フェロモンを持たない令嬢は、氷の軍神に愛される ——婚約者と妹に捨てられ殺されかけた私が、冷酷な軍神の凍った心を溶かすま

フェロモンを持たない令嬢は、氷の軍神に愛される ——婚約者と妹に捨てられ殺されかけた私が、冷酷な軍神の凍った心を溶かすま

last updateLast Updated : 2026-08-11
By:  柳 雪音Ongoing
Language: Japanese
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生まれつき【縁香】(フェロモン)を持たない令嬢、椿遥香。 貴族社会では欠陥品と蔑まれ、虐げられる【丙】(オメガ)だった。 そんな彼女をただ一人、優しく大切にしてくれたのが、幼馴染の婚約者。 しかし、彼は、実は遥香の妹・小鈴と【番】となっていた。 婚約者と妹の罠に嵌めれ、運命に翻弄されて、奈落の底へ突き落される遥香。 絶望の中、彼女を救ったのは、妖しいまでに強く美しい男・伏見朔だった。 遥香は、氷の軍神と呼ばれ、冷酷な男として恐れられる朔の心を溶かし、溺愛される。 遥香と朔を破滅させようと遥香の血縁と婚約者たちは画策するが、彼らが向かうのは破滅の一途。 フェロモンを持たない「欠陥品」令嬢の逆転シンデレラロマン。

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Chapter 1

第1話 縁香[フェロモン]を持たない丙[オメガ] (上)

その夜——

誰にも知られることなく、二人はたった一度だけ、運命へ身を委ねた。

(私は……縁香フェロモンを持たないオメガのはずなのに……)

辺りには、濃密な花の香りが満ちていた。

薔薇よりも薔薇らしく。

芍薬よりも芍薬らしく。

百合よりも百合らしい。

この世のものとは思えないほど、甘く官能的な香り。

(それに……こんなに……溢れて……)

自分の身体が、自分のものではないようだった。

オメガには劣情ヒートがある——そんな話は知っていた。

けれど。

(どうして、いきなり……?)

熱は身体の奥から次々と湧き上がり、とても理性では抑えきれない。

頬が熱い。

息が苦しい。

指先まで震えてしまう。

(こんな姿……見られたくない)

羞恥に耐えきれず、遥香の瞳から涙が零れ落ちた。

その雫を、男は愛おしそうに舌先で掬い取る。

「……っ」

ぞくり、と背筋が震えた。

胸の奥が甘く痺れ、膝から力が抜けそうになる。

(なんて……)

浅ましい。

そう思うのに、本能は歓びに震えていた。

「……見ないで、ください……」

震える声で懇願する。

こんな自分は、自分ではない。

「分かった」

男は穏やかな声で答えた。

乱れた髪を、そっと指先で整える。

その優しい仕草だけで、また身体が震えた。

「……はぁ……」

思わず熱い吐息が漏れる。

男は静かに遥香の手を取り、その甲へ口づけを落とした。

「俺は、一度守ると決めたものは、必ず守る」

低く、揺るぎない声。

「——君にもそう誓おう」

月明かりの下で見つめるその瞳は、氷のように静かでありながら、奥底には激しい炎を宿していた。

その真剣な眼差しに、遥香は小さく頷く。

「……分かりました」

自分でも信じられないほど素直な声だった。

「あなたに……この身を委ねます」

その瞬間、自分の大胆さに息を呑む。

けれど身体は、心よりも正直だった。

気づけば両腕は自然と男の首へ伸び、その温もりを求めていた。

(……私の本当の姿は、こちらなのかもしれない)

