Share

2話

Penulis: Amy
last update Tanggal publikasi: 2026-08-11 21:35:56

翌朝、訪問看護師は私の体温を測りながら、直紀を褒めた。

「久保さん、ご主人は本当に優しい方ですね。お仕事がお忙しいのに、昨日もケアのことで電話をくださいました」

彼女に悪意はない。私の腕を支える手つきは丁寧で、皮膚の赤みも関節の動きもひとつずつ確かめてくれる。

だからこそ、否定できないことが苦しかった。

直紀が確かめたのは、私の体調だけではない。今日の訪問が何時に終わるのか。午後は眠っていることが多いのか。撮影機材を室内へ入れても、ケアの妨げにならないか。

看護師が確認のために読み上げたメモには、そんな質問まで並んでいた。

「今日は会社の取材があるそうですね。撮影は、久保さんの負担にならないよう、短時間で終えると伺っています」

取材……

私は昨日、何も聞かされていない。

看護師は私の反応を確かめるように、顔をのぞき込んだ。視線を合わせようとしたが、目を動かしただけで焦点がずれた。

「お疲れですか。少し休みましょうね」

違う。

休みたいんじゃない。撮影を断りたい。

伝えようとしても、喉から出たのは、かすかな息だけだった。

ケアが終わるころ、直紀が部屋へ入ってきた。薄いグレーのスーツに着替え、髪もきれいに整えている。私へ近づく前に、ネクタイの結び目を指で直した。

「いつもありがとうございます。妻も、あなたが来る日は安心しているようです」

看護師が笑顔でうなずく。

「今日は表情も落ち着いていますよ」

私は彼女を責められなかった。筋肉が思うように動かない私の顔は、拒絶していても穏やかに見える。

直紀はベッド脇へ立ち、私の髪を耳へかけた。看護師が見ているあいだだけ、髪をいたわるように指をゆっくり動かす。

「恵美、今日は会社の取材で、少しだけ撮影させてもらうよ。負担はかけないから」

相談ではなかった。決定を、気遣いの形で読み上げただけだ。

看護師が玄関へ向かうと、直紀は私の掛け布団から手を離した。玄関の扉が閉まる音と同時に、笑みも消えた。

「顔色は悪くないな」

階段を下りる足音がして、あゆみが療養室の前へ現れた。昨日、私のクローゼットへ入れると言っていた服だろう。見覚えのない白いブラウスを着て、直紀のネクタイへ手を伸ばした。

「少し曲がってる」

直紀は直されるままになっていたが、廊下の奥から車の音が聞こえると、その手を外した。

「取材が終わるまで、2階にいてくれ」

「私も見たい」

「会社の人間に説明していない。今は出るな」

あゆみの指が、直紀の胸元で止まった。

「奥さんを愛してる社長に、家で待つ恋人がいたら困るものね」

「余計なことを言うな」

直紀は声を荒らげなかった。あゆみの肩へ手を置き、階段のほうへ向ける。人を従わせるときほど、彼の声は穏やかになる。

あゆみはすぐには動かなかった。ベッドの上の私と直紀を交互に見てから、彼の耳元へ顔を寄せた。

「終わったら、昨日の続きね」

私にも聞こえる声だった。

見守りモニターが玄関の映像へ切り替わった。機材を持った男女が門を入り、玄関へ近づいてくる。

直紀は答えず、モニターへ目をやった。玄関のチャイムが鳴ると、あゆみはようやく2階へ戻っていった。

取材では、あの足音も、ブラウスも、耳元の言葉も映らない。映るものを直紀が選び、あゆみをカメラの外へ追いやった。けれど私は、あゆみが階段を上っていく姿も、玄関へ入ってくる取材陣も見ていた。

