「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました

「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました

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작가:  常陸之介寛浩최근 업데이트
언어: Japanese
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王太子アルベルトから「君の役目は妹で足りる」と告げられ、妹エミリアに婚約者の座も十年かけて築いた実務も奪われた公爵令嬢レティシア。涙を見せずすべてを引き渡した彼女は、見捨てられた北方辺境へ去る。荒れた街道、横流しされる物資、死んだことにされた鉱山――だが彼女は帳簿と人の声から腐敗を暴き、民と共に領地を蘇らせていく。一方、彼女を失った王都は急速に混乱し、第二王子ルシアンだけがその真価に気づく。やがて辺境は王国を救う最後の砦へ。捨てられ令嬢が、自らの居場所と誇りを築き、大陸の勢力図を塗り替える逆転領地改革譚。

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1화

第1話 王城の舞踏会、婚約破棄宣言

 王都ルーメルンの夜は、いつだって光に満ちている。

 とりわけ王城の大広間が舞踏会のために開かれる夜ともなれば、その輝きは一段と凄まじかった。高く掲げられた幾重ものシャンデリアは星を封じ込めたように眩く、磨き抜かれた白大理石の床は光を受けて鏡のようにきらめいている。金糸で縁取られた深紅の絨毯、壁一面に飾られた歴代国王の肖像画、花瓶からあふれんばかりに活けられた季節の白薔薇。芳香は甘すぎず、けれど確かに上質で、そこに集う貴族たちの衣擦れの音さえ一種の音楽のようだった。

 この夜は、春季叙勲と王太子臨席を兼ねた大舞踏会である。

 国中の有力貴族はもちろん、大商会の長、地方領主の嫡子、騎士団幹部、王家に連なる遠縁の者までが一堂に会していた。笑顔、挨拶、扇の陰で交わされる視線、薄く差し挟まれる牽制。ここは祝祭の場であると同時に、王国の勢力図が最も美しく、そして最も露骨に浮かび上がる戦場でもある。

 公爵令嬢レティシア・エーヴェルシュタインは、その戦場の中央から半歩だけ引いた場所に立っていた。

 決して目立つ色ではない、夜空を思わせる濃紺のドレス。胸元と袖口に施された銀糸の刺繍は控えめながら精緻で、彼女の白い肌と、結い上げられた淡い金髪を端正に引き立てている。宝石も最低限だ。喧しく自己主張することなく、ただ「場にふさわしい」と誰もが認めるだけの品位を備えている。

 彼女の周囲では、侍女や給仕たちが淀みなく動いていた。

 その動きが滑らかであるのは偶然ではない。壁際に置かれた花の位置ひとつ、奏者の休憩に合わせた酒の差し替えひとつ、地方伯爵家の老夫人が長く立ち続けないように椅子を増やしておく配慮ひとつ――そうした細部は、ほとんどレティシアの目配せで整えられていた。

 大広間の入口近くで、若い侍従が一瞬だけ困ったように立ち止まる。新たに到着した南方の侯爵夫妻をどの列に案内すべきか迷ったのだろう。レティシアはそれを視界の端で捉え、わずかに扇子を傾けた。すると傍らの侍女がすぐに動き、侯爵夫妻を西側の席へと導く。そこなら先に着いている親族とも派閥上の利害衝突が起きず、しかも王太子から遠すぎない。

 何事もなかったかのように収まる。

 それがレティシアの日常だった。

「相変わらず、見ているだけで息が詰まりそうなほど完璧ですわね」

 隣に立った声に、レティシアはゆるやかに視線を向けた。

 公爵家と親しい伯爵家の令嬢、クラリスである。人懐こい栗色の瞳を愉快そうに細めながら、彼女はそっと囁いた。

「褒めているのですわよ。今夜だって、あちらの伯爵夫人の機嫌が悪くならなかったのは、あなたが席を一つずらしたからでしょう?」

「気づいていらしたの」

「わたくしだって、長い付き合いですもの。……でも本当に不思議。あなたが何かをしているところを、みんな見ていないのですわ」

 レティシアは小さく微笑んだ。

「見えない方が良いこともあります」

「あなたはいつもそう言うのね」

 クラリスは肩をすくめ、それからほんの少し声音を落とした。

「今夜は、王太子殿下がずいぶんとご機嫌だそうですわ」

 その言葉の裏にあるものは、聞かずともわかった。

 最近の王城では、王太子アルベルトとレティシアの間に微妙な距離があることを、勘の良い者たちは薄々察していた。露骨な不仲ではない。だが、以前なら必ず彼女に相談されていた祭礼の段取りや叙勲後の歓談順が、ここ数か月は別の経路で決まっていくことが増えていた。代わりに王太子の周囲で目立つようになったのが、レティシアの妹、エミリアだった。