花の香りが、さらに濃く咲き誇る。

二人は互いを求め合い、運命の糸を手繰り寄せるように、その距離を失っていった。

◇◇◇

翌朝。

遥香はゆっくりと瞼を開いた。

「ここは……一体どこ?」

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第1話 縁香[フェロモン]を持たない丙[オメガ] (上)
その夜——誰にも知られることなく、二人はたった一度だけ、運命へ身を委ねた。(私は……縁香を持たない丙のはずなのに……)辺りには、濃密な花の香りが満ちていた。薔薇よりも薔薇らしく。 芍薬よりも芍薬らしく。 百合よりも百合らしい。この世のものとは思えないほど、甘く官能的な香り。(それに……こんなに……溢れて……)自分の身体が、自分のものではないようだった。丙には劣情がある——そんな話は知っていた。けれど。(どうして、いきなり……?)熱は身体の奥から次々と湧き上がり、とても理性では抑えきれない。頬が熱い。息が苦しい。指先まで震えてしまう。(こんな姿……見られたくない)羞恥に耐えきれず、遥香の瞳から涙が零れ落ちた。その雫を、男は愛おしそうに舌先で掬い取る。「……っ」ぞくり、と背筋が震えた。胸の奥が甘く痺れ、膝から力が抜けそうになる。(なんて……)浅ましい。そう思うのに、本能は歓びに震えていた。「……見ないで、ください……」震える声で懇願する。こんな自分は、自分ではない。「分かった」男は穏やかな声で答えた。乱れた髪を、そっと指先で整える。その優しい仕草だけで、また身体が震えた。「……はぁ……」思わず熱い吐息が漏れる。男は静かに遥香の手を取り、その甲へ口づけを落とした。「俺は、一度守ると決めたものは、必ず守る」低く、揺るぎない声。「——君にもそう誓おう」月明かりの下で見つめるその瞳は、氷のように静かでありながら、奥底には激しい炎を宿していた。その真剣な眼差しに、遥香は小さく頷く。「……分かりました」自分でも信じられないほど素直な声だった。「あなたに……この身を委ねます」その瞬間、自分の大胆さに息を呑む。けれど身体は、心よりも正直だった。気づけば両腕は自然と男の首へ伸び、その温もりを求めていた。(……私の本当の姿は、こちらなのかもしれない)花の香りが、さらに濃く咲き誇る。二人は互いを求め合い、運命の糸を手繰り寄せるように、その距離を失っていった。◇◇◇翌朝。遥香はゆっくりと瞼を開いた。「ここは……一体どこ?」
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第2話 縁香[フェロモン]を持たない丙[オメガ] (下)
遥香はゆっくりと瞼を開いた。「ここは、一体どこ……?」見慣れない天井。見知らぬ部屋。そこで昨夜の記憶が断片的によみがえる。「……!」遥香は勢いよく首筋へ手を当てた。指先に触れたのは、まだ熱を帯びた赤い痕。(番の印——)「どうして……」昨夜、見知らぬ男と一夜を共にした。その事実だけでも恐ろしい。まして、番の印まで刻まれているとは。(人に知られたら……椿家に、家族に知られたら……)遥香の身体は震えた。隣で眠る男を見つめる。濡羽色の髪が艶やかに輝き、肌は透き通るように白い。遥香に向けた背中は、細身でありながら鍛え抜かれていた。(この殿方と、私は、昨夜、番の契りを……)にわかには信じ難い。しかし、あの肌の湿度を、遥香は確かに覚えていた。(顔も、名前も、知らない方と……)蜜夜の残り香が、淡く薄く、部屋に漂っている。それは紛れもなく、この男と結ばれた証だった。遥香はこの男の顔を見ていなかった。昨夜は月明かりしかなく、その横顔もはっきりとは覚えていない。(いえ……知らない方が良いのかもしれない。 この男性のことを椿家が知ったら、彼の身にも危険が及ぶかもしれない)遥香は胸元で右手を小さく握りしめると、急いで身支度を整えた。