All Chapters of 天恵の神子と世界のゆくえ: Chapter 1 - Chapter 10

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プロローグ:千年の夜と伝承の神子

――伝承は、語る。  この世界――レーツェル大陸の始まりは女神リュンヌが世界に満ちた闇を祓ったこととされている。それによって世界には光が満ち、生命が生み出されたという。  女神リュンヌがこの世界を統べた太古の時代は、人々に繁栄をもたらした。女神リュンヌを崇める人々が作り上げたのが、今日まで続く聖グラース教会である。  しかし、女神リュンヌの力も無限ではなく、この世界の成り立ちから千年も経つと弱まり始めた。かつて女神リュンヌが祓った夜の闇――千年に一度の完全皆既月食の夜がやってくると、彼女は力を振り絞って再びそれを祓った。  それ以来、力のほとんどを失ってしまった女神リュンヌは眠りにつく前に二つの預言を残した。 ――一つ目は、千年に一度、この世界が終わる完全皆既月食の夜――終滅の夜がやってくるということ。終滅の夜の闇に呑み込まれてしまえば、草木は枯れ、世界に息づくすべての命が終わりを迎えるのだという。 ――二つ目は、終滅の夜が近づくと、己の力を継ぐ神子が現れるということ。その者は青い月によって選ばれ、選ばれた者には身体のどこかに薔薇の模様の痣が刻まれる。終滅の夜の闇を祓える者は神子以外にはいないと女神リュンヌは説いた。  神子の身には常人とは異なる女神の力――天恵と呼ばれる聖なる気が満ちているとされている。天恵は終滅の夜に最も強くなり、その生命と引き換えに世界を千年の厄災から救うと言われている。   ――時は巡り、次の終滅の夜まで十数年。  世界には当代の神子が生まれ落ちていた――
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第一章:重なり合う孤独は二人になる

 その日は、普段の葬儀を退屈で欠伸を噛み殺しながらやり過ごしている少女にとって印象深いものだった。喪主は普通のどこにでもいそうな三十代半ばほどの男。故人もごくごく平凡な同年輩の女だった。教会で暮らしている少女にとって、葬儀とは日常茶飯事であり、見飽きたものだった。司祭の説教に紛れるようにしてひそひそと聞こえてくる遺産の分配の話やら、遺児の引き取りの話やら、どろどろとした今後の話にもいい加減うんざりとしていた。故人を心から悼む人など、少女はほとんど見たことがなかった。誰もが目先の損得の話ばかりで、それが世の中というものなのだと、幼いながらに少女は世間を知った気になっていた。  しかし、その日の葬儀は常とは様子が違っていた。喪主の男は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、慟哭していた。妻と思しき亡くなった女の名を呼びながら、棺の中で眠る女の冷たい手に縋りついていた。 (――へえ、こんな人間もいるんだ。珍しい)  少女は耳を劈くような男の悲痛な叫びを聞き流しながら、そんなことを思った。聖典を片手に読み上げられる司祭の祈りの言葉など、男の涙声に上書きされて完全に掻き消されてしまっていた。 (ヒース・ランズバーグ、だっけ。そういえば毎週のミサも夫婦で来て、いつも熱心にお祈りしてた気がする)  いつのころからか夫婦でではなく、ヒースだけを見かけるようになっていた。そしてそのころから、ヒースが祈っている時間が増えていた。あまりにも必死に祈っていたため、何回か司祭に声をかけられていたのも何となく覚えている。  ヒースの妻――ミュゲは病死だったと聞いている。ヒースが祈っている時間が増えた時期から鑑みるに、そういう事情だったのだろうと少女は悟った。彼は最愛の妻の病の治癒を心から祈っていたのだろう。少女はそっと両手を合わせると目を閉じる。ミュゲの冥福と、ヒースの今後の人生の先行きを祈りたかった。少女の閉じた瞼の内側と修道服の首元からほんのりと青い光が漏れ出した。相変わらず大聖堂の中では途切れ途切れの司祭の祈りと、泣き叫ぶ男の声が聞こえ続けていた。 聖歌が響き渡っていた大聖堂は、先ほどまでの厳かな雰囲気などどこに行ったのか、信徒たちのぺちゃくちゃとした話し声で充満していた。どこの誰が誰と不倫していただの、誰それが多額の借金を抱えた末に夜逃げしたらしいだのといった醜い噂話。そ
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第二章:寄り添い合う二人に祝福を①