 レティシアは表情を崩さなかった。

「ご機嫌なのは良いことですわ。今夜はお祝いの場ですもの」

「……あなた、本当に平気なの?」

「平気かどうかで変わることなら、世はもう少し優しいでしょうね」

 冗談にも本音にも聞こえる返答に、クラリスは何か言いかけて、結局口を閉じた。

 代わりに遠くから華やかな笑い声が響く。

 王太子アルベルトが、幾人かの若い貴族たちに囲まれていた。長身に整った顔立ち、よく通る声、王家の血を象徴する金褐色の髪。彼は人目を引くことに慣れている男だった。その隣に寄り添うように立つのは、淡い桃色のドレスに身を包んだエミリア。春の日差しをそのまま人の形にしたような愛らしい少女で、姉よりも一回り柔らかい印象を与える。

 アルベルトが何かを言うたび、エミリアは少し恥ずかしそうに笑い、周囲の若者たちもつられて表情を緩める。その光景だけ見れば、実に華やかで絵になる組み合わせだった。

 大広間の空気がそこに引き寄せられていくのを、レティシアは静かに見つめた。

 見慣れた流れだった。

 アルベルトは人の心を掴む笑みを持っている。エミリアは守りたくなるような愛嬌を持っている。二人が並べば、誰もが「よく似合う」と思うだろう。そこにどれほど多くの実務や調整や根回しが必要かを考えなければ、なおさら。

 やがて楽団の曲が変わり、大扉の前に控えていた近衛が一歩前へ出た。ざわめきが徐々に収束し、大広間の視線が一点へ集まる。

 王太子アルベルトが中央へ進み出たのだ。

 その表情は妙に晴れやかだった。重大な発表を控えた緊張より、自らの正しさを確信している者の高揚に近い。彼の隣にはエミリアがいた。少し不安そうに、けれど誇らしさを隠しきれない顔で。

 レティシアの胸の内に、冷えた刃のような予感がひと筋走る。

 だが、その予感さえ表には出さない。

「諸君」

 アルベルトの声が、広間いっぱいに響き渡った。

「今宵は祝祭の場であり、また新たな門出を示す場でもある。余は……いや、私は、この場を借りて一つの決断を公にしたい」

 ざわめきが波紋のように広がる。

 レティシアは扇子を閉じた。

「私と、公爵令嬢レティシア・エーヴェルシュタインとの婚約を、本日をもって解消する」

 大広間の空気が、はっきりと止まった。

 息を呑む音。誰かのグラスがかすかに触れ合う音。遠くで楽団の一人が弓を引き損ね、かすかな不協和音が混じった。

 それでもアルベルトは、まるで歓呼を待つかのように続けた。

「理由は明白だ。レティシアは優秀だ。だがあまりにも冷静で、あまりにも隙がなく、未来の王妃として民に寄り添う温かさに欠ける。王国が今後必要とするのは、完璧な帳簿ではない。人々に愛され、寄り添う光だ」

 彼はそこで、隣のエミリアの手を取った。

「私は、その役目をエミリアに託したいと考えている」

 広間のあちこちで視線が飛び交う。

 王太子妃教育を受けてきたのはレティシアだ。王家との行事日程、諸侯との調整、王都社交の慣例、地方支援の名目と実利、そのすべてを把握しているのもレティシアだ。それを知る者ほど、いまアルベルトが何を言っているのか理解できずにいた。

 だが当の本人は、さらに踏み込んだ。

「君の役目は、妹で足りる」

 その一言は、よく研がれた刃よりも正確に、レティシアの立つ場所だけを狙って落ちてきた。

 エミリアがはっと息を呑む。止めるには遅い、そんな顔だった。

 周囲の貴族たちは、レティシアが泣き崩れるのか、怒りを露わにするのか、あるいは父である公爵が前へ出るのかと固唾を呑んで見守っている。

 その中でレティシアだけが、時間の流れから切り離されたように静かだった。

 彼女は一歩、前へ出る。

 裾が大理石をさらりと撫でる。視線が彼女に集まり、重さを増していく。それでも彼女の背は真っ直ぐだった。

「王太子殿下」

 澄んだ声が広間に響く。

「ご決断、確かに承りました」

 ざわめきがさらに膨らみかけたところで、レティシアは一礼した。美しく、完璧な礼だった。侮辱された娘のものではなく、正式な場で相手の言葉を受理した高位貴族の礼。

 その所作に、アルベルトの顔がわずかに強張る。もっと感情的な反応を想定していたのだろう。

「……理解してくれるなら助かる」

「ええ。殿下のお言葉どおり、私の役目がエミリアに務まるのであれば、何も問題はございません」

 柔らかな微笑みを湛えたまま、レティシアは続けた。

「王太子殿下の婚約者として私が担ってきた役目、王城内で預かっていた各種記録、社交に関する引き継ぎ事項、地方貴族家との折衝覚え、王都物資の納入調整表、祭礼運営の申し送り、王太子妃教育に付随する関連書類一式――すべて妹にお譲りいたします」

