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第11話

殿内にはふたたび静寂が満ちた。知凛はゆっくりと寝台のそばに座り直し、あの冷たい手をふたたび握りしめると、額をそっと押し当てた。「歓宜……」低い声で呼びかける。その声には、消えることのない苦しみと迷いが濃く滲んでいた。「教えてくれ。余は、本当に間違っていたのだろうか」答える者は、誰もいなかった。ただ窓の外を吹き抜ける寒風だけが、すすり泣くような音を立てていた。三日が過ぎた。歓宜の亡骸は、瑶華宮の奥の寝台に静かに横たわり続けていた。徳全は殿の入り口に立ち、しばらく躊躇した末、意を決して中へと足を踏み入れた。「陛下」声は乾いていた。恐る恐る、様子を伺うように続けた。「お妃さまが身罷られてから、すでに三日が経ちました。この寒さとはいえ、お身体をいつまでもこのままにしておくわけには参りません。葬儀を司る礼部に支度をさせ、お妃さまを安らかに葬って差し上げるべきかと存じます。お妃さまは生前、何事にもきちんとなさるお方でしたゆえ、きっとこのようなお姿は望まれないかと……」「死んでいない!歓宜はただ、眠っているだけだ!お前たちには、それが分からないのか!」彼は声を張り上げた。連日まともに休んでいないせいで、声はひどく掠れ、ひび割れていた。「葬るなど、何を言うか!何が安らかだ!彼女は死んでいない!全員、余の前から失せろ!失せろ!」徳全は恐怖に膝をつき、額を何度も床に打ちつけた。「陛下、お怒りをお鎮めください!私の失言でございます!どうかお許しを!」「失せろ!」徳全は転がるように退出した。背中にはびっしょりと冷や汗が滲んでいた。殿の外に立ち、固く閉ざされた扉を見つめながら、彼の胸には不安が渦巻いていた。陛下のあの様子は、明らかに正気を失いかけている。いつしかその狂態は宮中の外にまで知れ渡り、朝廷の内外で誰もが密かに囁き合うようになった。「陛下は貴妃さまのご遺体を抱いたまま、もう三日も朝議に出ておられぬそうだ」「朝議どころではない、すっかり正気を失っておられるようだぞ。誰も近づけず、埋葬の話すら許さず、貴妃はまだ死んでおられぬなどと仰っているとか」「はぁ。女が国を乱すとはいうが、生きている間は目立たなかったのに、死んでからこれほどまでに陛下を惑わせるとは」「口を慎め!慎め!」
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第12話

彼が恐れているのは、この果てしない静寂だった。永遠に返らぬ応えを待つ時間であり、あの氷のように冷たく強張った感触だった。若螢は彼の瞳に隠しようもなく浮かぶ痛みと未練を目にし、嫉妬の炎に理性を焼き尽くされんばかりだった。爪を掌に深く食い込ませ、その痛みで無理やり自分を落ち着かせながら、いっそう柔らかく、涙まじりの声で言う。「陛下、私はここにおります。これからも、ずっとおそばにおります。幼い頃と同じように……陛下、どうか私を見てください。私を……見てくださいませ」だが知凛はまるで聞こえていないかのように、傍らで息を殺して控える李徳全にだけ言った。「引き続き探せ。この広い天下に、人並み外れた力を持つ者などいくらでもおろう。誰一人として彼女を救えぬなど、余は信じない」徳全は喉を詰まらせながら、低く応じた。「……かしこまりました」若螢は床に崩れるように座り込んだ。知凛の瞳にはもう自分の姿は映らず、寝台の上の冷たい亡骸しか見ていない。そう悟った瞬間、心が氷の底へと沈んでいく。だがその一方で、悔しさと恨みが煮えたぎるように込み上げてもいた。死後七日目の朝。夜番の宦官が転がるように内殿へ駆け込んできた。顔からすっかり血の気を失い、その場にがっくりと膝をつくと、風に吹かれる枯れ葉のように震えた。「陛下!大変でございます!貴妃さまのお姿が、消えてしまいました!」寝台の柱に寄りかかってうたた寝していた知凛が、はっと目を覚ました。瞳はたちまち血走った。「……何と言った」「消えて、消えてしまったのです!