ANMELDEN3月、私は新しい扉に名札を掛けた。
【佐原修復室】
文字の間隔を確かめ、少しだけ右を上げる。脚立を押さえていた小山内が、下から首を傾けた。
「もう5ミリ右です」
「さっきは左と言いませんでした?」
「実際に掛けると違って見えるんです」
「職人の5ミリは長いなあ」
小山内は笑いながら脚立を支え直した。
東浜陶磁器資料館の裏手に、平屋の小さな建物がある。以前は収蔵品の整理室だった場所を改修し、相談を受けられる修復室にした。
南向きの窓には、紫外線を抑えるブラインド。水を使う作業台。乾燥棚。鍵付きの保管庫。
広さは継景にあった部屋の半分ほどだが、どこに何を置くかは、私が決め
3月、私は新しい扉に名札を掛けた。【佐原修復室】文字の間隔を確かめ、少しだけ右を上げる。脚立を押さえていた小山内が、下から首を傾けた。「もう5ミリ右です」「さっきは左と言いませんでした?」「実際に掛けると違って見えるんです」「職人の5ミリは長いなあ」小山内は笑いながら脚立を支え直した。東浜陶磁器資料館の裏手に、平屋の小さな建物がある。以前は収蔵品の整理室だった場所を改修し、相談を受けられる修復室にした。南向きの窓には、紫外線を抑えるブラインド。水を使う作業台。乾燥棚。鍵付きの保管庫。広さは継景にあった部屋の半分ほどだが、どこに何を置くかは、私が決めた。脚立から降り、扉を開ける。ブラインド越しの柔らかな光が、作業机まで届いていた。机の中央には、何も置いていない。最初から埋める必要はなかった。これから預かる器のために、空けてある。奥に設けた私物用の棚へ、白い布に包んだ箱を置いた。白椿の茶碗の欠片が入っている。箱には、【私物・保管/修復・展示予定なし】と書いた。展示はしない。修復室の物語として宣伝に使うつもりもない。ただ、私が持っていたいから、ここへ持ってきた。小山内が箱の表示を見た。「個人保管品ですね」「はい。修復も展示もしません」「分かりました」
片づけは、離婚届より先に返却確認書から始まった。継景の備品。私が購入した道具。会社の広告に残っている写真。佐原修復室の名前を使った記事。1つずつ一覧にし、終わったものへ日付を入れる。代理人の森下は、書類を私の前へ3つに分けて置いた。「今日決めるもの。相手の回答を待つもの。佐原さんが急いで決めなくていいものです」「離婚は、どれですか」「相手の回答を待つもの。ただし、離婚する意思はすでに伝わっています」「直哉が、まだ同意していない?」「条件を整理したいと言っています。今週中に返答がなければ、次の準備へ進みます」森下は制度の説明を続けなかった。代わりに、今日必要な確認事項へ付箋を貼る。子どもはいない。住んでいた家は直哉名義で、私はすでに必要な私物を運び出している。会社の株も持っていない。10年間の結婚生活が、書類の上では驚くほど少なく見えた。「会社を始めるときに使ったお金も、求めなくていいです」「そこは急いで決めないでください。離婚に伴う財産分与と、開業資金として使われたお金の扱いは、分けて確認しましょう」開業時に売った土地の記録は残っている。生活費や家のことも含め、森下は資料を調べると言った。私はうなずき、今日決める書類へ署名した。継景による私の氏名と写真の新規利用を認めないこと。修復室の鍵と備品を返却したこと。残る顧客品が0件であること。どれ
10月31日、修復室の棚は空になった。7年間で初めて、乾燥を待つ器が1つもない。継景との年間業務委託契約だけでなく、解約を申し入れていたこの部屋の賃貸契約も、今日で終わる。私は机を拭き、最後の道具箱を閉じた。自分で買った筆、へら、小刀、計量器。継景の備品と混ざらないよう、購入記録を確認しながら箱へ入れてある。壁には、外した名札の跡だけが残っていた。【佐原修復室】昨日まで木の札が掛かっていた場所は、周囲より少し白い。午後4時、扉をノックして直哉が来た。スーツではなく、灰色のセーターを着ている。休日の朝によく見た服だった。会社の代表ではなく、夫として話すつもりなのだろう。「本当に、何も残ってないんだな」「継景の備品は、一覧どおりです。確認してください」机の上へ、備品の引渡確認書と、この部屋の鍵を置いた。直哉は書類を見ず、空の棚を見回した。「最初は、ここに机しかなかった」「覚えてる」「ふたりで棚を組み立てたよな。俺が左右を間違えて、紗季がやり直した」笑おうとしたのかもしれない。けれど、口元は動かなかった。私も覚えている。床に説明書を広げ、夜中まで棚を作った。直哉はねじを2本余らせたまま完成だと言い張り、私が全部外して組み直した。翌朝、並んだ棚を見ながらコンビニのおにぎりを食べた。あの時間まで嘘だったとは
