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19 Chapters

第11話

篠崎家が手を引いたのを境に、藤宮家の会社は大口の仕事を立て続けに失った。資金繰りはみるみる厳しくなり、支払いが滞り始めると、仕入れ先からの催促も重なる。以前のように事業を回していくことさえ、次第に難しくなっていった。美沙子は知人を頼って方々に頭を下げたが、騒ぎを知る人々はひとり、またひとりと距離を置いた。玲奈もまた噂の的となり、それまで親しくしていた人たちから連絡が途絶えていく。それでも、颯真の胸が晴れることはなかった。澪の行方を追っても、携帯番号はすでに解約され、大学にも行き先を知る者はいない。どこを辿っても手がかりはなく、澪につながるものだけが、きれいに途切れていた。大学でようやく分かったのは、海外の大学院へ進む手続きをしていたことだけだった。進学先については本人の個人情報にあたるため答えられないと告げられ、颯真は返す言葉もないまま廊下に残された。傾きかけた陽が窓から差し込み、足元に長い影を落としている。それを見つめているうちに、何年も前の夏の夜がふいに蘇った。階段の踊り場で泣いていた澪を見つけ、腕の中へ抱き寄せた夜。「いつか颯真まで、私をお姉ちゃんと間違えたらどうしよう」怯える澪に、あのときの自分は迷いなく答えた。「そんなことない。澪、俺だけは絶対にお前を間違えない」見分けられなかったのではない。いつの間にか、見分けようとさえしなくなっていた。颯真は壁に背を預け、ゆっくり目を閉じた。……澪がロンドン・ヒースロー空港へ着いた頃、空はようやく白み始めていた。スーツケースを引いてターミナルを出ると、冷たい朝の空気が頬を撫で、長い移動で重たかった頭も少しずつ冴えていく。由紀子からは、迎えを手配してあると聞いていた。指定された出口でしばらく待っていると、シルバーグレーのアストンマーティンが滑るように近づき、澪の前で静かに止まった。やがて窓が下がり、運転席から若い男性が顔を覗かせる。整った顔立ちに、どこか笑みを含んだ目元。黒いコートを無造作に羽織っているのに、不思議とだらしなくは見えない。「藤宮澪さんですか?」澪が頷くと、男性は口元に笑みを浮かべた。「久我朔也(くが さくや)。祖母に迎えを頼まれたんだ。乗って」そう言って車を降りると、澪のスーツケースを受け取り、軽々とトランクへ収めた。
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第12話

名刺には「久我朔也」と、その下に電話番号が印字されていた。「ありがとう」「いいって」朔也は軽く手を振ると、そのまま玄関へ向かった。「今日はもうゆっくり休んだほうがいい。明日は大学まで案内するから」扉が閉まり、階段を下りていく足音が遠ざかるにつれて、部屋には静けさが戻ってきた。澪は窓辺へ寄り、そっと窓を開ける。白み始めた空の向こうに、ロンドン・アイの輪郭が淡く浮かんでいた。しばらく眺めたあと、スマホを取り出してイギリスのSIMカードへ入れ替える。これまで使っていたカードを指先につまみ、ほんの少しだけ目を留めてから、そのままゴミ箱へ落とした。振り返って惜しむものは、もう何もなかった。大学院での生活が始まり、しばらく経つ頃には、澪はロンドンでの暮らしにもすっかり馴染んでいた。朝早く家を出て、戻るのは夜遅く。研究に打ち込む姿勢を由紀子にも買われ、早くも研究プロジェクトの一員として加わっていた。ある夕暮れ、澪は自習室の3階、窓際の席で文献を整理していた。灰青色の空の下では、テムズ川が静かに流れている。ページへ視線を落としていると、向かいの椅子が不意に引かれた。顔を上げれば、朔也が頬杖をつき、楽しそうにこちらを見ている。「どうしてここにいるの?」「ちょっと資料を調べに」朔也は机の上のノートパソコンを指先で示した。「論文を1本、見直さないといけなくてさ」そう言って画面を開いてみせたものの、そこに映っていたのは真っ白な文書だった。澪はひと目だけ見て、何も言わずに本へ視線を戻す。しばらくすると、案の定、朔也は落ち着きをなくした。スマホを眺めていたかと思えば、今度は窓の外へ目をやり、とうとう机に顎をのせて横から澪を眺め始める。「澪って、よくそんなに集中してられるな。俺が来る前から、ずっといるだろ。ほとんど席も立ってないし」澪は顔を上げないまま答えた。「やることがあるから」「俺もちゃんとやってるって」そう言って、朔也は真っ白な画面を指す。「まだ頭の中で構成を練ってるところ」あまりに平然と言うものだから、澪はようやく顔を上げ、わずかに口元を綻ばせた。ほんの一瞬の変化を、朔也は見逃さなかった。ぱっと身を起こし、目を細める。「今、笑っただろ。初めて見た。てっきり笑わない人かと思っ
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第13話