(この番の印は、私が一人で背負いましょう……)音を立てないよう静かに部屋を出る。あの熱に浮かされ、自分から彼を求めたことさえ信じられない。朝の冷たい空気の中では、昨夜の自分が別人のようだった。遥香は、足早に家路を急いだ。(嫌な予感がする——)彼女の直感は、間もなく現実となる。そして、彼女は気付いていなかった。真珠のイヤリングを片方だけ、部屋に落として出たことに。それは彼女の母親の形見だった。◇◇◇遥香の背中を、眠っているはずの男は静かに見送っていた。「行ってしまったか……」色素の薄い瞳が、名残惜しそうに扉を見つめる。睫毛の影が、雪のように白い頬に落ちた。「今は追わない……彼女を怯えさせるだけだ」男は、遥香が眠っていた布団をそっと引き寄せる。そこには、まだ彼女の温もりが残っていた。「一度だけ、賭けてみよう」すん、と香りを確かめる。「俺が最も信じてこなかったもの——運命というものに」
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第3話 婚約者を奪われた夜 (上)
(あと少しで家だわ)襟元を押さえ、首筋の印を隠しながら、遥香は足早に屋敷を目指した。その時だった。「遥香!」聞き慣れた声に呼び止められる。振り返ると、そこには婚約者・西条慶一郎が立っていた。「慶一郎様……!」遥香の顔から血の気が引く。今、一番会いたくない人だった。首に残る番の印だけが理由ではない。彼女は昨日、婚約発表の会場で、悲しく信じられない光景を目にしてしまったのだから。「どこへ行っていたんだ?!」慶一郎の怒声が朝の街へ響く。「みんな心配していたんだぞ!」その声に、遥香は小さく肩を震わせる。「昨夜、君はどこにいた?」「昨夜、私は……」遥香は言葉を詰まらせた。後ろめたいことは、確かにある。けれど——慶一郎との間には、それ以上に大きな問題があった。「婚約発表の会場で……」見てしまったのだ。決して見てはいけないものを。◇◇◇時は少し遡る。婚約発表の晩餐会が始まる直前。「……お母さま。天国から見守ってくださっていますか」椿遥香は鏡の前で小さく微笑んだ。ゆるやかに結い上げた黒髪。母が遺してくれた真珠のイヤリング。鏡に映る自分は、いつもより少しだけ大人びて見えた。——華族・西条家と名門・椿家。両家の正式な婚約発表は、帝都中の新聞が取り上げるほどの一大行事である。「不思議ね」遥香はそっと胸元へ手を添えた。「縁香を持たない出来損ないの私が……運命の人と巡り会えて、こんなにも祝福していただけるなんて」胸の奥が温かくなる。これまで耐えてきた日々が、ようやく報われる。そう信じていた。「そうだわ……手袋」机の上から白いレースの手袋を手に取る。「こんな荒れた手では、慶一郎様をがっかりさせてしまうもの」幼い頃から、使用人のように屋敷の仕事をさせられてきた手。華族令嬢とは思えないほど荒れてしまった指先を、そっと隠すように手袋をはめる。どうか今日だけは、椿家の欠陥品ではなく、一人の女性として見てもらえますように。「……そろそろ、お打ち合わせのお時間ね」遥香は静かに控室を後にした。◇◇◇打ち合わせの部屋へ向かう途中だった。「……ぁあ、慶一郎様……」甘く熱を帯びた女の声が聞こえる。遥香は思わず足を止めた。続いて聞こえたのは、聞き慣れた男の声。「まさか……」全身から血の気が引く。
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第4話 婚約者を奪われた夜 (下)
