All Chapters of 動けない妻は、すべて聞いている: Chapter 1 - Chapter 10

28 Chapters

1話

夫が、私のベッドの横で別の女に口づけた。ためらいはなかった。久保直紀(くぼ なおき)は、カーテンの隙間から朝日が差し込む、療養用に改装された部屋で、矢代あゆみ(やしろ あゆみ)の腰を引き寄せた。触れ合った唇が離れるまで、私はまばたきさえできずに見ていた。事故から5か月。私の意識は、あの日から一度も途切れていない。私は久保恵美(くぼ えみ)、35歳。事故に遭うまでは、東都大学病院の脳神経外科で、難しい手術を任されていた。治療方針を決めるときは、患者が納得して選べるまで説明を急がなかった。けれど今は、私自身の意思さえ、誰にも確かめられないまま置き去りにされている。右手の指を動かそうとしても、白いシーツの上には何の変化も起きなかった。喉から押し出そうとした声も、かすかな呼気にしかならない。音は聞こえる。匂いも分かる。誰かが腕へ触れれば、触れられたことも分かる。ただ、痛いとも、嫌だとも伝えられない。身体の内側には、事故前と変わらない私がいる。それなのに、外から見える私は、目を開けて横たわるだけの人間だった。やめて!ここは私の家よ。そう叫んだつもりだった。もちろん、ふたりには届かない。「ねえ」あゆみが私を見下ろした。医学部時代より少し短くなった髪が、頬へかかっている。「本当に、何も分かってないの?」直紀は私の目の前で手を振った。視線で追いたかった。だが、眼球を動かそうとするだけで、こめかみの奥に鋭い痛みが走る。焦点は彼の指先から外れ、白い天井へ流れた。直紀は小さく息を吐いた。「反応じゃない。たまたま目が動いただけだ」主治医は、私の認知機能がどこまで保たれているか、まだ判断できないと説明していた。「でも、恵美って昔から人の話を黙って聞くでしょう。今も全部聞かれてるみたいで、落ち着かない」「聞こえていたとしても、意味までは分かってないよ」医師が「まだ判断できない」と言ったことを、直紀は「恵美には理解できない」にすり替えた。その違いを知りながら、自分に都合のいい解釈を選んだのだ。彼は医師ではない。それでも、私の意識について話すときだけは、診断を下すような口調になる。あゆみはベッド脇の椅子へ腰を下ろし、私の手を持ち上げた。指先から力が抜け、手首が不自然な角度で垂れる。「かわいそうな恵美」言葉とは裏腹に、口元は笑っていた。「大学
last updateLast Updated : 2026-08-11
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2話

翌朝、訪問看護師は私の体温を測りながら、直紀を褒めた。「久保さん、ご主人は本当に優しい方ですね。お仕事がお忙しいのに、昨日もケアのことで電話をくださいました」彼女に悪意はない。私の腕を支える手つきは丁寧で、皮膚の赤みも関節の動きもひとつずつ確かめてくれる。だからこそ、否定できないことが苦しかった。直紀が確かめたのは、私の体調だけではない。今日の訪問が何時に終わるのか。午後は眠っていることが多いのか。撮影機材を室内へ入れても、ケアの妨げにならないか。看護師が確認のために読み上げたメモには、そんな質問まで並んでいた。「今日は会社の取材があるそうですね。撮影は、久保さんの負担にならないよう、短時間で終えると伺っています」取材……私は昨日、何も聞かされていない。看護師は私の反応を確かめるように、顔をのぞき込んだ。視線を合わせようとしたが、目を動かしただけで焦点がずれた。「お疲れですか。少し休みましょうね」違う。休みたいんじゃない。撮影を断りたい。伝えようとしても、喉から出たのは、かすかな息だけだった。ケアが終わるころ、直紀が部屋へ入ってきた。薄いグレーのスーツに着替え、髪もきれいに整えている。私へ近づく前に、ネクタイの結び目を指で直した。「いつもありがとうございます。妻も、あなたが来る日は安心しているようです」看護師が笑顔でうなずく。「今日は表情も落ち着いていますよ」私は彼女を責められなかった。筋肉が思うように動かない私の顔は、拒絶していても穏やかに見える。直紀はベッド脇へ立ち、私の髪を耳へかけた。看護師が見ているあいだだけ、髪をいたわるように指をゆっくり動かす。「恵美、今日は会社の取材で、少しだけ撮影させてもらうよ。負担はかけないから」相談ではなかった。決定を、気遣いの形で読み上げただけだ。看護師が玄関へ向かうと、直紀は私の掛け布団から手を離した。玄関の扉が閉まる音と同時に、笑みも消えた。「顔色は悪くないな」階段を下りる足音がして、あゆみが療養室の前へ現れた。昨日、私のクローゼットへ入れると言っていた服だろう。見覚えのない白いブラウスを着て、直紀のネクタイへ手を伸ばした。「少し曲がってる」直紀は直されるままになっていたが、廊下の奥から車の音が聞こえると、その手を外した。「取材が終わるまで、2階にいてくれ」「私も見た
last updateLast Updated : 2026-08-11
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3話

