LOGIN生まれつき【縁香】(フェロモン)を持たない令嬢、椿遥香。 貴族社会では欠陥品と蔑まれ、虐げられる【丙】(オメガ)だった。 そんな彼女をただ一人、優しく大切にしてくれたのが、幼馴染の婚約者。 しかし、彼は、実は遥香の妹・小鈴と【番】となっていた。 婚約者と妹の罠に嵌めれ、運命に翻弄されて、奈落の底へ突き落される遥香。 絶望の中、彼女を救ったのは、妖しいまでに強く美しい男・伏見朔だった。 遥香は、氷の軍神と呼ばれ、冷酷な男として恐れられる朔の心を溶かし、溺愛される。 遥香と朔を破滅させようと遥香の血縁と婚約者たちは画策するが、彼らが向かうのは破滅の一途。 フェロモンを持たない「欠陥品」令嬢の逆転シンデレラロマン。
View Moreその夜——
誰にも知られることなく、二人はたった一度だけ、運命へ身を委ねた。
(私は……
辺りには、濃密な花の香りが満ちていた。
薔薇よりも薔薇らしく。
芍薬よりも芍薬らしく。 百合よりも百合らしい。この世のものとは思えないほど、甘く官能的な香り。
(それに……こんなに……溢れて……)
自分の身体が、自分のものではないようだった。
けれど。
(どうして、いきなり……?)
熱は身体の奥から次々と湧き上がり、とても理性では抑えきれない。
頬が熱い。
息が苦しい。
指先まで震えてしまう。
(こんな姿……見られたくない)
羞恥に耐えきれず、遥香の瞳から涙が零れ落ちた。
その雫を、男は愛おしそうに舌先で掬い取る。
「……っ」
ぞくり、と背筋が震えた。
胸の奥が甘く痺れ、膝から力が抜けそうになる。
(なんて……)
浅ましい。
そう思うのに、本能は歓びに震えていた。
「……見ないで、ください……」
震える声で懇願する。
こんな自分は、自分ではない。
「分かった」
男は穏やかな声で答えた。
乱れた髪を、そっと指先で整える。
その優しい仕草だけで、また身体が震えた。
「……はぁ……」
思わず熱い吐息が漏れる。
男は静かに遥香の手を取り、その甲へ口づけを落とした。
「俺は、一度守ると決めたものは、必ず守る」
低く、揺るぎない声。
「——君にもそう誓おう」
月明かりの下で見つめるその瞳は、氷のように静かでありながら、奥底には激しい炎を宿していた。
その真剣な眼差しに、遥香は小さく頷く。
「……分かりました」
自分でも信じられないほど素直な声だった。
「あなたに……この身を委ねます」
その瞬間、自分の大胆さに息を呑む。
けれど身体は、心よりも正直だった。
気づけば両腕は自然と男の首へ伸び、その温もりを求めていた。
(……私の本当の姿は、こちらなのかもしれない)
花の香りが、さらに濃く咲き誇る。
二人は互いを求め合い、運命の糸を手繰り寄せるように、その距離を失っていった。
◇◇◇
翌朝。
遥香はゆっくりと瞼を開いた。
「ここは……一体どこ?」
慶一郎と小鈴が婚約を発表し、人々から祝福される中。会場の片隅で、遥香は人々からの侮蔑と好奇の視線に晒されていた。「あの方が例の……」「婚約破棄されたうえ、他の男性とも逢引きしたそうよ」「椿家もお気の毒ね」冷たい言葉が遥香へ突き刺さる。誰も真実など知ろうとしない。噂だけが一人歩きしていた。遥香は静かに会場を後にする。(お父様は、私を娶ってくださる殿方を探せとおっしゃるけれど、これほど悪評が立ってしまっては難しいわ。 それに、縁香も持たず、別の男との番の印を付けた丙を花嫁に迎えたい殿方がいるとは思えない)夜風を求めるように二階のバルコニーへ出る。冷たい風が涙を乾かした。「お姉様」甘い声が響く。振り返ると、小鈴が立っていた。「幸せそうね」遥香が静かに言う。「もちろん」小鈴は微笑んだ。そして一歩近付く。「全部、私が仕組んだことだもの」遥香の瞳が揺れる。「……え?」「慶一郎様を誘惑したのも」一つ。