All Chapters of 動けない妻は、すべて聞いている: Chapter 1 - Chapter 3

3 Chapters

1話

夫が、私のベッドの横で別の女に口づけた。ためらいはなかった。久保直紀(くぼ なおき)は、カーテンの隙間から朝日が差し込む、療養用に改装された部屋で、矢代あゆみ(やしろ あゆみ)の腰を引き寄せた。触れ合った唇が離れるまで、私はまばたきさえできずに見ていた。事故から5か月。私の意識は、あの日から一度も途切れていない。私は久保恵美(くぼ えみ)、35歳。事故に遭うまでは、東都大学病院の脳神経外科で、難しい手術を任されていた。治療方針を決めるときは、患者が納得して選べるまで説明を急がなかった。けれど今は、私自身の意思さえ、誰にも確かめられないまま置き去りにされている。右手の指を動かそうとしても、白いシーツの上には何の変化も起きなかった。喉から押し出そうとした声も、かすかな呼気にしかならない。音は聞こえる。匂いも分かる。誰かが腕へ触れれば、触れられたことも分かる。ただ、痛いとも、嫌だとも伝えられない。身体の内側には、事故前と変わらない私がいる。それなのに、外から見える私は、目を開けて横たわるだけの人間だった。やめて!ここは私の家よ。そう叫んだつもりだった。もちろん、ふたりには届かない。「ねえ」あゆみが私を見下ろした。医学部時代より少し短くなった髪が、頬へかかっている。「本当に、何も分かってないの?」直紀は私の目の前で手を振った。視線で追いたかった。だが、眼球を動かそうとするだけで、こめかみの奥に鋭い痛みが走る。焦点は彼の指先から外れ、白い天井へ流れた。直紀は小さく息を吐いた。「反応じゃない。たまたま目が動いただけだ」主治医は、私の認知機能がどこまで保たれているか、まだ判断できないと説明していた。「でも、恵美って昔から人の話を黙って聞くでしょう。今も全部聞かれてるみたいで、落ち着かない」「聞こえていたとしても、意味までは分かってないよ」医師が「まだ判断できない」と言ったことを、直紀は「恵美には理解できない」にすり替えた。その違いを知りながら、自分に都合のいい解釈を選んだのだ。彼は医師ではない。それでも、私の意識について話すときだけは、診断を下すような口調になる。あゆみはベッド脇の椅子へ腰を下ろし、私の手を持ち上げた。指先から力が抜け、手首が不自然な角度で垂れる。「かわいそうな恵美」言葉とは裏腹に、口元は笑っていた。「大学
last updateLast Updated : 2026-08-11
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2話

翌朝、訪問看護師は私の体温を測りながら、直紀を褒めた。「久保さん、ご主人は本当に優しい方ですね。お仕事がお忙しいのに、昨日もケアのことで電話をくださいました」彼女に悪意はない。私の腕を支える手つきは丁寧で、皮膚の赤みも関節の動きもひとつずつ確かめてくれる。だからこそ、否定できないことが苦しかった。直紀が確かめたのは、私の体調だけではない。今日の訪問が何時に終わるのか。午後は眠っていることが多いのか。撮影機材を室内へ入れても、ケアの妨げにならないか。看護師が確認のために読み上げたメモには、そんな質問まで並んでいた。「今日は会社の取材があるそうですね。撮影は、久保さんの負担にならないよう、短時間で終えると伺っています」取材……私は昨日、何も聞かされていない。看護師は私の反応を確かめるように、顔をのぞき込んだ。視線を合わせようとしたが、目を動かしただけで焦点がずれた。「お疲れですか。少し休みましょうね」違う。休みたいんじゃない。撮影を断りたい。伝えようとしても、喉から出たのは、かすかな息だけだった。ケアが終わるころ、直紀が部屋へ入ってきた。薄いグレーのスーツに着替え、髪もきれいに整えている。私へ近づく前に、ネクタイの結び目を指で直した。「いつもありがとうございます。妻も、あなたが来る日は安心しているようです」看護師が笑顔でうなずく。「今日は表情も落ち着いていますよ」私は彼女を責められなかった。筋肉が思うように動かない私の顔は、拒絶していても穏やかに見える。直紀はベッド脇へ立ち、私の髪を耳へかけた。看護師が見ているあいだだけ、髪をいたわるように指をゆっくり動かす。「恵美、今日は会社の取材で、少しだけ撮影させてもらうよ。負担はかけないから」相談ではなかった。決定を、気遣いの形で読み上げただけだ。看護師が玄関へ向かうと、直紀は私の掛け布団から手を離した。玄関の扉が閉まる音と同時に、笑みも消えた。「顔色は悪くないな」階段を下りる足音がして、あゆみが療養室の前へ現れた。昨日、私のクローゼットへ入れると言っていた服だろう。見覚えのない白いブラウスを着て、直紀のネクタイへ手を伸ばした。「少し曲がってる」直紀は直されるままになっていたが、廊下の奥から車の音が聞こえると、その手を外した。「取材が終わるまで、2階にいてくれ」「私も見た
last updateLast Updated : 2026-08-11
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3話

その夜、直紀は私の目を閉じさせると、見守りモニターを消し、療養用の部屋の照明を落とした。 眠ったかどうかの確認はしない。私には声も寝返りもないから、目を閉じていれば眠っていることになる。 扉は少し開いたままだった。 廊下の先で、氷がグラスに当たる音がした。続いて、あゆみの声が聞こえる。 「昼の映像、もう会社のサイトに出てる」 「広報に任せてある」 「コメント、感動したって。それで私は2階に隠れてろって?」 直紀は何か答えたが、声が低く、言葉までは拾えなかった。 私は耳へ意識を集めた。 静かな場所なら会話は聞こえる。それでも、食器の音や空調が重なると、短い言葉ほど抜け落ちる。聞き取れなかった部分を想像で埋めれば、事実と願望の区別がつかなくなる。 聞こえた言葉だけを残す。 あゆみの足音が近づいた。療養室をのぞいたのか、扉の前で一度止まる。 「三浦から、また連絡が来てた」 グラスがテーブルへ置かれた。 「その名前を家で出すな」 直紀の声は、昼間より低かった。 「だったら、ちゃんと黙らせてよ。あの日の車だって、まだ会社にあるんでしょう?」 「処分したほうが不自然だ。保険の記録も残ってる」 そこでふたりの声が遠ざかった。リビングへ戻ったらしい。 三浦。 あの日の車。 保険の記録。 
last updateLast Updated : 2026-08-12
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