「ディベートもするの?」意外そうに顔を上げた澪へ、朔也はいつもの調子で笑った。「するよ。せっかくこれだけ口が回るんだから、使わないともったいないだろ。それに、うちのチームメイトが家庭の事情でまだ戻ってなくてさ。ちょうど困ってるんだ。澪、やってみない?」少し考えた末、澪は静かに頷く。ところが、いざ練習を始めてみれば、朔也の予想はあっさり覆された。最初の模擬討論で社会学に関する論点をひとつ投げかけると、澪はほとんど間を置かず、いくつもの角度から論の隙を拾い上げ、最後には逆の立場から見た弱点まで示してみせる。書き込みで埋まったノートをしばらく眺めていた朔也は、やがて観念したように表紙を閉じた。「……俺、いらなくない?」「自分で誘っておいて、それ言うの?」淡々と返され、朔也は苦笑しながら肩をすくめる。「いや、確かに言ったけどさ」そうして再び向かいの席へ腰を落ち着け、何度も想定問答を重ねていく。やがて、ふと気になったように朔也が口を開いた。「その実力なら、こっちへ来る前でもかなり戦えただろ。どうして大会に出なかったの?」資料をめくっていた澪の指先が、わずかに止まる。以前はどれだけ努力しても、自分が目立てば、その成果は最後には玲奈のものにされてきた。けれど、そんな話を朔也にする気にはなれなかった。「前は、そこまで興味がなかったから」さらりと答えると、朔也は一度だけ澪の顔を見たものの、それ以上は踏み込まない。ただ、その日から彼はほとんど毎日のように自習室へ現れるようになった。澪が資料を調べているあいだは対戦相手の過去の映像を見返し、論点がまとまれば、その場で攻防を重ねる。いつしか、同じ机を挟んで過ごす時間は、ごく自然な日課になっていった。ある夜などは模擬討論に熱が入り、気づけば自習室には二人しか残っていなかった。眠気に抗いきれなくなった澪は、とうとう机に伏したまま眠りに落ちる。しばらくして目を覚ますと、肩には見覚えのある黒い上着。隣へ視線を向ければ、朔也がイヤホンをつけたまま対戦相手の試合映像を追い、時折ノートへペンを走らせている。いつもの軽口ばかりの姿とは違い、その横顔には思いのほか真剣な色が宿っていた。そんな一面が少し可笑しくて、澪の口元がふっと緩む。その気配に気づいたのか、朔也はすぐ顔を上げ、イヤホンを
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第14話

澪は差し出された画面をひと目見ただけで、焼けた肉を箸に取った。「じゃあ、返しておいて。『研究が恋人です』って」一瞬きょとんとした朔也は、次の瞬間には椅子の背にもたれたまま声を上げて笑い、周りの仲間まで何事かと振り返った。「澪、ほんと面白いな」笑いながら目元を拭う朔也には答えず、澪は焼き台の牛タンを裏返す。脂のはぜる音とともに香ばしい匂いが立ち、店内には仲間たちの笑い声が絶えず響いていた。最優秀ディベーターに選ばれたのは自分で、浴びている称賛も自分のものだ。もう二度と、同じ顔をしているというだけで、自分のものを誰かに奪わせるつもりはなかった。大会の余韻がまだ残る数日後、澪はチームの仲間たちに誘われ、交流会へ顔を出すことになった。あまり気は進まなかったものの、何度も誘われては断りきれなかったのだ。会場は大学近くのバーの2階で、何人かの学生がソファを囲み、思い思いに話を弾ませていた。澪も端の席でジュースを手に、ときおり会話へ加わっていた。しばらくして、眼鏡をかけた男性がグラスを片手に近づいてくる。社会科学系の学術誌の編集者で、由紀子の研究に興味があるというので、澪も最初は研究の話に付き合った。けれど、話題は次第に学問から離れ、ロンドンでの住まいや一人暮らし、恋人の有無へと移っていく。やがて男の手が、さりげないふうを装って澪の肩へ伸びてきた。「藤宮さん、このあと、もう少し二人で話しませんか?」澪が距離を取り、断ろうとしたそのとき、背後から伸びた腕が椅子の背にかかる。「すみません。このあと彼女、予定があるんで」頭上から聞こえた気の抜けた声に振り返ると、いつの間にか朔也が立っていた。口元にはいつもの笑みが浮かんでいるのに、男へ向ける目だけは少しも笑っていない。その視線を受けた男は、伸ばしかけていた手を引っ込めると、「じゃあ、ごゆっくり」と気まずそうに笑い、人混みの中へ戻っていった。朔也は何事もなかったように澪の隣へ腰を下ろし、自分のグラスに水を注いだ。「澪、警戒心なさすぎ。ああいうの、もう少し早く気づけよ」「どうしてここにいるの?」「つけてきた」あまりに平然と言うので澪が目を向けると、朔也はすぐに笑った。「冗談。友達と飲んでたら、たまたま見えただけ」そう言って自分のグラスを澪のジュースへ軽く
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第15話

