Masukその夜、直紀は私の目を閉じさせると、見守りモニターを消し、療養用の部屋の照明を落とした。
眠ったかどうかの確認はしない。私には声も寝返りもないから、目を閉じていれば眠っていることになる。
扉は少し開いたままだった。
廊下の先で、氷がグラスに当たる音がした。続いて、あゆみの声が聞こえる。
「昼の映像、もう会社のサイトに出てる」
「広報に任せてある」
「コメント、感動したって。それで私は2階に隠れてろって?」
直紀は何か答えたが、声が低く、言葉までは拾えなかった。
私は耳へ意識を集めた。
静かな場所なら会話は聞こえる。それでも、食器の音や空調が重なると、短い言葉ほど抜け落ちる。聞き取れなかった部分を想像で埋めれば、事実と願望の区別がつかなくなる。
聞こえた言葉だけを残す。
あゆみの足音が近づいた。療養室をのぞいたのか、扉の前で一度止まる。
「三浦から、また連絡が来てた」
グラスがテーブルへ置かれた。
「その名前を家で出すな」
直紀の声は、昼間より低かった。
「だったら、ちゃんと黙らせてよ。あの日の車だって、まだ会社にあるんでしょう?」
「処分したほうが不自然だ。保険の記録も残ってる」
そこでふたりの声が遠ざかった。リビングへ戻ったらしい。
三浦。
あの日の車。
保険の記録。
三つの言葉を、頭の中で同じ順番に並べる。
直紀の会社に三浦という社員がいるのか。取引先か、事故処理を頼んだ相手か。それだけでは何も決められない。
だが、あゆみはなぜ、私の事故を起こした車がまだ会社にあるかのような言い方をしたのだろう。
事故当日の光景をたどった。
私は朝、自分で車を運転して大学病院を出た。午後には、ネクサス・メディカルとの契約更新会議が予定されていた。
期限付きの独占的実施権を更新するか。手術支援用に限っていた技術を、別の製品へ広げるか。どちらも、その場で決めるつもりはなかった。
会社から届いた提案書には、利用範囲を広げる代わりに、私の承認手続きを簡略化したいと書かれていた。研究の速度を上げるため、という説明だった。
私はその条項にだけ赤い付箋を貼った。
患者の神経信号から得た知見を、誰が、何のために使うのか。
手続きが遅くても、そこを曖昧にはできない。直紀にも、何度もそう話してきた。
直紀は前日まで、会議へ一緒に出ると言っていた。
「君が納得できない条件なら、俺も押さない」
そう言って、契約書の付箋を一枚ずつ確かめていた。
9年前、初めて彼へ研究内容を説明したときも同じだった。
当時のネクサス・メディカルは、今ほど大きな会社ではなかった。
直紀は狭い会議室で私の説明を最後まで聞き、分からない言葉をひとつずつノートへ書き留めた。
「売れるかどうかより、手術で本当に使えるかを先に教えてほしい」
その言葉を信じたから、私は彼の会社を選んだ。
結婚してからも意見がぶつかることはあったが、最後には患者の側へ戻って話せる相手だと思っていた。
少なくとも、事故の前日までは。
ところが当日の朝になって、急な来客が入ったと連絡してきた。
私はひとりで会議へ向かった。
病院を出て2つ目の交差点。右側の路地から濃いグレーの車が出てきた。
減速すると思ったのに、車体はそのまま私の運転席側へ近づいた。
私は反射的にブレーキを踏み、ハンドルを左へ切った。
相手の車も同じ方向へ寄ったように見えたが、あの一瞬の記憶だけで故意とは判断できない。
金属がつぶれる音がした。窓ガラスに細いひびが走り、視界が横へ傾いた。首の付け根に重い衝撃を感じたあと、指先から力が抜けていった。
医師として、意識があるうちに自分の状態を確かめようとした。呼吸はできる。だが、腕が動かない。声も出ない。
救急車のサイレンが近づくまで、助手席側に倒れたスマートフォンへ手を伸ばそうとし続けた。
私が覚えているのは、そこで途切れている。
事故としては、不自然ではない。相手のわき見か、ブレーキ操作の遅れかもしれない。
事故後の記憶がない私は、運転していた人物の顔も知らない。
ただ、衝突の直前、フロントガラスの左下に白い管理票が見えた。黒い数字の末尾は、たしか7と2。
会社の車だったかどうかまでは見ていない。濃いグレーの車など、いくらでも走っている。