貴妃さまの亡骸を安置していた氷の棺が、もぬけの殻でございます!」宦官は額を何度も床に打ちつけた。知凛は彼を突き飛ばし、よろめきながら内殿へと駆け込んだ。そこには歓宜の亡骸を安置していた氷の棺があった。蓋は大きく開かれ、中は空っぽで、ただ冷気だけが残っていた。知凛は棺の前で立ち尽くした。全身の血が一気に頭へ駆け上がり、次の瞬間には氷の如く冷え切っていった。「彼女は、どこだっ!」ゆっくりと振り返り、震えの止まらない宦官を見据える。その言葉は一つ一つ、噛みしめた歯の隙間から絞り出された。宦官は恐怖のあまり声もまともに出せぬほど震えながら、泣きじゃくって答えた。「昨夜、夜半頃に、皇后さまがお越しになりました!妹君と二人
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第13話

若螢は答えられず、ただ床に伏して肩を震わせて泣くばかりだった。「誰の許しで彼女に触れた!誰の許しで彼女を埋めた!」知凛は激しく怒鳴りつけ、手にした長剣を力任せに振り下ろした。がしゃん!激しい音とともに、傍らにあった紫檀の化粧台が一刀のもとに真っ二つに割れ、その上の紅や白粉、金銀の装飾品が床一面に散らばった。若螢は悲鳴を上げ、頭を抱えて縮こまった。知凛の胸は激しく上下し、瞳には無数の血の筋が浮かび、まるで獲物を選ばず喰らう獣のようだった。彼は勢いよく振り返り、後ろに控え、恐怖で顔面蒼白になっている李徳全に向かって、掠れた声で怒鳴った。「掘り起こせ!今すぐ陵墓へ向かえ!貴妃の棺を掘り出せ!直ちにだ!今すぐに行け!」「はい!かしこまりました!すぐに参ります!」徳全は転がるように駆け出し、金切り声で人を集め、命令を伝えていった。たちまち、皇宮全体が騒然となった。皇帝が、埋葬されたばかりの貴妃の墓を掘り返させようとしている。前代未聞の、人の道にも背く所業だった。だが、誰も諫める者はいなかった。今の皇帝は正気を失いかけている。わずかでも意に逆らえば命はない。近衛軍はすぐさま出動し、道具を携えて陵墓へと向かった。知凛は剣を提げたまま殿の外を睨みつけ、今にも自ら陵墓へ駆けつけそうな様子だった。重苦しい静寂の中、刻一刻と時間が過ぎていった。どれほど経った頃だろうか。殿の外から、慌ただしい足音が聞こえてきた。近衛隊長が全身を土埃だらけにし、甲冑を整える間もなく転がるように駆け込んでくると、その場にがっくりと膝をついた。声は震えていた。「陛下!掘り出しました!」知凛は勢いよく一歩踏み出した。「棺は?貴妃は?」近衛隊長はさらに頭を深く下げ、泣き声混じりに答えた。「……棺は確かに掘り出しました。ですが、ですが中は空でございました!重石らしき石がいくつか入っているだけで……!貴妃さまのお身体は、どこにもございません!」「空だと……」知凛は呆然とし、聞き間違えたかのようにもう一度繰り返した。「石だけ、だと」そして次の瞬間、彼は勢いよく振り返り、血走った目で床に伏す若螢を睨みつけた。その眼差しは、まるで彼女を八つ裂きにしかねないほどだった。「お前は、彼女をいったい、どこへ捨てた」一歩、また一歩と
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第14話

「もうよい」知凛は彼女の半狂乱の叫びを遮った。声は高くはなかったが、有無を言わさぬ冷たさと疲労が滲んでいた。彼は若螢を見つめた。かつてあれほど心を奪われ、この世で最も美しいと信じていた顔。それが今、嫉妬と怨嗟に醜く歪んでいる。その姿がひどく見知らぬものに、そしてただひたすらに疎ましく感じられた。「余は今」彼は一言一言、はっきりと言い放った。「お前の顔を見たくない」言い終えると、彼はもう彼女を一顧だにせず、剣を提げたまま身を翻し、鳳儀宮を大股で出ていった。「陛下!陛下、どちらへ!蕭知凛!」若螢は背後で金切り声を上げて泣き叫んだが、宮仕えの者たちに強く押しとどめられた。知凛は馬に飛び乗った。