 空気が、今度は別の意味で凍った。

 それは単なる婚約解消ではなかった。彼女が今、淡々と口にしたのは「地位」ではなく「機能」そのものだ。そこに含まれる量と重みを理解できる者たちの顔色が変わる。

 アルベルトは一瞬、言葉に詰まった。だがすぐに顎を上げる。

「当然だ。エミリアならば十分に――」

「かしこまりました」

 レティシアは言葉を遮らず、それでも結果として相手の言葉を無力化する速度で応じた。

「では、本日をもって、私が担っておりました役目はすべて正式に手放します」

 その声には怒りも嘆きもない。

 ただ確認だけがあった。

 その静けさがむしろ、広間にいる者たちの背筋を粟立たせる。

 エミリアが一歩前に出た。

「お、お姉様……!」

 今さらのように差し出されたその声に、レティシアは穏やかに妹を見た。

「どうかなさいまして、エミリア」

「わ、私は、そんな……全部だなんて……」

 ならば今この場で断るべきだ。だがエミリアはアルベルトに握られた手を振りほどけない。王太子に選ばれた高揚と、姉を傷つけている自覚の狭間で揺れたまま、結局どちらも選び切れずにいる。

 その中途半端さが、レティシアにはよく見えた。

「心配はいりませんわ」

 レティシアは静かに言った。

「殿下が、あなたで足りると仰ったのですもの」

 エミリアの唇がかすかに震える。

 アルベルトはそこで不機嫌そうに眉を寄せた。彼には、レティシアの落ち着きが理解できない。自分が正しい選択をしたのなら、相手は泣くか怒るかして、自分の優位を明確に示させるべきだったのだ。こうもあっさり受け入れられると、むしろ自分が軽率な決断をしたように見えてしまう。

「……話は以上だ。諸君には、今後も王家への変わらぬ忠誠を期待する」

 締めとしてはあまりにも拙い言葉だった。

 本来であれば、婚約解消に伴う公爵家への配慮、王国への影響を抑えるための補足、諸家に対する体裁を保つ表現が必要だ。だがアルベルトはそこまで頭が回らない。エミリアを手に入れた高揚と、自らの理想を掲げた満足感だけでこの場を押し切ろうとしている。

 大広間のあちこちで、視線と言葉にならない計算が行き交う。

 南部侯爵は無表情にグラスを傾け、西方伯の夫人は扇で口元を隠し、宰相補佐の老貴族は目を細めたまま黙って成り行きを見つめていた。公爵家当主であるレティシアの父もその場にいたが、王太子の宣言があまりに唐突で、即座に異議を唱える余地を奪われている。

 その中で、レティシアだけが一歩退き、もう自分の役目を終えた者のように佇んでいた。

 舞踏会の空気は完全に変質していた。

 祝祭の夜は続くはずだったのに、誰も先ほどまでと同じ顔ではいられない。王太子が選んだのは、愛らしく人好きのする妹。切り捨てられたのは、優秀だが冷たいと評される姉。表面だけを見れば、いかにも物語としてはわかりやすい。

 けれどこの場にいる者のうち、少なくとも年長の貴族たちは理解していた。

 今夜、婚約が解消されたのではない。

 何かもっと厄介で、もっと重大な歯車が外されたのだと。

 クラリスがいつの間にかレティシアのすぐ傍まで来ていた。彼女は顔を青くしながらも、必死に声を潜める。

「レティシア、あなた……」

「騒がないで。いま私が取り乱せば、殿下のお言葉を正当化してしまうわ」

「でも……っ」

「大丈夫」

 その“大丈夫”が、何に対するものなのか、クラリスにはわからなかった。

 自分自身に言い聞かせているのか。友に向けた慰めなのか。あるいは、これから起こることを静かに見通している者の断定なのか。

 レティシアは広間の中央をもう一度見た。

 アルベルトはなおも自分の発表の意義を周囲に理解させようとしている。エミリアは彼の隣で不安げに微笑み続けている。そこには眩しさがあった。若く、美しく、そして何より「見栄えがいい」。

 それは確かに、舞台の中央に立つ者としては魅力的だろう。

 だが国というものは、拍手と笑顔だけで回るほど軽くない。

 レティシアは胸の内で、長年積み上げてきたものの名を順に思い浮かべた。

 春の祭礼に合わせて南部から届く葡萄酒の納入計画。

 西方の伯爵家と東方の侯爵家が同じ席にならないよう調整した名簿。

 喪中の家への贈り物の時期。

 辺境に回すはずだった追加予算の根回し。

 治水補修のために保留している稟議。

 王都に入る穀物価格の変動。

 来月の叙任式で顔を立てねばならない老騎士の名。

 秋に予定される王家主催の大巡幸に必要な宿駅の整備。

 そのどれ一つとして、この場では輝かない。

 だからこそ、誰も重さを知らない。

「お姉様」

 再びエミリアの声が届いた。先ほどより小さく、先ほどより心細い。

 レティシアは今度こそ妹へまっすぐ向き直る。

 エミリアの瞳には涙が浮かんでいた。けれどその涙の意味を、レティシアは厳密に測らない。罪悪感なのか、恐れなのか、それとも勝者であり続けたい焦りなのか。今ここでそれを見極めても仕方がない。

