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動けない妻は、すべて聞いている
動けない妻は、すべて聞いている
Penulis: Amy

1話

Penulis: Amy
last update Tanggal publikasi: 2026-08-11 21:35:49

夫が、私のベッドの横で別の女に口づけた。ためらいはなかった。

久保直紀(くぼ なおき)は、カーテンの隙間から朝日が差し込む、療養用に改装された部屋で、矢代あゆみ(やしろ あゆみ)の腰を引き寄せた。

触れ合った唇が離れるまで、私はまばたきさえできずに見ていた。

事故から5か月。私の意識は、あの日から一度も途切れていない。

私は久保恵美(くぼ えみ)、35歳。事故に遭うまでは、東都大学病院の脳神経外科で、難しい手術を任されていた。

治療方針を決めるときは、患者が納得して選べるまで説明を急がなかった。けれど今は、私自身の意思さえ、誰にも確かめられないまま置き去りにされている。

右手の指を動かそうとしても、白いシーツの上には何の変化も起きなかった。喉から押し出そうとした声も、かすかな呼気にしかならない。

音は聞こえる。匂いも分かる。誰かが腕へ触れれば、触れられたことも分かる。

ただ、痛いとも、嫌だとも伝えられない。

身体の内側には、事故前と変わらない私がいる。それなのに、外から見える私は、目を開けて横たわるだけの人間だった。

やめて!ここは私の家よ。

そう叫んだつもりだった。

もちろん、ふたりには届かない。

「ねえ」

あゆみが私を見下ろした。医学部時代より少し短くなった髪が、頬へかかっている。

「本当に、何も分かってないの?」

直紀は私の目の前で手を振った。

視線で追いたかった。だが、眼球を動かそうとするだけで、こめかみの奥に鋭い痛みが走る。焦点は彼の指先から外れ、白い天井へ流れた。

直紀は小さく息を吐いた。

「反応じゃない。たまたま目が動いただけだ」

主治医は、私の認知機能がどこまで保たれているか、まだ判断できないと説明していた。

「でも、恵美って昔から人の話を黙って聞くでしょう。今も全部聞かれてるみたいで、落ち着かない」

「聞こえていたとしても、意味までは分かってないよ」

医師が「まだ判断できない」と言ったことを、直紀は「恵美には理解できない」にすり替えた。

その違いを知りながら、自分に都合のいい解釈を選んだのだ。彼は医師ではない。それでも、私の意識について話すときだけは、診断を下すような口調になる。

あゆみはベッド脇の椅子へ腰を下ろし、私の手を持ち上げた。指先から力が抜け、手首が不自然な角度で垂れる。

「かわいそうな恵美」

言葉とは裏腹に、口元は笑っていた。

「大学じゃ、何をしても私より上だったのにね」

あゆみの指が、私の結婚指輪をゆっくりとなぞる。

「それが今じゃ、何も言い返せないんだ」

直紀が、指輪に触れていたあゆみの手をつかんだ。

一瞬だけ、彼の顔に不快そうな色が浮かんだ。私を侮辱されたことに腹を立てたのかと思った。

けれど彼は、私の手をシーツの上へ戻すと、指輪がきちんとはまっているかを確かめただけだった。

「傷をつけるな。取材が入るかもしれない」

あゆみは唇を尖らせた。

「ずいぶん奥さん思いなのね」

「そう見えれば、それでいい」

その言葉を聞くまで、私はまだ、自宅に戻れば直紀との暮らしを取り戻せると思っていた。声を失った私とも、直紀なら夫婦として向き合ってくれると信じていた。

わずかに残っていた期待は、その一言で消えた。

事故直後、直紀は毎日病院へ来た。医師の説明を熱心に聞き、看護師へ頭を下げ、私の手を握った。

その姿は、「事故に遭った妻を支える医療機器会社社長」として記事になった。記事が出てからは、かつて私が執刀した患者や病院の同僚から、花や見舞いの品が次々と届いた。

【先生が答えを急がせずに待ってくれたから、治療を受ける決心ができました】

そんなカードを、直紀が読んでくれたこともある。

私は、彼がまだ私を愛しているのだと思っていた。

自宅での療養に移ることが決まった日も、直紀は私の耳元で言った。

「家に帰ろう。俺がずっとそばにいる」

あの「そば」に、あゆみもいるとは思わなかった。

7年前、夜遅くまで続いた手術を終えて私が病院を出るまで、直紀はロビーで待っていた。冷めた缶コーヒーを手に、疲れているはずなのに笑っていた。

「患者を助ける君が好きだ。待つくらい、どうってことない」