画面の中の澪は、颯真の知る澪とはまるで違っていた。記憶の中ではいつも静かで、自分から人前へ出ようとしなかった。そんな澪が壇上に立ち、これほど自然に人の視線を集めるのだと、颯真は考えたことさえなかった。秘書がタブレットの画面を示しながら続ける。「この動画は数日前に公開されたものですが、かなり拡散されています。大会記録や投稿元を辿ったところ、藤宮さんが今ロンドンにいることも確認できました」見慣れているはずなのに、どこか遠い人のように見える澪の顔から、颯真は目を離せなかった。長い沈黙のあと、ようやく口を開く。「ロンドン行きの航空券を取ってくれ」……颯真がロンドンへ着いた日は、冷たい雨が降っていた。空港を出ると、秘書が調べていた住所を頼りに、そのまま車で向かう。澪が通う自習室は古い赤煉瓦の建物の3階にあり、颯真は通りの向かいから明かりのついた窓を見上げた。傘の縁を伝う雨が足元を濡らしても、その場を離れずに待ち続ける。学生たちが何人も出入りする中、やがてガラス扉が開き、見覚えのある姿が現れた。アイボリーのコートに、風に揺れるプラチナブロンド。リュックを背負い、スマホへ目を落としながら迷いのない足取りで歩いてくる。その姿を目にした瞬間、颯真の胸が大きく脈打った。足早に距離を詰め、かすれた声で名前を呼ぶ。「澪」澪は足を止めた。顔を上げ、そこに颯真を認めても、その表情は揺れない。まるで道端で昔の知り合いに呼び止められ、礼儀として足を止めただけのようだった。その静かな目を前にすると、ここへ来るまで何度も考えていた言葉が、すべて消えてしまう。ようやく口にできたのは、ひと言だけだった。「迎えに来た。帰ろう、澪」澪は何も答えず、視線を外すと、その横を通り過ぎて歩き出した。颯真はすぐにあとを追い、手首へ伸ばしかけた手を、澪はわずかに身をずらして避ける。「澪、悪かった」声を落として謝っても、澪は足を止めない。「玲奈があんなつもりで俺に近づいてたなんて知らなかった。あいつが、あんな人間だとも思ってなかった」それでも返事はない。「でも、好きだったのはずっとお前だ。結婚したかったのもお前だけだ……一緒に帰ってくれないか」そこでようやく、澪は足を止めた。振り返った目が、まっすぐ颯真へ向け
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第16話