多くの兵を集める暇さえ惜しみ、身辺を守る近衛軍の一隊だけを連れて、まるで弦を離れた矢のように宮門を飛び出し、都の外れの無縁墓地へと一直線に駆けていった。凍てつく寒風が、刃物のように顔を切りつける。だが彼はまるで気づいていなかった。頭にあるのはただ一つの思いだけだった。見つけ出す。必ず見つけ出す。あんな場所に、彼女を留めておくわけにはいかない。目的の無縁墓地は都の郊外、最も荒涼とした山あいにあった。身寄りのない死者、死刑囚、そして宮中で最も身分の低い下働きの者たちが、葬られることもなく捨て置かれる場所だった。まだ近づく前から、吐き気を催すほどの腐臭が押し寄せてきた。近衛軍の兵たちは顔を歪め、中には堪えきれずに嘔吐する者もいた。だが知凛には、その悪臭すら届いていないようだった。鐙を蹴って馬から飛び降りると、帝としての威厳も足元に広がる汚れも顧みず、彼は正気を失ったように死体の山の中へと突っ込んでいった。「歓宜!趙歓宜!」彼は掠れた声で彼女の名を叫び続けた。その声は、がらんとした山あいに絶望的な震えを伴って響き渡った。彼は積み重なる死体を、一体ずつかき分けて探し始めた。一体、また一体。すでに腐り、蛆の湧いたもの。顔の判別もつかぬもの。骨だけになったもの。彼は素手で積み重なった死体をかき分けた。あの粘りつくような感触も、鼻を突く悪臭も、骨に切られて血の滲む手も、まるで気にも留めなかった。「陛下!おやめください、陛下!」徳全が泣きながら駆け寄り、彼を止めようとした。「私どもが探します!尊い御身で、そのようなことをなさっ
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第15話

三年後。貴妃が身罷ったとされてから、すでに三年の月日が流れていた。朝議の場には重苦しい空気が漂っていた。「陛下、国に君主が欠かせぬように、皇后の座もいつまでも空けておくわけにはまいりません。今は皇后の座も空位のまま、お世継ぎもおられぬ。このままでは、国の行く末にも関わります。恐れながら申し上げます。どうか徳のあるお方をお選びになり、一日も早く新たな皇后をお迎えください。そうしてこそ、朝廷も民も安心できましょう」玉座に座す知凛は漆黒の皇帝の衣をまとい、頬は削げ落ち、目は深く落ち窪んでいた。ただその瞳だけは、凍てついた深い淵のように静まり返り、底知れぬ深さをたたえていた。彼は上奏文にも目を落とさず、感情の読めない声で淡々と答えた。「余の愛する者は、もう死んだ。新たな皇后など、立てて何とする」「陛下、貴妃さまがお隠れになったこと、臣らも深く悲しんでおります。ですが亡き者は戻りません。生きる者は生き続けねばなりません。陛下は一国の君主。何よりも国を第一に重んじられますよう」言葉が終わるより早く、乾いた音が響いた。上奏文が玉座の階に叩きつけられ、紙が舞い散った。知凛はゆっくりと立ち上がり、震え上がる臣下たちを見渡すと、鉄のように冷たい声で一言一言はっきりと告げた。「もう一度、皇后を立てる話をする者がいれば、斬る」殿内は水を打ったように静まり返り、二度と誰も口を開こうとはしなかった。朝議を終え、知凛は御書房に戻ったが、政務にはまるで身が入らなかった。上奏文は山のように積み上がっているというのに、朱筆を手にしたままいつまで経っても一文字も書けなかった。やがて筆を投げ出し、彼は立ち上がった。そして三年もの間空き続けているにもかかわらず日々丁寧に掃除され、かつての姿のまま保たれている瑶華宮へと足を向けた。殿内の調度はすべて当時のまま、塵ひとつなく整えられていた。彼女がよく座っていた窓辺の腰掛けには、彼女の好きだった控えめな色合いの座布団が敷かれ、傍らの卓には開きかけたままの詩集が置かれている。何度も丁寧に拭われてきたのだろう、紙の端は少し毛羽立っていた。まるで彼女がほんの少し外へ出かけただけで、今にも戻ってくるかのようだった。知凛は宮仕えの者たちを下がらせ、一人その中へと足を踏み入れた。腰掛けのそばに
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第16話