「どうぞ、お幸せに」

 レティシアはただそれだけを告げた。

 祝福にも、訣別にも聞こえる言葉だった。

 それから彼女はゆっくりと身を翻し、大広間の出口へ向かって歩き出す。誰も止められない。誰も、どう止めていいかわからない。

 その背は少しも震えていなかった。

 高い天井の下、数え切れぬ視線を受けながら、それでも彼女は最後まで美しく歩いた。敗者の退場ではない。役目を終えた者の、あまりにも静かな離脱だった。

 大扉の前まで来たところで、彼女は一度だけ立ち止まる。

 振り返りはしない。

 ただ、側に控えていた王城侍従長へ向けて、澄んだ声で告げた。

「明朝、私が預かっております関連書類一式を整理のうえ、正式に引き渡します。立ち会い人の手配をお願いいたします」

 侍従長は目を見開き、それから深く頭を垂れた。

「……承知いたしました、レティシア様」

 そのやり取りの意味を理解した者たちが、また顔色を変える。

 本当に譲るのだ。

 本当に手放すのだ。

 しかも感情に任せて投げ捨てるのではなく、完璧な手続きのもとで。

 レティシアはそのまま大広間を出た。

 扉が閉まる直前、内側から再びざわめきが膨らむのが聞こえた。誰かがアルベルトへ何かを進言し、誰かがエミリアを慰め、誰かがもう次の派閥計算を始めている。

 それらはすべて、閉じた扉の向こうへ遠ざかっていく。

 夜の回廊は広間よりずっと静かだった。窓の外には春の月が白く浮かび、磨かれた床に淡い光を落としている。人払いの行き届いたその場所で、レティシアはようやく小さく息を吐いた。

 涙は出なかった。

 悲しくないわけではない。長年を費やしてきたものを、あまりに軽く「妹で足りる」と言われたのだ。怒りがないはずもない。だが、それ以上に胸の奥にあるのは、妙に澄んだ感覚だった。

 ああ、と思う。

 これでようやく、終わるのだと。

 あるいは、始まるのだと。

 背後から慌ただしい足音が近づいてくる。きっとクラリスか、あるいは公爵家の侍従だろう。今夜のうちに父との話し合いもあるに違いない。王家との体裁、公爵家の立場、今後の処遇――決めねばならないことは山ほどある。

 だが少なくとも一つだけ、レティシアははっきり理解していた。

 アルベルトは、自分が何を切り捨てたのかをわかっていない。

 エミリアもまた、自分が何を受け取ろうとしているのかを知らない。

 そしてその無理解は、今夜この瞬間から、必ず形になって現れる。

 目には見えずとも、王国は多くの細い糸で支えられている。祭礼の順番、税の調整、諸侯の面目、補給の遅れを補うわずかな手当て、表に出ない書簡の一文。そういうものが積み重なって、ようやく一つの国は安定して立っている。

