3月、私は新しい扉に名札を掛けた。 【佐原修復室】 文字の間隔を確かめ、少しだけ右を上げる。脚立を押さえていた小山内が、下から首を傾けた。 「もう5ミリ右です」 「さっきは左と言いませんでした?」 「実際に掛けると違って見えるんです」 「職人の5ミリは長いなあ」 小山内は笑いながら脚立を支え直した。 東浜陶磁器資料館の裏手に、平屋の小さな建物がある。以前は収蔵品の整理室だった場所を改修し、相談を受けられる修復室にした。 南向きの窓には、紫外線を抑えるブラインド。水を使う作業台。乾燥棚。鍵付きの保管庫。 広さは継景にあった部屋の半分ほどだが、どこに何を置くかは、私が決めた。 脚立から降り、扉を開ける。 ブラインド越しの柔らかな光が、作業机まで届いていた。 机の中央には、何も置いていない。 最初から埋める必要はなかった。これから預かる器のために、空けてある。 奥に設けた私物用の棚へ、白い布に包んだ箱を置いた。 白椿の茶碗の欠片が入っている。箱には、【私物・保管/修復・展示予定なし】と書いた。 展示はしない。修復室の物語として宣伝に使うつもりもない。ただ、私が持っていたいから、ここへ持ってきた。 小山内が箱の表示を見た。 「個人保管品ですね」 「はい。修復も展示もしません」 「分かりました」
Dernière mise à jour : 2026-08-17 Read More