知凛の手にあった茶碗が、ぴたりと止まった。「娘を、もうけていると?」彼はゆっくりと繰り返した。声からは喜びも怒りも読み取れなかった。ただ指の関節だけが、力の入りすぎで白く浮き上がっていた。「はい。数日にわたって密かに様子を見ておりました。沈夫人は普段、ほとんど人前に出ませんが、買い物や娘の送り迎えで外へ出た際の話し方や立ち居振る舞いには、確かに宮中で身につけたようなところがございました」隠密は、それ以上は言いにくそうに、さらに深く頭を下げた。かちゃり、と小さな音が響いた。上質な白磁の茶碗に、彼が握りしめる力でひびが入っていた。温かい茶がこぼれ指を赤く濡らしたが、彼はまるで気にも留めていなかった。「調べよ」彼は口を開いた。声は氷のように冷たかった。「沈清河について調べよ。あの二人がどのように知り合ったのか。あの子供がいつ生まれたのか。どんな些細なことでも、一つ残らず余に報告せよ」「はい!」隠密が下がると書斎はふたたび死のような静けさに包まれ、ただ蝋燭の芯が微かに爆ぜる音だけが響いていた。知凛は玉座に座ったまま、身じろぎひとつしなかった。まるで温もりを失った彫像のようだった。長い沈黙の末、彼は不意に手を振り上げ、卓上にあった上奏文も筆も文鎮も、すべて床へと払い落とした。がしゃんという大きな音に、外で控えていた宦官たちが一斉に膝をついた。隠密からの続報は、程なくして届いた。恐ろしいほど詳細な内容だった。沈清河。江南の沈家、その分家筋の子弟で、家は貧しかったが、才があるとの評判は高かった。趙家の側室の娘、歓宜とはかつて隣同士に住み、幼馴染として育った仲だった。もし当時、皇位継承の争いのために趙家の後ろ盾が必要とならず、趙家が娘を差し出す縁組を持ちかけることさえなければ、あるいは。歓宜が趙家の屋敷に引き取られる前、彼女は沈清河と密かに書状を交わしていた。それが趙家に露見し、清河はあやうく命を奪われかけたところを、歓宜が皇子である知凛のもとへ嫁ぐという条件と引き換えに彼の命を救った。即位の前夜、彼女が夜更けに屋敷を抜け出し、密かに会いに行った相手もまた沈清河だった。そして、彼の即位を助けることと引き換えに宰相と交わした取引。あの仮死の薬も、その一環だった。一つひとつの事実がつながり、ひとつの身の芯まで凍るよ
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第17話

若螢のあらゆる動作と泣き声が、ぴたりと止まった。彼女はその場で固まったまま、ゆっくりと顔を上げた。汚れた顔の中で両目だけが大きく見開かれ、あり得ないという驚きに満ちていた。「……まさか、そんなはずが」ひび割れた唇が震えた。「私は、この目で息絶えるところを見ました!目や鼻、口から血を流し、御医もちゃんと脈を診たのです!彼女は死んだのです!確かに、死んでいたはずです!」「あれは仮死だった」知凛は淡々と告げた。その一言一言が毒を塗った針のように、若螢の心に突き刺さっていく。「今は江南で、幼馴染の沈清河と共に暮らしている。娘まで一人生まれ、今年で二歳になるはずだ」若螢は雷に打たれたように、その場に完全に崩れ落ちた。唇は震えるばかりで声にはならなかった。しばらくの沈黙の後、彼女は突然、耳障りなほど歪んだ甲高い狂笑を爆発させた。「はは、ははは!仮死ですって?彼女が仮死だったですって!?では私は!私は何だったというの!」彼女は涙を流しながら笑い、自分を指さし、続いて知凛を指さした。まるで正気を失っているようだった。「私はこの三年間、ここで生きながら亡霊のように過ごしてきたのよ!犬のように鎖に繋がれて!それもすべて、彼女が死んだからだった、あなたが彼女は死んだと思い込んだから、それで私をここに放り込み朽ち果てるに任せたということなの!?蕭知凛!あなたは即位したら皇后に立てると仰った!生涯愛するのは私だけだと仰った!あなたの約束は!あなたの愛は!どこへ捨てたの!」知凛は目を閉じ、そしてふたたび開いた。その瞳には果てしない虚無だけが広がっていた。