All Chapters of 「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました: Chapter 1 - Chapter 10

20 Chapters

第1話 王城の舞踏会、婚約破棄宣言

 王都ルーメルンの夜は、いつだって光に満ちている。 とりわけ王城の大広間が舞踏会のために開かれる夜ともなれば、その輝きは一段と凄まじかった。高く掲げられた幾重ものシャンデリアは星を封じ込めたように眩く、磨き抜かれた白大理石の床は光を受けて鏡のようにきらめいている。金糸で縁取られた深紅の絨毯、壁一面に飾られた歴代国王の肖像画、花瓶からあふれんばかりに活けられた季節の白薔薇。芳香は甘すぎず、けれど確かに上質で、そこに集う貴族たちの衣擦れの音さえ一種の音楽のようだった。 この夜は、春季叙勲と王太子臨席を兼ねた大舞踏会である。 国中の有力貴族はもちろん、大商会の長、地方領主の嫡子、騎士団幹部、王家に連なる遠縁の者までが一堂に会していた。笑顔、挨拶、扇の陰で交わされる視線、薄く差し挟まれる牽制。ここは祝祭の場であると同時に、王国の勢力図が最も美しく、そして最も露骨に浮かび上がる戦場でもある。 公爵令嬢レティシア・エーヴェルシュタインは、その戦場の中央から半歩だけ引いた場所に立っていた。 決して目立つ色ではない、夜空を思わせる濃紺のドレス。胸元と袖口に施された銀糸の刺繍は控えめながら精緻で、彼女の白い肌と、結い上げられた淡い金髪を端正に引き立てている。宝石も最低限だ。喧しく自己主張することなく、ただ「場にふさわしい」と誰もが認めるだけの品位を備えている。 彼女の周囲では、侍女や給仕たちが淀みなく動いていた。 その動きが滑らかであるのは偶然ではない。壁際に置かれた花の位置ひとつ、奏者の休憩に合わせた酒の差し替えひとつ、地方伯爵家の老夫人が長く立ち続けないように椅子を増やしておく配慮ひとつ――そうした細部は、ほとんどレティシアの目配せで整えられていた。 大広間の入口近くで、若い侍従が一瞬だけ困ったように立ち止まる。新たに到着した南方の侯爵夫妻をどの列に案内すべきか迷ったのだろう。レティシアはそれを視界の端で捉え、わずかに扇子を傾けた。すると傍らの侍女がすぐに動き、侯爵夫妻を西側の席へと導く。そこなら先に着いている親族とも派閥上の利害衝突が起きず、しかも王太子から遠すぎない。 何事もなかったかのように収まる。 それがレティシアの日常だった。「相変わらず、見ているだけで息が詰まりそうなほど完璧ですわね」 隣に立った声に、レティシアはゆるやかに視線を向けた。 
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第2話 譲渡

 舞踏会の翌朝、王都はよく晴れていた。 夜の騒ぎなど初めから存在しなかったかのように、王城の尖塔は朝日に白く輝き、宮廷庭園の噴水は規則正しく水を噴き上げている。けれどその穏やかさは、薄氷の上に置かれた銀盆のようなものだった。見た目は美しくとも、下では確かにひびが広がっている。 レティシア・エーヴェルシュタインは、いつもと変わらぬ時刻に目を覚ました。 侍女が寝台の天蓋を静かに開ける。朝の光が差し込み、白いカーテンがわずかに揺れた。寝起きの重さも、泣きはらした目の痛みもない。昨夜はほとんど眠れなかったはずだが、不思議と頭は冴えていた。「おはようございます、お嬢様」 長年仕える侍女のマルタが、珍しく声を震わせて言った。 彼女は五十を越えた女で、普段はどんな騒ぎにも眉一つ動かさない。そんな彼女が、今朝ばかりは顔色を失っている。「おはよう、マルタ」 レティシアは体を起こしながら答えた。「お加減はいかがですか。昨夜は……その……」「ええ、よく眠れたわ」 嘘だった。だが、いま侍女に必要なのは主人の真実の弱音ではなく、平静だった。 マルタは何か言いかけ、結局口をつぐんだ。代わりに洗面の水を整える手つきが、いつもよりほんのわずかに硬い。 レティシアは鏡の前に座った。鏡の中には、いつもの自分がいた。淡い金髪、冷静に見える薄青の瞳、端正すぎるとまで言われる整った顔立ち。昨夜あれほど多くの視線に晒され、婚約破棄という言葉を浴びせられた女の顔としては、あまりに何事もなさすぎた。 だが胸の奥に沈んだものが消えたわけではない。 ただ、それを外にこぼしても意味がないと知っているだけだ。「王城からの使いは?」 髪を梳かれながら、レティシアは尋ねた。「……もう、来ております」「早いのね」「夜明けとほとんど同時でした。侍従長閣下からで、引き継ぎの件につき、本日中の立ち会いをとのことです」 当然だろう。 昨夜、あれだけの公衆の面前で婚約解消を宣言した以上、王家としても後には引けない。むしろ早急に事務処理を進めなければ、噂は際限なく広がる。いや、もう広がっているだろうが、形だけでも「整った手続きの末の円満な解消」に見せかけねばならない。「お父様は?」「すでにお目覚めでございます。閣下は夜半まで書斎においでで……奥様も、今朝は随分お早くから」 家中が眠れぬ夜
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第3話 家族の温度差

