INICIAR SESIÓN翌朝、訪問看護師は私の体温を測りながら、直紀を褒めた。
「久保さん、ご主人は本当に優しい方ですね。お仕事がお忙しいのに、昨日もケアのことで電話をくださいました」
彼女に悪意はない。私の腕を支える手つきは丁寧で、皮膚の赤みも関節の動きもひとつずつ確かめてくれる。
だからこそ、否定できないことが苦しかった。
直紀が確かめたのは、私の体調だけではない。今日の訪問が何時に終わるのか。午後は眠っていることが多いのか。撮影機材を室内へ入れても、ケアの妨げにならないか。
看護師が確認のために読み上げたメモには、そんな質問まで並んでいた。
「今日は会社の取材があるそうですね。撮影は、久保さんの負担にならないよう、短時間で終えると伺っています」
取材……
私は昨日、何も聞かされていない。
看護師は私の反応を確かめるように、顔をのぞき込んだ。視線を合わせようとしたが、目を動かしただけで焦点がずれた。
「お疲れですか。少し休みましょうね」
違う。
休みたいんじゃない。撮影を断りたい。
伝えようとしても、喉から出たのは、かすかな息だけだった。
ケアが終わるころ、直紀が部屋へ入ってきた。薄いグレーのスーツに着替え、髪もきれいに整えている。私へ近づく前に、ネクタイの結び目を指で直した。
「いつもありがとうございます。妻も、あなたが来る日は安心しているようです」
看護師が笑顔でうなずく。
「今日は表情も落ち着いていますよ」
私は彼女を責められなかった。筋肉が思うように動かない私の顔は、拒絶していても穏やかに見える。
直紀はベッド脇へ立ち、私の髪を耳へかけた。看護師が見ているあいだだけ、髪をいたわるように指をゆっくり動かす。
「恵美、今日は会社の取材で、少しだけ撮影させてもらうよ。負担はかけないから」
相談ではなかった。決定を、気遣いの形で読み上げただけだ。
看護師が玄関へ向かうと、直紀は私の掛け布団から手を離した。玄関の扉が閉まる音と同時に、笑みも消えた。
「顔色は悪くないな」
階段を下りる足音がして、あゆみが療養室の前へ現れた。昨日、私のクローゼットへ入れると言っていた服だろう。見覚えのない白いブラウスを着て、直紀のネクタイへ手を伸ばした。
「少し曲がってる」
直紀は直されるままになっていたが、廊下の奥から車の音が聞こえると、その手を外した。
「取材が終わるまで、2階にいてくれ」
「私も見たい」
「会社の人間に説明していない。今は出るな」
あゆみの指が、直紀の胸元で止まった。
「奥さんを愛してる社長に、家で待つ恋人がいたら困るものね」
「余計なことを言うな」
直紀は声を荒らげなかった。あゆみの肩へ手を置き、階段のほうへ向ける。人を従わせるときほど、彼の声は穏やかになる。
あゆみはすぐには動かなかった。ベッドの上の私と直紀を交互に見てから、彼の耳元へ顔を寄せた。
「終わったら、昨日の続きね」
私にも聞こえる声だった。
見守りモニターが玄関の映像へ切り替わった。機材を持った男女が門を入り、玄関へ近づいてくる。
直紀は答えず、モニターへ目をやった。玄関のチャイムが鳴ると、あゆみはようやく2階へ戻っていった。
取材では、あの足音も、ブラウスも、耳元の言葉も映らない。映るものを直紀が選び、あゆみをカメラの外へ追いやった。けれど私は、あゆみが階段を上っていく姿も、玄関へ入ってくる取材陣も見ていた。
直紀は、あゆみが2階へ上がったのを確かめると、廊下へ向かって声をかけた。
「入っていい」
会社の広報担当らしい女性と、カメラを持った男性が入ってきた。女性は私へ丁寧に頭を下げ、撮影内容を説明した。
「久保先生のご負担にならないよう、室内は数分だけ撮影します。ご主人へのインタビューは隣のリビングで行います」