部屋の中にいたのは、西条慶一郎と、遥香の異母妹・小鈴だった。小鈴の着物は大きく乱れ、白い肩が露わになっている。二人の間には、甘く濃密な花の香りが漂っていた。遥香は息を呑む。「番……だったの……?」その一言が精一杯だった。小鈴は遥香に気付くと、小さく悲鳴を上げて慶一郎の胸へしがみついた。(来た来た。本当に間抜けなお姉様)心の中では笑いながらも、表情だけは悲痛に歪める。「お姉さま……ごめんなさい……!」涙を流しながら震える声を作る。「私が……私が慶一郎様をお慕いしてしまったばかりに……」肩を震わせる。「慶一郎様は……私を選んでしまったのです……」慶一郎は慌てて立ち上がった。「遥香!違うんだ!」だが、言葉が続かない。自分でも何をどう説明すればいいのか分からなかった。それでも彼は、本気で信じていた。遥香なら許してくれる、と。昔から彼女はそうだった。誰かを責めるより、自分を責める。だから今回も事情を話せば、きっと最後には理解してくれる。そう疑わなかった。「遥香……」慶一郎は手を差し出す。「僕と小鈴は運命の番だったんだ。」「……」「運命には逆らえなかった。」その言葉を聞いた瞬間。遥香の中で、何かが音を立てて崩れた。「あなたは……」震える声で問いかける。「私が丙でも、縁香を持たなくても、一生大切にすると約束してくださいました」瞳が潤む。「私は、その言葉だけを信じて今日まで生きてきたのです」慶一郎は何も答えられなかった。「……失礼いたします」それだけ告げて、遥香は静かに踵を返した。「遥香!」呼び止める声が背中へ飛ぶ。けれど、もう振り返ることはできなかった。涙が頬を伝う。屋敷を飛び出し、夜風の中をひたすら走る。誰にも会いたくない。一人になりたい。気付けば、人通りのない細い路地へ迷い込んでいた。辺りには白い靄が立ち込める。「……ここは、もしかして……!」遥香の背筋がゾクリと冷える。この都には、立ち入ってはいけない場所がある。話にそう聞いていた。(黄昏時の十字路——人の世に妖が訪れる交差点)遥香は唾を飲み込んだ。靄は濃くなり、数歩先も見えない。その時だった——「おいおい、どうしたんだよ」低い笑い声が響く。振り向くと、
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第5話 運命の番[つがい](上)
「お姉さまって、本当に愚か」大粒のサファイアのイヤリングを耳に飾りながら、小鈴は鏡の中の自分へ微笑みかけた。「婚約発表の会場から飛び出すなんて……責任感というものがないのかしら」ため息をつく。けれど、その胸は高鳴っていた。計画は、もうすぐ完成する。姉を襲うように送り込んだ男たちが仕事を終えていれば——椿遥香は二度と椿家へ戻ることはできない。名誉も。未来も。すべて失う。そして椿家に残る娘は、自分一人。「これで全部……私のもの」小鈴は誰にも聞こえない声で、小さく笑った。◇◇◇「逃げるなよ」男の一人が下卑た笑みを浮かべ、一歩近づく。遥香は後ずさる。だが、背中はすぐに冷たい石壁へぶつかった。逃げ場はない。「助けて……」震える声は、夜の闇へ吸い込まれていく。男が遥香の肩へ手を伸ばした、その瞬間だった。「——その女から離れろ」低く静かな声が、路地裏に響く。男たちは一斉に振り返った。「誰だ?!」声の正体は白い靄に包まれたままだった。しかし——「うぐっ!!」黒い影が一瞬動いたかと思うと、遥香の肩に手をかけていた男が吹き飛んだ。「何す——っ!!」続いて右隣の男。さらに——「ぎゃああ!!」左側の男もドサリと倒れる。残るはあと1人。男の顔に戦意は残されていなかった。「この場を立ち去れ。即座にだ」白い靄がわずかに薄まり、遥香の目の前に、一人の男の姿が現れた。黒い外套をまとった長身の男。フードを目深に被っており、横顔は分からない。「……従わないなら、容赦はしない」黒い外套のフードの陰から、黄金色の瞳が光る。鋭い眼光が、獲物を見定める獣のように、男を射抜いた。「ひ、ひぃ……!!」男は逃げた。気絶した仲間をその場に残して。静寂だけが残る。遥香は呆然と男を見つめた。(助かった……)張り詰めていた糸が切れたように、その場へ座り込みそうになる。「ありがとうございます……」震える声で頭を下げる。その時だった。ふわり、と花の香りが咲いた。薔薇。百合。芍薬。甘く濃密な香りが、夜風に溶けていく。「……っ」男の肩がわずかに震えた。その視線が、遥香を射抜く。——番だ。間違いなく。運命の番の香りだった。