王都の午後は、よく磨かれた硝子のように静かだった。 だがエーヴェルシュタイン公爵邸の中庭には、その静けさとは別の緊張が満ちていた。風が花壇の白百合を揺らしても、窓辺に立つ使用人たちの表情は固いままだ。主人家の長女が一夜で王太子の婚約者の座を失い、そのうえ自ら膨大な引き継ぎを済ませた――そんな事態を前にして、平穏でいられる家人など一人もいない。 レティシア・エーヴェルシュタインは、午後も引き続き書庫で作業を続けていた。 先ほどまで整理していた王城関係の目録は片づき、今度は北方辺境の旧所領に関する地図、地代の記録、過去の補修願い、井戸と水路の修繕履歴、砦の兵数推移、街道破損の報告などが机の上に広げられている。まだ正式に「行け」と命じられたわけではない。だが、王太子の婚約者でなくなった以上、王都の中心に彼女の椅子は残らない。ならば、次に自分が置かれる場所を先に把握しておくしかない。 古い羊皮紙の地図には、王国最北端に近い寒村と砦の名が並んでいた。いくつかの村には赤い印があり、そこには「冬季税収減」「流民増加」「魔獣被害」「橋梁老朽化」と書き込まれている。記録は三年前で途絶えているものも多い。つまり、王都からの関心そのものが薄れて久しいのだ。「お嬢様」 ルイスが新しい帳面を運んできた。「こちらは旧所領の収支報告でございます。ただ、数字がかなり荒く……」「見ればわかるわ。おそらく、現地の書記の手が足りていないのでしょう」 ぱらりと頁をめくるだけで、レティシアにはいくつもの異常が見えた。徴税額の変動が季節要因と合わない。鉱山関連の支出だけが不自然に増えている。兵糧の名目で計上された穀物量と、実際の人口規模が釣り合わない。横流し、あるいは中抜きの匂いがした。「……ひどいわね」 誰に聞かせるでもなく呟くと、ルイスが不安げに顔を曇らせる。「辺境とは、皆こういうものなのでしょうか」「いいえ。辺境だから荒いのではなく、荒くても誰も咎めなかったのでしょう」 そこまで言ったところで、書庫の扉が開いた。 入ってきたのは母、ヴィクトリアだった。 薄紫の昼用ドレスに身を包み、髪も化粧も完璧に整っている。外から見れば、朝と変わらぬ高位貴族夫人だ。だが近くで見ると、目元には疲れがあり、口許には抑え込みきれない苛立ちが刻まれている。「少し、二人きりで話せるかしら」 
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第4話 辺境へ

