遥香は、鉄格子に閉ざされた座敷牢に入れられていた。母親の遺影を、そっと置く。「お母さま……」父に踏み砕かれた額縁は外し、割れた硝子だけを取り除いていた。優しく微笑む母は、今も変わらない。「お母さまは仰っていましたね」遥香は写真へ微笑みかける。「どんなことがあっても、優しさを手放してはいけません、と」静かな部屋へ、小さな笑いが零れた。「でも……」ぽたり、と涙が落ちる。「この世に、本当に優しい人なんているのでしょうか」母は優しかった。誰に対しても。異母妹の小鈴にさえ分け隔てなく接し、いつも気に掛けていた。それなのに。どうして、あんな最期を迎えなければならなかったのだろう。「……そうね」遥香は鏡へ目を向ける。指先が首筋へ触れた。そこには、あの夜に刻まれた番の印。最初は鮮やかな紅色だったそれも、日を追うごとに薄れている。まるで夢だった。名前も知らない人。二度と会うこともない人。それでも——あの腕の温もりだけは、忘れられなかった。「私は、この先どんな目に遭うか分からない」小さく微笑む。「でも……」ゆっくり目を閉じる。「一度だけでも、自分で選んだ運命に出会えた」それだけは、誰にも奪えない。遥香はその思いをそっと胸にしまい込んだ。◇◇◇数日後。父・椿和馬は遥香を書斎へ呼び出した。「今夜、華族が集う夜会がある」机越しに言い放つ。「今夜中に、お前を妻として迎える男を見つけろ」遥香は黙って聞いていた。「もし誰にも選ばれなければ——」和馬は冷たく言う。「椿家から消えろ」その声に父親としての情はなかった。あるのは当主としての打算だけ。利益を生まない駒は切り捨てる。それだけだった。◇◇◇帝都最高峰の華族夜会。豪奢なシャンデリアの光が会場を照らし、着飾った華族たちが優雅に談笑していた。やがて司会者が高らかに告げる。「西条慶一郎様と、椿小鈴様のご婚約を発表いたします!」大きな拍手が湧き起こる。「おめでとうございます」「なんてお似合いのお二人でしょう」祝福の輪の中心で、小鈴は幸せそうに微笑んでいた。(やっと……)幼い頃から欲しかったもの。家も。地位も。慶一郎も。すべて、お姉様から奪った。(全部、全部、私のもの)あとは——椿遥香が落ちていく姿を見るだけだった。
Last Updated : 2026-08-11 Read more