それからも颯真は、校舎の前や図書館の入口で澪を待つようになり、いつしか彼女がよく立ち寄るカフェまで知るようになっていた。初日のように焦って声をかけることはない。ただ少し離れたところから見つめ、ほんの一度でもこちらへ目を向けてくれるのを待つ。それでも澪は、そこに誰もいないかのように颯真の前を通り過ぎていく。数日後の夕方、自習室を出た澪は、また入口に立つ颯真の姿を見つけた。日暮れの早いロンドンでは、すでに街灯が灯っている。濃い灰色のコートの肩には細かな雨粒が残り、どれほど長くそこで待っていたのかは分からない。澪の姿に気づくと、颯真は静かに歩み寄り、手にしていた封筒を差し出した。「玲奈の判決文の写し。飲酒運転の事故と、お前に責任を押しつけた件で、懲役刑が言い渡された。おじさんたちの会社も、少し前に倒産してる」澪は封筒を受け取り、中の書類を数行だけ確かめると、すぐに元へ戻して颯真へ返す。「教えてくれてありがとう。でも、もう私には関係ないよ」その声には、怒りも恨みもなかった。責められるなら、まだ救いはある。恨まれるのでも構わない。何の感情も向けられず、澪の中から自分だけが切り離されていることのほうが、颯真にはずっと堪えた。手を伸ばせば届くほど近くにいるのに、今の澪はどうしようもなく遠い。なおも言葉を探していると、横から声がかかった。「澪、行こう。学食、そろそろ閉まる」いつの間にか、朔也がすぐそばまで来ている。澪の手から自然に本を受け取り、もう片方の手を肩へ軽く添えた。「すみません、ちょっと通してもらえます?これから飯なんで」颯真へ向ける口元には笑みがあるものの、目元は少しも笑っていない。颯真の視線が、澪の肩に添えられた朔也の手へ落ちる。それでも道を空けることができず、澪の顔を見つめた。せめて、ひと言だけでも。ひと目だけでも、こちらを見てほしい。けれど、澪は最後まで颯真へ視線を向けなかった。「行こう」朔也にそう告げ、そのまま颯真の脇を通り抜けていく。朔也も歩調を合わせ、少し先まで進んだところで一度だけ振り返った。その目には、隠す気のない牽制が滲んでいる。……週末の午後、澪はアパートで朔也と資料を整理していた。呼び鈴が鳴り、配達だろうと思ってパソコンを置き、玄関へ向かう。けれど扉を開け
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第17話

美沙子の顔色がさっと変わり、声も一気に尖った。「どうしてそんなに薄情なの!お父さんとお母さんは、こんな遠くまでわざわざあなたを捜しに来たのよ?昔のことは悪かったと思ってるけど、それでも実の親でしょう。親を見捨てて、何とも思わないの?」澪が口を開きかけたところへ、背後から伸びた手が扉の枠にかかる。振り返るまでもなく、朔也だった。入口に立つ和臣と美沙子へ視線を向け、いつものように穏やかに笑っているものの、目元にまで笑みは届いていない。「お二人が、澪のご両親ですか?」美沙子が戸惑うように眉を寄せる。「あなた、誰なの?」「ここの大家です」口調はあくまで丁寧なまま、朔也は続けた。「ここを借りているのは澪だけです。約束もなく来られたのでしたら、今日はお帰りください」「どうしてあなたにそんなこと言われなきゃいけないの。ここは娘が住んでる家よ」「だからですよ。俺が貸している部屋ですから」朔也は表情を崩さない。「それと、これ以上ここで騒ぐのはやめてください。帰っていただけないようなら、こちらも正式に対応します。必要なら弁護士にも相談しますので」和臣の顔から血の気が引き、まだ何か言おうとする美沙子の腕を引いた。「もう行こう」低く促され、美沙子は不満を残したまま背を向ける。二人がエレベーターへ乗り込み、扉が閉まる直前、美沙子はもう一度だけ澪を鋭く睨んだ。やがて廊下に静けさが戻ると、朔也は澪へ振り返った。「大丈夫?」澪は小さく頷き、息をつく。「ありがとう」「礼はいらないよ」向かいの壁へ軽く背を預けた朔也は、少しだけ首を傾げた。「でも、ひとつだけ気になった。ああいう親と一緒に、昔はどんなふうに暮らしてたんだ?」澪はすぐには答えず、しばらく黙っていた。やがてソファへ移って腰を下ろすと、朔也も向かいへ座る。急かすことなく待っている彼を前に、澪は静かに口を開いた。「私は、あの家ではあまり必要とされてなかったんだと思う。私と玲奈は双子で、お姉ちゃんが先に生まれたの。お姉ちゃんは元気だったけど、私は少し遅れて生まれて、体も弱くて、よく病気をしてた」美沙子から何度も聞かされた話を思い返すように、澪は続ける。「お母さんは、お姉ちゃんのときはすぐ生まれたのに、私のときはなかなか出てこなくて
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第18話