その夜、直紀は私の目を閉じさせると、見守りモニターを消し、療養用の部屋の照明を落とした。 眠ったかどうかの確認はしない。私には声も寝返りもないから、目を閉じていれば眠っていることになる。 扉は少し開いたままだった。 廊下の先で、氷がグラスに当たる音がした。続いて、あゆみの声が聞こえる。 「昼の映像、もう会社のサイトに出てる」 「広報に任せてある」 「コメント、感動したって。それで私は2階に隠れてろって?」 直紀は何か答えたが、声が低く、言葉までは拾えなかった。 私は耳へ意識を集めた。 静かな場所なら会話は聞こえる。それでも、食器の音や空調が重なると、短い言葉ほど抜け落ちる。聞き取れなかった部分を想像で埋めれば、事実と願望の区別がつかなくなる。 聞こえた言葉だけを残す。 あゆみの足音が近づいた。療養室をのぞいたのか、扉の前で一度止まる。 「三浦から、また連絡が来てた」 グラスがテーブルへ置かれた。 「その名前を家で出すな」 直紀の声は、昼間より低かった。 「だったら、ちゃんと黙らせてよ。あの日の車だって、まだ会社にあるんでしょう?」 「処分したほうが不自然だ。保険の記録も残ってる」 そこでふたりの声が遠ざかった。リビングへ戻ったらしい。 三浦。 あの日の車。 保険の記録。 
last updateLast Updated : 2026-08-12
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4話

1週間後、岡本玲奈(おかもと れいな)が私の前に立った。白衣ではなく、紺色のジャケットを着ていた。肩まで伸びた髪を耳へかけ、ベッドに近づく前に、私と同じ高さまで腰を落とす。「久保先生。岡本玲奈です。分かりますか」分かる。私が東都大学病院にいたころ、3年下の玲奈は、症例検討会のたびに一番前へ座っていた。臨床ではなく医用工学へ進みたいと打ち明けたとき、私はまず、彼女が迷いをすべて話し終えるまで待った。医師になることだけが、医学に貢献する道ではない。自分で選んだのなら、逃げだと思わなくていい。最後にそう伝えたことを覚えている。米国で研究していると聞いていたが、帰国したことは知らなかった。主治医が、意思伝達手段を探すため国内大学の研究班へ照会したのは2週間前だった。共有された候補者資料で私の名前を見つけた玲奈が、評価に立ち会いたいと一時帰国を申し出たという。「先生に試してほしい技術があります。でも、私が先生を知っているから成功するわけではありません。合わない可能性もあります」玲奈は期待だけを語らなかった。そのことが、今は何より信じられた。私は視線を彼女へ向けようとした。焦点は頬の横へずれたが、玲奈は追いかけるように顔を動かさなかった。「無理に目で追わなくて大丈夫です。今日は、先生に意思を伝える方法が残っているか、一緒に確かめに来ました」直紀が窓際の椅子に座っていた。主治医と、国内大学の研究チームの担当者もいる。玲奈はテーブルへ、電極のついた布製のキャップを置いた。「手や声を使わず、脳波の反応で画面の選択肢を選び、意思を伝える装置です。BCIと呼ばれています。これは頭皮から脳波を測るタイプで、考えている内容をそのまま読み取るものではありません。画面上の『はい』『いいえ』へ注意を向けたときの反応を何度も測り、久保先生が使えるか確かめます」直紀がキャップを手に取ろうとしたが、研究担当者が先に資料を差し出した。「今日は説明と適合評価です。研究参加には、ご家族の代諾だけでなく、久保先生ご本人に拒否の反応がないかも継続して確認します。負担が強い場合は中止します」「妻は、自分で同意できない状態です」「だからこそ、同意できないと決めつけません。今使える反応から、ご本人の意思を確かめます」主治医が静かに補った。直紀は資料へ目を落とした。「実
last updateLast Updated : 2026-08-13
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5話

