくないのか。それでは、女神リュンヌに見放されたとしても文句は言えないよ。黙って自分たちの仕事を全うするといい」 リコリスがシスターたちを淡々と諌めると、何よ、と灰色の髪をシニヨンにまとめたシスター――シレーヌが水の組まれた手桶を振りかぶる。リコリスはシレーヌにそれを投げつけられ、顔面から水を浴びた。気管に水が入り込み、リコリスはけほけほと咳き込んだ。 からんからん、と音を立てて床に手桶が転がる。泡混