 リコリスとヒースが教会墓地での邂逅を果たしてから一週間。春風駘蕩とした陽気の下、先週とは打って変わってすっきりとした身綺麗な姿でヒースは今日もミュゲへの祈りを捧げていた。花信風が木々を揺らし、春告鳥が楽しげなハーモニーを奏でている。 「天にまします女神リュンヌよ――」 「やあ、ヒース。今日も熱心だね」  ミュゲの墓へヒースが祈りを捧げ終わったころを見計らうように、背後からリコリスは声をかけた。しかし、ヒースが顔を上げ、背後を振り返っても誰もいない。 「こっちだよ、こっち」  少し上から再び声がして、ヒースはそれを振り仰ぐ。蕾が綻び始めた木の太枝の上で、リコリスがひらひらと手を振っていた。 「……何してるんだ」 「何って木登りだけど」 「……」  呆気に取られてヒースが言葉を失うと、リコリスは足をぶらぶらさせながらにんまりと笑う。そして、彼女は中からほんのりと桃色の花びらを覗かせ始めた蕾に手を伸ばしながら、淡々と呟く。 「皆生きてるんだよ。これだって女神リュンヌが創りたもうた生命。誰も気にも留めないけどね」 「そういう神子っぽい台詞は降りてきてからにしてくれないか!?」 そのとき恵風が吹いた。強い春の風はリコリスの修道服の裾を大きく巻き上げ、ドレープの波を描いていった。ヒースは下を向いてそれを見ないようにしてやり過ごすと怒声を上げる。 「とにかく危ないからそこから降りろ!」 「あーらら、怒られちゃった」  リコリスはおどけたように舌を出す。そして、ちょっとそこどいててね、と言うと、枝の上から飛び降りた。反動で木の枝が大きくしなる。 「何やってんだ! 普通に降りろ、普通に!」 「別に怪我しなかったんだからいいじゃん」 「良くない! ってか、いつもこんなことしてるのか!?」  ヒースが問い詰めると、リコリスは露骨に目を逸らす。これはたぶん普段からやっている。とんだじゃじゃ馬だ。先ほどのミサで祈りを捧げていた人物と同一人物だとは到底思えない。 「だって幹を伝って降りるより効率的じゃない? 時短ってやつだよ、時短」  時短なんて言葉、どこで覚えてきたんだ。ミサの後に寄り集まって姦しく喋っている婦人グループたちは彼女にろくな知識を与えない。ヒースは頭が痛くなる思いだった。 「手間を惜しんで怪我をしたらどうするんだ……というか、一
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第二章:寄り添い合う二人に祝福を②

「お待たせ、ヒース! ごめんね、支度に手間取っちゃって」  リコリスがゴリ押しのようにデートの約束を取り付けた翌週の日曜のミサの後、いつもよりも三十分ほど遅く、彼女はいつもの場所に現れた。ぐしゃぐしゃと彼女の靴の下で下萌が鳴る。円清の下には綿雲がそそ風に戦いでいる。ヒースはシャツの襟元を正し、無精髭のなくなった顎を落ち着かなげに撫でる。  元は白だったのだろうが黄ばんでしまった粗末な麻のブラウスに、首元の痣を隠すためのスカーフ、つぎはぎだらけの茶色いスカート。リコリスの私服なのだろうが、デートという単語には程遠い服装だ。 「ごめんね、こんな格好で。これしか持ってなくってさ」 「それは構わねえが……本当に抜け出して問題ないのか?」 「全然大丈夫。シスターたちはまだミサの片付けやってるし、司祭や司教たちは午後は会議だからバレようがないよ。どのみちバレたところで放っておかれるんだけどね」  それじゃあ早く行こう、とリコリスはそっとヒースのジャケットの袖口を掴んだ。ヒースは一瞬固まっていたが、はあと溜息をつくと、リコリスの手を振り解く。そして、ヒースは子供にしてやるように手を繋ぎ直すと、リコリスを連れて地面から草の芽が顔を出し始めた墓地を出た。 教会を出てすぐの広場は、ミサの直後ということもあって人々で賑わっていた。富裕層狙いと見られる物乞いの姿もあちらこちらで散見された。  老舗のビストロに洗練されたリストランテ。カジュアルなトラットリアに夜になると街の人々や巡礼者で賑わう酒場。教会前の広場を抜けると、二人は様々な飲食店が立ち並ぶ中央通りを歩いて行く。 (――この辺り、ミュゲが生きてたころによく来たな。記念日の食事をあそこの店で――) (……この辺、私が昔物乞いしたりゴミ漁りしてた場所だ……。飲食店が多いこの辺りは残飯が多いから……)  手を繋ぎながらも別々のことを考えていた二人は、ふいに通りすがりの人からじろじろと観察されていることに気づいた。なあ、とヒースは傍らを歩く少女に耳打ちをした。 「天恵の神子様がこんなところを出歩いてるせいで周りから見られてるぞ」 「これは私のせいじゃないよ。どっちかっていうとヒースのせい。五年間ずっと浮浪者みたいな格好で世捨て人みたいな生活をしていたヒースが急に身綺麗になって、最近はいそいそとマルシェに通ってるっ
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第二章:寄り添い合う二人に祝福を③