 それを、彼らは「妹で足りる」と言った。

 ならば本当に、譲ろう。

 何もかも。

 回廊の先に差し込む月光の中で、レティシアはわずかに唇を上げた。

 それは悔しさに歪んだ笑みではない。

 諦めの笑みでもない。

 静かに刃を納めた者だけが浮かべることのできる、あまりにも穏やかな微笑だった。

「かしこまりました」

 誰に聞かせるでもなく、レティシアはもう一度だけ、夜の静けさに向かってそう呟く。

「では、すべて妹にお譲りいたします」

 その声は柔らかく、どこまでも穏やかで――だからこそ、ひどく冷たかった。

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第1話 王城の舞踏会、婚約破棄宣言
 王都ルーメルンの夜は、いつだって光に満ちている。 とりわけ王城の大広間が舞踏会のために開かれる夜ともなれば、その輝きは一段と凄まじかった。高く掲げられた幾重ものシャンデリアは星を封じ込めたように眩く、磨き抜かれた白大理石の床は光を受けて鏡のようにきらめいている。金糸で縁取られた深紅の絨毯、壁一面に飾られた歴代国王の肖像画、花瓶からあふれんばかりに活けられた季節の白薔薇。芳香は甘すぎず、けれど確かに上質で、そこに集う貴族たちの衣擦れの音さえ一種の音楽のようだった。 この夜は、春季叙勲と王太子臨席を兼ねた大舞踏会である。 国中の有力貴族はもちろん、大商会の長、地方領主の嫡子、騎士団幹部、王家に連なる遠縁の者までが一堂に会していた。笑顔、挨拶、扇の陰で交わされる視線、薄く差し挟まれる牽制。ここは祝祭の場であると同時に、王国の勢力図が最も美しく、そして最も露骨に浮かび上がる戦場でもある。 公爵令嬢レティシア・エーヴェルシュタインは、その戦場の中央から半歩だけ引いた場所に立っていた。 決して目立つ色ではない、夜空を思わせる濃紺のドレス。胸元と袖口に施された銀糸の刺繍は控えめながら精緻で、彼女の白い肌と、結い上げられた淡い金髪を端正に引き立てている。宝石も最低限だ。喧しく自己主張することなく、ただ「場にふさわしい」と誰もが認めるだけの品位を備えている。 彼女の周囲では、侍女や給仕たちが淀みなく動いていた。 その動きが滑らかであるのは偶然ではない。壁際に置かれた花の位置ひとつ、奏者の休憩に合わせた酒の差し替えひとつ、地方伯爵家の老夫人が長く立ち続けないように椅子を増やしておく配慮ひとつ――そうした細部は、ほとんどレティシアの目配せで整えられていた。 大広間の入口近くで、若い侍従が一瞬だけ困ったように立ち止まる。新たに到着した南方の侯爵夫妻をどの列に案内すべきか迷ったのだろう。レティシアはそれを視界の端で捉え、わずかに扇子を傾けた。すると傍らの侍女がすぐに動き、侯爵夫妻を西側の席へと導く。そこなら先に着いている親族とも派閥上の利害衝突が起きず、しかも王太子から遠すぎない。 何事もなかったかのように収まる。 それがレティシアの日常だった。「相変わらず、見ているだけで息が詰まりそうなほど完璧ですわね」 隣に立った声に、レティシアはゆるやかに視線を向けた。 
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第2話 譲渡
 舞踏会の翌朝、王都はよく晴れていた。 夜の騒ぎなど初めから存在しなかったかのように、王城の尖塔は朝日に白く輝き、宮廷庭園の噴水は規則正しく水を噴き上げている。けれどその穏やかさは、薄氷の上に置かれた銀盆のようなものだった。見た目は美しくとも、下では確かにひびが広がっている。 レティシア・エーヴェルシュタインは、いつもと変わらぬ時刻に目を覚ました。 侍女が寝台の天蓋を静かに開ける。朝の光が差し込み、白いカーテンがわずかに揺れた。寝起きの重さも、泣きはらした目の痛みもない。昨夜はほとんど眠れなかったはずだが、不思議と頭は冴えていた。「おはようございます、お嬢様」 長年仕える侍女のマルタが、珍しく声を震わせて言った。 彼女は五十を越えた女で、普段はどんな騒ぎにも眉一つ動かさない。そんな彼女が、今朝ばかりは顔色を失っている。「おはよう、マルタ」 レティシアは体を起こしながら答えた。「お加減はいかがですか。昨夜は……その……」「ええ、よく眠れたわ」 嘘だった。だが、いま侍女に必要なのは主人の真実の弱音ではなく、平静だった。 マルタは何か言いかけ、結局口をつぐんだ。代わりに洗面の水を整える手つきが、いつもよりほんのわずかに硬い。 レティシアは鏡の前に座った。鏡の中には、いつもの自分がいた。淡い金髪、冷静に見える薄青の瞳、端正すぎるとまで言われる整った顔立ち。昨夜あれほど多くの視線に晒され、婚約破棄という言葉を浴びせられた女の顔としては、あまりに何事もなさすぎた。 だが胸の奥に沈んだものが消えたわけではない。 ただ、それを外にこぼしても意味がないと知っているだけだ。「王城からの使いは?」 髪を梳かれながら、レティシアは尋ねた。「……もう、来ております」「早いのね」「夜明けとほとんど同時でした。侍従長閣下からで、引き継ぎの件につき、本日中の立ち会いをとのことです」 当然だろう。 昨夜、あれだけの公衆の面前で婚約解消を宣言した以上、王家としても後には引けない。むしろ早急に事務処理を進めなければ、噂は際限なく広がる。いや、もう広がっているだろうが、形だけでも「整った手続きの末の円満な解消」に見せかけねばならない。「お父様は?」「すでにお目覚めでございます。閣下は夜半まで書斎においでで……奥様も、今朝は随分お早くから」 家中が眠れぬ夜
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第3話 家族の温度差