10月20日、継景本社の会議室に関係者が集まった。長いテーブルの片側に、私と千夏。向かいに直哉と麻里奈が座っている。直哉の隣には、社外取締役の三田村圭介(みたむら けいすけ)。ホテルの購買担当者、継景の管理部長、外部調査担当者も同席していた。テーブルの中央には、同じ器を写した写真が3枚並べられていた。1枚目は、ホテルが修復を依頼したときの飾り皿。2枚目は、継景が納品前に撮影した完成写真。3枚目は、接合部分が浮き、細い隙間ができた現在の状態だった。「佐原さん。この皿の実物をご覧になったことはありますか」ホテルの購買担当者に尋ねられた。「ありません。写真を初めて見たのは、8日に確認メールをいただいたときです」「修復方針について、継景の担当者から相談を受けたことは?」「ありません」「証明書へ署名したこともない?」「ありません」直哉は、向かいの席で腕を組んでいた。夫婦の話し合いではない。誰が傷ついたかを訴える場所でもない。会社が出した書類と、実際の仕事が一致しているかを確かめる会議だった。三田村が、証明書をテーブルの中央へ動かした。「次に、署名画像について確認します。管理部から説明してください」管理部長がパソコンの画面を共有する。「この署名画像は、2年前に佐原修
10月8日、見覚えのない証明書が届いた。差出人は、継景と取引のある老舗ホテルの購買担当者だった。私は古い町家の2階に借りた仮作業室で、応募用の作品記録を整理していた。机が狭く、撮影板を置けばノートパソコンを端へ寄せなければならない。それでも、継景の社内を通らずに仕事ができるだけで、呼吸が楽だった。メールの件名には、【修復証明書の記載内容について】とある。宛先は、佐原修復室の業務用アドレスだった。添付ファイルを開く。ホテルの客室に飾る大皿の修復証明書だった。作業日は10月3日。修復責任者の欄には、佐原紗季。問い合わせ先にも、佐原修復室のアドレスが記載されている。ページの下に、私の署名が入っていた。けれど、私はこの皿を見たことがない。写真を拡大する。藍色の波模様。縁から中央へ伸びた割れに沿って、金色の線が走っている。署名だけは、確かに私の字だった。自分の右手を見る。誰かが、私と同じ署名を書けるはずはない。そう思ったあと、2年前の状態報告書を開いた。署名の形が一致する。「紗季」の「季」の最後に、インクが小さくにじんでいるところまで同じだった。手書きした署名を画像として切り取り、新しい書類へ載せている。ホテルからの本文を読み直した。【納品された皿の接合部分に浮きが見られたため、作業内容をご確認いただけますでしょうか。証明書に記載された修復責任者様へ直接伺うよう、担当部署から案内を受けました】喉が渇いた。返信画面を開き、指を置く。この書類は偽物です。夫が私の署名を使いました。そう書けば、すぐに直哉を追い詰められる。けれど、書類を作った人間も、作業した人間も、私は知らない。直哉が直接指示したのかも分からない。分からないことまで怒りで埋めれば、私も直哉と同じになる。電話を取り、弁護士の森下絵里(もりした えり)へ連絡した。離婚と契約終了の交渉を頼んでいる代理人だ。事情を話すと、森下はメールと添付ファイルを、受け取った状態のまま転送するよう言った。30分後、オンラインで画面をつないだ。森下は証明書と、2年前の状態報告書を見比べた。「まず、届いたメールと添付ファイルは、そのまま保存してください。佐原さんが確実に言えることは、3つです」「この皿を見ていない。作業していない。この証明書を発行していない」「はい。それだけ
月曜日、修復室は返却用の箱で埋まった。机の上に6箱。壁際に4箱。乾燥棚には、作業を終えるまで動かせない器が7点残っている。私は保管台帳を開き、千夏が読み上げる管理番号と照合した。「K-2417。青磁の鉢。修復前の状態写真、12枚。修復作業は未着手です」「返却理由は、業務委託契約の終了に伴う修復担当の変更。継景から持ち主へ連絡済み?」「昨日、継景の受付担当が会社のアドレスから送りました。返信も案件管理システムに共有されています。修復せず返却を希望です」「分かりました。箱を閉じてください」器を包む薄紙の音だけが続く。茶碗が壊れた翌日、私は直哉へ書面を送った。10月31日で年間契約を終了し、更新しないこと。同日付で修復室の賃貸契約も終了し、部屋を明け渡すこと。新しい依頼は受けないこと。作業中の器は持ち主の希望を確認し、期限までに完成させるか、未修復のまま返却すること。夫婦のことは、代理人を通して話したいとも書いた。返事は1行だった。【勝手な行動で顧客に迷惑をかけるな】その言葉に従い、迷惑をかけないための作業をしている。昼前、1階受付から内線が入った。私は小さな花器の箱を持ち、エレベーターで1階へ下りた。持ち主は、60代の男性だった。亡くなった姉が作った花器で、底にひびがある。まだ状態を調べただけで、修復には入っていない。「会社から、担当者の都合で返すと連絡がありましてね」男性はそう言い、私の顔を見た。「あなたが担当の佐原さん?」「はい。私個人の都合ではなく、継景との委託契約が終了するためです。それでも、途中でお返しすることになり、申し訳ありません」花器を箱から出し、預かったときから状態が変わっていないことを一緒に確認した。修復前の写真と撮影日、いま撮った返却時の写真も見せた。「ここまで調べてあるなら、このままお願いできませんか」「契約終了までに仕上げられるとお約束できないため、未着手の器はお返ししています。別の修復先は、継景からご案内できます」「会社じゃなくて、あなたに頼んだつもりだったんだけどなあ」男性は困ったように笑った。その一言が、痛かった。うれしいと感じてしまったからだ。仕事を失う怖さの中で、私の手を選んでくれる人がいる。それでも、その気持ちを利用して顧客を連れていくわけにはいかない。「こちらから個別