 木々の蕾から桃色の花びらが解け始めた日曜日。先週より更に遅いなあと思いながら、教会墓地でヒースはリコリスを待っていた。 「ごめんね、遅くなっちゃって。司祭様に捕まっちゃってさ」  息を切らして、リコリスが先週と同じ姿で駆け寄ってくる。光風がリコリスの継ぎ接ぎだらけのスカートの裾を翻していく。 「それは構わないが……司祭様とやらは大丈夫だったのか?」 「大丈夫大丈夫、適当に話切り上げて逃げてきた」 「おいおい、仕事の話ならちゃんとしてこいよ。ここクビにされて浮浪者に逆戻りにでもなったら洒落にならないだろ」 「大丈夫、私この世で唯一の天恵の神子様だから。私をクビにしたら世界が滅びちゃうよ」  実際は先日、カフェで騒いでいた話が司祭たちの耳に入り、神子らしい言動をするようにと小言を食らったのだが、それは伏せておく。そんなことを伝えてこれからのお家デートを台無しにしたくなかった。 「それより早く行こうよ。これよりマシな服くれるっていってたから楽しみにしてたんだ」 リコリスはあたかも恋人のように指を絡めてヒースと手を繋ぐ。ヒースはされるがままで抵抗しなかった。「散らかってて悪いな」  住宅街の端の方にあるランズバーグ家にリコリスを招き入れると、ヒースは照れ隠しのようにぶっきらぼうに言った。ミュゲが亡くなってからというもの、独り暮らしのこの家に誰かを招き入れるのは久しぶりだった。 「おじゃまします」  入ってすぐは買ってきた食材やら何やらで散らかったキッチンとダイニング。その奥のベッドルームには寝乱れたシーツのダブルベッドやぐちゃぐちゃの本棚とベッドサイドテーブルがある。謙遜でも何でもなく本当に散らかっていた。しかし、一応人並みの生活をようやくし始めたばかりなのだから、これでもまだ上出来だろう。 「すぐに茶でも入れる。適当にその辺に座っといてくれ」  ヒースに促されてリコリスは手近にあったダイニングチェアに腰掛ける。ヒースは水瓶からポットに水を汲むと、マッチを擦って竃に火を入れる。そして、ポットを竈に掛けると、棚をゴソゴソと弄り、茶葉の入った缶とティーポットを取り出した。その様子をリコリスがなんとはなしに眺めていると、ヒースは蓋を開け、缶を逆さにしてぽんぽんと底を叩き始めた。ぎよっとしたリコリスはすかさず待ったをかける。 「待って待って待って、
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第三章:追憶の中で君影草は咲く①