出立の朝、王都には薄い霧が降りていた。 春も半ばに差しかかっているというのに、夜明け前の空気はまだ冷たい。石畳の上にうっすらと滲んだ湿り気が、屋敷の正門前に並ぶ馬車の車輪を鈍く濡らしていた。 エーヴェルシュタイン公爵家の者たちは皆、表向きは静かな顔をしていた。 だが、その静けさの下にあるものが平穏でないことくらい、誰の目にも明らかだった。 レティシア・エーヴェルシュタインの辺境行きは、正式には「旧所領視察および静養」とされた。王城からも、それに異を唱える言葉は来ていない。むしろ都合が良かったのだろう。王太子婚約解消の余波が王都でさらに広がる前に、当の本人が自ら表舞台から退いてくれるのだから。 けれど、屋敷の前に並ぶ荷馬車の数は、いかにも「静養」にしては多かった。 衣装箱は最小限だ。だが代わりに、帳簿箱、地図箱、封書箱、古い契約書の控えを納めた箱がいくつも積まれている。旅装の侍女たちよりも、書記官と執事補佐の顔ぶれの方が多い。およそ傷心の令嬢が遠地へ休みに行く姿ではなかった。「お嬢様、こちらの箱は最後尾へ積ませました」 老執事のハルトマンが、厳しい顔のまま報告した。白髪の混じった髪を撫でつけ、何十年も公爵家に仕えてきた男である。普段は滅多に感情を表へ出さないが、今朝ばかりは声の奥に固いものがあった。「ありがとう。地図箱は?」「二台目の馬車に。いつでも取り出せるようにしております」「ええ。それで良いわ」 レティシアは旅用の濃紺の外套を肩に掛けたまま頷いた。装いは簡素だが、その簡素さもまた上質で、かえって彼女の育ちを際立たせている。腰まで届く淡い金髪は普段よりきつく編み上げられ、揺れにくいようにまとめられていた。王都の舞踏会に立つ令嬢ではなく、長旅に備える者の身支度だ。 門前には父クラウス、母ヴィクトリア、そしてエミリアの姿もあった。 別れの場としてはひどく簡素である。大仰な涙も、大勢の見送りもない。王都の有力者たちはあえて姿を見せなかったし、公爵家もまた、それを望まなかった。ここで誰かが情の深い芝居をすればするほど、王都での噂に余計な餌を与えることになる。 それでも、家族の間に流れるものまで消せるわけではない。「準備は整ったようだな」 父が言う。「はい、お父様」「現地へ入るまでは、お前の立場はあくまで旧所領視察の代理だ。だが着いて
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第5話 荒れ果てた領地

北へ向かう旅は、日を追うごとに色を失っていった。 王都近郊ではやわらかく揺れていた春の緑は、街道を北上するにつれて背を低くし、やがて風に耐えるためだけに地面へ張りつくような草へ変わる。空はどこまでも高いのに、景色そのものは逆に狭く、寒々しくなっていくようだった。 旅程の三日目を越えたころから、道は目に見えて悪くなった。 石畳は途切れがちになり、かわりに固く締まった土道が続く。だがその土も、轍の深い場所では雨の名残をいつまでも抱え込み、乾ききれぬ泥となって馬車の車輪を鈍らせていた。側溝はあるにはあるが、途中で崩れ、流れを失ってぬかるみに変わっている箇所が多い。 レティシア・エーヴェルシュタインは、相変わらず窓辺に座って外を見ていた。 ただ景色を眺めているのではない。畑の耕され方、放棄された土地の面積、道端の柵の傷み具合、すれ違う旅人の数、馬の痩せ具合、荷馬車の積み荷の種類――そういったものを、彼女は一つずつ目に入れていた。「お嬢様」 向かいに座るマルタが、そっと膝掛けを整える。「本日は風が強うございます。窓を閉められては」「もう少しだけ」 閉めてしまえば、外の匂いがわからない。 乾いた草の匂い。土が湿気を含んだまま冷えている匂い。家畜の数が少ない村特有の、薄く頼りない生活の匂い。そうしたものもまた、言葉のない報告書だった。 同行している老執事ハルトマンは、今朝からほとんど無言である。北へ来るほど護衛たちの顔つきも固くなっていた。辺境へ近づくにつれ、単に道が荒れるだけではないことを、彼らも肌で察しているのだろう。 昼近く、一行は小さな村を通った。 村といっても、十数軒の石と木の家が寄り集まっただけの寒村だ。井戸の周りには人影が少なく、畑の端では老人と子供だけが土をいじっている。働き盛りの男たちの姿が見えにくい。徴兵か、流出か、あるいはもっと別の理由か。 レティシアは馬車の速度を少し落とさせ、村の入口で立つ古い標柱を見た。 字がかすれ、片側が折れている。領内標識の補修すら長く行われていない。「……ここも」 小さく漏らすと、ルイスが慌てて紙を探す。「書き留めましょうか、お嬢様」「いいえ、まだいいわ。あまりに多すぎるもの」 それは半ば皮肉だった。 記録しようと思えば、目に入るものすべてが書き留めるべき対象になる。そのくらい、荒廃は
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第6話 一日で見抜く