王都の午後は、よく磨かれた硝子のように静かだった。 だがエーヴェルシュタイン公爵邸の中庭には、その静けさとは別の緊張が満ちていた。風が花壇の白百合を揺らしても、窓辺に立つ使用人たちの表情は固いままだ。主人家の長女が一夜で王太子の婚約者の座を失い、そのうえ自ら膨大な引き継ぎを済ませた――そんな事態を前にして、平穏でいられる家人など一人もいない。 レティシア・エーヴェルシュタインは、午後も引き続き書庫で作業を続けていた。 先ほどまで整理していた王城関係の目録は片づき、今度は北方辺境の旧所領に関する地図、地代の記録、過去の補修願い、井戸と水路の修繕履歴、砦の兵数推移、街道破損の報告などが机の上に広げられている。まだ正式に「行け」と命じられたわけではない。だが、王太子の婚約者でなくなった以上、王都の中心に彼女の椅子は残らない。ならば、次に自分が置かれる場所を先に把握しておくしかない。 古い羊皮紙の地図には、王国最北端に近い寒村と砦の名が並んでいた。いくつかの村には赤い印があり、そこには「冬季税収減」「流民増加」「魔獣被害」「橋梁老朽化」と書き込まれている。記録は三年前で途絶えているものも多い。つまり、王都からの関心そのものが薄れて久しいのだ。「お嬢様」 ルイスが新しい帳面を運んできた。「こちらは旧所領の収支報告でございます。ただ、数字がかなり荒く……」「見ればわかるわ。おそらく、現地の書記の手が足りていないのでしょう」 ぱらりと頁をめくるだけで、レティシアにはいくつもの異常が見えた。徴税額の変動が季節要因と合わない。鉱山関連の支出だけが不自然に増えている。兵糧の名目で計上された穀物量と、実際の人口規模が釣り合わない。横流し、あるいは中抜きの匂いがした。「……ひどいわね」 誰に聞かせるでもなく呟くと、ルイスが不安げに顔を曇らせる。「辺境とは、皆こういうものなのでしょうか」「いいえ。辺境だから荒いのではなく、荒くても誰も咎めなかったのでしょう」 そこまで言ったところで、書庫の扉が開いた。 入ってきたのは母、ヴィクトリアだった。 薄紫の昼用ドレスに身を包み、髪も化粧も完璧に整っている。外から見れば、朝と変わらぬ高位貴族夫人だ。だが近くで見ると、目元には疲れがあり、口許には抑え込みきれない苛立ちが刻まれている。「少し、二人きりで話せるかしら」 
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第4話 辺境へ
出立の朝、王都には薄い霧が降りていた。 春も半ばに差しかかっているというのに、夜明け前の空気はまだ冷たい。石畳の上にうっすらと滲んだ湿り気が、屋敷の正門前に並ぶ馬車の車輪を鈍く濡らしていた。 エーヴェルシュタイン公爵家の者たちは皆、表向きは静かな顔をしていた。 だが、その静けさの下にあるものが平穏でないことくらい、誰の目にも明らかだった。 レティシア・エーヴェルシュタインの辺境行きは、正式には「旧所領視察および静養」とされた。王城からも、それに異を唱える言葉は来ていない。むしろ都合が良かったのだろう。王太子婚約解消の余波が王都でさらに広がる前に、当の本人が自ら表舞台から退いてくれるのだから。 けれど、屋敷の前に並ぶ荷馬車の数は、いかにも「静養」にしては多かった。 衣装箱は最小限だ。だが代わりに、帳簿箱、地図箱、封書箱、古い契約書の控えを納めた箱がいくつも積まれている。旅装の侍女たちよりも、書記官と執事補佐の顔ぶれの方が多い。およそ傷心の令嬢が遠地へ休みに行く姿ではなかった。「お嬢様、こちらの箱は最後尾へ積ませました」 老執事のハルトマンが、厳しい顔のまま報告した。白髪の混じった髪を撫でつけ、何十年も公爵家に仕えてきた男である。普段は滅多に感情を表へ出さないが、今朝ばかりは声の奥に固いものがあった。「ありがとう。地図箱は?」「二台目の馬車に。いつでも取り出せるようにしております」「ええ。それで良いわ」 レティシアは旅用の濃紺の外套を肩に掛けたまま頷いた。装いは簡素だが、その簡素さもまた上質で、かえって彼女の育ちを際立たせている。腰まで届く淡い金髪は普段よりきつく編み上げられ、揺れにくいようにまとめられていた。王都の舞踏会に立つ令嬢ではなく、長旅に備える者の身支度だ。 門前には父クラウス、母ヴィクトリア、そしてエミリアの姿もあった。 別れの場としてはひどく簡素である。大仰な涙も、大勢の見送りもない。王都の有力者たちはあえて姿を見せなかったし、公爵家もまた、それを望まなかった。ここで誰かが情の深い芝居をすればするほど、王都での噂に余計な餌を与えることになる。 それでも、家族の間に流れるものまで消せるわけではない。「準備は整ったようだな」 父が言う。「はい、お父様」「現地へ入るまでは、お前の立場はあくまで旧所領視察の代理だ。だが着いて
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第5話 荒れ果てた領地