直紀は、あゆみが2階へ上がったのを確かめると、廊下へ向かって声をかけた。

「入っていい」

会社の広報担当らしい女性と、カメラを持った男性が入ってきた。女性は私へ丁寧に頭を下げ、撮影内容を説明した。

「久保先生のご負担にならないよう、室内は数分だけ撮影します。ご主人へのインタビューは隣のリビングで行います」

彼女も、私から返事がないことを前提に話している。

「先生」と呼ばれたのは、事故後初めてだった。

その一言にすがりたい自分と、説明を聞くだけの置物として扱われる自分が、同じベッドの上にいた。

広報担当は、見守り映像を表示していた壁のモニターを会社サイトへ切り替えた。中央には、直紀のインタビュー記事が大きく表示された。

【脳外科医の妻と歩む、神経医療の未来】

その下に、病院で私の手を握る直紀の写真がある。私は目を閉じ、直紀だけがカメラへ顔を向けていた。

いつ撮られたのか覚えている。事故から3週間後、私は意識が戻っていることさえ周囲へ伝えられなかった。

写真の説明には、こう書かれていた。

【妻の事故をきっかけに、患者と家族を支える技術開発を決意】

私が9年前に作った神経信号解析の基礎技術が、まるで直紀の悲しみから生まれたように並べ替えられている。

広報担当が画面を確かめながら、直紀へ尋ねた。

「新事業の説明では、先生の研究とのつながりにも触れますか?」

「細かい権利関係はまだ出さなくていい。今は、妻の技術を患者支援へ広げる構想がある、とだけ」

妻の技術。

その言い方なら、嘘ではない。だが、誰が権利を持ち、誰が使い方を決めるのかは隠せる。

撮影が始まると、直紀は私の横へ椅子を寄せた。

「事故のあと、妻と会話できない時間が続きました。それでも、そばにいることには意味があると信じています」

カメラの向こうで、広報担当が静かにうなずく。

「医療に携わってきた妻は、誰よりも患者さんの可能性を信じていました。私も、彼女が築いたものを止めたくありません」

止めたくないのではない。

手放したくないのだ。

私の研究、特許、医師として積み上げた信用。そのすべてを「妻の願い」という包装紙で包み、会社の事業として差し出そうとしている。

カメラが私へ向いた。直紀が私の手を包む。

皮膚に触れる温度だけは、7年前と変わらなかった。

以前なら、手術後の冷えた指を握られるだけで安心できた。同じ手が今は、私の意思を覆い隠すために使われている。

私は天井の照明を見つめ、さっき聞いた言葉を順番に記憶した。

新事業。妻の技術。細かい権利関係は出さない。

昨日までは、直紀が私から奪ったのは夫婦の生活だと思っていた。

違う。

彼は、私が何を望む人間だったかまで、自分の言葉で塗り替えようとしている。

撮影が終わると、広報担当はモニターに次回の講演資料を表示した。表紙には、直紀の名前と【声を失った人へ、意思を伝える未来を】という題があった。

「この方向で進めます。奥さまのご意向について、記者から質問が出るかもしれません」

直紀は私の手を握ったまま、迷いなく答えた。

「問題ありません。妻も、この新事業を望んでいます」

私の指は、彼の手の中で少しも動かなかった。

それでも私は、はっきり拒んでいた。

一度も、望むと言っていない。

Lanjutkan membaca buku ini secara gratis
Pindai kode untuk mengunduh Aplikasi

Bab terbaru

  • 動けない妻は、すべて聞いている   3話

    その夜、直紀は私の目を閉じさせると、見守りモニターを消し、療養用の部屋の照明を落とした。眠ったかどうかの確認はしない。私には声も寝返りもないから、目を閉じていれば眠っていることになる。扉は少し開いたままだった。廊下の先で、氷がグラスに当たる音がした。続いて、あゆみの声が聞こえる。「昼の映像、もう会社のサイトに出てる」「広報に任せてある」「コメント、感動したって。それで私は2階に隠れてろって?」直紀は何か答えたが、声が低く、言葉までは拾えなかった。私は耳へ意識を集めた。静かな場所なら会話は聞こえる。それでも、食器の音や空調が重なると、短い言葉ほど抜け落ちる。聞き取れなかった部分を想像で埋めれば、事実と願望の区別がつかなくなる。聞こえた言葉だけを残す。あゆみの足音が近づいた。療養室をのぞいたのか、扉の前で一度止まる。「三浦から、また連絡が来てた」グラスがテーブルへ置かれた。「その名前を家で出すな」直紀の声は、昼間より低かった。「だったら、ちゃんと黙らせてよ。あの日の車だって、まだ会社にあるんでしょう?」「処分したほうが不自然だ。保険の記録も残ってる」そこでふたりの声が遠ざかった。リビングへ戻ったらしい。三浦。あの日の車。保険の記録。 