「確かに、余はそう言った」彼の声は低く、疲れといくらかの自嘲を帯びていた。「だが当時の余は知らなかった。自分の心に、とうに彼女がいたことに」若螢の狂笑は喉の奥で凍りつき、代わりにひゅうという奇妙な音だけが漏れた。彼女は知凛を凝視した。まるで今、初めてこの男を知ったかのように。「あなたは……」唇が震えた。「あなたは、彼女を愛しているの?あの側室の娘を?あなたが、ただ利用するための駒にすぎないと言い切ったあの女を?」知凛は答えなかった。ただ彼女を見つめる眼差しは、恐ろしいほどに静かだった。「そなたは、なぜ余がこれまでそなたの命を留めていたのか知っているか」彼は不意に問うた。
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第18話

江南、清水鎮。うららかな春の陽射しの中、柳の綿毛がふわりと舞っていた。通りの片隅にある小さな書画店、その名は「墨韻斎」だ。表構えは質素だが、店内は清潔で品よく整えられている。店の奥では、地味な色合いの衣をまとい、髪を木の簪一本だけで結い上げた女が開いた書物の紙を指しながら、傍らに寄り添う幼い女の子に何かを優しく語りかけていた。女の子は二、三歳ほど。髪を左右に小さく結い上げ、桃色の頬に丸い大きな瞳を輝かせながら、指の先を辿るようにたどたどしく読み上げる。「しゅんみん、あかつきをおぼえず」女は目元を緩め、口元にやわらかな笑みを浮かべると、そっと女の子の髪を撫でた。「囡囡(なんなん)は、本当にお利口ね」店の裏口の暖簾が上がり、藍色の長衣をまとった涼やかで品のいい顔立ちの男が姿を現した。手には淡い青白色の肩掛けを携えており、それをごく自然に女の肩へと羽織らせながら優しい声で言った。「まだ春先は冷える。身体には気をつけて。この間も少し咳をしていただろう」歓宜は振り返り、彼に笑いかけた。屈託のない明るい笑顔。全幅の信頼と甘えが滲んでいた。「分かってる。心配性なんだから」清河もまた笑った。その眼差しには隠しようのない優しさが宿っていた。彼は屈み込むと女の子を抱き上げ、顎をその柔らかな髪にそっと擦り寄せた。「囡囡、母上の邪魔をしなかったか?」女の子はくすくすと笑いながら彼の胸に顔をうずめた。「してない!囡囡、いい子にしてたもん!」温かく穏やかな光景だった。通りの向かい、古い柳の木の下には知凛が立っていた。すでにどれほどそこにいたのか、自分でも分からなかった。飾りのない上質な錦の長着をまとい、裕福な家の若主人を装ってはいたが、その身にまとう凍てつくような気配は、この穏やかな小さな町にはあまりにそぐわなかった。彼は店の中のあまりに眩しく温かなその光景を、じっと見据えていた。傍らに垂れた手がゆっくりと握りしめられていく。爪が掌に深く食い込み血が滲んだが、痛みなど感じなかった。ただ胸の奥だけが、鈍い刃で何度も抉られたかのように激しく痛み、まともに立っていることすら困難だった。三年。彼はこの三年、狂ったように彼女を探し続けた。てっきり彼女は死に、骨の一片も残さず、無縁墓地で野犬の餌食になったのだと思い込んでい
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第19話

彼はゆっくりと口を開いた。声は低く、わざとらしいほど平静を装っていたが、一言一言がはっきりと響いた。「昔なじみ、といったところだ」歓宜の指先がわずかに震えたが、それはほんの一瞬のことで、彼女はすぐに心を落ち着かせた。彼女は目を伏せ、彼の焼けつくような視線を避けると身体を半分横に向け、清河に小さく言った。「清河、先に囡囡を連れて奥へ行って」清河は彼女を見、それから知凛を見た。疑念はいっそう深まったようだったが、それ以上は問わず、ただ彼女の手をぎゅっと握り、低く言った。「何かあったら呼んでくれ」そして娘を抱いたまま、何度も振り返りながら奥の間へと下がっていった。店内には二人だけが残された。空気が凍りついたように張り詰めていた。歓宜は深く息を吸い込み、顔を上げた。