記憶は、思い出すたびに正確になるとは限らない。後から聞いた話や、自分の推測が混ざれば、見ていないものまで見た気になってしまう。
だから色と数字は、確信の度合いごと覚えることにした。
濃いグレーは、ほぼ確か。白い管理票も見た。末尾の7は強く残っているが、2は自信がない。会社名や運転者の顔は見ていない。
私は仮説を一段ずつ分けた。
三浦は事故に関係している可能性がある。
事故車はネクサス・メディカルの管理車両である可能性がある。
直紀とあゆみは、事故後の処理について知っている可能性がある。
どれも、まだ確定ではない。
できるなら、三つとも間違いであってほしかった。不倫を知ったあとでも、直紀が私の命を危険にさらしたとは考えたくなかった。
私は三つの仮説を、手術前の確認項目のように何度も並べ直した。互いにつながって見えても、ひとつが違えば結論は変わる。
必要なのは、ふたりの会話に合う答えを作ることではない。違っていた場合に、捨てられる仮説を持つことだ。
廊下の会話が、再び近づいた。
「会議に間に合わなければ、それで済むはずだったんでしょう」
今度はあゆみの声がはっきり聞こえた。
「声を落とせ」
「でも、あそこまでとは思わなかった」
直紀が何かを強く置いた。硬い音が響き、あゆみの声が止まる。
「もう終わったことだ。蒸し返すな」
会議に間に合わなければ。
何が済むはずだったのか。
あそこまで、とは何を指すのか。
私が聞いていると知らないふたりは、互いに分かっている部分を省いて話す。
抜けた主語の向こうへ、私に都合のいい答えを置くわけにはいかない。
それでも、偶然の事故だと片づけるには、同じ方向を指す言葉が多すぎた。
私が会議へ出られなかったことで、得をしたのは誰か。
契約の更新は、私が意思を示せないまま保留になったはずだった。
だが今日、直紀は私の技術を使った新事業を語り、私も望んでいると断言した。
事故と事業が同じ線の上にあるのか。確かめる方法は、まだない。
けれど、調べるべきことはできた。
直紀の足音が療養室へ近づく。私は閉じられたまぶたの裏で、聞いた言葉を最初から再生した。
三浦。あの日の車。保険の記録。会議に間に合わなければ。あそこまでとは。
扉が開き、直紀がベッド脇へ立った。
「眠ってるな」
返事はしない。できないのではなく、今だけは、しないと決めた。
彼が出ていったあとも、私はひとつの名前を繰り返した。
三浦。
この名前だけは、絶対に忘れない。
その夜、直紀は私の目を閉じさせると、見守りモニターを消し、療養用の部屋の照明を落とした。眠ったかどうかの確認はしない。私には声も寝返りもないから、目を閉じていれば眠っていることになる。扉は少し開いたままだった。廊下の先で、氷がグラスに当たる音がした。続いて、あゆみの声が聞こえる。「昼の映像、もう会社のサイトに出てる」「広報に任せてある」「コメント、感動したって。それで私は2階に隠れてろって?」直紀は何か答えたが、声が低く、言葉までは拾えなかった。私は耳へ意識を集めた。静かな場所なら会話は聞こえる。それでも、食器の音や空調が重なると、短い言葉ほど抜け落ちる。聞き取れなかった部分を想像で埋めれば、事実と願望の区別がつかなくなる。聞こえた言葉だけを残す。あゆみの足音が近づいた。療養室をのぞいたのか、扉の前で一度止まる。「三浦から、また連絡が来てた」グラスがテーブルへ置かれた。「その名前を家で出すな」直紀の声は、昼間より低かった。「だったら、ちゃんと黙らせてよ。あの日の車だって、まだ会社にあるんでしょう?」「処分したほうが不自然だ。保険の記録も残ってる」そこでふたりの声が遠ざかった。リビングへ戻ったらしい。三浦。あの日の車。保険の記録。 