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第6話 運命の番[つがい](下)
「……夜道で何をしている」黒い外套の男が遥香に向けたのは、冷たい声だった。その男——伏見朔は甲だった。甲、乙、丙に区分されたこの社会で、最も優秀な存在。そして、誰よりも運命の番という存在を嫌っていた。縁香が伴侶を選ぶなど、そんな理屈のないものを信じたことは一度もない。「早く帰れ」朔は低い声で告げる。それが精一杯だった。これ以上近付けば、触れたくなる。触れれば、きっと止まれない。そう本能が警鐘を鳴らしていた。(甲などと持て囃されても……その実、俺は獣以下の男だ)色素の薄い瞳が、かすかに金色に光る。「は、はい……」遥香は小さく頷き、歩き出そうとした。だが、足が動かない。朔から漂う香りに、遥香の身体が熱を帯び始めていた。薄荷のような清涼感。その奥に、橘の花を思わせる柔らかな甘さ。(知らない——名前も、素性も、何も知らない相手なのに……)遥香は小さくしゃがみ込む。(近付きたい……)身体が勝手に彼を求める。(触れたい……)理性は必死に否定している。それでも本能だけが、彼を運命だと叫んでいた。「どうした」「あの……」遥香は困ったように笑う。「動けなくて……」「腰でも抜けたのか」「あ……はは」遥香は、一人で立ち上がろうとする。膝は震え、力が入らない。どれほど、身体が求めても、誰かに縋るという発想は、遥香にはなかった。(早く、立ち去らないと……このまま、しゃがみ込んでいては、この方の迷惑になってしまうわ)「私のことは気になさらないでください。少し休んで、帰りますので」遥香は、弱弱しく微笑む。その笑顔を見て、朔は僅かに表情を和らげた。「家まで送ろう」その言葉は短かった。これ以上話せば、自分を律することができないかもしれない。そう感じていた。「い、いいえ」遥香は首を振った。「自分で帰れますから」肩を震わせながら立ち上がり、一歩踏み出す。遥香の身体がグラリとふらついた。咄嗟に、朔はその細い肩を支える。朔のスラリとした腕に抱きとめられた、その瞬間——甘い香りが一気に弾けた。「……!」遥香の頬が桃色に染まる。朔も息を呑んだ。離さなければ。お互いに、そう分かっていた。理性は何度も命じる。だが、身体は動かなかった。運命が、二人の距離
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第7話 愛人にしてやる(上)
(そう、この首筋に番の印をつけたのは、あの方。 私を黄昏の十字路で助けてくださった、薄荷のような、柑橘のような香りの方)遥香はドレスの襟元へそっと手を添えた。(私は、あの夜——一度だけ、あの方と夜を共にした)首筋に残る番の印を隠すように襟を寄せる。その時だった。「……うっ」慶一郎が顔をしかめる。「なんだ、この匂いは?」遥香の背筋がヒヤリと冷える。(まさか……劣情の香りに気付かれた……?!)襟元を押さえる手が微かに震えた。「香水か?」慶一郎は眉をひそめた。「縁香がないからといって、そんな香水まで付けるとは……」吐き捨てるように言った。「みっともない!そんなに男の気を引きたいのか?」「……え?」「昨夜だって、君が突然姿を消したせいで、皆がどれだけ迷惑したと思っている!」強引に腕を掴まれる。「来い!」遥香は抵抗することもできず、そのまま椿家へ連れ戻された。◇◇◇その頃、小鈴は優雅に紅茶を口へ運んでいた。昨夜、路地へ送り込んだ男たちからは失敗の報告が届いている。それでも構わない。小鈴はまったく焦っていなかった。「どうせ、お姉様は終わり」男たちに襲われた。その噂が立った時点で、名誉は失われる。たとえ無事に帰って来ようとも、待っているのは絶望だけだった。「小鈴様」使用人が頭を下げる。「慶一郎様がお見えです」「そう」小鈴は満足そうに微笑んだ。