2週間後、画面の線は私の意思に合わせて動くようになっていた。 いつでも、ではない。午前中の短い時間に限り、答えが明確な質問を6回繰り返せば、5回ほどは同じ側を選べる。それを過ぎると集中が切れ、誤判定が増えた。 最初の3日間は、名前を問われても半分しか正しく答えられなかった。4日目に画面の明るさを落とし、点滅の間隔を広げると、ようやく同じ反応が続いた。 翌日は首の痛みで一度も判定できない。さらに次の日は、開始から15分だけ前日の結果を上回った。 能力が階段のように上がるわけではない。体調と環境によって進み、戻り、また進む。研究ログには成功より多くの失敗が並んでいた。 それでも私は、自分が集中できる条件を覚え始めていた。午前中。休憩の直後。質問は短く、一度にひとつ。左右の位置を入れ替え、反対の聞き方でも確かめる。 大学病院の訓練室で、玲奈が今日の質問を読み上げる。 「久保先生は脳外科医ですか」 私は【はい】へ注意を向けた。 画面に【YES】と表示される。 「今、痛みがありますか」 【いいえ】を選ぶ。今度も正しく出た。 直紀が隣で腕を組んでいた。結果が出るたび、研究担当者の端末をのぞき込む。 「前回より、ずいぶん安定しましたね」 「短い時間なら、傾向が見えてきました」 玲奈は喜ばせるための数字を口にしなかった。試行数、判定不能、誤判定をすべて同じ表へ記録する。 直紀の視線は、その表から離れなかった。 「文字入力には、いつ進めますか」 
last updateLast Updated : 2026-08-14
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6話

最初の一文字を出すまでに、11分かかった。 自宅の療養室へ運び込まれた研究用モニターには、五十音の行がひとつずつ表示されていた。私が選ぶたびに候補が絞られ、最後に文字を確定する。 玲奈は私の左側に座り、画面へ触れずに待っている。直紀は会社の会議へ出かけ、戻るまで2時間ほどあった。 今日の個別訓練を直紀へ伝えないことは、前回のYES/NOで確認してある。 私が最初に選びたいのは「み」だった。 ところが画面に出たのは「に」。 一文字戻る操作にも、選択が必要になる。【削除しますか】へYESを返し、また最初から行を選ぶ。 2回目で、ようやく「み」が表示された。 次は「う」。その次は「ら」。 【みうら】まで33分。 変換候補が画面に並んだ。三浦、三裏、実浦。候補の順番は、選んだ読みと一般的な使用頻度から機械が並べただけで、誰のことかを理解しているわけではない。 私は【三浦】を選んだ。 玲奈が初めて声を出す。 「人の名前ですか」 【YES】 「事故に関係する人物ですか」 私は集中しかけて、止めた。 関係する、とまだ断定はできない。 NOを選ぶのも違う。 私は【答えない】へ視線を移したが、信号は途中で崩れた。 【判定不能】 玲奈は質問を変えた。 「先生が事故との関係を
last updateLast Updated : 2026-08-15
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7話