澪が話し終えても、朔也はすぐには何も言わなかった。しばらくして席を立つと、キッチンでぬるめの水をグラスに注ぎ、それを澪の前へ差し出す。「じゃあ、ロンドンに来たのは勉強のためだけじゃなくて、あの人たちから離れたかったのもあるってこと?」澪はグラスを受け取り、指先に伝わる温度を感じながら答えた。「それだけじゃないよ。ただ、自分らしく生きてみたかったの」その言葉を聞いた朔也は、澪の顔を見つめてふっと笑う。「だったら、もうできてるよ」顔を上げた澪と視線が重なる。朔也の目に浮かんでいるのは同情でも憐れみでもなく、今の澪をそのまま認めるような、まっすぐな眼差しだった。いつの間にか窓の外では雨も上がり、雲の切れ間から月明かりが差し込んでいる。澪もつられるように小さく笑い、静かに頷いた。「うん。そうだね」……その後も颯真はロンドンに留まり続けたが、澪が会おうとすることは一度もなかった。会えない日が続くにつれ、颯真は焦りを抑えきれなくなっていく。その夜、澪が自習室を出る頃には、もう日付が変わろうとしていた。晩秋のロンドンは冷え込み、澪はコートの前を合わせながら、一人で駐車場へ向かう。バッグの中で鍵を探していたせいで、少し離れたところに長く停まっていた車には気づかなかった。自分の車まであと少しというところで、横から人影が近づいてくる。気配に振り向くより早く、背後から伸びた手で口と鼻を塞がれた。湿った布が肌へ押し当てられ、鼻を刺す薬品の匂いが流れ込む。まずい――そう気づいたときには、すでに身体から力が抜け始めていた。視界が揺らぎ、そのまま意識が遠のいていく。やがて車は夜の街を抜け、郊外の専用飛行場へ向かって走っていた。眠ったままの澪を膝の上に抱えるようにして、颯真は額へ落ちた髪をそっと払う。「澪、俺を責めないでくれ。もう話を聞いてもらえないなら、こうするしかなかったんだ」低く呟く声は、澪に語りかけるというより、自分自身へ言い聞かせているようでもあった。「恨まれてもいい。それでも、お前には俺のそばにいてほしい」ところが、飛行場へ続く道に入ったところで、正面から強いヘッドライトが差し込んだ。運転手がとっさにハンドルを切り、車が道路を横切るように急停止する。その先には、シルバーグレーのスポー
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第19話

颯真は二人の警察官に地面から起こされ、そのまま後ろ手に手錠をかけられる。パトカーへ乗せられる間際、颯真は閉ざされた車のドアを振り返った。その向こうでは、澪がまだ眠り続け、外で何が起きているのかも知らない。諦めきれない思いと惨めさを目に滲ませたまま、颯真はパトカーのドアの向こうへ消えていく。その場に残った朔也は、荒い息を整えながら口元の血を手の甲で拭うと、すぐに澪のいる車へ向かった。ドアを開ければ、澪は座席に横たわったまま静かな呼吸を繰り返している。朔也は腰をかがめ、慎重にその身体を抱き上げた。眠ったままの顔を確かめ、ようやく安堵の息を漏らす。間に合ってよかった。……次に澪が目を開けると、視界いっぱいに病院の白い天井が広がっていた。重い頭をゆっくり横へ向けると、ベッド脇の椅子に朔也が座っている。澪が目を覚ましたことに気づくなり、すぐに身を乗り出し、いつもの調子を装うように声をかけてきた。「起きた?ほんと、心配したんだぞ」澪の記憶は、薄暗い駐車場で途切れている。乾ききった喉から、どうにか声を絞り出した。「私……どうしたの?」朔也は水の入ったグラスを手に取り、澪の口元へ差し出す。「疲れすぎて、研究室で倒れたんだよ。遅くまで残ってた学生が見つけて、病院へ運んでくれた。低血糖と疲労だって。少し休めば大丈夫らしい」あの夜の出来事を、澪に知らせるつもりはなかった。これからは、もう二度と同じ目には遭わせない――そう心に決めている。澪は目を伏せ、頭の奥に残る途切れ途切れの光景を辿る。すべて夢だったとは思えない。それでも、わずかに緊張を残した朔也の目を見て、それ以上は尋ねなかった。朔也も何も言わず、そっと袖口を引き下げて、手の甲に残る痣を隠す。退院後、澪の生活は以前のリズムへ戻っていった。ただ、朔也がそばにいる時間だけは、前より少し増えている。ある週末の夕方、二人はテムズ川沿いのベンチに並んでいた。夕陽を受けた街と川面を眺めながら、澪はしばらく黙っていたが、やがて朔也へ顔を向ける。「朔也、ちゃんと話しておきたいことがあるの」「うん。聞くよ」「この間から、ずっと気にかけてくれてありがとう」少し間を置き、澪は続けた。「でも今は、誰かと付き合うつもりはないの。まだやりたいことがたくさんあるし、
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