「ちょうど良かったわ」◇◇◇「遥香。昨夜、君はどこにいた?!」慶一郎の問いに、遥香は静かに顔を上げた。涙は、流れていなかった。「その前に、お聞きしたいことがあります」「……何だ」「昨夜、なぜ小鈴さんとご一緒だったのですか」慶一郎は苦しそうに目を伏せた。「あれは……事故だった」「事故、ですか」「小鈴が劣情を発症して危険な状態だったんだ」苦しい言い訳だと、自分でも分かっていた。それでも彼は信じていた。遥香なら受け入れてくれる、と。昔から彼女はそうだった。自分より他人を優先し、人を責めない。だから今回も最後には許してくれる。そう思って疑わなかった。「僕と小鈴は番なんだ。運命の番だったんだよ」慶一郎は静かに言う。「運命には、従うしかないだろう」遥香
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第8話 愛人にしてやる(中)
婚約者である自分を裏切り、妹と番になった慶一郎。それにも関わらず、彼は遥香にこう告げた。「愛しているのは、今でも君だけだ」(そんな身勝手な理屈——!)遥香は小さく息を吸い込んだ。「それでしたら」澄んだ声だった。「今後、私には関わらないでください」慶一郎の顔色が変わる。(それだけは、できない——!)遥香は由緒正しい椿家の長女だ。加えて、遥香の母親は、貴族の中でも格式の高い、御三家の血筋に当たる。それは、異母妹であり、平民の母親を持つ小鈴との大きな違いだった。.遥香と別れ、小鈴と結婚する、という選択肢は、慶一郎には無かった。そんなことになれば、彼は——高貴な血統の姉に捨てられ、混紡の妹を娶った男。そう、人々に噂されるだろう。そんな不名誉は、西条家の者として、受け入れることはできなった。「それは……無理だ」「なぜですか」遥香が静かに尋ねると、慶一郎は拳を戦慄かせ——ドンッ!!珈琲机に右手を打ち付けた。「家には家の事情がある!」その時だった。「お姉様!」涙声が部屋へ響く。小鈴だった。頬を濡らしながら遥香の前へ駆け寄り、その場へ膝をつく。「お願いです!私たちを恨むのは構いません!」肩を震わせながら叫ぶ。「でも、腹いせに見知らぬ男性と密会するなんて……!」部屋の空気が変わる。使用人たちがざわつき始めた。——その噂は、小鈴自身が流したものだった。朝から使用人たちの前で涙を流し、「お姉様が知らない男性と一夜を……」そう繰り返して歩いた。真実かどうかなど関係ない。人は、面白い噂を信じる。それだけで十分だった。「違います!」遥香は初めて声を荒らげる。「私は——!」その瞬間だった。慶一郎の視線が遥香の首筋で止まる。乱れた髪の隙間から、赤い噛み痕が覗いていた。「その印は……」胸の奥に黒い感情が広がる。信じたくない。だが、目の前には動かぬ証拠がある。「遥香」震える声で尋ねる。「本当に……他の男と?」遥香は言葉を失った。説明できない。自分でも、あの夜に何が起きたのか分からないのだから。その沈黙を、慶一郎は肯定と受け取った。「……そうか」深く息を吐く。「裏切ったのは、君だったんだな」遥香は静かに首を振る。「私は裏切っておりません」「いや」慶一郎は穏や
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第9話 愛人にしてやる(下)
「人目につかない屋敷を用意する」「……それは」「何不自由ない暮らしを約束する」遥香はゆっくり顔を上げた。「愛人になれ、とおっしゃるのですか」慶一郎は否定しなかった。本妻にはできない。だが生活は保障する。十分に情けを掛けている。彼は本気でそう思っていた。「お断りします」遥香は迷いなく答える。「私は物ではありません」その瞬間。パァンッ!!乾いた音が部屋へ響いた。頬に焼けるような痛みが走る。「この恥さらし!」継母だった。怒りに震えながら遥香を睨みつける。「椿家の名を泥まみれにして!」腕を乱暴に掴まれる。「旦那様がお待ちです!」