「路地で男たちに襲わせたのも」二つ。「あの噂を流したのも」三つ。「全部、私よ」小鈴は楽しそうに笑った。「どうして……」「決まっているでしょう?」首を傾げる。「お姉様が邪魔だったから」あまりにも当然のように答えた。「お姉様って、本当に人を疑わないのね」くすり、と笑う。「だから、とても利用しやすかった」その時だった。「……小鈴」低い声が聞こえる。慶一郎だった。遥香は最後の希望を込めて彼を見る。「今のお話……聞いていましたよね」慶一郎は苦しそうに目を閉じる。もちろん聞いていた。すべて事実だった。だが、ここで真実を認めれば、西条家の立場は失われる。「……世間体というものがある」その一言だった。「君が黙れば済む話だ」遥香は静かに目を閉じた。初恋は終わった。いいえ。きっと、ずっと前に終わっていたのだ。「でしたら」遥香は踵を返す。「皆様の前で真実をお話しいたします」その瞬間——小鈴が微笑んだ。「さようなら、お姉様」ドンッ——背中へ強い衝撃が走る。バルコニーの手すりから、スルリと身体が滑る感覚。「きゃあっ!」夜風が耳元を切り裂く。(落ちる——!)そう思った刹那、力強い腕が遥香の身体を抱き止めた。「危ない——」低く落ち着いた声。遥香
遥香は、鉄格子に閉ざされた座敷牢に入れられていた。母親の遺影を、そっと置く。「お母さま……」父に踏み砕かれた額縁は外し、割れた硝子だけを取り除いていた。優しく微笑む母は、今も変わらない。「お母さまは仰っていましたね」遥香は写真へ微笑みかける。「どんなことがあっても、優しさを手放してはいけません、と」静かな部屋へ、小さな笑いが零れた。「でも……」ぽたり、と涙が落ちる。「この世に、本当に優しい人なんているのでしょうか」母は優しかった。誰に対しても。異母妹の小鈴にさえ分け隔てなく接し、いつも気に掛けていた。それなのに。どうして、あんな最期を迎えなければならなかったのだろう。「……そうね」遥香は鏡へ目を向ける。指先が首筋へ触れた。そこには、あの夜に刻まれた番の印。最初は鮮やかな紅色だったそれも、日を追うごとに薄れている。まるで夢だった。名前も知らない人。二度と会うこともない人。それでも——あの腕の温もりだけは、忘れられなかった。「私は、この先どんな目に遭うか分からない」小さく微笑む。「でも……」ゆっくり目を閉じる。「一度だけでも、自分で選んだ運命に出会えた」それだけは、誰にも奪えない。遥香はその思いをそっと胸にしまい込んだ。◇◇◇数日後。父・椿和馬は遥香を書斎へ呼び出した。「今夜、華族が集う夜会がある」机越しに言い放つ。「今夜中に、お前を妻として迎える男を見つけろ」遥香は黙って聞いていた。「もし誰にも選ばれなければ——」和馬は冷たく言う。「椿家から消えろ」その声に父親としての情はなかった。あるのは当主としての打算だけ。利益を生まない駒は切り捨てる。それだけだった。◇◇◇帝都最高峰の華族夜会。豪奢なシャンデリアの光が会場を照らし、着飾った華族たちが優雅に談笑していた。やがて司会者が高らかに告げる。「西条慶一郎様と、椿小鈴様のご婚約を発表いたします!」大きな拍手が湧き起こる。「おめでとうございます」「なんてお似合いのお二人でしょう」祝福の輪の中心で、小鈴は幸せそうに微笑んでいた。(やっと……)幼い頃から欲しかったもの。家も。地位も。慶一郎も。すべて、お姉様から奪った。(全部、全部、私のもの)あとは——椿遥香が落ちていく姿を見るだけだった。