彼女も、私から返事がないことを前提に話している。
「先生」と呼ばれたのは、事故後初めてだった。
その一言にすがりたい自分と、説明を聞くだけの置物として扱われる自分が、同じベッドの上にいた。
広報担当は、見守り映像を表示していた壁のモニターを会社サイトへ切り替えた。中央には、直紀のインタビュー記事が大きく表示された。
【脳外科医の妻と歩む、神経医療の未来】
その下に、病院で私の手を握る直紀の写真がある。私は目を閉じ、直紀だけがカメラへ顔を向けていた。
いつ撮られたのか覚えている。事故から3週間後、私は意識が戻っていることさえ周囲へ伝えられなかった。
写真の説明には、こう書かれていた。
【妻の事故をきっかけに、患者と家族を支える技術開発を決意】
私が9年前に作った神経信号解析の基礎技術が、まるで直紀の悲しみから生まれたように並べ替えられている。
広報担当が画面を確かめながら、直紀へ尋ねた。
「新事業の説明では、先生の研究とのつながりにも触れますか?」
「細かい権利関係はまだ出さなくていい。今は、妻の技術を患者支援へ広げる構想がある、とだけ」
妻の技術。
その言い方なら、嘘ではない。だが、誰が権利を持ち、誰が使い方を決めるのかは隠せる。
撮影が始まると、直紀は私の横へ椅子を寄せた。
「事故のあと、妻と会話できない時間が続きました。それでも、そばにいることには意味があると信じています」
カメラの向こうで、広報担当が静かにうなずく。
「医療に携わってきた妻は、誰よりも患者さんの可能性を信じていました。私も、彼女が築いたものを止めたくありません」
止めたくないのではない。
手放したくないのだ。
私の研究、特許、医師として積み上げた信用。そのすべてを「妻の願い」という包装紙で包み、会社の事業として差し出そうとしている。
カメラが私へ向いた。直紀が私の手を包む。
皮膚に触れる温度だけは、7年前と変わらなかった。
以前なら、手術後の冷えた指を握られるだけで安心できた。同じ手が今は、私の意思を覆い隠すために使われている。
私は天井の照明を見つめ、さっき聞いた言葉を順番に記憶した。
新事業。妻の技術。細かい権利関係は出さない。
昨日までは、直紀が私から奪ったのは夫婦の生活だと思っていた。
違う。
彼は、私が何を望む人間だったかまで、自分の言葉で塗り替えようとしている。
撮影が終わると、広報担当はモニターに次回の講演資料を表示した。表紙には、直紀の名前と【声を失った人へ、意思を伝える未来を】という題があった。
「この方向で進めます。奥さまのご意向について、記者から質問が出るかもしれません」
直紀は私の手を握ったまま、迷いなく答えた。
「問題ありません。妻も、この新事業を望んでいます」
私の指は、彼の手の中で少しも動かなかった。
それでも私は、はっきり拒んでいた。
一度も、望むと言っていない。
判決の確定から4か月後、私は大学のBCI研究室で、3回続けて入力を間違えた。【続ける】を選んだつもりが、【休む】になる。削除しようとして、今度は画面を閉じた。玲奈が端末の横で待っている。「今日は精度が落ちています。どうしますか」私は右手の人差し指へ力を集めた。指先が、机に固定された大きなスイッチへ触れる。一度押せばYES。二度ならNO。一度。少し遅れて、確認音が鳴った。「休んでから続ける、ですね」玲奈は画面を閉じ、15分の休憩を設定した。右手の人差し指を自分の意思で動かせるようになったのは、半年前だった。動く範囲はわずかで、続けて押せるのは数回だけ。疲れれば、指はまた机の上で動かなくなる。首と左手にも小さな反応が戻ったが、日によって差が大きい。自分で起き上がることも、歩くこともできない。言葉を声にするには、今もBCIとAI音声が必要だ。完全に元へ戻ったわけではない。それでも、使える手段がひとつ増えた。BCIが不安定な日は指で答える。指が動かない日は眼球反応を短い確認に使う。どれも難しければ、その日は話さない。話さないことと、意思がないことを、もう誰も同じにはしなかった。休憩中、研究室の窓から中庭を見る。学生たちが白衣のポケットへ手を入れ、早足で別棟へ向か