そのまま本邸へ引きずられていった。◇◇◇広間では、父・椿和馬が無言で立っていた。床には、亡き母の遺影。砕けた硝子が、まだ散らばっている。和馬は遺影を見下ろした。(この女が、遥香など産まなければ——!)遥香さえいなければ、椿家はもっと繁栄していた。そう本気で思っていた。椿家ほどの名門では、第二性が人の価値を決める。甲なら家を栄えさせる。乙なら家を支える。丙なら、名家へ嫁ぎ、家に利益をもたらす。だが遥香は、丙でありながら縁香を持たない。和馬にとって、それは何の価値もない娘だった。それに比べ、小鈴の縁香は美しい。西条家に嫁ぐなら、本来あちらであるべきだった。「私は」和馬は低く呟く。「お前の体裁まで考え、慶一郎君との婚約を整えてやった」恩を売るような口調だった。「それなのに」遺影を持ち上げる。そして——ガシャン!!躊躇なく床へ叩きつけた。砕けた硝子を革靴で踏みにじる。「お父さま!」遥香の悲鳴が響く。和馬は冷たく見下ろした。「お前たち母娘は、椿家最大の汚点だ」隣では、小鈴がそっと涙を拭っていた。その瞳の奥には、笑みだけが浮かんでいる。「お父さま……」震える声で囁く。「家名を守るためにも……」小鈴は遥香を見つめ、静かに微笑んだ。「お姉様には、ご自分で決断していただくしかありません」
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第10話 さようなら、お姉さま(上)
「お姉さまには、ご自分で決断していただきましょう」小鈴は目に涙を浮かべ、優しく微笑みながら、そう言った。その意味するところは——「西条家との婚姻を発表する夜、椿家の娘が、他の男と密会し、番の印を付けて帰って来た。 このようなことは、西条家にとって、椿家にとって、なにより、お姉さまにとって、不名誉極まりないことです」涙を拭うように、小鈴は袖で顔を隠す。「お姉さまの名誉をお守りする道は二つ。西条家と同等以上の家格の御曹司に見初められ、嫁ぐこと。 もしくは、俗世を捨てることです」小鈴の声は震えた。悲しんでいるのではない。心底愉快で仕方ないのだ。(こんなに思い通り、罠に引っかかってくれるなんて)その内心は胸に留め、小鈴は続ける。「過ちを認め、すべての財産を放棄して、尼寺は入れば、お姉さまが改心しようとしていることが、人々に伝わるでしょう。私も社交界で精一杯説明して参ります」小鈴の話は、一見、妹として姉を思いやっているようであった。しかし、実態は、椿家の財産をすべて自分のものとし、姉がいなくなった社交界で、根も葉もない醜聞をまき散らすことができる——そう算段していた。「尼寺か、西条家以外の名家へ嫁ぐか……」遥香は力なくつぶやいた。(今の私を花嫁に迎えたい人なんて、どこにもいないわ)遥香は首筋の赤い印に手を触れる。顔も知らない男につけられた、番の印。(ああ、でも、あの方がどなたか分からなくて、本当に良かった)遥香はしみじみとそう感じていた。(もし素性が分かったら、あの方にも椿家の手が及ぶかもしれない。 身内の母や私にさえ、この仕打ちなのに……他人に対して、容赦があるとは思えない)傷付くのが、自分だけで本当に良かった。遥香はそう感じていた。(尼寺に行くのは構わない。ただ、お母さまが実家からお持ちになった嫁入り道具と美術品。 それだけは、お守りしたい。お母さまが大切にしてきたものだから)床には母の遺影の硝子が飛び散っていた。自分が椿家を去れば、母の嫁入り道具や美術品が同じ運命を辿ることは、想像に難くなかった。◇◇◇「しばらく部屋で謹慎していろ」父親はただ、それだけを命じた。重い鉄の錠が扉を閉ざす。遥香は日の差さない離れの一室へ閉じ込められた。「……お母さま」遥香はそっと膝の上へ母の遺影を置いた。
last updateLast Updated : 2026-08-11
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