表情はすでに平静を取り戻していた。彼女は知凛に向かって非の打ちどころのない礼をとった。声には揺らぎひとつなかった。「わたくしめ、お客様にご挨拶申し上げます」わたくしめ。お客様。そのよそよそしい二つの呼び方は、冷たい針のように知凛の耳に突き刺さった。彼は彼女を見つめた。伏せられた目、慎ましやかな態度、そしてわざと引かれた境界線。ふと口元を歪め、温もりのかけらもない笑みを浮かべた。「そちらの奥方は、かつて亡くした身内にひどく似ておられる」歓宜の睫毛がかすかに震えたが、依然として目を伏せたままだった。「世の中には似た者も多うございます。人違いではございませんか」「人違い、か」知凛は一歩踏み出し、彼女に迫った。帝王ならではの威圧感が静かに広がっていく。「そうかもしれないな。この地は初めてで勝手が分からない。どうか、私の好みに合いそうな字か絵をいくつか見繕っていただけないだろうか」「では、こちらへどうぞ」彼女は身を翻し、彼をやや人目につきにくい奥の小部屋へと案内した。小さな部屋には四角い机が一つと、椅子が二脚。壁には表装された山水画が数枚掛けられていた。暖簾が下り、外からの視線を遮った。知凛はもはや取り繕おうともしなかった。彼は勢いよく詰め寄ると、彼女を壁との間に閉じ込めるように追い詰めた。熱い息が彼女の耳元にかかる。声は極限まで低く、噛みしめるような痛みと怒りを帯びていた。「歓宜。三年ぶりだというのに、余の顔も忘れたと言う
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第20話

彼女の手が暖簾に触れたその瞬間、背後で知凛の声が響いた。もはや帝王の冷たい威圧ではなく、抑えきれぬ震えと哀れなほどの懇願を帯びていた。「余と一緒に、帰ってくれ」彼は低く言った。一言一言が力を振り絞るようだった。「余は、お前が恋しかった」歓宜の暖簾を上げようとしていた手が、ほとんど気づかないほどわずかに止まった。だがそれも本当に一瞬のことだった。暖簾が揺れ、彼女の姿は小部屋の外へと消え、軽やかな足音が次第に遠ざかっていった。知凛はその場に立ち尽くしたまま、手を伸ばしたその姿勢のまま、指先だけが冷たく強張っていた。外からは、彼女のいつも通りの優しい声が聞こえてきた。清河に向けられたものだった。「あなた、囡囡は眠った?私、煎じている薬膳を見てくるから、あなたはお店を見ていて」「ああ、行っておいで。火傷しないように気をつけて」夫婦の何気ない会話。その一言一言が鋭い針のように、彼の胸に突き刺さった。彼女は、彼のほうを振り返ることさえ一度もなかった。その夜、月は明るく星はまばらだった。沈家の裏庭はさほど広くはなく、瓜や野菜が植えられ、隅には葡萄棚が組まれていたが、まだ葉は生い茂っていなかった。歓宜は、庭で昼間洗った衣を、慣れた手つきで軽やかに干していた。不意に彼女の手が一瞬止まったが、すぐにまたいつも通り動き始め、淡々とした声だけが響いた。「陛下ともあろうお方が、夜更けに民家へ押し入るなど、お立場に差し障るのではございませんか」物陰から、知凛がゆっくりと歩み出た。月の光が彼の顔を照らし、輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。瞳の奥には決して溶けない濃い闇が沈んでいた。「余は皇帝だ」彼は彼女を見つめ、低い声で言った。「天下のどこに、余の行けぬ場所がある」歓宜は最後の一枚を干し終えると手についた水滴を払い、振り返って彼を見た。顔にはこれといった表情もなかった。「では、陛下はどうぞご自由に。わたくしは部屋へ戻って休みます。お構いできず申し訳ございません」その言葉に滲む距離感と退去を促す意図は、あまりにも明白だった。知凛は、彼女が本当にそのまま身を翻して家へ戻ろうとするのを見て、一日中抑え込んでいた怒りが一気に燃え上がるのを感じた。彼は一歩踏み出し、彼女の手首を掴んだ。「お前は、余に
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