 翌朝、辺境の空はひどく澄んでいた。 王都の朝の光は、人の手で整えられた庭や石壁の上に柔らかく落ちる。だがこの地の朝日は、もっと容赦がない。冷え切った石壁を真っ直ぐに照らし、凍りついていた地面の輪郭をはっきりと浮かび上がらせる。美しいというより、隠しようがない光だった。 レティシア・エーヴェルシュタインは、夜明けとほぼ同時に目を覚ました。 辺境の砦での最初の夜は、静かではあったが快適とは言い難かった。暖炉の火は途中で弱くなり、石壁の向こうを吹く風の音が何度も眠りを浅くした。それでも彼女は寝不足の気配を表に出さない。起きるべき時間に起き、必要な支度を済ませ、机の上に昨夜まとめた所見をもう一度読み返した。 そこへマルタが湯気の立つ湯盆を運び込む。「おはようございます、お嬢様」「おはよう、マルタ」「朝食の支度は整っております。……それから、総司令殿がすでに中庭においでだそうです」 レティシアは小さく眉を上げた。「早いのね」「お嬢様ほどではございません」 マルタがそう返すと、レティシアはほんの少しだけ微笑んだ。 昨夜の時点でわかっていたことだが、ディルク・ヴァルゼンという男は、少なくとも現場を軽んじる人間ではない。王都から来た令嬢に疑いを向けつつも、自分は誰より早く動いている。その在り方は、敵に回せば厄介だが、味方であれば頼もしい。 簡素な朝食を済ませて中庭へ出ると、ディルクはすでに数名の兵と短く言葉を交わしていた。昨夜と同じ簡素な軍装だが、今朝はさらに剣帯まで締めている。彼はレティシアに気づくと一礼した。「おはようございます」「おはようございます、ヴァルゼン卿」「昨夜はお休みになれましたか」「十分に」 それが完全な真実ではないことは、たぶん互いに承知の上だった。 ディルクは回りくどい前置きを
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第7話 最初の敵は内部の腐敗

 辺境の朝は、決断を先延ばしにさせない。 夜の間に凍りかけた地面が、陽が差すと同時にぬかるみに変わり、兵も荷も人も、それぞれの持ち場へ追い立てられる。王都のように、遅れて始まる優雅な朝などここにはない。動かなければ、その日の暮らしそのものが崩れるのだ。 レティシア・エーヴェルシュタインが客間を出た時には、すでに中庭には慌ただしい気配が満ちていた。 昨日命じた在庫再点検が始まっており、兵たちが主倉庫と補助倉庫を行き来している。木箱を運ぶ音、帳簿の頁をめくる音、兵の怒鳴り声と、それに交じる言い訳めいた声。普段なら朝靄の中へ溶けて消えるはずのざわめきが、今日ははっきりと不穏な輪郭を持っていた。 中庭の中央では、ディルク・ヴァルゼンが数名の兵に指示を飛ばしていた。「第三倉庫の封を確認しろ。立ち会いは二名。帳簿は必ずその場で照合だ」 短く、無駄のない命令だ。 彼はレティシアに気づくとすぐ歩み寄ってきた。「おはようございます」「おはようございます。ずいぶん早いのね」「逃げる者が出る前に動かねばなりませんので」 その一言に、レティシアは目を細めた。「もう出たの?」「ええ」 ディルクは声を落とした。「昨夜のうちに、主倉庫付きの番長が一人、姿を消しました」 やはり、とレティシアは思う。 倉庫の数字を見た時点で、帳簿だけでは終わらないとわかっていた。末端だけが勝手にできる隠し方ではなかったし、もし末端だけがやっていたとしても、露見の気配を感じた時に真っ先に動くのは、責任を押しつけられやすい者だ。「名前は?」「ザイド。十年以上この砦で倉庫を任されていた男です」「家族は」「町に妻子がいる」「なら、遠くへは行かないわね」 レティシアはすぐに言っ
last updateLast Updated : 2026-08-13
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第8話 最初の危機

 腐敗を暴いた翌朝、辺境の空気は昨日までとは明らかに違っていた。 人は、何かが変わると知った瞬間に二つに分かれる。 逃げる者と、期待する者だ。 砦の中庭では、倉庫番長ザイドの拘束と代官・会計役・鉱山監督役の取り調べが続いていた。兵たちは昨日までより幾分きびきびと動いている。炊事場では塩と穀の配分が見直され、井戸では色分けした桶の準備が始まっていた。どれもまだ小さな変化でしかない。だが、小さな変化は、それ自体がひとつの宣言になる。 ――もう、この地は昨日までのままではいない。 その空気を、領民たちも敏感に嗅ぎ取っていた。 朝、レティシア・エーヴェルシュタインが中庭へ出ると、昨日名を名乗った若い兵エルンが、いつになく真っ直ぐな目で敬礼をした。「おはようございます、閣下」 閣下。 昨日までは、まだ「お嬢様」でも「令嬢様」でもおかしくなかった呼び方が、もう一段変わっている。 レティシアはそれを大げさに受け止めず、静かに頷いた。「おはよう、エルン。井戸の方はどう?」「色分け桶の用意が終わりました。兵たちも、思ったより文句は出ておりません」「そう。良かったわ」 兵は、意味のある改善なら意外と素直に受け入れる。逆に、理由の見えない命令にはひどく反発する。昨日からの短い観察だけでも、それはもう見えていた。 その時、城壁の上から鋭い呼び声が響いた。「総司令! 北西の谷筋から伝令です!」 空気が変わる。 ディルク・ヴァルゼンが即座に顔を上げ、レティシアも反射的にそちらを向いた。 城壁の階段を駆け下りてきた兵は息を切らせ、だが報告だけははっきりと告げた。「雪解け水が増えています! 旧水路の上流、第三分岐の堰が持ちません! 下流のリュンデル村が危ないと!」 中庭の空気が一気に張り詰めた。
last updateLast Updated : 2026-08-14
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第9話 泥の中の領主