あの言葉まで嘘だったとは、まだ思いたくなかった。

でも、今の彼が守っているのは私ではない。「妻を献身的に支える夫」という、自分の評判だけだ。

「今日も泊まっていい?」

あゆみが尋ねた。

「好きにすればいい」

「私の着替え、もう寝室のクローゼットに入れてもいい?」

「恵美の服を少し移せば、入るだろ」

あゆみが言う「寝室」は、客用の部屋ではない。

私と直紀が使っていた、2階の寝室だ。

この家は、都内の住宅街に建つ2階建てだ。玄関から延びる廊下の右手に、かつての書斎がある。左手はリビング。奥の階段を上がれば、私と直紀が使っていた寝室だ。

病院から戻った私のために、1階の書斎は療養用の部屋へ変えられていた。一方、2階の寝室では、あゆみの服を入れるために、私の服がクローゼットから追い出されようとしている。

ベッドの正面には、壁掛けの見守りモニターがあった。玄関、1階の廊下、リビング、階段前に設置されたカメラの映像が、数秒ごとに切り替わっている。

直紀は、「家の様子が見えれば、恵美も退屈しない」と言って設置させた。取材では、妻のために整えた療養環境として紹介するつもりなのだろう。

音声は入らず、映像も保存されない。寝室などの私的な場所は映らず、私には画面を切り替えることさえできなかった。

それでも、誰が家へ入り、どちらへ向かったのかは分かる。直紀は、私に映像の意味など理解できないと思っている。

だから、あゆみが階段を上り、2階の寝室へ向かう姿が映っても、モニターを消そうとしなかった。

私が寝かされている部屋にあるのは、電動ベッドと介護用品、薬を並べたワゴン。それだけだった。

仕事で使っていた机も、書き込みだらけの論文も、手術前に必ず開いていた分厚いノートもない。両親と撮った最後の家族写真さえ、ここにはなかった。

両親はすでに亡くなっている。ひとりっ子の私にとって、直紀は残された唯一の家族だった。

スマートフォンもノートパソコンも、事故後の手続きに必要だと言って、直紀が預かっている。

壁際の棚には、直紀が選んだ花と、取材のたびにカメラへ映される私たちの結婚写真だけが置かれていた。

家へ帰ったはずなのに、ここには私が暮らしていた痕跡がない。私は直紀が世間に見せたい妻として、ここへ置かれているだけだった。

あゆみが私の顔をのぞき込んだ。

甘い香水の匂いがする。学生のころ、彼女が特別な日にだけつけていたものと同じだった。

「恵美。直紀は、私がもらうね」

そう言うと、あゆみはベッド脇のテーブルに置かれたカップを手に取った。

白い磁器に、小さな青い鳥が描かれている。結婚した年、私が直紀と選んだものだった。

あゆみはそのカップで一口飲むと、何事もなかったように元の場所へ戻した。私のものだと知りながら、わざと使ったのだ。

自分が私に勝ったことを、見せつけたいのだろう。そこまでしなければ安心できないのなら、あゆみはまだ直紀を信じ切っていない。

本当に自分が選ばれたと思っているなら、動けない私へ勝ち誇る必要などない。

見ているのは苦しかった。それでも、あゆみの表情をひとつも見落としたくなかった。

あゆみの声がわずかに震えた瞬間も、直紀を見るときの目つきも、私の指輪に触れたときの笑みも、覚えておく。

今の私にできるのは、それだけだ。ならば、すべて覚える。

誰が、いつ、この部屋へ入ったのか。どんな言葉を交わし、何を持ち出し、何を隠したのか。

紙にも端末にも残せない。だから、起きた順に整理して覚える。時刻、話した人、言葉、動作。手術前、複雑な術式を頭の中で何度も確認したときと同じように、今見た場面をひとつずつ区切り、何度も思い返す。

悲しいのか、悔しいのか。それを考えるのは、あとでいい。

私は脳外科医として、患者のわずかな変化を見逃さないよう訓練してきた。呼吸の間隔、瞳孔の動き、指先の震え。小さな兆候から異変を疑い、検査で確かめる。

今、見落としてはならないのは、このふたりだ。

直紀は私の掛け布団を整えた。

その仕草だけをカメラが切り取れば、献身的な夫に見えただろう。

けれど直紀は、その直後、同じ手であゆみの腰を抱き寄せた。

「行こう。恵美には、何も分からない」

ふたりの足音が遠ざかり、扉が閉まった。

私は動かない指へ、もう一度だけ力を込めた。

分かっている。

聞こえている。

あなたたちが私の前で交わした言葉は、すべて。

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