夫が、私のベッドの横で別の女に口づけた。ためらいはなかった。久保直紀(くぼ なおき)は、カーテンの隙間から朝日が差し込む、療養用に改装された部屋で、矢代あゆみ(やしろ あゆみ)の腰を引き寄せた。触れ合った唇が離れるまで、私はまばたきさえできずに見ていた。事故から5か月。私の意識は、あの日から一度も途切れていない。私は久保恵美(くぼ えみ)、35歳。事故に遭うまでは、東都大学病院の脳神経外科で、難しい手術を任されていた。治療方針を決めるときは、患者が納得して選べるまで説明を急がなかった。けれど今は、私自身の意思さえ、誰にも確かめられないまま置き去りにされている。右手の指を動かそうとしても、白いシーツの上には何の変化も起きなかった。喉から押し出そうとした声も、かすかな呼気にしかならない。音は聞こえる。匂いも分かる。誰かが腕へ触れれば、触れられたことも分かる。ただ、痛いとも、嫌だとも伝えられない。身体の内側には、事故前と変わらない私がいる。それなのに、外から見える私は、目を開けて横たわるだけの人間だった。やめて!ここは私の家よ。そう叫んだつもりだった。もちろん、ふたりには届かない。「ねえ」あゆみが私を見下ろした。医学部時代より少し短くなった髪が、頬へかかっている。「本当に、何も分かってないの?」直紀は私の目の前で手を振った。視線で追いたかった。だが、眼球を動かそうとするだけで、こめかみの奥に鋭い痛みが走る。焦点は彼の指先から外れ、白い天井へ流れた。直紀は小さく息を吐いた。「反応じゃない。たまたま目が動いただけだ」主治医は、私の認知機能がどこまで保たれているか、まだ判断できないと説明していた。「でも、恵美って昔から人の話を黙って聞くでしょう。今も全部聞かれてるみたいで、落ち着かない」「聞こえていたとしても、意味までは分かってないよ」医師が「まだ判断できない」と言ったことを、直紀は「恵美には理解できない」にすり替えた。その違いを知りながら、自分に都合のいい解釈を選んだのだ。彼は医師ではない。それでも、私の意識について話すときだけは、診断を下すような口調になる。あゆみはベッド脇の椅子へ腰を下ろし、私の手を持ち上げた。指先から力が抜け、手首が不自然な角度で垂れる。「かわいそうな恵美」言葉とは裏腹に、口元は笑っていた。「大学
Last Updated : 2026-08-11 Read more