判決の確定を聞いた日、弁護士は3冊のファイルを病室の机へ置いた。公開実証から1年8か月。窓の外で、若い木が揺れていた。青は直紀、白はあゆみ、灰色は三浦。私は背を起こしたベッドから、その表紙を見た。「3人とも、執行猶予の付かない拘禁刑が確定しました」誰か1人の供述だけで決まったのではない。三浦の指示音声、会社車両のGPSと加速、治療費名目の送金、あゆみの録音、提案者A文書の更新履歴。別々の場所に残った記録が、3人の説明を照らし合わせた。判決は、あゆみが私を会議へ行かせないよう発案し、直紀が車両接触という具体的な方法を選んで三浦へ指示し、三浦が実行したと認定した。想定より重い傷害になったことは、故意に接触させた事実を偶然の事故へ戻さなかった。私は法廷へ出ていない。長時間の移送と傍聴は身体への負担が大きく、映像で見ることも選ばなかった。私の意見は、作成過程と確認記録を付けた文書で提出した。判決の日も、直紀たちの顔ではなく、認定された事実を弁護士から聞くと決めていた。弁護士は、判決文のうち私が指定した箇所だけを読んだ。3人が私の死亡を望んだとは認定されていない。一方で、契約判断を妨げるため故意に車を接触させる計画を共有し、傷害の危険を現実のものにした。結果が計画を越えたという主張は、被害を引き受けなくてよい理由にならない。事故後、直紀が私の意思を確認できない状態を利用して契約を進め、三浦へ削除を求め、あゆみへ責任を集める文書を作った経過も、供述の信用性を判断する材料になった。
あゆみは、接見室の透明な仕切りに映る自分の顔を見ていた。公開実証から8か月。髪は肩で切りそろえられ、爪には何も塗っていない。弁護士が書類を机へ広げるあいだ、両手を膝の下へ挟んでいた。「久保さん側の供述調書が開示されました」直紀を指す【久保さん】が、自分ではなく恵美の夫だと理解するまで一瞬かかった。「事故への関与は、今も否定しています。会議を妨害する案は矢代さんが出し、三浦さんが方法を暴走させた。自分は事後に会社を守ろうとしただけだと」あゆみは笑おうとした。喉から出たのは、短い息だった。「録音に、会社を守ったって入ってるでしょう」「入っています。ただ、何をした意味かは争うと言っています」弁護士は、録音1本で決まるとは言わなかった。三浦の通話音声には、直紀の具体的な指示と、【あゆみが言い出した】という言葉がある。あゆみの端末には、自分が会議妨害を提案したと認める声がある。事故対応草案の更新履歴には、提案者Aへ責任を寄せる過程が残っていた。あゆみが原端末を提出した事実も記録されている。提出したから、事故前の言葉が消えるわけではない。「あなたが経緯を説明し、原端末を任意提出したことは、今後も事情として主張します」「助かるんですか」弁護士は答えを飾らなかった。「結果を約束はできません。少なくとも、提出したことだけで責任を免れるわけではありません」起訴状には、あゆみが恵美を契約変更の会議へ行かせないよう提案し、直紀が三浦へ具体的な方法を指