  • 動けない妻は、すべて聞いている   2話

    翌朝、訪問看護師は私の体温を測りながら、直紀を褒めた。「久保さん、ご主人は本当に優しい方ですね。お仕事がお忙しいのに、昨日もケアのことで電話をくださいました」彼女に悪意はない。私の腕を支える手つきは丁寧で、皮膚の赤みも関節の動きもひとつずつ確かめてくれる。だからこそ、否定できないことが苦しかった。直紀が確かめたのは、私の体調だけではない。今日の訪問が何時に終わるのか。午後は眠っていることが多いのか。撮影機材を室内へ入れても、ケアの妨げにならないか。看護師が確認のために読み上げたメモには、そんな質問まで並んでいた。「今日は会社の取材があるそうですね。撮影は、久保さんの負担にならないよう、短時間で終えると伺っています」取材……私は昨日、何も聞かされていない。看護師は私の反応を確かめるように、顔をのぞき込んだ。視線を合わせようとしたが、目を動かしただけで焦点がずれた。「お疲れですか。少し休みましょうね」違う。休みたいんじゃない。撮影を断りたい。伝えようとしても、喉から出たのは、かすかな息だけだった。ケアが終わるころ、直紀が部屋へ入ってきた。薄いグレーのスーツに着替え、髪もきれいに整えている。私へ近づく前に、ネクタイの結び目を指で直した。「いつもありがとうございます。妻も、あなたが来る日は安心しているようです」看護師が笑顔でうなずく。「今日は表情も落ち着いていますよ」私は彼女を責められなかった。筋肉が思うように動かない私の顔は、拒絶していても穏やかに見える。直紀はベッド脇へ立ち、私の髪を耳へかけた。看護師が見ているあいだだけ、髪をいたわるように指をゆっくり動かす。「恵美、今日は会社の取材で、少しだけ撮影させてもらうよ。負担はかけないから」相談ではなかった。決定を、気遣いの形で読み上げただけだ。看護師が玄関へ向かうと、直紀は私の掛け布団から手を離した。玄関の扉が閉まる音と同時に、笑みも消えた。「顔色は悪くないな」階段を下りる足音がして、あゆみが療養室の前へ現れた。昨日、私のクローゼットへ入れると言っていた服だろう。見覚えのない白いブラウスを着て、直紀のネクタイへ手を伸ばした。「少し曲がってる」直紀は直されるままになっていたが、廊下の奥から車の音が聞こえると、その手を外した。「取材が終わるまで、2階にいてくれ」「私も見た

  • 動けない妻は、すべて聞いている   1話

    夫が、私のベッドの横で別の女に口づけた。ためらいはなかった。久保直紀(くぼ なおき)は、カーテンの隙間から朝日が差し込む、療養用に改装された部屋で、矢代あゆみ(やしろ あゆみ)の腰を引き寄せた。触れ合った唇が離れるまで、私はまばたきさえできずに見ていた。事故から5か月。私の意識は、あの日から一度も途切れていない。私は久保恵美(くぼ えみ)、35歳。事故に遭うまでは、東都大学病院の脳神経外科で、難しい手術を任されていた。治療方針を決めるときは、患者が納得して選べるまで説明を急がなかった。けれど今は、私自身の意思さえ、誰にも確かめられないまま置き去りにされている。右手の指を動かそうとしても、白いシーツの上には何の変化も起きなかった。喉から押し出そうとした声も、かすかな呼気にしかならない。音は聞こえる。匂いも分かる。誰かが腕へ触れれば、触れられたことも分かる。ただ、痛いとも、嫌だとも伝えられない。身体の内側には、事故前と変わらない私がいる。それなのに、外から見える私は、目を開けて横たわるだけの人間だった。やめて!ここは私の家よ。そう叫んだつもりだった。もちろん、ふたりには届かない。「ねえ」あゆみが私を見下ろした。医学部時代より少し短くなった髪が、頬へかかっている。「本当に、何も分かってないの?」直紀は私の目の前で手を振った。視線で追いたかった。だが、眼球を動かそうとするだけで、こめかみの奥に鋭い痛みが走る。焦点は彼の指先から外れ、白い天井へ流れた。直紀は小さく息を吐いた。「反応じゃない。たまたま目が動いただけだ」主治医は、私の認知機能がどこまで保たれているか、まだ判断できないと説明していた。「でも、恵美って昔から人の話を黙って聞くでしょう。今も全部聞かれてるみたいで、落ち着かない」「聞こえていたとしても、意味までは分かってないよ」医師が「まだ判断できない」と言ったことを、直紀は「恵美には理解できない」にすり替えた。その違いを知りながら、自分に都合のいい解釈を選んだのだ。彼は医師ではない。それでも、私の意識について話すときだけは、診断を下すような口調になる。あゆみはベッド脇の椅子へ腰を下ろし、私の手を持ち上げた。指先から力が抜け、手首が不自然な角度で垂れる。「かわいそうな恵美」言葉とは裏腹に、口元は笑っていた。「大学

Bab Lainnya
Jelajahi dan baca novel bagus secara gratis
Akses gratis ke berbagai novel bagus di aplikasi GoodNovel. Unduh buku yang kamu suka dan baca di mana saja & kapan saja.
Baca buku gratis di Aplikasi
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status