 リコリスとヒースがマルシェを訪れてから一ヶ月。たまに出かけることもあったが、毎週日曜のミサ後の午後は二人でヒースの家で過ごすのが当たり前になってきていた。  ヒースも、リコリスの存在にはだいぶ慣れた。いつの間にかヒースはリコリスがそばにいることを受け入れつつあった。  木々の花が散り、緑が深まりつつあったある日の午後。ヒースは自宅のダイニングテーブルでリコリスと茶を飲んでいた。リコリスの指導のもと、この一ヶ月で料理も茶の淹れ方もだいぶ成長したと思う。火加減というものを覚えたことで鍋を焦がすことが減り、万が一焦がしても重曹で取れることを学んだ。最近、マルシェの金物屋の前を通りがかったときに、店主にせっかくの優良顧客だったんだけどなあと成長を嘆かれたが。  茶に関しても、別な日にまたリコリスにマルシェの雑貨屋に連れていかれ、砂時計を買わされたことで、蒸らす時間というものがわかるようになった。まともな茶を一人で淹れられるようになったこともまた成長だ。  いままですべてミュゲ任せだったことがリコリスのおかげでできるようになってきている。それは喜ばしいことだ。しかし、それと同時にミュゲの存在が自分から離れていってしまうようで寂しくもあった。 (駄目だ、これはすべて俺の問題だ)  ヒースはリコリスのそばにいたいという言葉にきちんと答えを返さないまま、なんとなく一緒にいるなあなあの関係を続けている。あのときのリコリスの真摯な言葉に自分の答えを返さないでいることをヒースは申し訳なく思っていた。それに肉体関係こそないものの、成人した男女がずるずるとこんな関係を続けているのは良くない。これでは自分がろくでなしでリコリスが通い妻みたいだ。 (早くどうにかしないとな……)  リコリスはいい子だと思う。神子という立場を抜きにしても、いい子だ。 (これで俺が若ければな……)  自分とリコリスがもし同年代だったらどうだっただろう。ミュゲは控えめで穏やかな性格だったが、対するリコリスはさばさばとしてさっぱりとした物言いをする。二人の性格こそ異なるが、それでもヒースが賢く優しく気立ての良いリコリスに惹かれていた可能性はないとは言い切れない。容姿だって、平均より可愛らしい部類に入るだろう。黒髪に赤目。プラチナブロンドに緑の瞳。正反対の容姿を持つリコリスとミュゲだが、別にリコリス
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第三章:追憶の中で君影草は咲く②

 帰宅すると、ヒースはミュゲを寝巻きに着替えさせた。そして、彼女をベッドに寝かせると、教会の施療院に医者を呼びに走った。しかし、待てども待てどもミュゲを診てくれる医者は現れなかった。運悪く風疹が流行っている時期と重なったため、本来往診を担っている医者の手が空かなかったのだ。ようやく医者がミュゲを診てくれることになったころには、東の空に月が登っていた。  ヒースの家を訪れた医者はミュゲ本人から話を聞くと、聴診器で胸の音を聞いた。医者はかすかに顔を曇らせると、ヒースに外に出ているように告げた。ヒースは渋々ながらも玄関から外へ出た。生け垣の下の樹陰が夜にも関わらず、やけに黒々と見えた。  一体医者とミュゲは何を話しているのか、時間の流れがヒースにはひどく長く感じられた。何か悪い病でないといい。そうは思うものの、嫌な予感がどうしても拭えなかった。  三十分ほど経っただろうか。午後八時を告げる教会の鐘が鳴った。それから更に十分ほどすると、玄関の扉が開いた。  医者が手招きをしている。街灯のオイルランプに引き寄せられて寄ってきた蝿を払い除けると、ヒースは家の中に戻った。 「ミュゲ! 大丈夫なのか!?」  ミュゲの目は泣いた後なのか、縁がほんのりと赤みを帯びていた。大丈夫、とミュゲは微笑んだが、無理をしている笑顔だと長年一緒にいるヒースにはわかった。 「奥様は風邪を拗らせてしまわれたようですね。しばらくは絶対安静でお願いします」  医者は淡々とそう告げた。診察代として、金貨三枚を受け取ると、「どうかお大事に」医者はヒースの家を辞した。 「ミュゲ。風邪って本当なのか? 薔薇園では血まで吐いてたじゃないか。 いつから無理をしていた?」  医者が帰ると、ヒースは一も二もなくミュゲにそう問いただした。彼女は曖昧に笑う。 「えっと、二、三日前くらいよ。少し熱っぽいかなって思う日もあったんだけど、大したことなさそうだからって放置した私の責任ね。今日のはどうやら気管が傷ついちゃったみたいで、しばらくしたら治るってお医者様も」  ミュゲ、とヒースは妻の緑の双眸を見つめた。こういうときのミュゲは隠し事をしている。しばらく二人は見つめ合っていたが、根負けしたようにミュゲは視線を逸らした。 「ミュゲ。俺に嘘をつかないでくれ。本当はどうだったんだ?」 「……結核よ」  ヒ
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第三章:追憶の中で君影草は咲く③