配信が終わって1時間後、直紀から17件の着信が残っていた。玲奈が端末を視界へ置く。画面には番号が並び、最後だけ留守番電話があった。【聞きますか】私はNOを選んだ。主治医が照明を落とす。公開実証で使い切った集中力は戻らず、既知質問にも2度続けて誤った。今は直紀の言葉を受け取るときではない。着信を消す必要もなかった。聞かない。返さない。記録は残す。その3つを、弁護士が私の希望として確認した。「今後の連絡は代理人へ一本化します。久保直紀さん本人からの面会、電話、メッセージには応じない。それでよろしいですね」【YES】すぐに離婚が成立するわけではない。事故の捜査も、契約の争いも、会社の調査も始まったばかりだ。それでも、直紀が私へ直接届く道は閉じられた。午後、ネクサス・メディカルの監査担当者が病院の会議室から接続した。画面に映ったのは、公開実証を止めなかった女性と、社外取締役の2人だった。「本日付で、久保直紀さんの代表権と業務執行を一時停止しました」有罪と決めたからではない。調査対象である本人が、社内資料や端末へ触れられないようにするためだという。管理者権限は変更され、事故当時の経理、車両、契約、広報のデータへ保全措置が取られた。公開実証のアーカイブも、大学側の映像と照合できる状態で保存された。私は、会社を今すぐ潰したいかと聞かれたことはない。聞かれても、YESとは答えなかっただろう。直紀の指
配信開始の赤いランプが点灯した。カメラの向こうに、何人いるのかは分からない。正面のモニターには、大学病院の配信室と、ネクサス・メディカルが用意した会場が並んで映っている。会社側には報道陣と社員、取引先が座っていた。直紀は私のベッドから離れ、会社側のカメラの中央に立っている。「本日は、妻・久保恵美が取り戻した声を、皆さまへお届けします」いつもの穏やかな声だった。あゆみの原端末が外へ渡ったあとでも、彼は献身的な夫の顔を作れた。「事故から1年。妻は、私たちの技術と大学研究チームの支援によって、再び自分の意思を伝えられるようになりました」私たちの技術。私の特許も、大学のBCIも、彼の事業として語られている。直紀が次の説明へ進もうとすると、司会者が止めた。「ここからは、研究チームが確認手順をご説明します」玲奈が大学側のカメラの前へ出た。画面の隅に【本人作成・当日確認済み】と表示される。「これは思考を読む実演ではありません。久保先生が作成した文章を、今使うかどうか、ご本人へ確認します」それだけ告げて、玲奈はカメラの外へ下がった。研究担当者が、最初の確認画面を出す。【事前作成した文章を、今から使用しますか】訂正できなかった一文が、私の同意として公開された日の画面がよみがえる。確認手順があると分かっていても、呼吸が浅くなった。YESへ集中する。
磨りガラスの向こうで、直紀の影が止まった。主治医が入口の中央へ立ち、病棟責任者と警備担当者がその左右を塞いでいる。私はベッドから、磨りガラスへ落ちる彼の影を見ていた。「恵美。5分でいい。会社の話じゃない」扉越しの声は低かった。「昨夜、あゆみが妙な録音を送った。君が誤解する前に、俺から説明させてくれ」説明を求めたのは、何度も私のほうだった。三浦とは何を話したのか。契約をどうしたのか。あゆみをなぜ家へ入れたのか。目しか動かせなかった私に、直紀は【疲れている】【勘違いだ】【僕を信じろ】と答えた。今になって、彼自身が話す時間を欲しがっている。看護師が確認画面を私へ向けた。【扉を開けますか】【NO】「恵美、聞こえているんだろう」影が一歩近づく。「あゆみの言葉だけで決めるな。あの女は、自分が助かるためなら何でも言う」その言葉で、直紀が何を選ぶか分かった。一緒に暮らした女を切り離し、三浦へ命じた行為を事故へ戻し、最後には私の判断まで誰かのせいにする。扉を開けても、別の物語を聞かされるだけだ。私は入力画面で短い文を選んだ。【面会しません】研究担当者が語句を読み上げ、私の確認を取る。AI音声が病室に流れた。直紀は黙った。ほんの数秒だったのに、その沈黙には、7年間のどの口論より重さがあった。