翌朝、訪問看護師は私の体温を測りながら、直紀を褒めた。「久保さん、ご主人は本当に優しい方ですね。お仕事がお忙しいのに、昨日もケアのことで電話をくださいました」彼女に悪意はない。私の腕を支える手つきは丁寧で、皮膚の赤みも関節の動きもひとつずつ確かめてくれる。だからこそ、否定できないことが苦しかった。直紀が確かめたのは、私の体調だけではない。今日の訪問が何時に終わるのか。午後は眠っていることが多いのか。撮影機材を室内へ入れても、ケアの妨げにならないか。看護師が確認のために読み上げたメモには、そんな質問まで並んでいた。「今日は会社の取材があるそうですね。撮影は、久保さんの負担にならないよう、短時間で終えると伺っています」取材……私は昨日、何も聞かされていない。看護師は私の反応を確かめるように、顔をのぞき込んだ。視線を合わせようとしたが、目を動かしただけで焦点がずれた。「お疲れですか。少し休みましょうね」違う。休みたいんじゃない。撮影を断りたい。伝えようとしても、喉から出たのは、かすかな息だけだった。ケアが終わるころ、直紀が部屋へ入ってきた。薄いグレーのスーツに着替え、髪もきれいに整えている。私へ近づく前に、ネクタイの結び目を指で直した。「いつもありがとうございます。妻も、あなたが来る日は安心しているようです」看護師が笑顔でうなずく。「今日は表情も落ち着いていますよ」私は彼女を責められなかった。筋肉が思うように動かない私の顔は、拒絶していても穏やかに見える。直紀はベッド脇へ立ち、私の髪を耳へかけた。看護師が見ているあいだだけ、髪をいたわるように指をゆっくり動かす。「恵美、今日は会社の取材で、少しだけ撮影させてもらうよ。負担はかけないから」相談ではなかった。決定を、気遣いの形で読み上げただけだ。看護師が玄関へ向かうと、直紀は私の掛け布団から手を離した。玄関の扉が閉まる音と同時に、笑みも消えた。「顔色は悪くないな」階段を下りる足音がして、あゆみが療養室の前へ現れた。昨日、私のクローゼットへ入れると言っていた服だろう。見覚えのない白いブラウスを着て、直紀のネクタイへ手を伸ばした。「少し曲がってる」直紀は直されるままになっていたが、廊下の奥から車の音が聞こえると、その手を外した。「取材が終わるまで、2階にいてくれ」「私も見た
夫が、私のベッドの横で別の女に口づけた。ためらいはなかった。久保直紀(くぼ なおき)は、カーテンの隙間から朝日が差し込む、療養用に改装された部屋で、矢代あゆみ(やしろ あゆみ)の腰を引き寄せた。触れ合った唇が離れるまで、私はまばたきさえできずに見ていた。事故から5か月。私の意識は、あの日から一度も途切れていない。私は久保恵美(くぼ えみ)、35歳。事故に遭うまでは、東都大学病院の脳神経外科で、難しい手術を任されていた。治療方針を決めるときは、患者が納得して選べるまで説明を急がなかった。けれど今は、私自身の意思さえ、誰にも確かめられないまま置き去りにされている。右手の指を動かそうとしても、白いシーツの上には何の変化も起きなかった。喉から押し出そうとした声も、かすかな呼気にしかならない。音は聞こえる。匂いも分かる。誰かが腕へ触れれば、触れられたことも分かる。ただ、痛いとも、嫌だとも伝えられない。身体の内側には、事故前と変わらない私がいる。それなのに、外から見える私は、目を開けて横たわるだけの人間だった。やめて!ここは私の家よ。そう叫んだつもりだった。もちろん、ふたりには届かない。「ねえ」あゆみが私を見下ろした。医学部時代より少し短くなった髪が、頬へかかっている。「本当に、何も分かってないの?」直紀は私の目の前で手を振った。視線で追いたかった。だが、眼球を動かそうとするだけで、こめかみの奥に鋭い痛みが走る。焦点は彼の指先から外れ、白い天井へ流れた。直紀は小さく息を吐いた。「反応じゃない。たまたま目が動いただけだ」主治医は、私の認知機能がどこまで保たれているか、まだ判断できないと説明していた。「でも、恵美って昔から人の話を黙って聞くでしょう。今も全部聞かれてるみたいで、落ち着かない」「聞こえていたとしても、意味までは分かってないよ」医師が「まだ判断できない」と言ったことを、直紀は「恵美には理解できない」にすり替えた。その違いを知りながら、自分に都合のいい解釈を選んだのだ。彼は医師ではない。それでも、私の意識について話すときだけは、診断を下すような口調になる。あゆみはベッド脇の椅子へ腰を下ろし、私の手を持ち上げた。指先から力が抜け、手首が不自然な角度で垂れる。「かわいそうな恵美」言葉とは裏腹に、口元は笑っていた。「大学