私の名前で、契約が更新されていた。 事故から約7か月。自宅の訓練机に置かれたモニターには、電子契約サービスから届いた完了通知が開いていた。 【独占的実施権変更契約 締結完了】 署名者の欄には、久保恵美。 更新日は、事故から2か月後だった。 そのころの私は病院のベッドから動けず、発話も端末操作もできなかった。 画面に並ぶ私の名前は、間違いなく本物だった。だからこそ、自分のものではない署名が、私の意思より強く見えた。 私は医師として、説明を尽くし、選ぶのは本人だと何度も伝えてきた。その私の名前が、本人の意思を消すために使われている。 怒りで呼吸が速くなる。玲奈がモニターを止め、主治医から指示された休息時間を取った。 「この通知を、今日初めて知りましたか」 【YES】 「事故後、契約変更について説明を受けたことはありますか」 【NO】 質問と出力が記録へ追加された。 午前の訓練が始まる前、玲奈は直紀へ、文字盤以外の画面でも選択練習をしたいと説明した。 「久保先生が以前使っていたメールなら、見慣れた差出人や件名を選ぶ訓練ができます。閲覧するメールは、先生ご本人に決めてもらいます」 直紀は一度断った。 「仕事の情報が入っています。今の妻に見せても負担になるだけです」 「見るかどうかを決めるのも訓練です」 玲奈が譲らないと、彼は棚から私のノートパソコンを出した。事故後の手続きに使うと言って
last updateLast Updated : 2026-08-16
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8話

私が選んだ武器は、あゆみの嫉妬だった。 契約完了通知を見つけてから3日後。直紀は地方の講演へ出かけ、今夜まで戻らない。あゆみも朝から姿を見せていなかった。 療養室では、玲奈が限定操作用のスマートフォンを研究用モニターへ接続していた。 大きなボタンで、アプリを開く。入力欄を選ぶ。確認画面で送信する。今の私にできるのは、その程度だ。 それでも、自分で選んだ相手へ言葉を届けられる。 限定操作用の端末は研究機関の管理下にあり、使えるアプリと連絡先は事前に登録される。私は文字入力とYES/NOで、新しいメールアドレスと匿名アカウントの作成を申請した。 他人の氏名や写真は使わない。直紀やあゆみの端末へ侵入しない。公開されている宛先へ、自分が作った文章を送るだけだ。 玲奈は研究責任者へ、個人的な連絡機能を訓練へ含めることと、研究チームが文面の内容へ責任を負わないことを確認した。送信操作は記録されるが、私が許可しない限り直紀へ内容を開示しない。 準備には数日かかった。端末を自由に得たのではない。使う範囲と責任をひとつずつ決め、ようやく今日、送信画面が開いた。 「送信先は、矢代あゆみさんの公開アカウントで間違いありませんか」 【YES】 「先生の知人ですか」 【YES】 「事故のあと、ご自宅で会った人ですか」 【YES】 玲奈はそこで画面から手を離した。 「この連絡は、事故や契約を調べるためですか」 【YES】 「相手へ事実を尋ねますか
last updateLast Updated : 2026-08-16
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10話

「三浦は、事故処理を担当した社員だ」 直紀は一度も私を見ず、あゆみへ答えた。 「会社の車が事故を起こしたから、保険会社との連絡を任せた。それだけだ」 「治療費補助って何?」 「家族が病気なんだ。福利厚生の一環で出した」 「どうして同じ人に何度も払ってるの」 直紀の親指が、結婚指輪を一周させた。 「経理のことまで、お前に説明する必要はない」 あゆみの顔から、迷いが消えた。 「私に端末を使わせたのは直紀でしょう。取材も講演も、私に手伝わせてる。それなのに、都合が悪いものだけ見るなって言うの?」 「広報資料を見る権限と、経費を詮索する権限は別だ」 直紀は端末を取り上げた。画面を確認し、何かを操作してから蓋を閉じる。 「今後、このアカウントは使うな」 あゆみは返事をしなかった。 ふたりの口論はそこで終わったが、疑いは消えなかった。 翌日、直紀が会社へ出ると、あゆみは自分のスマートフォンを持って療養室へ来た。 共有端末の画面を撮ったらしい。写真を拡大し、昨日見つけた行をひとつずつ確認している。 スクリーンショットだけでは、会社の原帳票が本物かも、後から変更されていないかも分からない。だが、何を正式に確認すべきかを示す手掛かりにはなる。 あゆみは私へ見せるつもりなどなかった。ベッド脇の椅子は、廊下から死角になるから選んだだけだ。 画面を傾けた瞬間、私にも文字が見えた。&nb
last updateLast Updated : 2026-08-17
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