北へ向かう旅は、日を追うごとに色を失っていった。 王都近郊ではやわらかく揺れていた春の緑は、街道を北上するにつれて背を低くし、やがて風に耐えるためだけに地面へ張りつくような草へ変わる。空はどこまでも高いのに、景色そのものは逆に狭く、寒々しくなっていくようだった。 旅程の三日目を越えたころから、道は目に見えて悪くなった。 石畳は途切れがちになり、かわりに固く締まった土道が続く。だがその土も、轍の深い場所では雨の名残をいつまでも抱え込み、乾ききれぬ泥となって馬車の車輪を鈍らせていた。側溝はあるにはあるが、途中で崩れ、流れを失ってぬかるみに変わっている箇所が多い。 レティシア・エーヴェルシュタインは、相変わらず窓辺に座って外を見ていた。 ただ景色を眺めているのではない。畑の耕され方、放棄された土地の面積、道端の柵の傷み具合、すれ違う旅人の数、馬の痩せ具合、荷馬車の積み荷の種類――そういったものを、彼女は一つずつ目に入れていた。「お嬢様」 向かいに座るマルタが、そっと膝掛けを整える。「本日は風が強うございます。窓を閉められては」「もう少しだけ」 閉めてしまえば、外の匂いがわからない。 乾いた草の匂い。土が湿気を含んだまま冷えている匂い。家畜の数が少ない村特有の、薄く頼りない生活の匂い。そうしたものもまた、言葉のない報告書だった。 同行している老執事ハルトマンは、今朝からほとんど無言である。北へ来るほど護衛たちの顔つきも固くなっていた。辺境へ近づくにつれ、単に道が荒れるだけではないことを、彼らも肌で察しているのだろう。 昼近く、一行は小さな村を通った。 村といっても、十数軒の石と木の家が寄り集まっただけの寒村だ。井戸の周りには人影が少なく、畑の端では老人と子供だけが土をいじっている。働き盛りの男たちの姿が見えにくい。徴兵か、流出か、あるいはもっと別の理由か。 レティシアは馬車の速度を少し落とさせ、村の入口で立つ古い標柱を見た。 字がかすれ、片側が折れている。領内標識の補修すら長く行われていない。「……ここも」 小さく漏らすと、ルイスが慌てて紙を探す。「書き留めましょうか、お嬢様」「いいえ、まだいいわ。あまりに多すぎるもの」 それは半ば皮肉だった。 記録しようと思えば、目に入るものすべてが書き留めるべき対象になる。そのくらい、荒廃は
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第6話 一日で見抜く
 翌朝、辺境の空はひどく澄んでいた。 王都の朝の光は、人の手で整えられた庭や石壁の上に柔らかく落ちる。だがこの地の朝日は、もっと容赦がない。冷え切った石壁を真っ直ぐに照らし、凍りついていた地面の輪郭をはっきりと浮かび上がらせる。美しいというより、隠しようがない光だった。 レティシア・エーヴェルシュタインは、夜明けとほぼ同時に目を覚ました。 辺境の砦での最初の夜は、静かではあったが快適とは言い難かった。暖炉の火は途中で弱くなり、石壁の向こうを吹く風の音が何度も眠りを浅くした。それでも彼女は寝不足の気配を表に出さない。起きるべき時間に起き、必要な支度を済ませ、机の上に昨夜まとめた所見をもう一度読み返した。 そこへマルタが湯気の立つ湯盆を運び込む。「おはようございます、お嬢様」「おはよう、マルタ」「朝食の支度は整っております。……それから、総司令殿がすでに中庭においでだそうです」 レティシアは小さく眉を上げた。「早いのね」「お嬢様ほどではございません」 マルタがそう返すと、レティシアはほんの少しだけ微笑んだ。 昨夜の時点でわかっていたことだが、ディルク・ヴァルゼンという男は、少なくとも現場を軽んじる人間ではない。王都から来た令嬢に疑いを向けつつも、自分は誰より早く動いている。その在り方は、敵に回せば厄介だが、味方であれば頼もしい。 簡素な朝食を済ませて中庭へ出ると、ディルクはすでに数名の兵と短く言葉を交わしていた。昨夜と同じ簡素な軍装だが、今朝はさらに剣帯まで締めている。彼はレティシアに気づくと一礼した。「おはようございます」「おはようございます、ヴァルゼン卿」「昨夜はお休みになれましたか」「十分に」 それが完全な真実ではないことは、たぶん互いに承知の上だった。 ディルクは回りくどい前置きを
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第7話 最初の敵は内部の腐敗
 辺境の朝は、決断を先延ばしにさせない。 夜の間に凍りかけた地面が、陽が差すと同時にぬかるみに変わり、兵も荷も人も、それぞれの持ち場へ追い立てられる。王都のように、遅れて始まる優雅な朝などここにはない。動かなければ、その日の暮らしそのものが崩れるのだ。 レティシア・エーヴェルシュタインが客間を出た時には、すでに中庭には慌ただしい気配が満ちていた。 昨日命じた在庫再点検が始まっており、兵たちが主倉庫と補助倉庫を行き来している。木箱を運ぶ音、帳簿の頁をめくる音、兵の怒鳴り声と、それに交じる言い訳めいた声。普段なら朝靄の中へ溶けて消えるはずのざわめきが、今日ははっきりと不穏な輪郭を持っていた。 中庭の中央では、ディルク・ヴァルゼンが数名の兵に指示を飛ばしていた。「第三倉庫の封を確認しろ。立ち会いは二名。帳簿は必ずその場で照合だ」 短く、無駄のない命令だ。 彼はレティシアに気づくとすぐ歩み寄ってきた。「おはようございます」「おはようございます。ずいぶん早いのね」「逃げる者が出る前に動かねばなりませんので」 その一言に、レティシアは目を細めた。「もう出たの?」「ええ」 ディルクは声を落とした。「昨夜のうちに、主倉庫付きの番長が一人、姿を消しました」 やはり、とレティシアは思う。 倉庫の数字を見た時点で、帳簿だけでは終わらないとわかっていた。末端だけが勝手にできる隠し方ではなかったし、もし末端だけがやっていたとしても、露見の気配を感じた時に真っ先に動くのは、責任を押しつけられやすい者だ。「名前は?」「ザイド。十年以上この砦で倉庫を任されていた男です」「家族は」「町に妻子がいる」「なら、遠くへは行かないわね」 レティシアはすぐに言っ
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第8話 最初の危機