 翌朝、砦の中庭にはまだ夜の冷えが残っていた。 だが空気そのものは、昨日までと明らかに違っていた。寒さは同じだ。風も同じように石壁を鳴らし、空も相変わらず北方らしく高く薄い。なのに、そこに立つ人々の目だけが変わっている。 希望と呼ぶにはまだ早い。 けれど、諦めだけではない目になっていた。 まだ夜明けの色が残るうちから、兵たちは中庭に集まり始めていた。 志願して補修へ向かう者。 仮堰の強化に必要な土嚢を詰める者。 炊事場の手を借りて、高台へ残る村人のための粥を用意する者。 昨日の一件は、単なる水害対処では終わっていない。 砦全体へ、「いま動けば本当に変わるかもしれない」という感覚を残したのだ。 レティシア・エーヴェルシュタインが中庭へ出ると、昨日よりさらに多くの視線が彼女へ向いた。 遠慮がちなものもある。 測るようなものもある。 だが、もはや軽んじる目ではない。「おはようございます、閣下」 最初に声をかけたのはエルンだった。 その後ろにも何人かの若い兵がいる。誰もが昨日の泥を落としたばかりの顔をしていたが、寝不足の割に表情は明るい。「おはよう。補修へ行くのね」「はい。日が高くなる前に、昨日の仮列をもう一段固めます」 レティシアは頷いた。「朝食は?」「これからです」「なら、食べてから行きなさい」 兵たちが一瞬戸惑う。 早く行きたい気持ちと、言われた通りにした方がいいという理解の間で揺れているのだろう。 レティシアは続けた。「空腹で力仕事をしても、途中で倒れるだけよ。特に今日は、昨日の疲れが残っている。温かいものを入れてから動いて」 そこへディルク・ヴァルゼンが現れた。 今朝はすでに旅装に近い外套を羽織っている。補修現場へ向
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第10話 初めての喝采

 リュンデル村の補修が本格的に動き出して三日目の朝、辺境にはようやく、危機を越えたあとの静けさが訪れつつあった。 もちろん、何もかもが元通りになったわけではない。 仮堰はまだ仮のままだ。 牛舎も完全には立て直せていない。 泥をかぶった畑は水を抜きながら様子を見る段階で、損失の全容すらまだ見切れていない。 それでも、最初の数日間に漂っていた「今にも何かが崩れる」緊張は、少しずつ形を変え始めていた。いまの空気は、崩壊寸前の怯えではない。疲れながらも、自分たちで復旧しているという実感の重さだ。 それは領地にとって、非常に大きな違いだった。 朝の砦の中庭では、いつものように兵と下働きたちが忙しく動いている。だがその動きには、これまでの惰性とは別の芯が通っていた。誰かに怒鳴られて無理やり働いているのではなく、自分たちがやるべきことを理解した者の足取りになりつつある。 井戸の前では、昨日までぎこちなかった色分け桶の運用が、今日はほとんど自然に回っている。兵舎側へ運ばれる水、食堂へ運ばれる水、厩舎用の水が混ざらなくなったことで、朝の混乱も明らかに減っていた。炊事場からは、薄いながらも温かな粥の匂いが立ちのぼり、仮設の荷受け場には、街道補修へ向かう者たちのための道具が整理されて並べられている。 レティシア・エーヴェルシュタインは、その様子を中庭の回廊から静かに見ていた。 後ろにはマルタが控え、少し離れたところでルイスが朝の記録帳を抱えている。「随分と変わりましたね」 ルイスがしみじみと呟く。 辺境へ来たばかりの頃、彼はここを「荒れている」としか見ていなかった。だが今は、荒れていた場所がどう変わっているのかを少しずつ見分けられるようになっている。「そうね」 レティシアは頷く。「大きく変わったわけではないけれど、“何をどこへ動かすか”が見え始めたのは大きいわ」「兵たちも、昨日まで
last updateLast Updated : 2026-08-16
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