「お姉さまには、ご自分で決断していただきましょう」小鈴は目に涙を浮かべ、優しく微笑みながら、そう言った。その意味するところは——「西条家との婚姻を発表する夜、椿家の娘が、他の男と密会し、番の印を付けて帰って来た。 このようなことは、西条家にとって、椿家にとって、なにより、お姉さまにとって、不名誉極まりないことです」涙を拭うように、小鈴は袖で顔を隠す。「お姉さまの名誉をお守りする道は二つ。西条家と同等以上の家格の御曹司に見初められ、嫁ぐこと。 もしくは、俗世を捨てることです」小鈴の声は震えた。悲しんでいるのではない。心底愉快で仕方ないのだ。(こんなに思い通り、罠に引っかかってくれるなんて)その内心は胸に留め、小鈴は続ける。「過ちを認め、すべての財産を放棄して、尼寺は入れば、お姉さまが改心しようとしていることが、人々に伝わるでしょう。私も社交界で精一杯説明して参ります」小鈴の話は、一見、妹として姉を思いやっているようであった。しかし、実態は、椿家の財産をすべて自分のものとし、姉がいなくなった社交界で、根も葉もない醜聞をまき散らすことができる——そう算段していた。「尼寺か、西条家以外の名家へ嫁ぐか……」遥香は力なくつぶやいた。(今の私を花嫁に迎えたい人なんて、どこにもいないわ)遥香は首筋の赤い印に手を触れる。顔も知らない男につけられた、番の印。(ああ、でも、あの方がどなたか分からなくて、本当に良かった)遥香はしみじみとそう感じていた。(もし素性が分かったら、あの方にも椿家の手が及ぶかもしれない。 身内の母や私にさえ、この仕打ちなのに……他人に対して、容赦があるとは思えない)傷付くのが、自分だけで本当に良かった。遥香はそう感じていた。(尼寺に行くのは構わない。ただ、お母さまが実家からお持ちになった嫁入り道具と美術品。 それだけは、お守りしたい。お母さまが大切にしてきたものだから)床には母の遺影の硝子が飛び散っていた。自分が椿家を去れば、母の嫁入り道具や美術品が同じ運命を辿ることは、想像に難くなかった。◇◇◇「しばらく部屋で謹慎していろ」父親はただ、それだけを命じた。重い鉄の錠が扉を閉ざす。遥香は日の差さない離れの一室へ閉じ込められた。「……お母さま」遥香はそっと膝の上へ母の遺影を置いた。
「人目につかない屋敷を用意する」「……それは」「何不自由ない暮らしを約束する」遥香はゆっくり顔を上げた。「愛人になれ、とおっしゃるのですか」慶一郎は否定しなかった。本妻にはできない。だが生活は保障する。十分に情けを掛けている。彼は本気でそう思っていた。「お断りします」遥香は迷いなく答える。「私は物ではありません」その瞬間。パァンッ!!乾いた音が部屋へ響いた。頬に焼けるような痛みが走る。「この恥さらし!」継母だった。怒りに震えながら遥香を睨みつける。「椿家の名を泥まみれにして!」腕を乱暴に掴まれる。「旦那様がお待ちです!」そのまま本邸へ引きずられていった。◇◇◇広間では、父・椿和馬が無言で立っていた。床には、亡き母の遺影。砕けた硝子が、まだ散らばっている。和馬は遺影を見下ろした。(この女が、遥香など産まなければ——!)遥香さえいなければ、椿家はもっと繁栄していた。そう本気で思っていた。椿家ほどの名門では、第二性が人の価値を決める。甲なら家を栄えさせる。乙なら家を支える。丙なら、名家へ嫁ぎ、家に利益をもたらす。だが遥香は、丙でありながら縁香を持たない。和馬にとって、それは何の価値もない娘だった。それに比べ、小鈴の縁香は美しい。西条家に嫁ぐなら、本来あちらであるべきだった。「私は」和馬は低く呟く。「お前の体裁まで考え、慶一郎君との婚約を整えてやった」恩を売るような口調だった。「それなのに」遺影を持ち上げる。そして——ガシャン!!躊躇なく床へ叩きつけた。砕けた硝子を革靴で踏みにじる。「お父さま!」遥香の悲鳴が響く。和馬は冷たく見下ろした。「お前たち母娘は、椿家最大の汚点だ」隣では、小鈴がそっと涙を拭っていた。その瞳の奥には、笑みだけが浮かんでいる。「お父さま……」震える声で囁く。「家名を守るためにも……」小鈴は遥香を見つめ、静かに微笑んだ。「お姉様には、ご自分で決断していただくしかありません」