 腐敗を暴いた翌朝、辺境の空気は昨日までとは明らかに違っていた。 人は、何かが変わると知った瞬間に二つに分かれる。 逃げる者と、期待する者だ。 砦の中庭では、倉庫番長ザイドの拘束と代官・会計役・鉱山監督役の取り調べが続いていた。兵たちは昨日までより幾分きびきびと動いている。炊事場では塩と穀の配分が見直され、井戸では色分けした桶の準備が始まっていた。どれもまだ小さな変化でしかない。だが、小さな変化は、それ自体がひとつの宣言になる。 ――もう、この地は昨日までのままではいない。 その空気を、領民たちも敏感に嗅ぎ取っていた。 朝、レティシア・エーヴェルシュタインが中庭へ出ると、昨日名を名乗った若い兵エルンが、いつになく真っ直ぐな目で敬礼をした。「おはようございます、閣下」 閣下。 昨日までは、まだ「お嬢様」でも「令嬢様」でもおかしくなかった呼び方が、もう一段変わっている。 レティシアはそれを大げさに受け止めず、静かに頷いた。「おはよう、エルン。井戸の方はどう?」「色分け桶の用意が終わりました。兵たちも、思ったより文句は出ておりません」「そう。良かったわ」 兵は、意味のある改善なら意外と素直に受け入れる。逆に、理由の見えない命令にはひどく反発する。昨日からの短い観察だけでも、それはもう見えていた。 その時、城壁の上から鋭い呼び声が響いた。「総司令! 北西の谷筋から伝令です!」 空気が変わる。 ディルク・ヴァルゼンが即座に顔を上げ、レティシアも反射的にそちらを向いた。 城壁の階段を駆け下りてきた兵は息を切らせ、だが報告だけははっきりと告げた。「雪解け水が増えています! 旧水路の上流、第三分岐の堰が持ちません! 下流のリュンデル村が危ないと!」 中庭の空気が一気に張り詰めた。
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第9話 泥の中の領主
 翌朝、砦の中庭にはまだ夜の冷えが残っていた。 だが空気そのものは、昨日までと明らかに違っていた。寒さは同じだ。風も同じように石壁を鳴らし、空も相変わらず北方らしく高く薄い。なのに、そこに立つ人々の目だけが変わっている。 希望と呼ぶにはまだ早い。 けれど、諦めだけではない目になっていた。 まだ夜明けの色が残るうちから、兵たちは中庭に集まり始めていた。 志願して補修へ向かう者。 仮堰の強化に必要な土嚢を詰める者。 炊事場の手を借りて、高台へ残る村人のための粥を用意する者。 昨日の一件は、単なる水害対処では終わっていない。 砦全体へ、「いま動けば本当に変わるかもしれない」という感覚を残したのだ。 レティシア・エーヴェルシュタインが中庭へ出ると、昨日よりさらに多くの視線が彼女へ向いた。 遠慮がちなものもある。 測るようなものもある。 だが、もはや軽んじる目ではない。「おはようございます、閣下」 最初に声をかけたのはエルンだった。 その後ろにも何人かの若い兵がいる。誰もが昨日の泥を落としたばかりの顔をしていたが、寝不足の割に表情は明るい。「おはよう。補修へ行くのね」「はい。日が高くなる前に、昨日の仮列をもう一段固めます」 レティシアは頷いた。「朝食は?」「これからです」「なら、食べてから行きなさい」 兵たちが一瞬戸惑う。 早く行きたい気持ちと、言われた通りにした方がいいという理解の間で揺れているのだろう。 レティシアは続けた。「空腹で力仕事をしても、途中で倒れるだけよ。特に今日は、昨日の疲れが残っている。温かいものを入れてから動いて」 そこへディルク・ヴァルゼンが現れた。 今朝はすでに旅装に近い外套を羽織っている。補修現場へ向
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第10話 初めての喝采
 リュンデル村の補修が本格的に動き出して三日目の朝、辺境にはようやく、危機を越えたあとの静けさが訪れつつあった。 もちろん、何もかもが元通りになったわけではない。 仮堰はまだ仮のままだ。 牛舎も完全には立て直せていない。 泥をかぶった畑は水を抜きながら様子を見る段階で、損失の全容すらまだ見切れていない。 それでも、最初の数日間に漂っていた「今にも何かが崩れる」緊張は、少しずつ形を変え始めていた。いまの空気は、崩壊寸前の怯えではない。疲れながらも、自分たちで復旧しているという実感の重さだ。 それは領地にとって、非常に大きな違いだった。 朝の砦の中庭では、いつものように兵と下働きたちが忙しく動いている。だがその動きには、これまでの惰性とは別の芯が通っていた。誰かに怒鳴られて無理やり働いているのではなく、自分たちがやるべきことを理解した者の足取りになりつつある。 井戸の前では、昨日までぎこちなかった色分け桶の運用が、今日はほとんど自然に回っている。兵舎側へ運ばれる水、食堂へ運ばれる水、厩舎用の水が混ざらなくなったことで、朝の混乱も明らかに減っていた。炊事場からは、薄いながらも温かな粥の匂いが立ちのぼり、仮設の荷受け場には、街道補修へ向かう者たちのための道具が整理されて並べられている。 レティシア・エーヴェルシュタインは、その様子を中庭の回廊から静かに見ていた。 後ろにはマルタが控え、少し離れたところでルイスが朝の記録帳を抱えている。「随分と変わりましたね」 ルイスがしみじみと呟く。 辺境へ来たばかりの頃、彼はここを「荒れている」としか見ていなかった。だが今は、荒れていた場所がどう変わっているのかを少しずつ見分けられるようになっている。「そうね」 レティシアは頷く。「大きく変わったわけではないけれど、“何をどこへ動かすか”が見え始めたのは大きいわ」「兵たちも、昨日まで
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