 金風がディオースの街を駆け抜けるようになったある秋の日。あと余命いくばくかといったくらいに死期が差し迫ったころに、一日だけミュゲの体調がいい日があった。 「ねえ、ヒース。私、薔薇が見たいわ」  秋薔薇って今の時期が見頃なのよ、とミュゲは淡く微笑んだ。これがヒースとの思い出を作る最後の機会になる。そんな予感があった。 「薔薇なら、後でマルシェで買ってきてやるよ。何色がいい?」  ダイニングテーブルで針を手に仕事をしていたヒースはミュゲにそう訊いた。そうじゃないの、とミュゲは首を横に振る。 「私、公園に行きたい。公園の薔薇園に行きたいの」  しかし、とヒースは渋面を浮かべる。ミュゲは外出はおろか、家のこともなるべくさせずに安静にさせるようにと医者から厳命されている。そもそも、ミュゲにはもう長く起き上がっているだけの体力もなかった。 「今日だけ、ほんの少しの時間でいいの。私にヒースとの思い出を作らせて」  わかったよ、とヒースは渋々ながらに折れる。ミュゲはおとなしそうでいて、こうなると意外と折れない。長年の付き合いでヒースはそれをよく知っていた。 「――一時間。一時間したらお前が何と言おうと帰るからな」 「わかったわ。ありがとう。私のわがままを聞いてくれて」  それでミュゲが笑ってくれるのならわがままくらいいくらでも聞いてやる。それでミュゲが一分一秒でも長くそばにいてくれるのなら、何だってする。 「……っ」  思わず目の奥を涙が迫り上がってきて、ヒースはシャツの袖で乱暴に目元を拭った。最近はどうにも涙もろくなってしまって駄目だ。あの日、医者の診断を受けてから、こうなることはずっと覚悟していたはずなのに。  そんな顔をさせてしまってごめんなさい。私のせいで苦しい思いをさせてしまってごめんなさい。しかし、ミュゲはその言葉を喉の奥に飲み込んだ。その言葉はヒースを余計に追い詰めるものに他ならない。  ヒースは施療院から借りている車椅子を部屋の隅から持ってくると、ベッドの前に止めた。そして、シーツの下にあったミュゲの足に触れると膝を立てる。ミュゲの背中と膝の裏に手を回すと、ヒースは体を半回転させるようにして、彼女の身体を車椅子に座らせた。  ヒースは財布とショールをブラックのトートバッグに入れ、鏡の前で申し訳程度に髪をいじると、外出の準備を整える
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第三章:追憶の中で君影草は咲く④

 それからミュゲの生命は一ヶ月と保たなかった。大市でヒースが買ってきた大衆小説の全巻セットを読破するまでは死なないと彼女は息巻いていたが、次第に本を手に取ることすら難しくなっていった。  ミュゲの症状を緩和するための薬こそ施療院から出されていたが、そんなもの気休めにもならなかった。いつからか、ヒースと話している時間よりも咳をしている時間の方が長くなっていった。だんだんと喀血の回数も増え、もう本当にミュゲの生命は終わりに近づいているのだと、ヒースは認めざるを得なかった。だんだんと近づいてくる死の足音が恐ろしくて仕方なかった。 (熱が下がらない……息も荒い)  ベッドで眠るミュゲは、絶え間なく咳をしながら、はあはあと激しく胸を上下させていた。咳が彼女の体力を奪っているのか、もう何日も彼女は浅く眠り続けている。  ミュゲの額はひどく熱く、汗でべっとりと琥珀色の髪が張り付いていた。しかし、熱の高さに引き換え、顔色はひどく青白い。熱があるはずなのに、ミュゲの骨と皮ばかりになった指先は紫色に変色し、ひどく冷たかった。自分が代わってやれればと思うものの、ヒースには額の汗を拭ってやることと手を握っていてやることしかできなかった。 「……ヒー、ス……」  うわごとなのか、ふいにミュゲがヒースの名を呼んだ。その唇は色を失い、青紫色に染まっていた。 「ミュゲ、どうした? 何か飲むか? それとも手洗いか?」  ヒースが問うと、ミュゲはううん、と微かに首を振った。その表情がどこか満足げに見えて、嫌な予感でヒースの心臓はばくばくと鳴る。ミュゲは瞼を開くと、とろんとした目でヒースを見た。けほけほ、と咳き込むと、彼女は蚊の鳴くような声で何事か話し始める。ヒースは一言も聞き逃すまいとミュゲの口元に耳を寄せた。 「けほっ……あの、ね……けほけほっ……植物図鑑、見て……けほっ、ほしい……」 「植物図鑑? それがどうした」 「見れば……げほっごほっ……わかるから……けほっ……あのね……けほっ……私、夢を、見てた……とっても、とっても、長い……ごほっ……ゆめ……」  そう言うとミュゲは血痰を吐いた。ヒースは彼女の口元をタオルで拭ってやる。  日曜学校の初日に教室で出会って。体調を崩しがちなミュゲの元に宿題を持ってヒースがしばしば訪ねてきて。一緒に勉強をしたり、遊んだりして。そして
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第四章:叶わぬ夢を一夜の月に①

「なあ、リコリス。来週、日曜日の夜って空いてるか?」  来週? とリコリスは一瞬怪訝な顔をした。しかし、すぐにその日が何の日であるのかに思い至ったのか、彼女の眉間の皺はすぐに解けた。 「夏至祭? それがどうかした?」  街中の至るところに緑陰が落ち、溽暑の季節が訪れていた。翠雨の止み間に雲の峰が突き抜ける滄海が顔を覗かせていた。  夏が始まると、ディオースでは毎月のように立て続けに祭が行なわれる。六月下旬の一番昼の長い日に行なわれる夏至祭、そのちょうど一ヶ月ほど後に行なわれる女神祭、夏の終わりに行なわれる収穫祭である。これらの祭は三大祭と呼ばれ、大陸中から聖グラース教の総本山であるディオースに観光客という名の巡礼者が押し寄せるのである。 「それでだ、リコリス……その、で……」  で? とリコリスはヒース何が言いたいのかわからないかのように言葉の続きを促した。あざとく小首を傾げて見せているが、リコリスはこの後に続くはずの二文字をしっかりと知っている。ヒースはたじたじとしながら、言葉の続きをどうにか脳内から捻り出す。耳が熱くなるのを感じる。男って大変だなあと思いながら、リコリスはにまにまとした笑みをヒースへと送った。 「で……ディオースの街歩きをしようかと思うんだが、一緒に来ないか?」 「いいけど、それはちょっと無理矢理がすぎないかなあ」  なんでストレートにデートって言えないかなあとリコリスは口を尖らせる。ヒースの意気地なし。自分たちは恋人同士だというのに、今更何を照れることがあるのだろう。 「そもそも私たち、何度もデートしてるじゃん。付き合う前にカフェとかマルシェも行ったし、最近もよく一緒にマルシェで買い物してるし今更じゃない?」 「それはそうだが……夏至祭ともなれば、普段とは心構えが違ってくるだろ。何せ、夏至祭を一緒に過ごしたカップルは一生添い遂げるって言うんだから」 「それを言ったら、女神祭を過ごしたカップルは女神リュンヌに祝福されるし、収穫祭を過ごしたカップルはどんな困難にも打ち勝てるとか言うでしょ。ヒース、それ商工会や教会に乗せられてうまいこと商売の種にされてるだけだよ」  夢も希望もないリコリスの指摘に、ヒースは聞きたくないとばかりに耳を覆う。頭で現実は理解していても、夢は見たい。男は夢見がちな生き物なのだ。 「やめてくれ、俺
last updateLast Updated : 2026-08-18
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